古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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[悪名の棺] 笹川 良一伝

悪名の棺
笹川 良一伝

工藤美代子著

私がこの本を手にとったのは、私とまったく違う世界の人間と思われる人物についての、野次馬的な好奇心からだ。
フィクサーとして日本の政界や経済界に君臨した「笹川良一」は恐い人、危ない人というイメージがあり、知らない世界を覗き見してみようと気持ちから読みはじめた。

氏について、毀誉褒貶、さまざまな評価があるようだが、私には本当のことは分からない。
工藤氏が色々な資料を渉猟して、笹川氏のアウトラインを描いたものを、こういう側面もあったのかと、面白くよんだ。

特にわたしが無知だった、第二次世界大戦後の東京裁判(極東国際軍事裁判)や戦犯という言葉についてや巣鴨刑務所の話はおぼろげな知識しかなかった私には勉強になった。
国家の指導者だった人、敗戦までは権力を振るった政治家や軍の指導者が一転して、ただの罪人(連合国側からの評価)になり尾羽うちからして、みじめな姿になったのは敗戦と言う現実だった。
そんな中で、人間のいやしさ卑怯なずるさを露呈する人と、プライドを保ち、潔かった人もいたらしい。
人間、学問や教養があって立派な人と思われていても、究極の状況におちいったら、その価値がすっかり変わる人もいる。

あと、氏のプライベートな記述の中で、愛人が八雲琴を習いたいというので、飛鳥寺まで送迎したと書いてあったが、いつか飛鳥寺を訪問した時に二弦琴がお寺のガラスケースに入っていたのを思い出した。宮尾登美子の「一弦の琴」を読んだ時期だったので、普段なら気づかない古ぼけた琴がに気付いていた。

●八雲琴について
飛鳥寺の長老であられた故山本雨宝(震琴)師は、八雲琴の演奏者として国の無形文化財の指定を受けておられ、生涯長きにわたり八雲琴を保存伝承され、口伝であったたくさんの曲を採譜し、また神前楽器であったこの琴を広く東洋音楽として紹介されました。


氏の生い立ち、価値観、プライバシーや、福祉事業、など幅広い話題にふれていて、これが本当の氏の姿かどうかは私には分からないが、ともかく幅のひろい人物だろう。

世の中、巨万の富をつかむ人もいれば、その日の暮らしにも困る人がいる。ほんとに、人間世界は幅が広い!!
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by jumgon | 2011-03-29 15:20 | ★読書・放送・講演会
横浜在住の友人からのメール

ご無沙汰しました。お身体は如何ですか?私の方はやっと震災のショックから立ち直ってきました。
あの日は友達が私の古稀の祝いをしてくれるというので逗子のレストランに行きました。食事の後お天気もいいので江の島や富士山を見ながらのんびり鎌倉まで歩こうということになり海岸を歩いていました。ちょっと疲れたのでそろそろ街へ上がろうということになり通りかかったバスに乗ったとたんの地震でした。
バスが横転しそうな揺れでした。
連絡がなかなかとれず、やっと友人のご主人が車で救出に来てくれて、家についたのは明け方でした。

その後大勢の知り合いが被災しているのが判りつらい日々でした。娘婿の実家が福島と秋田。夫は学生時代4年間仙台にいたので知り合いが東北地方に多いのです。
でも今は何も出来ず、鬱々しているだけです。仙台の知人は昨日やっと電気がきたそうです。
宮古で津波に家も経営していたスーパーマーケットも流された娘の友人はみんな無事で避難所にいるのがウェブサイトで判り判りました。
まだまだ気分は暗いのですが少しずつ春がきています。例年よりかなり遅いのですが1週間前に鶯の声も聴きました。


◎あちこちでこんな状態が起こっているのでしょうね。1日も早く平穏な日常が取り戻せますよう、祈らずにいられません。
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by jumgon | 2011-03-25 10:12 | ★思索つれづれ

嵯峨本の謎

3月10日(木曜日の)日経新聞のアートレビューを今日みた。
びっくりするほど美しい嵯峨本の紹介があった。


「嵯峨本」の謎

活字を芸術にするおよそ400年前、乱世から太平へと向かい始めた江戸時代初期。「嵯峨本」と総称される書籍群が刊行された。

日本の印刷史上、有数の美しさといわれる書物は、オリジナルにこだわる芸術家たちの飽くなき情熱の結晶である。

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近畿大学中央図書館所蔵の「伊勢物語」1608年(慶長13年)発行の書物は一見すると写本のようだ。しかしこれは手書きではない。手書きの味わいを最大限に引き出した、活版印刷なのだ。
活版印刷とは、文字を彫った活字を組み合わせて印刷する方法。。一つの活字にⅠ文字ずつ彫るのが一般的なやり方だ。
この「伊勢物語」は違う。縦12,6ミリ、横14,2ミリの木製の活字をベースに、2文字なら縦に二倍、3文字なら3倍の大きさの木枠に文字を彫っていく。ひらがなの続け字を生かす方法だ。
「数理的な美しさと古筆の美しさをカネソナエテイル。」グラフィックデザイナーの永原康史氏は慶長版「伊勢物語」についてこう指摘する。活字の大きさが一定の大きさに収まることで「ひらがなのくずしに独特のリズムが生まれている」。

◆芸術作品のような本
「伊勢物語」「方丈記」「徒然草」、、、、。17世紀初頭の京都で生まれた一連の豪華本を「嵯峨本」と呼ぶ。
京都嵯峨野に拠点があった豪商、角倉素庵が版元となり、本阿弥光悦、、俵屋宗達らがかかわったといわれている。
多くは活版印刷で作られ、雲母の粉を紙にすり込む「雲母(きら)刷り」を多用した。
活字のもととなった文字は本阿弥光悦が書いたとされるが、角倉素庵との説もある。能楽の教則本「謡本(うたいぼん)」では、俵屋宗達が表紙の下絵を描いたといわれる。紙、文字、装丁にこだわり抜き、当時の文化人の間で絶大な人気を博した。

嵯峨本はなぜ「美しい」のか。
奈良女子大学文学部の鈴木広光教授はその謎を解明すべく、近代所蔵の「伊勢物語」の文字をすべて解析した。使われた活字の数はH合計で1万5千超。繰り返し登場した活字をコンピューター上で除いていくと、実に2100個の活字が使われたとことが分かった。
単に組むだけならここまで必要ない。そこには角倉素庵らの造本にかけるすさまじいまでの情熱が潜んでいた。

「一度しか使っていない活字が344個、実に16%もある」。鈴木教授は舌を巻く。伊勢物語は上下2巻あるが、下巻の後半に至ってもなおも新しい活字を追加している。

「同じ漢字を何度も使うことで生じる版画の単調さを、字形の異なる活字を加えることで避けようとしたのではないか」
おなじ「か」でも、大きさや字形を変えることで版面に余白が生まれたり、勢いが出たりする。
流れるような字形の「し」をページの真ん中に置くなど、視覚的な効果を狙った配列も目に付く。

デザイナーの永原氏は「光悦や素庵の書にみられる美意識が色濃く投影されている」と感嘆する

驚かされるのはそれだけではない。1608年刊行の「伊勢物語」(初刊本)11冊を確認したところ「全く同じ本は一つもなく、どこかの文字がそれぞれ違っていた。」(鈴木教授)。
一冊刷るごとに、わざわざ一部の活字を違う字形のものと差し替えているのだ。印刷物でありながら、1点物の芸術作品のようなこだわり。素庵らの強烈な思いが伝わってくる。

◆個性競う変革期
嵯峨本を生んだ慶長年間(1596~1615年)とはどんな時代か。
静岡文化芸術大学の熊倉功夫教授は「下剋上に象徴されるように、旧来の秩序が大きく転換した時代」と評する。

「かぶきものと呼ばれた個性的な糸人が各層に現れ、様々な文化を生んだ。嵯峨本もその一つで、今でいえばiphoneのような斬新さがあった。」
折しも豊臣秀吉の朝鮮出兵で銅活字がもたらされ、ほぼ同時期に西洋からグーテンベルク式の金属活字が伝来。
「後陽成天皇、後水尾天皇らが推進した平安期の王朝文化復興の潮流の中で、古典文学への需要が高まっていたことも、嵯峨本の背景にある。」と熊倉氏は解説する。

時代の変革期に生まれた美しい活版印刷はしかし、江戸初期を最後にいったん途絶えた。
太平の世は印刷物への高い需要をもたらし、より大量生産に適した製版(一枚版の木版)での印刷に取って代わられる。宗達はその後、「風神雷神図屏風」を描き、光悦は芸術村を築く。

嵯峨本に結実した芸術家の情熱は、形を変え、琳派へとつながっていく。
「川尻定」


嵯峨本の存在を知らなかったので調べてみた。


国立国会図書館所蔵
「伊勢物語(いせものがたり)」 2巻 慶長15(1610)刊 1冊 27.2×19.0cm
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 古活字版。嵯峨本。嵯峨本は本阿弥光悦が嵯峨の豪商角倉素庵の協力を得て慶長から元和年間にかけて出版したもので、装訂に意匠を凝らしているのが特徴である。古活字版『伊勢物語』には多くの異版があるが最初の刊行は慶長13年(1608)。展示本は慶長15年(1610)の刊記がある具引き素紙刷。
慶長13年版をもとにして刊行した旨の刊語がある。挿絵と刊語は整版。ところどころにみえる書き入れは、歌人で若狭小浜城主であった木下長嘯子(1569-1649)によるといわれている。当館では本書の異植字版も所蔵する。


http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/keityou/kaisetsu/index.html
より

川舟による水運開発で知られた角倉了意の子、角倉素庵によって、慶長13年(1608)以降、「嵯峨本」と呼ばれる一連の豪華な版本が出版されました。
「嵯峨本」は「角倉本」とも呼ばれ、また本阿弥光悦が協力したとされることから「光悦本」とも呼ばれますが、謡本や『徒然草』、『古今集』など、その種類は多岐にわたっています。その「嵯峨本」の中でも、最初に刊行されたのが、この『伊勢物語』でした。
 「嵯峨本伊勢物語」の本文は木活字を用いて印刷されましたが、木製の活字は欠けやすく、一度に少量の部数しか印刷できませんでした。
また、印刷後は活字をばらばらにして再利用するため、増刷する時はもう一度最初から活字を組み直す必要がありました。木の活字は形がまちまちだったので、同じ版をもう一度作ることは不可能でした。そのような事情から、「嵯峨本伊勢物語」には、たくさんの種類の版があることが知られています。 
「嵯峨本」の料紙は、一枚ずつ色を変えたり、全面に雲母(きら)を引いたり、下絵を描いたりした豪華なものですが、これらの「嵯峨本」は、売られたのではなく、身分の高い人たちに贈呈されたと考えられています。
「嵯峨本」の出版は、すぐれた文化人でもあった実業家、角倉素案によっておこなわれた、文化的な社会貢献の事業だったのです。
 「嵯峨本伊勢物語」には、上下2巻あわせて49枚の挿絵が含まれています。
その図柄は、室町時代以来の絵巻物や絵入り本の系統を引いていますが、大変すぐれたできばえで、江戸時代になって次々と刊行され続けた『伊勢物語』絵入り版本に、長い間、大きな影響を与え続けました。
 今回展示するのは「嵯峨本伊勢物語」そのものではなく、「嵯峨本」の刊行が終わってまもなく、その「嵯峨本伊勢物語」の各ページを、そのまま、古活字ではなく版木に彫って再現した覆刻版です。
「嵯峨本」の人気が高かったので、その需要に答えるために作られた一種の海賊版ですが、この本は、さらに付加価値を付けるために、手書きで彩色が加えられています。


関西大学電子展示室から解説、写真をお借りしてきました。
(初段・春日の里)…元服したばかりの主人公が、奈良の春日に鷹狩りにでかけ、思いがけず美しい姉妹を見つけて早速歌を贈る。室内に姉妹と女房(侍女)。塀の外では主人公が侍女に歌を手渡している。
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(二十段・楓のもみじ)…主人公が遣わした童が、女に楓のもみじを手渡している場面。
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(六十七段・生駒山)…和泉の国へ行く途中、雪景色の生駒山を見て歌を詠む主人公。
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by jumgon | 2011-03-15 15:04 | ★新聞きりぬき
昨日NHKラジオのNHK文化講演会という放送が面白かったので記録しておく。

本川 達雄という人だ。
早速調べてみると
ゾウの時間・ネズミの時間の著者である。
確か一度読んだ覚えがある。

著者の名も忘れていたけど~

http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000104_02.html
より


本川 達雄の紹介
本川 達雄(もとかわ たつお、1948年 - )は生物学者、シンガーソングライター。専攻は動物生理学。

1948年宮城県仙台市生れ。71年、東京大学理学部生物学科(動物学)卒業。東京大学助手、琉球大学講師・助教授、デューク大学(アメリカ)客員助教授(86-88年)を経て、91年より東京工業大学理学部生物学教室教授、理学博士。専攻は生物学、動物生理学。主な著書に「サンゴ礁の生物たち」(85年、中公新書)、「細胞のバイオメカニクス(共著、90年、オーム社)、「Biology of Echinodermata」(共編著、91年、Balkema)、「ゾウの時間 ネズミの時間」(92年、同、講談社出版文化賞科学出版賞受賞)、「歌う生物学」(93年、講談社)、「絵とき ゾウの時間とネズミの時間」(93年、福音館書店)、訳著に「サンゴ礁の自然誌」(86年、平河出版社)、「生物の形とバイオメカニクス」(89年、東海大学出版会)等がある。
今年4月-6月、NHK教育テレビ「人間大学-生物のデザイン」に出演。“歌う生物学”と銘打って、毎回番組中で自作自演の歌を披露し話題に。今春、CD(「ゾウの時間 ネズミの時間」日本コロムビア)デビューも果した。
1995年8月号掲載
________________________________________
  
本川 達雄インタビュー

■ネズミもゾウも心臓は15億回打って止る
   生物学的にみると、人間の寿命は26,3年です。。



ハツカネズミの心臓はドキンに0.1秒、ゾウは3秒

──人間も含めて、世の中のいろんな生物を見ると、形や色、大きさがまさに多種多様です。どれももともとは同じ「生命」なのに、なぜ、こんなにいろんな生物がいるのかといつも思っていましたが、先生の著書「ゾウの時間 ネズミの時間」を拝読し、動物によって「時間」というものもそれぞれ違うということを知り、大変興味を持ちました。

本川 
そうなんです。心臓が1回打つのにかかる時間、呼吸するのにかかる時間、物を食べてからそれらが排泄されるまでにかかる時間、それから寿命にしても、動物によって異なるのです。
例えば、心臓が1回ドキンと打つ時間を心周期と呼びますが、ヒトの場合はおよそ1秒です。ところが、ハツカネズミなどは、ものすごく速くて1分間に600回から700回です。1回のドキンに0.1秒しかかかりません。ちなみに普通のネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、ウマで2秒、そしてゾウだと3秒かかるんです。

──大きな動物ほど周期が長い、ゆったりしていますね。

本川 
実は、こういった時間を計り、体重との関係を考えてみると、どれも体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなるということが分かっています。
4分の1乗というのは分かりにくい数字かもしれませんが、関数電卓でルートを2回押せば答えが出ます。まあ、大ざっぱに言えば、動物の時間は体長に比例すると考えてもいいですね。
つまり、体のサイズの大きい動物ほど、心周期も呼吸も筋肉の動きなんかもゆっくりになっていくということなんです。

──それで、われわれからみるとネズミはチョロチョロ、ゾウはのっしのっし、という動きになるわけですね。

◆私たちが考えている「時間」だけが「時間」ではない

そうした時間の違いは、ゾウやネズミ自身にとってはどうなんでしょう。
本川 時間が体重の4分の1乗に比例するということは、体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになる関係です。体重が10倍になると時間は1.8倍になるんです。例えば、30gのハツカネズミと3tのゾウでは体重が10万倍違いますから、時間は18倍違い、ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくりだということになります。

──時間が18倍違うというのは、相当なことですね。

本川 
そうです。映像を18倍ゆっくりスローモーションで再生しますと、画像はほとんど動かないと言っていいくらいです。逆に18倍の速度で早送りしますと、目にも止まらない動きですよね。
ですから、ネズミからゾウを見たら、ただ突っ立っているだけで動かない、これは果して生き物だろうか、って具合でしょう(笑)。逆にゾウからネズミを見たら、ピュッっといなくなるわけですから、ネズミなんて果してこの世にいるのか、気にもしていないのかもしれませんね。

──確かに彼らは同じ地球上に生きているけれども、同じ世界を共有しているかどうかは疑問ですね。

本川 
それに、これだけ時間の速さが違えば、時間の持つ意味や、その時間を使っての生き方が動物によって大きく違っても不思議はないですね。
例えば、リンゴの木の枝から、リンゴ、鉄の塊、ネズミ、ゾウを同時に落とすとします。同じ高さから落とせばどれも同時に地面に着きますから、そういう意味ではすべてに同じ物理的時間が流れているのです。
でも、ネズミは落ちている間に「あっ、落ちる落ちる落ちる落ちる・・・どうしよう!」なんて言いながら、いろんなことを考えているかもしれません。
一方、ゾウは「あれぇ?」なんて思っている間にドスーンと落ちてそれでおしまいってことになるのかもしれない。いずれにしてもその間、ネズミにはネズミの、ゾウにはゾウの時間が流れていると言っていいでしょう。
現代のわれわれ人間社会では、時間というものを1秒とか1分、1時間、1日、1週間、1か月、1年・・・といったように、物理的、絶対的な単位を基準に考えますが、このように、自然界における時間、生物学的に見る時間というのも別な概念で存在するということです。

──われわれは物理的な時間だけが絶対だというように思い込んでいるところがありますが、それはいわば、人間だけの決めごとであって、他の動物にはそれぞれ独自の「時計」があるというわけですね。

◆縄文人の寿命

──ところで、動物の生きる時間、つまり寿命も体重の4分の1乗に比例するのですか。

本川 
だいたいそうです。だからおもしろい計算ができるんですよ。実は哺乳類の場合、いろんな動物の寿命を心周期で割ってみますと、15億という数字が出ます。つまり、哺乳類の心臓は一生の間に15億回打つという計算になるわけです。
ハツカネズミの寿命は2−3年ですし、インドゾウは70年近くは生きますから、ゾウはネズミよりずっと長生きなのですが、心拍数を時間の単位として考えるなら、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになるわけですね。

──一生を生きたという感覚は、ゾウもネズミも同じ、ということですね。
ところで、15億回という心拍数からいうと、人間の寿命はどれくらいになるんでしょうか。

本川
26.3年です。

──現代は「人生80年」なんて言われていますが、えらい違いですね。

本川 
しかも、戦前までは「人生50年」と言われていたわけで、戦後のこの50年間で急速に伸びたとも言えます。
でも、現代人の寿命と動物の寿命とを同列に論じるのは無理があります。
こんな話があるんですよ。動物園のゾウは50歳を過ぎると歯が磨り減ってきてうまく食べられなくなり、食が細ると身体も弱ってきて、そう長くは生きられなくなるんだそうです。
「ゾウに入れ歯をすれば、もっと長生きするよ」と動物園の方が言っていました。

──確かに歯は大事です。身にしみてよく分かります(笑)。

本川
そうですよ。もし、煮炊きする技術もなく、入れ歯もなかったら、人間だって50歳を過ぎたら食べられるものがなくなってしまいます。
もちろん、入れ歯だけで80年というわけではないですよね。安定した食料供給、安全な都市や医療の発達等が飛躍的に人間を長寿化させた要因です。
実は、縄文人の寿命は31年だったという推測値があります。本来の人間の寿命はそのくらいなのかもしれません。15−16歳で子供をつくって、ある程度子育てして次の世代にバトンタッチしていくという循環だったんでしょう。


◆「おまけの人生」を有効に生きる知恵が必要_________________________

──そうすると、私などの年代は、子育ても終って、次世代を生産するわけでもなく、生物学的にみれば特に意味を持たない「おまけの人生」と言えますね(笑)。

本川 
確かにそうではあるんですが、でも私たちは単なる生物ではありませんから、生物学的とは別の意味のある人生を送ることができるはずです。
その知恵をどうつくりあげていくかが、これからの人間の課題ですね。

──「人生80年」も、人間という生物にとっての「時間」でもあるわけですからね。もちろん、誰もが80年という寿命をまっとうできるわけではないけれど、自分に与えられた時間の中では「おまけ」の部分は、ある意味では自分自身で設計して生きられる、やりたいようにやれる、自由な時間と言えるかもしれない。

本川 
そう考えられる人は、長い人生、きっと楽しく有効に生きられます(笑)。

──先生のお話で、動物と人間の時間の違い、世界観の違いがたいへんよく分かりました。考えてみますと、われわれ人間社会の中にも、そうした観念の違いからうまく意思の疎通ができなかったり、誤解を生じてしまったりすることが多々あるように思います。自分の時間や世界観を大切にするとともに、相手や周囲のそういったことにも配慮していくことが必要なんですね。



昨夜の放送内容は主に
◆「おまけの人生」を有効に生きる知恵が必要
と重なるが、医療、介護とその経済的負担、次世代へのしわよせとならぬ生き方、などについて語られていた。
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by jumgon | 2011-03-15 12:01 | ★読書・放送・講演会
東日本大震災

今なお続く被害。連日ニュースや解説がなされている。無力な自分は被害が少しでも小さくなりますよう祈るしか出来ない。
何もこれ以上私が語ることもないが、個人的な記録として私にきたメールを2つ記しておく。

静岡県三島市に住む娘より、
みんなおはよう。今回の地震、ただ事ではないね。三島近辺では大きな被害はなかったけど、電力確保のために東京電力地域は今日から輪番停電で、三島市は午前9時20分~1時までと午後6時20分~10時までの2回、停電するよ。
もう聞いてるとは思うけど、関西電力からも送電するらしいから、テレビやラジオやつけていないエアコンなど、不必要な電化製品はコンセントごと抜くなどして、節電を心がけて下さい!
停電で会社やお店の運営にはかなり大きな影響がでて直接に生活かかってる人も多いやろうけど、被災地のことを思うとそんなこと言ってられない。ただ、お年寄りや身体の不自由な人で電気が必要な人たちのことはケアしてほしいけど…。
日本は恵まれすぎてた。今こそ生きることに対する価値観を考え直すときなんじゃないかと思う。
インドでだって、今でも普通に停電するし時間断水は当たり前。それに対して誰も文句なんて言わない。
大震災を前に、三島市は停電するくらいですんで有難いと思わなくてはいけない。なるべく暖房を使わずに済むよう、暖かい服装をして、身体を冷やす陰性の食べ物(白砂糖の入ったもの全般、コーヒーや麦茶、果物、熱い国でとれる野菜、その他熱い国や地域からの輸入物や本来は夏が旬の野菜/トマト、きゅうりなど)はなるべく避け、身体を暖める陽性の食べ物(玄米、生姜、ネギなど)を食べるようにしたらかなり違うよ。
チョコレートとか生クリームとかてきめんに冷える。冷え性の人は知らず知らずに年中陰性過多の食事をしてる人が多い。
ネギたっぷり味噌汁は超簡単に身体を温めるからおすすめ→ネギをたくさんみじん切り、お湯わかして味噌をとく→ネギを入れる!以上! だしとればもちろんもっと美味しいけど、味噌をお湯でとくだけでも大丈夫!えりこはこれにしぼり生姜も入れる。ちゃんと身体が陽性になってくれる。
被災地で食べ物に困ってる人たちにパンやお菓子ではなく、玄米おにぎりや玄米クリーム、ネギ味噌汁を配りに行きたい…。
それに、放射線は極陰性やから陽性の食べ物をとることで少しは中和される今こそ日本の正食が見直されるべきとき…!って、胸がはちきれんばかりに思います…。


◎放射線は極陰性やから陽性の食べ物をとることで少しは中和される。と言うのは根拠がよく分からないのですが、このまま載せておきます。

4月早々来日予定だった、アメリカ在住の妹より、

姉さま、日本行きはキャンセルしました。日本全体が苦しんでいる時に旅行しても楽しめません。何かヘルプをしたいのですが、結局はお金を寄付することぐらいしかできません。また日本が落ち着いてから行きます。


◎今回の地震で問題となっている原子力発電に関する知識を
 東野圭吾氏の「「天空の蜂」で得ました。




 詳しいことはかなり忘れているのですが、参考になるかと思い紹介します。

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by jumgon | 2011-03-15 11:17 | ★思索つれづれ

椋の木

以前からひもろぎ逍遥というブログで次のようなきじを読んで以来、私は椋の木が気になっていた。
http://lunabura.exblog.jp/15310757

椋の木には黒く固い実が成るのであるが、それを空から降る隕石の化身と信じた、について
これについては眞鍋氏はこう説明しています。

記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。

◎うーん、確か羽根つきのに使われるのはムクロジの種だったと思うのだけど~。
下の写真はムクロジの実と種
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羽根つきの羽根のこと
このブログない「洗濯の歴史」に次のように述べています。

●羽根つきの羽根はムクロジなどの木ノ実に鳥の羽根をつけてできあがったもので、「羽子」「羽子板」は道具の名称です。
「羽根」は球についているものですが「つきばね」「おいばね」という遊び方のスタイルの名称としても現れます。

◎ムクロジなどの木ノ実に鳥の羽根をつけて、、、、とあるから黒く固い椋の実ももちいられたのだろう。
季節の花300より
椋の実
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●眞鍋氏の説明
2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。

椋の木はそれほど珍しい木でもなさそうだけど、そんなにちょくちょく隕石なんて落ちて来たのだろうか?と不審に思わないでもない。
それによく考えれば私はその木について何も知らない。もしかしたら見たことあるかもしれないけど、それが椋の木かどうか知らないから気が付かなかっただろう。

まず、木と隕石と関係があると言う記事はないかとネットで検索してみた。
それらしい記事はなかなか見つからない。

やっと見つけたのが

京都・東九条の宇賀神社とムクノキの巨木
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樹齢およそ500年  歴史を刻む「ご神木」
 境内東側にあるムクノキは樹齢およそ500年。樹高は約15m、幹まわりは3m以上あるといわれ、遠くからでもわかるほど風格ある姿をしています。
 約60年前、落雷のため、現在の大きさになりましたが、それがなければ現在の姿の2倍くらいの巨木になっていると考えられます。
 また境内西側のイチョウも大変大きな木で、ムクノキとともに神木として崇められています。
なお、境内に雷が石になったと伝えられる雷石があり、これは隕石だといわれているとのことである。


◎だが、隕石とムクノキの関係は述べられていない。

●美星町についてこんな記事があった。

そもそも、美星町 ってどこだかわからない。
井原市美星町は岡山県の西南部に位置する,吉備高原にひらけた町です。
標高505メートルの龍王山を中心に,128の集落が起伏のゆるやかな台地に点在しています。
気象は瀬戸内海内陸型で準高冷地帯に属し,農業にも居住するにも恵まれた環境にあります。
特に晴天率が高く大気が安定していることから,最も天体観測に適した地域としても全国に知られています。

石碑には「星尾大明神降神之地」と書かれています。つまり昔ここに隕石が落ちたということを示しています。美星町にはここ以外にもう2ケ所、合わせて3ケ所に隕石が落ちたそうです。このことから「星尾降神伝説」が生まれたそうです。
 なお、この場所のすぐ近くに「星尾神社」があります。この地の豪族が創建したそうです。
星尾降神伝説
それは遙かむかし。
静かな山村が夜のとばりに包まれたころ,星がひとすじ光跡を描きました。
ところが,その流星はこの村にどんどん近づいてきたのです。
「大きな流れ星だなぁ」と夜空を見上げていた村人も次第に騒ぎはじめました。
間もなくその光は,空中で三つに分かれこの村の北槙,八日市,本村,というところに落ちました。
人々はこれを神さまの使いと信じて,星尾神社,高星神社,明神社を建て厚く信仰しました。
それからいつしか,この村は”星の郷”と呼ばれるようになったということです。


ところが星尾神社には椋の木が生えているという記載はない。
星尾神社の社叢は、胸高直径70cm前後のモミの大径木が優占しており、特に社殿北側には、30mを越えると思われるモミが生育しています。一部にクロマツ、アカマツの大径木の生育がみられるほか、亜高木層にはコシアブラ、モミ、アラカシなどが生育しており、自然状態を保っている植生の一つの形態を典型的に残している注目すべき社叢林といえます。また、チトセカズラが低木層の樹林を覆うほどに繁茂しており、特記すべき群落を形成しています。
◎椋の木ははえてない、と言うことでこれはボツ。
ほかにそれらしい記事は探してもないから椋の木そのものはどんな木か調べてみた・

WIKI、そのほかより
◆ムクノキ(椋木、椋の木、樸樹、 Aphananthe aspera)はニレ科ムクノキ属の落葉高木
東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはムクエノキとも言う。成長が比較的早く、大木になるため、日本では巨木が国や地方自治体の天然記念物に指定されている例がある。また地名や名字(椋本など)となっている例も多い。

日本では関東以南の本州から四国、九州でごく普通に見られ、琉球列島ではまれで屋久島、種子島、沖縄島に分布する。日本国外では、朝鮮、台湾、中国に分布する。特に人家周辺の神社などによく見かける。
◆生育環境
主に山地から低地の森林内に生育する。
山地に生える落葉高木です。
 葉は互生し,葉が開くと同時に淡緑色の小さな花をつけます。果実は直径が 1 センチ前後

季節の花300
http://www.hana300.com/mukuno.html
http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-mukunoki.htm
より写真をお借りしています。

名前の由来
実黒あるいは実木→ムク、樹皮が剥(ム)ける木→ムクなどの説がある。木工の仕上げに、この木の乾燥した葉を使ったことから、「木工(モク)の木」がなまったとも。

・高さ20m以上になる高木。
・上の方でいっぱい枝分かれする。
枝分かれする様子がケヤキに似ている。
●樹皮
(椋の木の樹皮は縦に多数の筋がある。
縦筋のないケヤキとは樹皮で区別できる)
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●葉
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葉は互生し、葉身は卵状長楕円形、葉先は鋭尖頭、葉脚は広いくさび形で、左右不同。
縁は鋭鋸歯がある。表裏共に短い豪毛があり、ざらつく。
骨や角細工を磨くのに用いられた
昔は、この葉っぱでべっこうなどを磨いた。
10月の椋の木の葉っぱ
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12月の椋の木の葉っぱ
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●雄花
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雌雄同株、雌雄異花。
新葉が展開してすぐに、葉腋に集散花序を付け、小さな雄花を多数開く。花被片、雄しべともに5個。

●雌花
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雄花の開花に少し遅れて、枝の先の葉腋には雌花が、数個付く。写真のように目立たない。花柱は先が2裂し微毛が密生する。

●枝
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むくのきの若枝は、灰色のねた毛がありざらつく。紫褐色で小さい丸い皮目がある。冬芽は平たく、先は尖る。芽鱗は褐色で縁は濃い。

●実
7月の椋の木の実
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10月の椋の木の実
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実は核果で、11月に黒く熟す。球形で10mm以上あり大きいので、小鳥には無理か。ムクドリやハトなど少し大きな鳥の餌になる。黒く熟してしわの寄った実は、干し柿のようで甘くて美味しい。
熟した椋の実
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●種
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中にタネがあります
種子は、葉と同様に表面がざらつく。鳥の体内を通過して散布されるために丈夫な作りになっている。
●実生
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ムクノキの実生は見つけやすい。双葉が、アサガオのそれのようにハート形になっている。
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by jumgon | 2011-03-11 15:34 | ★言語、歴史

座りかた考

人間の生活様式の違いをすわり方を中心に今日は考えていこう。
西洋とか東洋とか、中近東とかの区別のなかった人類の初めのころの住まいは穴居生活だった。勿論椅子もベッドっもない。

やがて洞穴に住み始め、樹木や草や土、石で住居を作っていった。

それから何万年か経ち、土のままの床からやがて草や獣の皮を敷いたり、石やレンガを敷いたりしていったことだろう。
そして、気候、環境の違いから文化が分かれていったのでしょう。
椅子や、ベッド、じゅうたん、畳、が出現したのはもっとのちの時代の事です。

さて、いろいろな国の座りかたを調べてみた。

●まず韓国
韓国の時代劇を見ればわかる。女性はあぐらをかくか、片膝立てて座っているのをよく目にする。それが正式なすわり方らしい。
正座は朝鮮半島では罪人の座法とされる。

一方中国では身分の高い人たちだけかもしれないが椅子やベッドを使用している絵画を目にするけどいったいどうなんだろう?。

Wikiより
●中国
中国では、春秋戦国時代正座が正式な座り方だったことがある。当時中国では股割れズボンを着用していた。 足を伸ばして座ったり、体育座りの姿勢で座ると陰部が隠せないため、正座をしたと考えられる。 その後股割れズボンを履かなくなったことや、椅子の普及で正座をすることはなくなった。

●インドイギリスの植民地だったインドではどうだろう?
私の娘がバックパッカーとしてインドに滞在していたことがあるので聞いてみた。

現在の上流階級は西洋式の生活様式である。
金持ち宅にはダイニングテーブルやチェアがある。

中・下層階級の家の場合
ある家では戸をあけると玄関はなく土間で靴のまま入る。
今でも土間の上に座って食事をする家もある。

どんな貧乏な家にもベッドはある。
◎土の上には寝れないよね!

訪れるとベッドに座るように促される。
ベッドは寝る場所であり、椅子であり、その上に胡坐をかいてチャイ(お茶)を飲んだりする。
でも基本的には食事でもプージャ(お祈り)でも地べたに座ってがもとの形だと思う、とのことである。

デリーで居候させてもらっていた家は、やや金持ちで(下の上、か中の上)部屋にじゅうたんが敷かれていた。靴はぬぐこともあり、脱がなかったり、かなりアバウトな感じらしい。
「だけど、地域によっても違うと思うし、ヨーロッパ文明が入る前はどうだったか私には正確には分からない」とのことである。

でも、インド人は基本的には地べたに座る人達で女性も胡坐をかいて地べたに座るのに慣れているのか膝がメチャ柔らかくて、二等列車で地べたに座ってるおばちゃんなんて何時間も同じ態勢で座ってはったそうだ。
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◎上の写真はよそからお借りしてきました。でも娘から聞いていたイメージに近いので載せさせて頂きました。あ~今さらですが20歳前後のうら若い娘が、なぜこんな所へ飛び込んで行ったんでしょう?

インド研究家の伊藤武先生
という方がおられ、インドの歴史、文化、古来インドから現在にの及ぶ生活習慣や儀式について何でも知ってられるので、「詳しい事知りたかったらにメールで聞いてみようか?」なんていってきたけどそこまでしてもらうのは恐縮するので遠慮しました。

さて今度は日本のすわりかたについて考えてみよう。

●日本の椅子の歴史
日本では、古く武士が野戦用に使用した床几(しょうぎ)があり、鎌倉時代には、中国から仏教とともに伝来した仏具のなかに院内で使用する局ろくが含まれていて、これらが日本におけるイスの起源と考えられる。

●床几(しょうぎ)とは移動用の簡易腰掛け。
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脚2本をX状に組み合わせ、上端に革や布を張って座席とする。移動時は折りたたんで携帯する。日本では古くから用いられ、古墳時代の埴輪にも見られる他、記紀や延喜式にも「胡床(こしょう、あぐら)」の呼称で散見される。腰掛け用として、朝儀の際に武官が用いたと記録にあり、後世には武家が野戦時に帷幕内で用いるほか、鷹狩りでも利用された。

●床几の歴史
床几の古形である胡床は中国大陸から日本に伝わった。中華では古代、日本と同じように椅子を用いず床に直接座る習慣があったが、漢代には北方から胡床が伝来し、宮廷から戦場まで広く普及した。唐代には椅子の使用が始まったが、胡床は携帯用座具として重宝されつづけた。日本では椅子の普及が明治に入ってからであるため、近世に至るまで広く使われ、現代でもその姿を見ることが出来る。また「縁台」のことを指して床几ということもある。

しかし日本の生活様式がイスを必要としない床座式のため、イスは家具としての発展をみずに明治時代を迎えた。
開国と同時に、西欧人の渡航、文明開化の風潮によって普及、官庁・学校・公共建造物におけるイスの使用がそれに拍車をかけた。
◎奈良飛鳥時代は中国文化の影響が影響が強いから、椅子が使われていたかも知れないと思った。
(あっ、でも中国で椅子が使われ始めたのは、唐代からだった!)

平城京遷都1300年祭にちなんで、行基や聖武天皇、橘諸兄、孝謙女帝が出てくるテレビドラマで確か、藤原の仲麻呂(恵美押勝)の館にイスとテーブルがあったと記憶している。(このドラマの時代考証は確かなのだろうか?)

ちょっと気になるのは
平城京の大獄殿の高御座だ。
一見イスのように見える。
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Wikiから高御座の構造の説明を引用する。
◆高御座の構造と外形
高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響、と考える人がいるが、『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり椅子ではない。


さて、正座について
Wikiから引用する。
●正座の歴史では、正座の座り方(後述)がいつ頃から始まったのか、という部分と、この座り方を「正座」とする概念がいつ頃発生したのか、について分けて考える必要がある。
正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であった。
江戸時代初期、正座の広まった要因としては、江戸幕府が小笠原流礼法を採用した際に参勤交代の制定より、全国から集められた大名達が全員将軍に向かって正座をする事が決められ、それが各大名の領土へと広まった事が一つ。

また、別の要因として、この時代、庶民に畳が普及し始めた頃であったことも要因であるという。
入澤達吉『日本人の坐り方に就いて』では元禄~享保に広まったと推測されている。
それに対して、川本利恵と中村充一「正座の源流」[3](東京家政大学紀要第39号 1999年)では、この座り方そのものは『日本諸事要録』(天正11年)の記載から、16世紀後半にはすでに下級武士や農民にまで浸透していたことを指摘しており、古代遺跡や奈良時代の仏像にも現代の正座と同じ座り方があることから、座り方そのものは江戸時代以前から一般的であったとも考えられる。

http://www.seizajsa.com/article/1291900683.html
にかなり詳しく正座や日本人の座り方の歴史が記されている。興味のある方はどうぞ。

•イースター島のモアイは裸で正座している。

◎イースター島のモアイ像については由来がまだ謎のようだが、正座というのもその解決の一つの要素になりそうですね!
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by jumgon | 2011-03-09 10:18 | ★言語、歴史
以前から考えていた事だが、日本人は床に座り、床に布団を敷き眠る。
布団は朝になると押し入れに入れる。
一方主に西洋では椅子、ベッドの生活形態である。


西洋式が優れているのは老人になり筋肉やが膝が弱ったりしたとき、あるいは介護状態になった時行動の補助になるという便利さである。
西洋文化は、人間が楽になるよう工夫された文化だと思う。

多分前者の方が、足腰の筋肉が鍛えられると思う。
布団の出し入れだって毎日なら大した運動でないみたいだけど、何十年続けていると腕の筋肉の発達の差はとても大きいと思う。
西洋式トイレより和式トイレの方が足腰の筋肉の発達を促すと思う。
自宅のトイレではウォッシュレットなどとても便利で良いと思うけれど、公衆トイレでだれが座ったか分からない便座におしりをおろすのは抵抗がある。

私がこのように思っていても、実際体力に差が出ているか私は証明することはできないけれど、専門家なら比較出来ると思う。こんなこともうとっくに研究されてるかも知れないけれど、もしだれかご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください、お願いします!

さて具体的に比較するために、煩雑だが和式の座り方、立ち方をかいせつしよう。
http://hac.cside.com/manner/6shou/1setu.html

から、解説写真をお借りしました。

まず、日本独特の姿勢、の解説から

●跪座(きざ)1
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跪座の姿勢は、正座から、両足を爪立てた姿勢である。
跪座の姿勢において、上体は正座の姿勢よりごくわずかに前傾する。
頭は、顎が上がらないよう注意し、まっすぐに胴体に据える。
視線を置く位置は、正座と同じく、畳の縦の長さ2枚分(3m60cm)前方の床の上に置く。
手の位置は、正座と同じである。
両足の踵(かかと)の内側は、互いにつける。

●跪座(きざ)2
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足のくるぶしを中心として、爪立てた足の甲と、足のすねがつくる角は、その角を鋭角にする気持ちで曲げる。

●跪座(きざ)3
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尻は、両足の踵(かかと)の上にしっかりと載せ、上体の重みをかける。
●跪座(きざ)4
この跪座の姿勢は、低い位置で動作をするときに多く用いる。
また、正立から正座に移るとき、反対に、正座から正立に移るとき、必ず、この跪座の姿勢をとる。


◆正座から立ち上がる時

●正座から跪座へ1
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正座の姿勢から、まず、両脚のももに力を入れ尻を少し浮かせるようにする。
このとき、上体が前かがみとならないよう注意する。
●正座から跪座へ2
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左足から、静かに爪立ててゆく。
次に右足を爪立て跪座の姿勢となる。
●跪座から正立へ1
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跪座の姿勢から、右足を半足長(自分の足の長さの半分)前に出し、右脚全体を浮かせるようにする。
●跪座から正立へ2
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からだの重心は、両足の中間に置く。左脚の膝を床から離し、つづいてゆっくりと立ち上がってゆく。
このとき両脚の膝に力がかかる。上体が、揺れないようにする。
●跪座から正立へ3
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立ち上がったら、左足を半足長前に出して、右足とそろえる。正立の姿勢となる。


◎かなり専門的で繁雑のようだが、文で読むより実際にやってみたら、なるほど、椅子に坐ったり立ちあがるより、いろいろな筋肉を使っている事がわかると思う。

ついでに座布団の座りかたを解説する。

座布団や寝具に入る時、まず、その外側で正座になり、座布団(寝具)の少し奥に両手こぶしを入れる。両手に体重を乗せ、両足膝を座布団(寝具)の上ににじりいれる。
もう一度奥に両手こぶしを置き、膝を真ん中にすすめる。


●座布団の基礎知識
座ぶとんには、裏表がある。
「表」とは、中央のしめ糸のふさのついているほうである。
また、座ぶとんカバーが使用されている場合、座ぶとんを真上からみて、チャックについている縫い代がかぶさっているほうが、「表」である。

座ぶとんには、前後がある。
「前」とは、座ぶとんの4辺のうち、縫い合わせのないほうである。
袋仕立てのものは、袋の底のほうが、「前」である。
また、座ぶとんカバーが使用されている場合、チャックのついていないほうが、「前」である。

◎座布団(寝具)は足裏で汚さない様そういう行動パターンが出来ていた。上等のふかふか座布団は、カバーをつけないし、めったに洗わないから~。

そういうものを形式化、儀式化したしたのがいわゆる礼法である。

私は月1回二年間ほど礼法教室に通ったことがあるが、時代に合わない部分に反発する面もあったが
日本文化の所作の美しさと合理的な部分は伝えていきたいと思った。

次回は日本以外の床に座る文化を探してみることにする。
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by jumgon | 2011-03-02 15:29 | ★言語、歴史