古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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<   2011年 05月 ( 16 )   > この月の画像一覧

日本人はどこからやって来たか?
先日「勢野東遺跡」で石器時代の石器工房跡が見つかったというニュースがあった。
日本には他にも石器時代の遺跡がある。

いわゆる弥生人(渡来人)がやってくる前から人々は住んでいた。
この人たちはどういうルートで日本列島にやってきたのだろうか?
そしてどういう人種?だったのだろうか?

今まで日本人の遺伝子分析や血液型、指紋、言語、神話 などから様々なアプローチがなされてきた。
何年か前にNHKで[日本人~はるかな旅]という番組を放送していた。
それをまとめた
日本人~はるかな旅展のHPを見つけた。http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/index.html#

日本人のやって来た道は、私の手に負えない話だからお勉強にそれを読んでいこう。


日本人~はるかな旅展

私たちはアフリカで生まれた
私たち日本人の祖先となる集団が、日本列島へ最初にやって来たのは、今から4~3万年前だったと考えられます。
彼らは、およそ10万年前にアフリカで誕生した新人(ホモ・サピエンス)の直接の子孫でした。日本列島における人類の歴史を見る前に、人類がアフリカで誕生してから、新人に進化し、そして世界へ拡散していった、600万年に及ぶ長い歴史を振り返ってみましょう。

○ホモサピエンスの世界進出
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◎スンダランドというのが地図に見えますね。これについては又後ほど出てきます。

この地図は、新人(ホモ・サピエンス)がそれぞれの地域へ進出した年代の推定値と、考えられる主な移動経路を示しています。
それぞれの地域への進出には、さまざまな困難があったはずですが、 私たちの祖先は、新しい技術や状況に応じた工夫によってそれを 乗り越えていきました。
地図を見ながら、私たちの祖先が旅先で 演じたであろうドラマを想像してみてください。
たとえば、オーストラリアへ渡ったオーストラリア先住民の祖先たちは、偶然の漂流もあったかも知れませんが、海を渡るだけの装備や航海術を考案していたことでしょう。また、厳寒のシベリア地域をさらに北へ進むには、新たな防寒具や狩猟具などを開発する必要がありました。

○氷河時代の日本列島
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日本列島に新人たちが現れるのは、およそ4~3万年前のことです。
この時期には、海面低下の影響で、陸地が拡大し、日本列島周辺の海岸線は今とはずいぶん異なっていました。日本列島の一部では、大陸と陸続きになったり、大陸との間の海峡が非常に狭くなったりしました。列島に現れた日本人の祖先たちは、どこからやってきたのでしょうか?

マンモスハンター・・・シベリアからの旅立ち・・
シベリアは、かつて「白い静寂の大陸」あるいは「マンモスの大陸」とも呼ばれた地域です。アフリカで誕生した人類が、なぜ、この酷寒のシベリアをめざしたのでしょうか。人類史の七不思議のひとつであり、今なお確かな理由はわかりません。
しかし、2万年以上前の旧石器時代、技術開発と創意工夫によって寒さに挑戦し、ついには寒さを味方にして、シベリアでマンモスを狩って暮らしていた人々がいたのです。
そして、彼らが私たちの祖先集団の一つであったことが近年の研究で明らかにされています。

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○黒曜石の道~北方旧石器文化の流れ
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中国北部、蒙古、シベリアなどおよそ北緯40度以北には、後期旧石器時代の石刃技法や細石刃技法を特徴とする旧石器文化が広がっています。
日本の旧石器文化は、これら北の旧石器文化が、朝鮮半島やサハリンを経由してもたらされたものです。また、石器の材料となる北海道の黒曜石がサハリンや大陸に運ばれていて、大陸と日本列島を行き交う人々の様子が解明されつつあります。
北海道の白滝・赤石山は、日本有数の黒曜石産地で、推定埋蔵量60億トンともいわれています。黒曜石の産出地を中心として、集落における石材搬出のための分業システムや中継地など、広大な流通ネットワークが存在したことが推測されています。

◎北海道から黒曜石がサハリンや大陸に運ばれていってたのですね。
 一方的に文化がやってきただけではないようです。


次回は
黒潮の民・・・スンダランドからの旅立ち
 を読んでいきましょう。
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by jumgon | 2011-05-31 22:28 | ○日本人はどこからやって来たか
ナイフ型奈良・勢野東遺跡で約2万点の石器出土 石器製作の工程知る資料2011.5.27 18:57 (サンケイニュース)

◎地図を見るとわかるが「法隆寺」「龍田大社」に近い場所だ。以前龍田大社を訪れた時勢野という地名のところで道に迷ってウロウロした覚えがある。

奈良・勢野東遺跡で見つかった縄文時代草創期初頭の石器工房跡(奈良県立橿原考古学研究所提供)
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 奈良県三郷町の勢野(せや)東遺跡で、縄文時代草創期(約1万5000年前)の石器工房跡が見つかり、県立橿原考古学研究所と同町教委が27日、発表した。

狩りで使う槍先形尖頭器を作っていたとみられ、石器約2万点が出土した。橿考研は「石器工房跡が見つかるのは西日本では珍しく、一連の工程を知る資料として価値が高い」としている。
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 石器は1センチから十数センチまでの大小さまざまな破片が大部分を占め、最初から最後までの製作工程を示している。完成品はほとんどなく、尖頭器とわかる石器は30点以上あったが、製作途中で割れた“不良品”が大半だった。

 出土状況から、川べりで、縄文人が石のハンマーを使って石器の形を整えていたとみられる。石材は、9キロ南の二上山で採れるサヌカイト(安山岩の一種)と推定される。

 藤野次史・広島大准教授(旧石器考古学)は「製作の様子だけでなく、石を採集した人と石器を使った人のつながりを考える基礎になる遺跡になるだろう」と話している。

 石器は6月1~9日、三郷町役場隣の町文化センターで展示される。


石器工房の遺跡として、大阪羽曳野市の翠鳥園遺跡がある。
http://jumgon.exblog.jp/i60
これは約1万8千年前から続く工房だ。
ここの石も二上山で採れるサヌカイトだ。
●翠鳥園遺跡の旧石器時代のナイフ型石器
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のちの時代にいわゆる渡来人と呼ばれる人が日本列島にやってくる前にすでにどこかからやって来た人がいたのだ。

それについて色々調べている。
定説はないが、おおすじ考えられるルートが学者の研究で分かってきているようだ。

次回はそれについて書きたいと思っているが、、、、、
まとめられないで収拾がつかなくなりそう~。
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by jumgon | 2011-05-31 09:47 | ○旧石器時代の勢野東遺跡
記紀に「一言主の神の話」がのってる、葛城一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)

何度か訪問してるけどいつも雰囲気を味わって散歩するだけだった。
今回はじっくり境内を見てみよう。
駐車場に車をおく。
社殿にいたる階段の手前にくると、亀石と書かれた小さな木札がみえる。
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どれが亀石かわからない。
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亀石
「亀石」といえば、飛鳥の「亀石」を思い浮かべます、ここにも「亀石」が~
 その昔、役の行者が災いをもたらす黒蛇を封じるために乗せた石がこの亀石だという伝えがあるそうです。
◎この亀石は役の行者の時代からあるの?

鳥居から階段がある。
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それほど長い階段ではないが、やはり神様は高いところにいるのがいい。

境内はそれほど広くない。

あがるとすぐに本殿
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本殿の横にはこんな像がある。
至福の像とかいてある。後ろの立て札にはボケよけ数えうたが書かれている。微笑ましい感じ!
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蜘蛛塚がある筈だけど~
木に隠れて見つけにくい。
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土蜘蛛というのは、古代に大和朝廷に従わなかったその地の首長や集団をさす蔑称だと言われています。
古代にこの地で、戦いがあったのでしょう。蜘蛛塚は土蜘蛛と呼ばれた人々の供養のために一言主神社の拝殿の脇にひっそりとあります。

さてwikiを見てみましょう

●祭神
祭神は一言主大神であり、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)を合祀している。これは『古事記』や『日本書紀』にあるように雄略天皇が顕現した一言主神と邂逅したためである。
また、託宣神としての神格の類似性から一言主神と事代主命を同一視するような記述も表れた。
さらには近隣に出自を持つ賀茂氏に信仰された味耜高彦根命もその分身として混同されるようになった。

●歴史
神社鎮座地は前述の話における一言主神が顕現した地とされている。また、裏山である神山こそが顕現の地「カミタチ」であると伝わる。
神社一帯は葛城氏の本拠地で、綏靖天皇の皇居(高丘宮)があったという伝承が残る。
延喜式神名帳には葛木坐一言主神社と記載され、名神大社に列せられている。嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従二位と神階が進められていった。

●御神木は樹齢1200年というイチョウの古木(乳銀杏)で、本殿の南側にある。
県下最大の銀杏の御神木「乳銀杏」
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 本殿の前に立ち、樹高24m、幹周り4.3mの大イチョウは、子供を宿した母の姿に似て木の膨らみが妊婦の様に見え、垂れ下がった乳房からは今にも乳白色の滴が垂れそうなので「乳銀杏(ちちいちょう)」または「宿り木」とも呼ばれ、推定樹齢1200年の巨樹です。
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古木にしか発生しない「乳房」は、樹皮のコルク質が発達し表面が柔らかくなって出来た物ですが、これは巨樹の表面積を広げ、内と外の空気を交換する「気根」の働きを良くするラジエーターの役目を果たしています。
婦人が祈ると、健康な子が授かり、お乳の出が良くなるそうで、古くから子供を思う親の願いが込められ、地元の人々の信仰を集めています
●境内社
一言稲荷神社 への道
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境内社は本殿の北側にある。
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一番手前が「神功皇后社」と「八幡社」

日本書紀』雄略天皇の段に載っているお話。
(雄略)四年の春二月、天皇は葛城山で狩りをした。突然、背の高い人に出合った。顔や姿が天皇によく似ていた。
天皇は「神に違いない」と考えたが、「どこのものか」と尋ねた。背の高い人は、「私は姿を表した神である。
お前から先に名のれ。その後私が名のろう。」と答えた。
天皇は「わたしは幼武尊(ワカタケルミコト)である。」と名のると、背の高い人は「私は、一言主神である」と名のった。ともに猟を楽しみ、一匹の鹿を追って弓を放つことも互いに譲りあった。日が暮れて猟を終え、神は、天皇を来目河(くめがわ)まで送った。

『古事記』にも同じようなエピソードが載っているが、部分的に若干ニュアンスが異なる。例えば、雄略天皇は一言主神を見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、吾以外に王はないはず」と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況となった。
そこで、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」と答えた。
「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。
しかし、これを聞いた天皇は「あな恐(おそろ)し、我が大神」と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じると、一言主神は手を打って喜び、それを受け取った、とある。
まるで、山賊に出会って丸剥ぎにされたような記述だが、一言主神の威厳に満ちた態度は、『日本書紀』と同じである。
雄略天皇と言えば、古代史にひとつの画期を成した天皇だ。猛々しい英雄として「記紀」にも描かれ、熊本の江田船山古墳、埼玉の稲荷山古墳から出土した刀剣に「ワカタケル大王」の文字があった事から、日本統一がなったのはこの天皇の御代の頃とする説もあるほどだ。
それほどの天皇を恐れさせ、衣服まで献上させるとはこの「一言主神」というのは一体どういう存在だったのだろう。
葛城に、古代何か大きな勢力があった事を想起させる。


前回、役小角でこんな伝承を紹介した。

役行者がある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。
しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。
すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

記紀の記述とは程遠い、人間臭く威厳のない神様ですね。
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by jumgon | 2011-05-26 19:10 | ○葛城一言主神社

役小角って?

古い寺社を訪ねていると、その由来や歴史に頻繁に出てくるのが、この4名だ。
聖徳太子、役小角、行基、弘法大師

今回は役小角について調べてみよう。

わたしの知識、としては役小角って、修験道者で実在したかどうかわからないけど、修験道の行者の代名詞になってる者。宗教者というより異能の呪術者であり超能力?を持った人の代名詞だ。

ともかく自分が、思い込みで描いているだけなので調べてみよう。

役小角が出てくる記事(このブログ内)
http://jumgon.exblog.jp/15069811

金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  


◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らないとわかりました。
●葛城一言主神社には役小角の伝承がある。
一言主神社の亀石
「亀石」といえば、飛鳥の「亀石」を思い浮かべます、ここにも「亀石」が~
 その昔、役の行者が災いをもたらす黒蛇を封じるために乗せた石がこの亀石だという伝えがあるそうです。

●奈良県當麻市の当麻寺にも
當麻寺のそもそも 
612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。
その後、親王の夢に従って、681年、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(当麻寺・たいまでら)です。
 金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。
次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。
中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。

大阪葛井寺にある役の行者像
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見てみよう。

役小角
舒明天皇6年(634年)伝 ~ 大宝元年(701年)伝
幼名小角、金杵麿
諡号神変大菩薩
尊称役行者、役優婆塞
生地大和国葛城上郡茅原村(現奈良県御所市)
宗派修験道

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。

•出自
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという。
また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる。

o役民とは?
律令制下の租税の一種として、無償労働にかり出された者のこと。

•続日本紀にみる役小角
『続日本紀』は、文武天皇3年(699年)5月24日に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝える。同書によれば、小角ははじめ葛木山(金剛山・葛城山)に住み、呪術によって有名になった。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。
『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した史書で、基本的には創作された話が入る性質のものではない。 同書はまた、2年後の大宝元年(701年)11月に大赦があったことも伝えるが、役小角個人には言及しない。

•日本霊異記にみる役小角
役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。
後世に広まった役小角像の原型である。
荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。
霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。
若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。
役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。
大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

•その後の役小角像
634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。17歳の時に元興寺で学ぶ。
このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。
その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。
699年に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰る。
701年6月7日に68歳で箕面の天上ヶ岳にて入寂したと言われる。
後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。
天河神社や大峯山龍泉寺など殆どの修験道の霊場は、役行者を開祖としていたり、修行の地としていたりするなど、必ずと言っていいほど、結び付けられている。

•信仰
役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。

•肖像
修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。
•伝説
葛飾北斎『北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角
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役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。
しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。
そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。
すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。
また、役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。

また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。


ネットで調べていると役行者についてはいっぱいかかれている。

そのなかで興味深いのは
天武天皇の年齢研究だ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-e.htm/#_top
すっかり読みふけってしまった。天武天皇と役行者の関わりについて述べられている。

ここではwikiと重複するが、役行者の実像を引用する。

•役行者の実像(一部省略)
行者の素性ははっきりしています。日本霊異記によると、

役優婆寒者、賀茂役公。今、高賀茂朝臣者也。大和国葛木上郡芧原村人也。

役行者こと役小角(えんのおづの)は賀茂氏の一族で役公(えんのきみ)であることから名づけられたようです。延暦の頃には賀茂氏の本宗家といえる高賀茂朝臣(たかかものあそん)を名乗ることになる由緒正しい家柄です。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の出身です。続日本紀でも葛木山に住んでいたというから矛盾はありません。
優婆寒(うばそく)であるといいます。僧侶ではないのです。在家のものですが帰依三宝(仏、法、僧)を重んじた僧の一歩手前のような立場といえます。
かなりのインテリで、中国の書物に深く傾倒し、舶来の儒教、道教、仏教に精通していました。
ここで三教を論じるつもりはありませんが、この頃の教えはそれぞれがいい意味で影響しあい、混然としたものでした。
儒教は孔子によってまとめられた、すぐれた中国思想です。
道教は中国独自に古くからある多神教です。
仏教はインドから伝わる一神教です。

ひとつになることはありませんでしたが、それぞれに影響を与え、独自な発展を遂げたものなのです。
日本霊異記の作者は僧侶ですから、役行者が仏教を深く信仰したという書き方になっていますが、彼の知識は仏典だけに留まらなかったと思われます。
しかも彼の行動から察するに、彼の興味はむしろ道教にあり、とくに自然とともに生きる仙道に共感しながら、「抱朴子」などに描かれた仙人に自らなることを本気で目指していたと思われます。
「初老を過ぎた四十余歳」といいますから673天武2年頃でしょうか。彼の生年は諸説ありますが、たぶん天武天皇の壬申の乱前後と思われます。
この歳になってもまだ、岩屋に籠っていたと書かれます。
ところが後に、讒言にあって、伊豆の島に699文武3年5月24日に流されたのです。天武天皇崩御から13年後のことでした。

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by jumgon | 2011-05-26 10:44 | ★言語、歴史

葛城 高天彦神社

葛城高天彦神社への道

今朝(5月21日)テレビで「高天山草園」という所ガ取材されて放送していたらしい。
パートナーが「ここよさそうだ。行ってみよう」という。
どこのことかとネットで調べたら、高天彦神社のすぐ近くらしい!
高天彦神社はまだ一度も詣でたことはない。
どなたかのブログで「大変な坂道で、~」とか書いてあるのを読んだことがあってサバイバルなイメージをもっていたのだ。
「よほど体調の良いときでないと無理かも~」なんて思っていた。

大阪から葛城は、車だと近い。昼過ぎに出発。

一言主神社を過ぎて名柄の標識。そこを過ぎるとやがて高天彦神社の標識があるので注意しながら
進む。
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「あっ、あった!」その標識のところをを右折、ほんのしばらくで高天彦神社への参道に着きます。
たしかに急な坂です。
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でも車を停める所がない。
ネットでゲットした、手書きの葛城古道の私製地図でみると高天山草園の近くにPのマーク。
それに従っていくと、ほんの5分くらいで駐車場があった。

ナント、それが高天彦神社の駐車場なのだ。

ということはあの急な坂道を登らずに、大きな杉につつまれた神さびた道を味あわずに高天彦神社に着いてしまっていたのだ。
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なんとあっけない!
しんどいけどこの道を歩きたかった!!もし、歩いたとしたらこの道を進むことになります。
樹齢数百年の杉並木の参道を抜けると、高天彦神社の境内に辿り着きます。

あまり簡単に着いちゃうと、有難みも「神話時代への神秘感」もない。
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上の写真・自分で撮った写真はイマイチなので、せめてよい雰囲気の写真をと思いはよそからお借りしました。!!

ここは社務所はありませんが休憩所があります。
現在、この神社は高鴨神社のご神職が管理しておられます。
高天彦神社のお守りや御札なども高鴨神社で授かることができます。


◇高鴨神社へは去年の9月に行きました。⇒高鴨神社・http://jumgon.exblog.jp/15088805/


高天彦神社は、多分普段だったらあまり人はいないと思うけど今日は割にたくさんの人が来ていた。
(高天山草園がすぐそばでテレビの宣伝効果だと思う。テレビの影響力の大きさに感心した。)

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/97.htmより
写真をお借りしました。
●高天彦神社社殿
瓦がオレンジ?黄土色?なのに、ふるさびたイメージは壊れない。

http://takama.sakura.ne.jp/takama
天孫降臨伝説地~高天原エリア史跡ガイドから
 
高天原とは?
 高天原は古事記神話に登場する神様たちが住むとされる天上界のことです。 高天原と書いて「たかあまはら」や「たかまがはら」と読まれます。
天照大神の孫にあたるニニギノミコトが地上界に降臨する天孫降臨伝説はこの高天原から天孫ニニギノミコトが日向の高千穂へと天下る神話です。 また有名な大祓い詞などにも高天原のことばが一番最初に登場します。
高天原の伝承地~大和葛城(奈良県御所市高天) 
古事記神話に記されている高天原がどこを指しているのかは諸説があります。
新井白石は高天原とは常陸の国多珂郡の海上を指すといった解釈をしていますし忌部正通は「一念無き胸中」であると人々の心の中にあるといった説もあります。 (同感してるわたし!)
 その中で奈良県御所市の高天は古来より神話の世界である高天原の伝承地として伝えられる場所のひとつです。 この場所は金剛山の中腹にぽっかりと広がる高原台地でここからは大和盆地を一望できる標高の高い場所です。

金剛山(高天山)の中腹に広がる台地が高天原エリア
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↑   ↑   ↑
大和側から見て左側が金剛山(高天山)で右側が葛城山
 
現在、金剛山と呼ばれる山は古代に大和側からは高天山と呼ばれていたそうです。(山の反対側の河内側からはコンゴウセンと呼ばれました。)
高天原は金剛山(高天山)の中腹にある高原台地のエリアです。
 この高天原エリアを含む葛城地方は、大和朝廷以前の古代にこの地域は葛城王朝と表現されるほど強大な勢力を誇った葛城氏という豪族の本拠地でした。
● 高天原よりすこし山を下った場所ではこの葛城氏の祭祀場跡と推定される巨大な遺跡が発見され(極楽寺ヒビキ遺跡)この地が古代の信仰にとってとても重要な場所であったことが推測されます。

●奈良時代にもこの高天に高天寺という名の大寺院が存在していることから大変に古くからこの地がすでに高天と呼ばれていたことがはっきりとわかります。

この様なことからも、奈良県御所市の高天・北窪の一帯が神話に登場する高天原であると伝えられています。
●高天原を含めた葛城古道のコースには全国の鴨社の総本社である高鴨神社や、御歳神を祀る全国総本社の葛木御歳神社、一言主神社の全国総本社の葛城一言主神社などがあり、山口神社の全国総本社の鴨山口神社など各神社の発祥の地がひしめくエリアであることから御所市のこの一帯は日本神話のふるさとと呼ばれています。

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葛城古道は『日本の美しい歩きたくなるみち500選』にも「日本神話のふるさと~葛城古道」として登録されています。

●蜘蛛塚
社殿の左脇には土蜘蛛を埋めた跡とされる蜘蛛塚があります。ガイド本に紹介されることもなく、現地に案内板もないので、多くの方は見落とされます。見つけた方も何か分からずに帰ってしまわれることも多いことでしょう。
土蜘蛛とは日本の先住の人々のことです。高天エリアには高天彦神社の土蜘蛛塚のほかに蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡があります。

蜘蛛窟~先住の民・土蜘蛛伝説地
この高天の蜘蛛窟には次の様な伝説が残っています。『むかし、千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた。時の天皇はお悩みであったので勅使がきて、字 サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。
矢の落ちたところを矢の段という。土蜘蛛を高天彦神社の傍に埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛のいた窟は神社の前の並木の東にある。(御所市史より)

◎蜘蛛窟に迷わずにたどり着く方法~を読んだのに蜘蛛窟は結局見つけられませんでした。

蜘蛛とは?~まつろわぬ人々
神話によれば神武天皇が大和を平定すべく東征をしたときこの地には先住の人々が暮らしていました。
その先住の人々は神武天皇の皇軍に従わずに抵抗し敗れます。 土蜘蛛という名称は、勝者側が敗者の先住の人々を呼ぶ時に使われた蔑称のひとつです。


●日本書記には
土蜘蛛のことを「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す


●摂津国風土記の逸文には

「恒に穴の中に居り。故、賤しき号を賜いて土蛛と日う」など表現されています。
実際に先住の人々の胴体が短くて手足が長く、土の穴に住んでいたのかは定かではありませんがこのあたり一帯に先住の人々が暮らしていた可能性は高そうです。

●葛城の地名の由来
日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺した。それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと葛城の地名の伝承について記しています。
土蜘蛛に関しては、土蜘蛛(先住民側)の残した記録が無いためほとんど謎に包まれています。
葛城には高天彦神社社殿の脇にある岩をはじめ土蜘蛛に関する史跡がほかにもあります。あと高天原エリアではありませんが葛城一言主神社境内に土蜘蛛塚があります。

●パンフレット「高天彦神社」から
御祭神   高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(別名 高天彦神)
由 緒 
本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
 神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生れにになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。
その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。
古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。
彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて 「 高天原 」 と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。
そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。
神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。


以上はパンフレットからの引用だが

日本各地でたくさんの人々がそれぞれ神を奉じて暮らしていたのでしょう。
各地に残る高天原は全部信じても良いような気がします。なにしろ神のいます処を高天原と名付けただけなのですから~
(あとで神武神話に収斂されますが、その中の一つが神武天皇と名付けられた人なのではないかと思います。神武から今の天皇家まで直線で繋がってるとは限らす、崇神天皇や応神天皇も又各地の始祖王だったのが、いつの間にか神武の系譜に繋げられただけかもしれません。
もしかしたらそれほど時代がかわらない同時代の人だったかも~。

時代のことは学者の皆様がちゃんと順序だててまとめてくださることでしょう。
これは間違っているかもしれませんが、わたしの勝手な空想です。)
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by jumgon | 2011-05-23 00:00 | ★葛城
当麻寺を創建したのは聖徳太子の弟の麻呂子皇子だという。

◎聖徳太子の弟?
 聖徳太子に弟がいたのですか?(ほんとうに何も知らないわたし~)


wikiによると
父である用明天皇には以下の子女がいる。
o第一皇子:田目皇子(または多米王。別名豊浦皇子)
o第二皇子:厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう)
o第三皇子:当麻皇子(別名麻呂子皇子) - 征新羅将軍。当麻公・当麻真人の祖
o第四皇子:来目皇子(または久米王) - 撃新羅将軍。登美真人の祖
o第五皇子:殖栗皇子 - 蜷淵真人(みなぶちのまひと)の祖
o第六皇子:茨田皇子
o皇女:酢香手姫皇女(または須賀志呂古郎女[4]) - 伊勢斎宮

麻呂子皇子についてこの機会に調べてみよう。
(当麻皇子)(たいまのみこ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀初期にかけての皇族。麻呂子皇子ともいう。
●602年(推古天皇10年)征新羅将軍であった異母兄弟の来目皇子が没した後、翌年の603年4月に征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が没したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。

◎ということは、当麻寺の前身である万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立したのは推古天皇20年(612)だから、征新羅将軍となったのは、その前だということになりますね。

ほかにも「麻呂子(まろこ)親王」に関する記事を見つけた。

http://www.ryoutan.co.jp/re/oni/2003re4.htmlより
神と鬼の山 4 日本の鬼の交流博物館館長 村上 政市
無量寺縁起と仏谷-福知山の麻呂子親王伝説-
 
麻呂子(まろこ)親王、これもあまり聞きなれない名前だと思いますが、聖徳太子の異母弟とされる人物です。
 この麻呂子親王が、三上山(大江山)にすむ、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)という三鬼にひきいられた鬼どもを討ったという伝説が、当地方の古社寺の開創縁起となって伝えられています。
当地に仏教が流入した時期と麻呂子親王の時代とではズレがありますから、先行していた麻呂子伝説を、寺社創始の権威づけのため利用し混合していったと考えるべきでしょうか。 
この両丹地方には、大江山の周辺を中心に実に多くの伝説関連地が残っており、地名の由来となっているケースも多くみられます。
今回の話の中で、そうした福知山に残る麻呂子親王伝説を紹介しようと思いますが、中でも、筈巻の無量寺に残る縁起書は、年号の記されている縁起書としては、両丹地方最古のものですし、ゆかりの仏像もまつられています。
また雲原の仏谷(ほとけだに)は、親王が鬼退治を祈って、七仏薬師を刻んだところと伝えています。長安寺や長田の願来寺など、親王ゆかりの薬師如来像をまつると伝える寺院もあります。
 私が、この麻呂子伝説で一番興味をもっているのは、大江町河守の清園寺の「古縁起」に、親王に討たれた鬼どもが、「火」と「風」と「水」を自在にあやつるとあることで、「火」「風」「水」をあやつるのは、古代製鉄に従事したタタラ師たちではないかと思っています。麻呂子親王が、この地方では、もっぱら「金丸親王」とよばれ、「金屋皇子」とも呼ばれていること、それに鬼の首領の「英胡」の「胡」は、早くから製鉄技術をもっていた中国の胡族を連想させるのです。 

大江山には古い時代のタタラ跡が残っています。「魔谷」(大江町北原)、「火の谷」(福知山市天座)など、タタラ跡のあるところは、鬼を思わせる地名ですね。麻呂子親王伝説の裏にひそむ鉄の争奪を、私なりに推論してみたいと思います。


http://kammuri.com/s1/oni/maroko/index.htm
凡海郷(おおしあまのさと)より
●麻呂子親王伝説

日子坐王の土蜘蛛討伐から約六五〇年後、丹後國に再び官軍が派遣されるに至りました。
●日子坐王
 
日子坐王は、記紀系譜によると開化天皇の子で崇神天皇の弟とされる皇族で、四道将軍「丹波道主命」の父にして古代十九氏族の祖とされていますが、実在を疑問視する声も多い謎の人物です。

日子坐王に討伐された陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛は丹後國中の青葉山に棲んでいましたが、今回麻呂子親王(マロコシンノウ)を大将軍とする官軍が討伐の対象とした『鬼』たちは、陸耳御笠が逃げ込んだとされる三上ヶ嶽(現在の大江山)に棲んでいました。

●妖術を使う三鬼 
第三十一代用明天皇の御代、丹後國河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に、英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)、土熊(ツチグマ)の三鬼を首領とする多くの鬼が棲み、丹後はまるで魔國のようになっていました。
 朝廷は鬼を討伐すべく、知勇兼備の麻呂子親王を大将軍とする官軍を遣わす事に決し、勅を奉じた麻呂子親王は、岩田・河田・久手・公庄の四勇士をはじめ一万綺からなる大軍を率いて三上ヶ嶽へ攻め入りましたが、鬼は妖術自在(空を翔び、海を渡り岩をくぐり、雲をおこし雨を降らせ、身を隠したり顕れたり)で斬りつける事も矢で射る事もできませんでした。

神仏の御加護と白い犬 
鬼の妖力の前に人智は全く歯が立たない事を悟った親王は、神仏の御加護を以て鬼を討ち果たそうとお考えになりました。
一旦兵を引かせた親王は、自ら七体の薬師如来像をお彫りになり、「もしも鬼を討ち果たせたならば、この薬師如来像を祀って丹後に七寺を開きます」と祈誓され、併せて天照皇大神と天神地祗に祈願されました。
するとどうでしょう。
親王の元へどこからともなく額に鏡を付けた白い犬が現れました。この犬が神仏の御遣いであることを察した親王は、白い犬を先頭に三上ヶ嶽へ攻め入ったところ、鏡の光が次々と隠れていた鬼の姿を照らし出し、鬼の妖力をことごとく封じてしまいました。
 鏡の聖なる力によって身動きが取れなくなった鬼達は最早官軍の敵ではなく、麻呂子親王は無事勅命を果たす事ができました。

◎白い犬は神聖なものとされていたようですね。古事記・雄略天皇の段にも白い犬は出てきます。

三鬼の末路
三鬼のうち、英胡と軽足は官軍に討ち取られましたが、土熊のみは生け捕られました。
土熊は生き残った鬼達共々助命を願い出たため、親王は「七体の薬師如来像を安置する七つの寺の土地を一夜のうちに開くならば、命だけは助けよう」と申されました。
 鬼達は喜び勇んで七寺の土地を開墾したのち、丹後半島の先端にある立岩に封じられました。
七薬師伝説 麻呂子親王御開基の七薬師寺を主張する寺院は、現在七ヶ所以上ありますが、「多禰寺縁起」によると以下の通りです。

一、施薬寺(与謝野町)・・・・・・桓武天皇勅願所、旧根本寺
二、清園寺(福知山市大江町)・・・・・・略縁起と縁起絵は府の指定文化財
三、元興寺(京丹後市丹後町)
四、神宮寺(京丹後市丹後町)・・麻呂子親王のものと伝わる墓がある
五、等楽寺(京丹後市弥栄町)
六、成願寺(宮津市)
七、多禰寺(舞鶴市)・・・・・・用明天皇勅願所、西国薬師第三十番霊場

 また、大江町の如来院(古くは仏性寺と呼んだと思われる。日本の鬼の交流博物館のすぐ近く)も麻呂子親王御開基と伝えられる古刹であり、本尊の薬師如来像の胎内仏は親王の護身仏と伝えられています。 更に、仏性寺の山号を鎌鞭山と云いますが、これは親王が鬼達を討ち取った後に武具である鎌と鞭を納めた事に由来すると言われています。

 その他七薬師寺伝説の寺としては、円頓寺(京丹後市久美浜町)・月光寺(廃寺、京丹後市大宮町)などがあります。
親王の足跡 
今日、丹波・丹後には七十ヶ所以上に麻呂子親王にまつわる伝説が残っています。
 その一部を列挙すると
・京都府福知山市雲原に「仏谷」という地名があり、麻呂子親王はここで七体の薬師如来像を彫ったとの伝説がある。
・大江町の元伊勢皇大神社には、「麻呂子親王お手植えの杉」と呼ばれる杉の巨木が現存する。また、皇大神社には麻呂子親王勧請説がある。
・ 与謝野町の大虫神社(延喜式内社)には、戦勝祈願のために親王自らが彫った神像が納められていた。また、白い犬の鏡も合祀されていた。(いずれも火災で焼失)
・ 与謝野町に、「二つ岩」と呼ばれる巨石がある。これは大江山から親王めがけて鬼が投げつけた巨石で、親王はこの岩を刀で受け止めて真っ二つに切り裂いたものであるとの伝説がある。
・京丹後市丹後町の竹野神社は、麻呂子親王を合祀していると伝える。近くには土熊を封じたとされる「立岩」があり、「鬼神塚」も現存している。
・大江町に美多良志(ミタラシ)荒神という小祠があり、親王の大願成就と同時に死んでしまった白い犬を祀っているという。
 膨大な麻呂子親王伝説は、後年の源頼光による鬼退治の物語『酒呑童子伝説』へと昇華していきました。
付記2・英胡、軽足、土熊 
清園寺略縁起(京都府指定文化財)には奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)の名で登場します。研究者は、こちらの呼称の方が古く、本来はこの呼び方ではなかったかとしています。

◎奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)って不思議なヒビキ。
 ツチグマはツチグモと同じことかな?

付記3・鉱物資源を巡る争い 
数年前、私が福知山市大江町にある「日本の鬼
の交流博物館」を訪れたとき、運良くあるお方にお話を聞く事ができました。
 あるお方曰く、
 陸耳御笠が棲んでいた青葉山も、三鬼が棲んでいた大江山も、古くから海洋交通の目印であり、修験の山であり、鉱物資源の豊富な山として知られてきました。この山を支配してきたのは海人族であり、製鉄民でありました。鬼とは製鉄民族の事なのです。大江山を始めとして、丹後には沢山のタタラ場がありました。
 鉱物資源と優れた技術を押さえる事は、古代に於いても現代に於いても、戦略上極めて重要な事です。
 丹後の鬼と官軍との戦いは、丹後の地方勢力と大和朝廷の、鉱物資源争奪戦だったのです。
聖徳太子は秦河勝を使って次々に地方豪族を滅ぼしていきましたが、丹後の攻略も聖徳太子の意志であったのではないでしょうか?最も、聖徳太子も母親が海人系の間人皇后ですから、海人族の血を引いているのですが・・


◎他の地方にも「麻呂古親王伝説」があるかもしれない。
 どなたかご存知の方、ご教示ください。

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by jumgon | 2011-05-20 19:04 | ★言語、歴史

弥生のコウノトリ

2011,5月19日の朝日新聞に
池島・福万寺遺跡で15年前に見つかった鳥類の足跡が弥生時代前期(2400~2500年前)のコウノトリのものと確認された
国内最古とされてきた前橋市の水田跡(6世紀)で見つかったものより、約900年さかのぼる、という記事が出ていた。
参考のためサンケイニュースの記事もみてみた。

2011年5月19日・サンケイ


池島・福万寺遺跡の位置
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2400年前のコウノトリが舞う池島・福万寺遺跡のイメージ図(奈良文化財研究所提供)
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銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、
今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。


下写真(18日午後、奈良市、諫山卓弥撮影)
(左)現代のコウノトリの足型
(中央)池島・福万寺遺跡から見つかったコウノトリの足型
(右)現代のアオサギの足型
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◎確かに右端のアオサギの足跡は指の開きが小さい。

同研究所によると、コウノトリの骨は縄文時代の遺跡で出土例があるが、足跡としては最古という(時事通信)

池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。
1996年(大阪府文化財センター提供)
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 今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。

 同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。
 この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。 

神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。
 
大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。
松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。

 一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。

青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。span>

◎なるほど同じ鳥の足跡からも色々違う意見があるということが分かった。

池島・福万寺遺跡で出土したコウノトリと人の足跡
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足跡の石膏(せっこう)型は、21日から府立弥生文化博物館(和泉市)で公開される。
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by jumgon | 2011-05-19 10:59 | ★新聞きりぬき
5月13日の朝日新聞の夕刊で気になる記事を見つけた。

【ナカニシ先生の万葉こども塾】

言問(ことと)はぬ 木すら紫陽花(あじさい)
諸弟(もろと)らが 練(ねり)の腎臓(むらと)に あざむかえけり
巻四の七七三番、大伴家持(おおとものやかもち)の歌

ことばを口にしない木だってアジサイは花の色を変える。ことば巧(たく)みなモロト奴(め)の占いにだまされてしまった
◎そういう意味ですか?想像もつきませんでした。  
 
● 作者は、諸弟という男に恋占いをしてもらったところ、成功するといわれたのに失敗したと、怒っています。 アジサイだって花の色をかえて人をだますのですから、口上手な諸弟には、かないません。では諸弟はどんな占いをしたのでしょう。
 「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にあります。当時肝臓占い(羊の肝臓で神様の祟(たた)りを占うこと)が広く行われていますから、その一つでしょう。
 そうなると、モロトという日本離れした人名は、中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません。
イスラム教の祈りのことばでもあります。ムラードとはミスター祈り。彼はペルシャからやって来た肝臓占師だったでしょうか。
 時の朝廷にいた李密翳(りみつえい)はペルシャ人らしい。
シルクロードがペルシャ文明を運んでいました。家持も、ペルシャかぶれで、失敗したのかもしれません。
(奈良県立万葉文化館長・中西進)

◇この記事の中で疑問に思ったこと

疑問 ①「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にありますという記述。
疑い深い私は先生の記事まで疑うという身の程知らず。
調べてみると、なるほどちゃんと出ている。

むらと 【▼腎】
腎臓(じんぞう)の古名。[和名抄]
[ 大辞林 提供: 三省堂 ]

疑問 ②「諸弟、もろと」は中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません、という記述
 じゃあ、「橘諸兄、たちばなもろえ」も中近東人?なんて思っちゃった。
 でも、これは「もろと」という音からムラードに結びつくので、漢字の「兄」「弟」の意味とは関係ないと自分に言い聞かせました。

疑問 ③李密翳【り・みつえい】
◎こんな人が時の朝廷にいたなんて、もうビックリ!本当かしら?
ついでに李密翳【について検索したら、こんなのが見つかりました。

李密翳【り・みつえい】
•朝日日本歴史人物事典の解説
•生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月,遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師,楽人,幻術師,商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが,正倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して,官営工房などに属し,技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)

◎なるほど「諸弟」なる人物がはるばる日本へ来ていたのか~。
異国の地へやってきてどう感じたのだろうか?
家持とは何語で話したのかしら?
十分に意思疎通できなかったから、自分の都合の良いように占いを解釈したのだろうか?
漢字で筆談?
ずっと日本に住んだのだろうか?
いつ頃まで滞在したのだろうか?


もっと何か情報はないかと検索したら、面白いサイトに出会いました。

橿原日記
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_02.htm
この方の記事はよく調べられていて信頼性が高く、よくお世話になっています。
(以下、上記の「橿原日記」より引用・省略改変あり)

昭和57年(1982)5月8日付けの東京朝日新聞の夕刊記事

以下記事のタイトルは、”イラン系医者は6世紀に来ていた”となっている。
読んでみると、当時は弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏の共同研究によって、イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明したというものである。通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。
松木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を研究するため『日本書紀』をひもといて、見慣れない二人の人名に気づかれた。
欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。

欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、軍事支援の見返りとして「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」と要求した。
要求に応えて百済から派遣されてきた交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。
松木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という人名であることが判明した。
潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、イラン系の医師であると判断したという。
その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。

◎医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」とあるから、何年か日本に滞在したのでしょうね。

松木助教授は、昭和57年(1982)6月5日と6日の両日、京都市の京都医師会館で開催された日本医史学会でこの共同研究を発表されたようだが、どのような評価を受けたかは聞いていない。
◎この研究は学会で今認められているのでしょうか?
ペルシャ人の渡来に関しては、上に述べたように天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人とされている。その後、鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)もペルシャ人だったとされている。

だが、松本清張氏によれば、それ以前にペルシャ人の渡来を記した記述が存在する。例えば、斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、朝廷が召したという記録や、斉明天皇5年(659)に吐火羅(とから)人が妻の舎衛婦人とともに来たとする記録が『日本書紀』にある。

◎覩貨邏(とから)国については諸説あるようです。

ゾロアスター教の寺院は拝火の殿堂であり、そこで光の象徴としての純粋な聖火が焚かれ、祭官がこれを護持している。そのため拝火教とも呼ばれている。西暦226年にパルティアを滅ぼして西アジアを統一したササン朝ペルシア(222~651年)は、ゾロアスター教を国教と定めた。
そのため、ゾロアスター教はイラン人の宗教として、7世紀以降のイスラムの侵入までイランの人々の信仰のよりどころとなっていた。だが、イスラムがイラン国内に入り、各地で大発展を遂げると次第にゾロアスター教は少数派となり消滅していった。
古代イランのゾロアスター教は、後漢末から三国時代にかけて中国に伝えられ、5世紀頃には東西に分裂していた華北の北周や北斉で広まっていたという。
唐代には「けん教」と呼ばれ、都の長安や洛陽、敦煌や涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。
景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
◎「国際都市・唐」のイメージが少し想像できるようになりました。
中国にゾロアスター教を伝えたのは、中央アジアのソグド地方に居住していたイラン・アーリア族の住人である。ソグド地方は古代の東西交易路の三叉路にあたり、この地域の住民は商売がうまくその商業的活動は他の民族の追随を許さなかった。ソグド人は中国で「胡賈(こか、外国商人)」と呼ばれた。「胡」は中央アジア以西のイラン族を指す。
『後漢書』によれば、後漢の霊帝(168-188)は「胡服、胡帳、胡牀、胡座、胡飯、胡クゴ、胡笛、胡舞を好んだので、都の貴族たちは皆これにならった」と伝えている。

◎後漢の桓帝・霊帝の頃(紀元147~189年)といえば「倭は大いに乱れ、国どうしの勢力争いが続き、統一者が出なかった。卑弥呼共立(魏志倭人伝)」

胡の習俗は、後漢以来、中国では一種の先進文化として受け取られていた。ハイカラ趣味のように3世紀以来中国の貴族にもてはやされたのである。
ソグド人の商人はゾロアスター教徒だった。中国に商売のため逗留したり、居住したりする内に、その信奉する宗教が貴族の間で西域趣味としてもてはやされたこともあったろう。


これに関連したうららさんのブログを思いだしました。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/c/df0eb88e365eff56a0bc9c32919440dd/3
うららさんのブログで
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木について言及されたものがあります。

ユーラシアの東の端・日本の法隆寺の香木。
その香木に不思議な不思議な文字がありました。
不思議な文字は、研究の結果、ソグド人のものであることがわかりました。

香木いずれも長さ約60cmで20cmほどにわたる刻銘があり、その端近くに焼印。
刻銘、焼印ともに漢字以外の文字であり、長い間その意味は謎とされてきました。

現在では、刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字で、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名か香木のメーカー名。
焼印の文字はソグド文字の「ニームnym」と「スィールsyr」で、「2分の1シール(重さおよび貨幣の単位)」のことだった。
またその焼印には大きな十字架のマークがあるらしい。
ちなみにパフラビー文字とソグド文字の焼印はともにヘブル語から変化したアラム語です。

輸送の際、木材に荷主を判別するため押印をすることは古今東西広く行われていて、法隆寺の白檀二点の焼印・刻印がソグド語とパフラヴィー語であったことは、その流通・輸送にイラン(ペルシャ)系商人が深く介在したことを示しています。

白檀の原産地である東南アジアから積み出され、中国の広州や揚州などの市場を経て、最終的に法隆寺に納められたと考えられます。


東京国立博物館「法隆寺宝物館」の白檀について、言及されているブログが他にもありました。

http://blogs.yahoo.co.jp/cosmorama7272/53843534.html
(一部省略)
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木の実物は撮影禁止で、週刊朝日別冊に掲載された写真しかアップできません。

 10数年前、塔頭の屋根裏から香木が発見されたという記事には驚きました。 
白檀、栴檀、沈水香の3点の香木でしたが、これらのうち2つにはパフラビー文字(中世ペルシャ語)とソグド語の文字が刻印されているということでした。

 新聞や雑誌にはサイズが書いて無く、ただ写真だけでした。
 その形状から、ゾロアスター教徒が家庭で使用している香木と思いました。せいぜい直径1センチ、長さ10~12センチくらいのものと思いこんでいました。

 ところが実物は直径9センチと11センチで長さは80センチと90センチもあった。
 これは今でもゾロアスター寺院の一番大きなカップで使用している拝火のために使用している木のサイズだ。

 直径1センチ、長さ10センチ程度の香木はインドのゾロアスター教徒専用の仏具店で購入しているが、百段の場合、値段は日本円で200~300円もする。直径10センチ、長さ90センチなら数万、いや数十万はするだろう。

 通常、ゾロアスター寺院では、香木ではなく松か樫の木で火種を絶やさないようにしている。
 香木を使用するのは、よほどの祭事のときだけだ。

 沈水香は複雑な形の根っこだったが、ほかの2本は木の幹だった。
 栴檀のほうも白檀材となっていたから、2本とも白檀の木であろう。

 この香木に刻印されている文字を大阪大の東野教授は、「ボーイトーフ」と読みメーカーの名前か人名と断された。他方、大阪外大の井本教授は、「サオシュヤント」の方言形と言われた。 
◎学者によって解釈が異なるようです。
サオシュヤントは、ゾロアスター教でいう救世主である。仏教なら弥勒ということになろう。
 法隆寺夢殿に安置されている救世観音像と対応する。


以上の記述を事実だとすると
ペルシア人の渡来は

①欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。
②斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着した。
③天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)
④諸弟(大伴家持・718~785)の間のある期間、在日。
⑤天平勝宝6年(754)鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)
となります。

他にもいるかもしれないけど、それほど多くはないので日本文化に大きな影響を与えなかったような気はします。
大伴家持の歌にうたわれているので、それなりの交流があったように想像できます。

◎日本にやって来たらしいペルシア人?について調べているうち、だんだん古代の人間の交流について未知の世界へ運ばれてきました。
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by jumgon | 2011-05-16 17:39 | ★言語、歴史
當麻の里って、どこだろう?

http://homepage2.nifty.com/m-kasama/taima/taimadera.htm
より、地図をお借りしました。

近鉄南大阪線当麻寺駅辺りの地図
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当麻寺境内図
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国宝で日本最古の「梵鐘」 
屋台のテントのすぐ後ろにあるのが「梵鐘」
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「當麻寺の仁王門(東大門)」を入って、直ぐ目の前に建つのが「鐘楼」です。中に吊り下げられている国宝の「梵鐘」は、白鳳時代に鋳造され、青銅で高さ152.9cm、上帯に鋸歯文、下帯に忍冬唐草文を陽刻する。
現存最古の「梵鐘」です。

本堂(曼荼羅堂)・国宝
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本堂の背面の閼伽棚
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本堂の背面には「閼伽棚(あかだな)」がありますが付属的な建物には見えず閼伽井屋と勘違いするほど豪華な建物です。
閼伽とは仏菩薩に供える聖水、香水(こうずい)を意味しますが閼伽水とも言います。
閼伽棚は霊水や花、供養具を置く棚のことです。

このデザイン面白いですね!
木瓦葺と蟇股
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蟇股 
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双塔 国宝天平時代
當麻寺のシンボルとしてそびえる双塔は、創建時のまま揃う全国唯一のものです。
 特に注目されるのが水煙(すいえん・塔のてっぺんの部分)で、東塔は極めて特異な魚骨形。西塔は蔓唐草(つるからくさ)に未敷蓮華(みぶれんげ)を配した古式で華麗なものです。 「相輪」は通常九輪であるのに、両塔とも、八輪という珍しいものです

◆奥の院から見える双塔
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 ◆東塔
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東塔の水煙・(魚骨形)
◎わぁ、こんなの初めて見た!
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◆西塔
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西塔の水煙・(西塔は蔓唐草(つるからくさ)に未敷蓮華(みぶれんげ)を配した古式で華麗なもの)
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◆石 灯 籠( 重要文化財・現存)
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「金堂」の前方中央に建っている凝灰岩八角形の「石燈籠」は、国重文で、我が国最古の石燈籠。
白鳳時代(飛鳥時代と奈良の天平時代との間に挟まれ、645年の大化元年から710年平城遷都までの時代、美術史上の1つの時代)に松香石で造られました。最古の遺構で貴重なものです。

◆金堂
金堂は鎌倉時代の再建ですが燈籠は当初の金堂と同じ天平時代に建てられたものでしょう。
 
當麻曼荼羅
中将姫が蓮糸を用いて、一夜の内に織った物語で知られているこの図像の原本は、大きさ3.95メートル角という大画幅であるが、極めて損傷がひどく修補が重ねられているため、絵画と見誤られていた時期もあったが、数十年前から研究の結果、綴織の錦であることが判明した。この織物の図像は、すでに早くからひどくいたんでいたようで、3回の転写本が作られた。第一回の建保曼荼羅と言われるもので現存しない。
第二回目が文亀、第三回の転写は貞享の写本である。原本はその後板張りにしてあったが、延宝八年(1680)にそれを剥して、幅装に改めた。剥きとったあと板壁に残った残片が付着したものを裏板曼荼羅という。現在厨子の裏側にみているのがそれである。

◆国宝・當麻曼荼羅図(根本曼荼羅)
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◎さすがに傷みがひどいですね。
◆當麻曼荼羅図   中之坊蔵
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by jumgon | 2011-05-14 15:48 | ○当麻寺(奈良県)
当麻寺は関西では長谷寺と共に「ボタンの寺」で有名だ。

又、「中将姫」でも有名だが、中将姫って、どんな人なのかも知らない。当麻寺がいつ、どのような経緯で創建されたかも、わたしは知らない。
境内の中将姫の像
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まず http://taimadera.org/
より勉強しよう。

●當麻寺のそもそも 
612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。その後、親王の夢に従って、681年、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(当麻寺・たいまでら)です。
 金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。

中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。その他、平安期には四十余房、江戸期にも三十一房の僧坊があったということです。

◎「役の行者」ってほんとうに行動半径が広い。あちこちに登場します。

●中将姫さまのおはなし
 
天平時代、藤原家の娘中将姫(ちゅうじょうひめ)は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、あえて恨むことなく、万民の安らぎを願い「写経」や「読経」を続けました。

◎当時は通い婚でそこで生まれた娘が、本妻?のいる藤原家へ引き取られて、いじめられたのかも~
それとも母の家にいる時に命を狙われたのかな?


そして1000巻の写経を成し遂げた16才のある日、二上山に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見た姫は、現世の浄土を求めて都を離れ、観音さまに手を引かれるように當麻寺を訪れます。
当時の住職・實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧となり、法如(ほうにょ)という名を授かります。
その後、あの日に見た阿弥陀さまのおられる極楽浄土の光景を、五色の蓮の糸によって織り表しました。これが国宝・當麻曼荼羅(たいままんだら)です。その輝きに心を救われた法如は、人々に現世浄土の教え(この世で浄土を観じる教え)を説き続け、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。

●弘法大師さまのおはなし
 
弘法大師・空海さまは平安時代、唐より「密厳浄土(みつごんじょうど)」の教え、つまり、現世に浄土を実現する教えを授かり、我が国で真言宗を開きました。
弘仁14年(824)秋、お大師さまは當麻寺に参籠し、當麻曼荼羅にその密厳浄土の教えが表されていることを看破します。そして中之坊實弁法印(じつべんほういん)に教えを授けたことから、當麻寺が真言宗を奉じるようになりました。
 その後に単純な浄土信仰が広められたことによって、この當麻曼荼羅は来世の浄土を描いた風景画としてしか捉えられなくなりましたが、もっと深い教えを表したものであることは既にお大師さまが指摘されています。
_____________________________________
●二宗兼宗のおはなし 
當麻寺は当初、奈良仏教の源流である三論宗を奉じていました。
これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでしたが、弘仁期に弘法大師さまに教えを授かり、真言宗に改宗しました。
「空」の境地を通して得た智慧を生かし、現世に浄土の実現を目指す教えで、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。
 しかし時代が下り南北朝時代になると、曼荼羅信仰の機運に乗じて、京都知恩院が當麻寺の境内に往生院(現・奥院)を創建し、200余名の僧らと共に、浄土宗の教えを持ち込みました。そして當麻曼荼羅を布教材料として専修念仏の教えを広めていきました。  
奥の院の門
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やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになりました。現在でも、「二宗兼宗」として、伽藍の諸堂のうち曼荼羅堂だけは真言・浄土の二宗によって勤行が執り行われる極めて珍しい形をとっています。
 曼荼羅堂以外のお堂(金堂・講堂など)での法会は真言宗のみで行われています。

◎そうか、私が今回訪れた「奥の院」は浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立されたものだったのか、、、。

また当麻の土地で有名なのは、日本書紀に出てくる「當麻蹴速」です。どんな話か書いておきます。

藤井寺市のHPより
 『日本書紀』の垂仁天皇7年の条に次のような記事があります。天皇の側近が「當麻(たいま)の村に當麻蹶速(くえはや)という勇者がいます。彼は常々自分に並ぶ強者と生死をかけた力比べをしてみたいもんだとまわりの者に言っています」と告げました。天皇が「蹶速に並ぶ者はいないのか」と問うと、一人の臣が「出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇者がいると聞いています。彼と対戦させてみてはいかがでしょう」と提案しました。
早速、野見宿禰が招集され、當麻蹶速との対戦が実現しました。二人は向かいあって立ち、双方足を上げて攻撃しあいました。野見宿禰は當麻蹶速の肋骨を蹴り折り、ついに腰を踏み曲げて殺してしまいました。野見宿禰は當麻蹶速の領地を賜り、その地にとどまり仕えることになりました。 
これが相撲の起源とされています。
*ふたりが対戦した場所は、奈良県桜井市穴師に建つ穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の参道脇にある広場(カタヤケシ、現在、土俵と小さな石の祠の相撲神社が在る)です。
互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという。

 この記事では二つの点に注目しておきたいと思います。
一つは野見宿禰が強力無双の名声を得たこと、もう一つは當麻蹶速の領地をさずかり、天皇に仕えることになったことです。
後者について少し詳しくみていきたいと思います。蹶速の領地當麻は、今の当麻町のあたりだったと考えられています。
領地内には石棺(せっかん)材になる二上山凝灰岩(ぎょうかいがん)の産地が含まれていることに注意する必要があるでしょう。それはのちに天皇の葬儀を仕切ることになる土師氏の祖先、野見宿禰が石棺材の産地を確保したことは見逃せないからです。また、野見宿禰の「のみ」は石工の使う「鑿」に通じることもあながち付会ではないかもしれません。 
ただ、出雲出身の野見宿禰が天皇に仕えることになったとする点は問題をはらんでいます。これは宿禰個人のことだけではなく、出雲国の大和政権への服属を表現していると読み取られるからです。
京都府立大学名誉教授の門脇禎二さんによれば、出雲の大和への服属時期は、6世紀末をさかのぼることはないといいます。6世紀末といえば、古墳時代も終わり、聖徳太子が活躍したころです。
 古墳造りの専門技術者集団として活躍する土師氏の祖先が、出雲出身者だとする点は歴史的な事実とは食い違いがみられるのです。

◎ウーム、さすが市の文化財課の記事だけある。ただ日本書紀の記事を提示するだけでなく問題提起がある。
結局どういうことなのか、また学者の先生方が研究してくださることでしょう。


●大和のあちこちにある「水吐龍」
當麻駅から当麻寺への道で、玄関の軒下に旧式の手押し式の消防ポンプ「水吐龍」が吊り下げられています。前回の「当麻寺 ①」で書きわすれていました。(書き加えておきます。)
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 また、この辺りの旧家の軒下には、注連縄が張られていると、書きましたが、これは悪病がみだりに家内に入らない様にするための呪だそうです。
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by jumgon | 2011-05-12 10:54 | ○当麻寺(奈良県)