古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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   遣唐使物語
736年(天平8年)に帰日した遣唐使船と共にやって来た外国人

今回は 
天平5年(733年)出発の第10回遣唐使について書きたいと思う。

天平5年(733年)出発
天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

天平5年(733年)に日本を出発、
天平5(733)年8月、遣唐使船、4船とも相次いで蘇州の岸に漂着、ついで東都洛陽にはいる。
◎漂着しただけで難破したわけではないので献納物は無事だったのでしょね?

天平6(734)年4月、多治比広成、洛陽に入る。
日本国使、絁400疋を唐の政府に献上。
(この年、阿倍仲麻呂36歳、吉備真備、ほかに僧玄昉が留学生として唐にあった。)
日本への帰路
天平6年10月(734/11月)
帰路、4つの船で同時に蘇州を出発したが、悪風が突然に起こり、4隻の船はお互いに見失った
◇第1船
大使広成、玄昉、吉備真備
天平6年11月20日(734/12/23)、多治比広成ら(第1船)が多祢島(種子島)に到着。
天平7年3月10日(735/04/11)、多治比広成らが、唐国から帰朝し、節刀を返上した。
天平7年3月25日(735/04/26)、遣唐使一行が天皇に拝謁する。

◇第2船
中臣名代(第2船)は、インドシナに漂着し(734年)、翌年洛陽に戻る。天平7年閏11月洛陽を発ち、帰国
天平8年8月23日(736/10/06)、遣唐使・副使中臣名代らが唐人3人、ペルシャ人1人を率いて帰国の挨拶のため天皇を拝謁した。
副使中臣名代、道璿、理鏡(日本人入唐留学生) 、婆羅門僧菩提僊那(39歳)、安南僧仏哲、皇甫東朝(こうほとうちょう)、袁普卿(えんしんきょう18歳)、ペルシャ人李密翳、景雲(日本人入唐留学生)


◇第3船
第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
平郡広成の乗った船115人は崑崙国(ベトナム。マレー、スマトラとも)に漂着した。賊兵に包囲され、捕虜となる。
殺されたり、逃亡したり、残ったものも90人余りが病気(マラリアか)にかかり死亡した。
広成ら4名だけが生き残り、崑崙王に謁見し、わずかな食料を与えられ、よくない場所にかこわれた。
中略
渤海が使いを派遣しようとしているのに出会ったのですぐその使節に同行して出発した。 渤海船は1隻が波にのまれて転覆し、大使・胥要徳(しょようとく)ら40人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽に到着した(天平11年7月13日)。
天平11年(739年)10月27日に帰国。

◇第4船難破して帰らず

以上が帰路についた4船の顛末である。
 
今回は第2船でやって来た、外国人について書く事にする。

第二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。
唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。
これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。
東大寺のHPより
天平8年8月、菩提僊那(ぼだいせんな 33歳)、仏哲、道璿(どうせん 35歳)ら難波津に着く、行基(69歳)らが迎える


さてこれら外国人たちはどこに住んでいたのだろう?

杉山 二郎 「天平のペルシア人」によると
「おそらく、大安寺、史書には記されていない商人や遊芸の徒たちもやってきたと思われる。それらの人たちは東市、西市辺りか大安寺ではないか、、、、もとより証拠はない。」

と記されている。
この時代はわたしの認識不足かも知れないが、想像以上に国際的な華やかな雰囲気をもっていたようだ。

正倉院に残る楽器や伎楽面、衣装,幟などから、東大寺の大仏開眼供養がその煌きの頂点だと想像できる。

さて前回訪問した「大安寺」に住んだ僧達

□菩提僊那(704~760)
菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊に会うためという説もある)。
唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、チャンパ国出身の僧仏哲・唐の僧道璿とともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。

◎インド呪術って密教的なものかしら?

751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。

□仏哲(ぶってつ)
仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。林邑国フエの出身。
インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。
唐開元年間(713年 - 741年)菩提僊那とともに唐に入り、当時日本から唐に入っていた僧理鏡らの招きにより、736年(天平8年)師の菩提僊那・唐の僧道璿とともに来日した。
大宰府を経て京に入り、奈良大安寺に住した。

「菩薩」・「抜頭」などといった舞や林邑楽(雅楽の楽種の一つ)を伝え、また多くの密教経典も請来したという。
大安寺では林邑楽などを楽人に教え、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養会の際も舞を伝授した。
◎大安寺で林邑楽を楽人に教えたのですって!!
 大安寺は国立音楽学校でもあったのですね

□道璿(どうせん、702年~ 760年)
中国唐代の僧。
入唐した僧栄叡(えいよう)・普照(ふしょう)の要請により、鑑真に先だち戒律を将来するために日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊(33才)・ベトナム出身の僧仏哲とともに来日する。

□袁晋卿
•?-?奈良時代の官吏。
天平(てんぴょう)8年(736)帰国の遣唐使にともなわれ、18-19歳で唐から来日。
音博士、大学頭、玄蕃頭などを歴任。
宝亀(ほうき)9年(778)清村(浄村)宿禰(すくね)の氏姓をあたえられた。

●真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。
◎この人は何処に住んでいたか史書に記録はない。

□皇甫東朝(こうほとうちょう)
皇甫東朝は、唐王朝の楽士としてその名が聞こえた存在だったのだろう。
その彼に海東の日本に行くことを誘ったのは、おそらく下道真備(後の吉備真備)だったと思われる。
真備は帰国するに当たって楽書として『楽書要録』十巻を将来したことが知られている。

当時の我が国には、大宝律令によって治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれていた。これは、技楽・唐楽・和楽の制度化した寮であり、中国に倣って師と生徒の数を決めて楽人を養成していた。

●下道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。

芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。

天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺の大仏開眼の法要が盛大に行われ、国風歌舞の五節舞、久米舞などと共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽などが盛大に演奏された。
楽人として来日した東朝たちもその式典に参加しただろうと推測される。

皇甫東朝の名が『続日本紀』に帰国記事以来、記されるのは天平神護2年(766)になってからである。
この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。
この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐楽を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。

皇甫東朝は称徳天皇に重用されたと思われ、翌年の神護景雲元年(767)3月20日の人事異動では、雅楽(うた)員外助に任じられ、合わせて花苑司正(かえんしのかみ、花卉や園地の業務を担当する長官)を兼任することになった。

また、上記のように西大寺は、天平宝字8年(764)9月に勃発した恵美押勝の乱の平定を祈願して、孝謙上皇が金銅四天王像の造立を発願したのが始まりとされる寺だが、この地にも皇甫東朝が足跡を残している。

花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。
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◎中国の絵画では「ぼたん」などがよく描かれている。美しいガーデンをつくったのかしら
□皇甫昇女(こうほしょうじょ)
東朝の娘とする説があるが、どうであろうか。東朝と一緒に皇甫昇女も従五位下に叙された点を考慮すると、年齢的に二人は夫婦であった可能性が強い。

□李密翳(りみつえい)
生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月、遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師、楽人、幻術師、商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが、倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して、官工房などに属し、技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)


□李元環(りげんかん)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-?奈良時代の官吏。
唐(とう)(中国)の人。清宗氏の祖。渡来は天平(てんぴょう)6年か。天平宝字7年(763)織部正(おりべのかみ)、8年出雲員外介(いずものいんがいのすけ)となる。正五位下。

□善意(ぜんい)
史書には記録はない。
三重県伊勢津市西来寺(せいらいじ)に国宝の大般若経がある。
大般若経(国宝)唐僧善意記天平年間ノ物 と書いてある。
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天平19年、唐僧 善意ノ跋アリ、と津市の国指定文化財の説明にかいてある。
このお経は「天平年間のものです」と奥書に書いてあったということか。
このお経は唐から来たものか、日本で書写されたものか~どこを経巡って三重県の西来寺にやってきたのだろうか?
西来寺で絵はがきになってたこともあるらしい。
(行ったことがないので今もあるか分かりません) 




 
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by jumgon | 2011-06-30 20:38 | ★言語、歴史

大安寺(平城京)訪問記

東大寺大仏の開眼供養で勅命により大導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)が大安寺に住んでいたと、いう記事を読んだことがあり、大安寺というお寺のことを知りたくなった。今まで訪れたことはない。

大安寺は平城京にある寺院である。
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無料駐車場がある。

駐車場のすぐ傍に「推古天皇社」なるものがあった。
なぜこんな処に?
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『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿が描かれています。
 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです
 現在の社殿は明治9年の再建
 祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(推古天皇)

 
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あじさいの花が咲いていました。
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◎そうか、創建当時にも推古天皇を祀る社があったのでここに有志の人たちが推古天皇社を復興したのだ。

さて、現在の大安寺へ~
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大きな門です!
復元されていました!!
中を覗きます。
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境内は広そうです。

●中門跡の石碑・奥に見えるのはドイツからの記念樹の楠
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大安寺前貫主・河野清晃師は荒れ果てた大安寺の復興に尽力しますが、大戦で応召。帰山後も苦労を重ねます。
そういった中、若い人たちを国際的に目覚めさせようと、奈良日独文化友の会を創って、活動を始めました。昭和三十八年(1963年)には会を「奈良日独協会」と改称し大安寺を本部としました。
きっかけとなったのは清晃師が高野山大学時代に発表した論文「高野山根本大塔の研究」をベルリン大学教授で京都日独文化研究所主事であったF・M・トラウツ博士がドイツ語に翻訳、広く世界に紹介したことにありました。

記念樹の下にあるプレート
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後でネットで読んだのですが大安寺は秀吉時代の地震で堂塔全て壊滅したそうです。
今見る南門も何もなく、訪れても「ここにあったのか」と確認するだけでその痕跡を想像することもできません。
それをここまで復興するのは大変なことだったと思います。
大安寺の歴史については、改めて書く予定です。
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大きな楠、横に竹、ビワの実が成ってるのが見えます。

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12輪?搭・いつからあるか分からない。
特に説明はない。
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塔の台座です。

●いよいよ本堂です。明治時代に復元されたそうです。

正面じゃなくて横から撮っています。
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屋根のてっぺんにあるのは何と呼ぶのかな?
本堂の中を覗かせてもらいました
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◎この照明ペンダントのデザイン素敵ですね
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暑いので蔀戸を半分上げています。
○蔀戸(しとみど)
上下2枚に分かれ、下1枚を柱間(はしらま)に建て込み、上1枚だけを跳ねあげる半蔀(はじとみ)と上下に分かれず開口部いっぱいの大きさになる一枚蔀戸もあります。

●大安寺歴代住侶供養の五輪塔と石碑
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供養碑
当山は聖徳太子の熊凝精舎に発するわが国最初の官大寺である。
奈良朝の盛時には887名もの内外学侶が止宿居住し あたかも迎賓館兼仏教総合大学の観を呈した
わが国の文化はこれら学侶の学恩によること多大である
茲に供養の五輪塔一基を建立しその鴻恩に報い奉らんとするものである
                                    現住 良文

◎大安寺に住した主な僧侶については別に記事を書く予定です。
名前のわからない大きな木がありました。
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古くなると幹に縦の筋目が入る木・どこかで読んだおぼえがあるのですが、名前を思い出せません。葉は少し細長い。
◎クヌギかあべまき、のようだ。
クヌギとあべまきの区別はむつかしい。おまけにどんぐりまで似ている。

さて南門の横に大安寺旧境内の説明板がありました。

平城京の左京六条、七条の四坊に十五町(約8万坪)もの寺地を有していました。
伽藍中心部には金堂を中心に講堂や僧坊がならび、搭院には東西に二基の七重の塔がそびえていました。
塔が伽藍中心部の南に「搭院」として独立し、回廊壁画にまで仏画が描かれるなど、それまでの寺院にはない特徴がみられます。
現在も残る東西両搭跡の土壇が往時の壮大な伽藍を彷彿させます。

大安寺の南門をでる。大安寺の敷地はいまとは違ってもっと広かったと書いてあった。
ちょっと周りを歩いてみよう。
推古天皇社を右手に見ながら歩いていくと、御霊神社という鳥居がある。
境内地図に書いてある「竜王社」のようだ。
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御霊神社由緒記(神社看板)より
本神社は元石清水八幡宮と称す。(八幡神社)
大同2年8月17日、大安寺の僧、行教和尚が大安寺の鎮守社として筑紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の宣託により獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る。
而して遥に男山八幡岩清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神として、高オカミ、善女竜王命ニ柱の紙を祀られた。~

H12年12月吉日   大安寺町評議委員会

やっぱり水の神様だ。

さてもっと歩いていくと、
畑があったり民家が建ってたりする。
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あっ、何か遺跡っぽいものが、、、
道の左側は小学校。
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奥の突き当り,、、、、近づいてみると
「経楼跡」と書いてある。
そうか、勿論ここも境内だったのだ。
唐から持ち帰った多くの経典があったはずだ。

もうこの辺で引き返そう。
学校や民家が建っていては発掘調査もできないだろうし~

大安寺のこと何も知らなかった私は、奈良時代の壮大な寺院を発見しただけでもワクワクしています。
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by jumgon | 2011-06-29 21:24 | ○大安寺(奈良)
白鳥神社(しらとりじんじゃ)
(大阪府羽曳野市古市1-1 )

ネットで検索して、びっくりした!
なんと白鳥神社は全国にどっさりあるのだ!
東北から九州まで~。
ヤマトタケルは全国を平定して回ったと、記紀に記されているからあちこちにヤマトタケルを祀る神社があってもおかしくないかも、、、、。

さてともかく白鳥神社を訪ねてみよう。

古市駅から2,3分もいくと商店街の左手に鳥居がある。(行きしなには気付かなかった。)
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西琳寺を探すためにその道を通り過ぎ次の角で左に曲がる。
道の左手奥に鳥居が見える。
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一の鳥居です。
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入っていくと右手は小学校になっていて、学校の前にしめ縄をまいた木があった。
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(御神木につき周囲をきれいにしましょう)と書いてある。昔はここも境内だったのかしら?
二の鳥居から階段をあがると本殿です。
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本殿の前には大きな灯籠が一対ありますね。
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上の灯籠の裏側に
〈文政5年壬年8月〉
(石工 山田村 武兵衛)
と刻印がある。
文政5年(1822)に村の人たちが寄進したのかしら?
本殿左手にある灯籠には(油働中)の刻印
油関係の商人の組合・講?が寄進?
境内をお掃除していたおじさまに聞いたけど「油働中の意味はわからないけど寄進者の名前です」とのこと。

本殿のなかを覗かせてもらいました。
鏡があります。「伊岐宮」の額も、、、
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それと壁には奉納額絵がありました。
●奉納額絵
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菊水法憲会
「楠勢 渡邉橋畔に敵の病兵を救う」とある。

楠正成と白鳥神社は何の関係があるのかしら?

菊水法憲会って河内の英雄、楠正成を顕彰する会?
この額絵、何時からあるのかしら?
かなり新しそうです。

境内左には白長大明神(はくちょうだいみょうじん)と書かれた稲荷っぽい鳥居
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昭和50年3月の寄進者名碑がありました。

村社として生きている神社なのですね。
本殿の屋根の飾り?が不思議な感じがしたので写真をパチリ。意味があるのかないのか~
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さて、神社にある説明版を読んでみましょう。

歴史街道 白鳥神社
白鳥神社の社伝によると
寛永年間(1624~43)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷にあった「伊岐宮」を古市村の産土神として現在の地に移築したとあります。
伊岐宮には日本武尊が祀られていましたが南北朝や戦国時代の兵火によって焼失し、峯ケ塚古墳にある小さな祠として存在していました。
しかし、慶長の大地震(1596)で倒壊するとそのまま放置されたといわれていました。
享和元年(1801)の河内名所図絵には「伊岐宮、誉田の南、5町、古市村にあり、日本武尊の霊を祀って、白鳥神社と称す。

さて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。
南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。
天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。
明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている

この二つの解説をあわせると

次のようにわたしは解釈しました。
何時から軽里の西方の伊岐谷に「伊岐宮」があったかはわからない。それが白鳥陵とよばれていたかどうかもわからない。(いつから白鳥陵と呼ばれていたのだろうか?)
あれっ、現在地に移されたのが、「寛永年間(1624~43)末期」と「天明4年(1784年)」の二つになってますね。
享和元年(1801)の河内名所図絵には載っている。
ということだろうか?


いくつかのサイトにこんな記事がある。
その出典は書いていないが、伝承があるものと解釈している。
現在白鳥神社のあるところは、欽明天皇の賓陵(仮の墓)と伝えられている前方後円墳の後円部にあたるといわれていますが、前方部は近鉄古市駅や国道の造設のため、削られてなくなっているのだそうです。

古代の当地は河内文氏(王仁の子孫)の本拠であり、また百済系の古市村主の居住地であった。

祭神 日本武尊、素盞嗚命、稻田姫命 
     合 饒速日命、廣國押武金日命(欽明天皇)
明治四十一年高屋神社「饒速日命」を合祀、昭和二十九年高屋神社は再度独立したが、合祀した饒速日命、廣國押武金日命を合祭神としている。
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by jumgon | 2011-06-26 11:15 | ★言語、歴史

白鳥伝説と白鳥陵

白鳥伝説と白鳥陵

先日、羽曳野市古市にある西琳寺を訪れたが古市駅の東側すぐそばに白鳥神社がある。
駅を西へ進むと白鳥古墳もある。

いわゆる白鳥伝説と関係のあるところらしい。

先ず白鳥伝説について確認しよう。

白 鳥 伝 説 
 
日本武尊(ヤマトタケル)は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
 その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えています。
幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。

 体を横たえ、日本武尊は大和への思いを、
 『大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる大和し美し』
 と詠んでいます。

  能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、
琴弾原(御所市)
を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

 亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれ、日本武尊・白鳥伝説は今も息づいています。
(この三市で交流イベントなどやってるようだ。 羽曳野市では市民祭りで「タケル君音頭」によるダンスコンテストもある。)

 ◎ふーむ、白鳥が飛んでいった先にまでお墓を造るの?
   魂が降り立った場所だということで~。
  

 
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)
三重県亀山市にある前方後円墳である。
宮内庁により日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と治定され、日本武尊能褒野陵として管理されている。(今のところ宮内庁はこの古墳を日本武尊陵としているがほかの意見もある。)

能褒野神社
祭神  日本武尊 配祀 弟橘姫命
由緒  日本武尊はこの地で薨ぜられた。明治十六年、社号を能褒野神社として創立された。
◎えっ、明治十六年に創立?
お姿 能褒野王塚古墳の横に鎮座する。この古墳は前方後円墳であり、全長90mの大きいものである。
4世紀末頃の築造と考えられている。
 倭王権で言えば倭王武の時代、記紀で言えば雄略天皇の時代、多くの兵士が東国平定に赴いた時期であり、当地まで帰ってきて亡くなった兵士もいたのだろう。

琴弾原白鳥陵
(奈良県 御所市富田)

訪れた人の記事を読むと地元でも場所を知らない人が多いらしい。
日本武尊白鳥陵、と書かれている。周りは畑と田んぼ。田舎、である。
第六代考安天皇陵から南へ約1km。白鳥陵の東、数100mのところにある山の名前は「国見山」。
訪れる人は他にいない。
小山に向かって畑の中へと進むが、案内板はないのでどこまで進んでいいのかわからない。
たまたま、犬の散歩をしていたおじさんが教えてくれた。この人がいなかったら、拝所までたどりつけなかったかも。

2010年に行った方のブログには日本武尊琴弾原白鳥陵は民家に挟まれた細い道を進んで行きますが、案内板が設置されているので、迷うことはありませんでした。と書いてある。
そんなだからこれに付随する神社はないのかな~。


白鳥陵(大阪府羽曳野市古市)
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羽曳野市のHPを見ると
墳丘長190m、後円部の直径106mの前方後円墳、前方部の幅165mで、幅40〜80mの濠を持つ。日本武尊の陵墓との伝承がある。
と簡単な説明。
◎日本武尊の陵墓かどうかは分からないけど伝承はある、と言うことらしい。
 それにしても大きな古墳ですね。



◎白鳥陵も大きいけれど、応神天皇陵の大きさには改めてビックリ!

                                           つづく 白鳥神社
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by jumgon | 2011-06-24 23:45 | ★言語、歴史

縄文時代の大阪湾

以前 「ナニワからヤマトへの交通路」
http://jumgon.exblog.jp/14986924で縄文時代の大阪湾の地図をアップしました。


自分でアップしながら無責任なのですが、イマイチ現在の地理との位置関係がはっきりと掴めていませんでした。

6月20日の朝日の夕刊に「知遊自在 地図を歩く」という記事に縄文時代の大阪の地図が載っていました。

現在の大阪の地名が書いてあるので、イメージが確かになってくる地図です。残念ながら地図の写真は白黒なのでわかりにくい。
どこかにないかと探したら、 国土地理院のホームページ掲載の航空レーザ測量によるカラー陰影段彩図なるものがあるのを次のサイトで知った。

十三(じゅうそ)のいま昔を歩こう:大阪アースダイバーへの道
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-419.html


その中にこんな記事がありました。

知ってるつもり?!
縄文時代の大阪
先日の4月16日、ナカノシマ大学4月講座で
「大阪アースダイバーへの道」の講座が行われました。

◎「大阪アースダイバーへの道」なる講座があったんですね!!
 世の中、色々勉強してらっしゃる方がいらっしゃるものと感心しました。


そのサイトから写真をお借りしてきました。

縄文時代前期の後半(約5500年前)
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この地図の右下に 国府(こう)
 という地名がのっていますね。
ここは石器時代の遺跡があるところで「人骨やケツ状耳飾り」が出土しています。
古代人はどうやってこんな内陸までやってきたんだろうと思ってたら納得!(徒歩ではないよね!)
船でここまでこれたんだ。(石器時代には縄文海進はここまで進んでなかったと思うけど、川が使えるからね。

石器時代の遺跡「国府遺跡」
http://jumgon.exblog.jp/i63/



上町台地だけは細長い半島になっています。
JR大阪駅は海の中。
上町台地の突端に大阪城。
へえ~。あの辺ってそんなに高い土地なの?

現代の地図を重ねるとこの様な位置関係になります。
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神社仏閣、墓地などをプロットした地図
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面白いのは断崖絶壁の西側にパワースポットが集中しているところ。

●大阪城
●難波宮
●四天王寺
●住吉大社
などの位置が良くわかりました!!
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by jumgon | 2011-06-21 22:53 | ★言語、歴史

天平の僧 行基

以前から気になっていた行基について書きとめておこう

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gyouki.html
千田 稔著 「天平の僧 行基」
などを参照しました。

行基 ぎょうき
生没年 668(天智7)~749(天平21)
系譜 父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。
[略伝] 
668年 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれる。
683年 15歳で出家。
(出家得度したお寺は、飛鳥寺、大官大寺など諸説ある。飛鳥寺にはこの時道照がいた筈だが~)
692年 24歳の年、受戒。
 (持統5年・行基菩薩伝によれば戒師は高宮寺徳光禅師であると記している。)
◎高宮寺というのは、奈良県御所市(ごせし)にある「高鴨神社」の南西、標高550メートルの所に金堂跡と搭跡の礎石と基壇が残り瓦も出土しています。)

高宮という地名がでてくる、日本書紀・神功皇后摂政5年の記述
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

http://jumgon.exblog.jp/i42/に書いています。

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◎この高宮という土地は、高宮寺や高鴨神社のある辺りである。襲津彦の娘・仁徳天皇の皇后、磐之媛の実家があったところです。
◎この地図に蘇我氏勢力圏がのってますね。
呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり) の記事に
•雄略14年1月、身狭村主青檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国
身狭・檜隈はこの辺ののことだったのです。 ⇔http://jumgon.exblog.jp/page/2/

ちょっと脱線しました。行基に戻りましょう。

•初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。(このあたりが役小角と共通点を感じる。)
705年頃、(37歳頃)山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年(49才)、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。
また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続けた。

722年(養老6)年(54才)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。行基の影響力を無視し得なくなった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは
●奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。
●法の主な内容
灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。
◇思うように効果があがらなかったようで,20年後には墾田永年私財法が出された。

年代暗記:三世一身の法(ほう)…なにさ(723)3代ばっかしで

731(天平3)年 朝廷は、、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許した。

740(天平12年(行基72才)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。
同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
•聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17・行基77才)年正月には、異例の大僧正に任じている。
また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21・行基82?才)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

◎ 道昭と行基は師弟関係については、師弟関係はなかったとする意見もある。
師弟関係ではなかったとしても、行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて「天下行業の徒、和尚に従ひて禅を学べり」(續日本記)とあることから察して、行基が道照の影響を受けたと見るべきだろう。
行基の後年の社会事業、つまり利他業は、道照のもとで学んだことによる見たほうが自然だろう。

道照と行基の関連
629年  道照(0才)
668年  行基(0才)、道照(40才)
669年  道照(41才)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679年  道照(51歳)10月の勅により、京にもどる。
683年  行基(15才)出家    道照(54才)
692年  行基(24才)受戒・道照(64才)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。
693年  行基(25才)薬師寺   道照(64才)
698年  道照(70歳)大僧都に任命される。 (疑問とする説も多い)
700年  道照(72歳)3月10日没
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by jumgon | 2011-06-21 14:08 | ○道照・行基・役小角
渡来人西文(かわちのふみ)氏創建の「西琳寺」
(所在地:羽曳野市古市2丁目)

30年近く前「ふるさと歴史散歩」で古市(大阪府羽曳野市)周辺を訪れたことがある。
少し遠いけれどチャリンコで行けないこともない近さだ。
そのとき「西琳寺」へ行ったことは覚えている。
渡来人が創建したと解説を聞いた筈だけど、その「渡来人が」が西文(かわちのふみ)氏らしいことまでは覚えていなかった。
調べてみるとやはり西文(かわちのふみ)氏の創建らしい。
久しぶりに訪れてみよう。

近鉄南大阪線の古市駅から東へ5,6分も歩くとつく。近くには白鳥神社もある。
近いけど見つからないので通行してる方に教えてもらった。

西琳寺西門全景
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境内は広くない。でも古い大きな銀杏の木があり、歴史を感じさせる。
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門を入ると左手に大きな塔心礎がデーンとすえられている。
「これ、本当に塔心礎なの?」というくらい大きい。
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●塔心礎(3.2×2.3×1.5m・約27t)
メチャクチャ大きい!というのが第一印象です。それに27tって重い
wikiには27トンと書いてあるが、2トンとか2,6トンと書いてあるサイトもある。重すぎてピンとこないけどどっちが本当なんだろう?
この前訪問した野中寺の塔心礎と比べると大きさの違いに驚き!

今は、その巨大さを誇るのみになってしまった心礎が、境内西に戻されています。(以前は、大和川堤で碑の台座として使用されていたそうです。)
心礎には、心柱を支える為の添柱穴も見られ(4個か5個か判別不能)、舎利埋納孔は添柱孔の横に穿たれていたそうです。雨水の為に見ることのできない心礎孔の底辺には、「刹」という文字が刻まれているそうですが、創建時のものではないという説もあります。
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塔心礎を上から写した写真です。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/27osaka/sairin/sairin.html
からお借りしてきました。
こんな大きな石の上面をどうやって撮ったのかしら?今の状態だったらよじ登ってまで撮せませんよね。
心礎の窪み、変わった形ですね。

そういえば、野中寺の心礎の穴は花びらみたいな形でしたね。
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野中寺
http://jumgon.exblog.jp/16100144/

この奥に石造五輪塔がある。
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●西琳寺石造五輪塔
昭和32年(1957)、工事中に高屋城跡の土塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。
文安3年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関係した高僧の供養塔とされる。
いずれも花崗岩製で最も大きな叡尊塔とされるものは高さ3.1mあり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりである。


さて、wikiより概略を見てみましょう。

Wikiより
沿革
欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。

創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。
出土品の瓦などから飛鳥時代創建は確実であり、境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。
●これまでの発掘調査によって、創建は飛鳥時代(7世紀前半)であり、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されている。
679年には七堂伽藍が完成しており、流記資材帳によると743年まで七堂伽藍を揃えていたことを確認できるが、安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により中世以前の堂塔ほぼ全てを喪失した。
◎743年ということは聖武天皇の時代です。

●鎌倉時代には、奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)が、寺を中興し、広い寺領を所有し隆盛をきわめた。
東西一町(約109m)、南北二町(約218m)の寺域を持ち、金堂・講堂・五重塔・回廊・鐘堂・食堂。僧坊などを備えた堂々たる大寺院だったという。
それが、天正年間の兵火や明治の廃仏で、建物の殆どを失ってしまった。


羽曳野市HPを見ましょう

西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。
西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。
現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の 丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。
当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。
現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。
この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。

 現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、市役所1階ロビーに展示されています。
ガラスケースに入っていて光ってうまく撮れないのでHPからお借りしました。
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次の二枚の写真左側は裏側(腹側)から撮したものです。
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●鴟尾の全体がうかがえる稀少な例である。胴部と側面と鰭部には段違いの羽根状の模様を削り出し、腹部には火焔宝珠(かえんほうじゅ)と蓮華文(れんげもん)が浮彫りされており、仏教芸術の 新たな史料として注目される。

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by jumgon | 2011-06-19 22:30 | ○西琳寺(羽曳野市)

道照の父・船恵尺

道昭の父・船恵尺で書き忘れたことがあるので追加します。

道昭の父・船恵尺【ふねのえさか】
 
朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 生没年不詳
7世紀中ごろ,大和王権に仕えた人物。僧道昭の父。
百済 からの渡来人で船氏の祖王辰爾の子か孫という。姓は史,名は恵釈とも書く。
『日本書紀』によれば,
乙巳の変(645)で中臣鎌足,中大兄皇子(のちの天智天皇)らに襲われた蘇我蝦夷が自害したとき,その邸宅にあった「国記」が焼失しようとしたのを火中から取り出して中大兄に献上したと伝える。
このエピソードから元来,文筆に長けた家柄の出である船恵尺が当時,蘇我氏の下で「国記」など歴史書の編纂に当たっていたと考えられる。また西文氏の祖王仁の伝承も,このころ恵尺によって作られたという説がある。<参考文献>井上光貞『日本古代思想史の研究』,山尾幸久『日本古代王権形成史論』
(鈴木靖民)

◎道昭の父・船恵尺と「乙巳の変」、教科書で読んだ歴史が少しずつ具体的に見えてきたように思えます。
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by jumgon | 2011-06-16 22:16 | ○道照・行基・役小角

渡来人について

歴史書物を読んでいるとあちこちで渡来人の記事が出てくる。
いろいろな時期にやって来た渡来人がいるようなので、整理してみよう。


渡来時期を4つに区分すると・・・
  
Ⅰ 紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

[Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人]

秦氏
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。
弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。
土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。
大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。

東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
平安時代になると,東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではない。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので,互いに対抗意識をもっていたのかもしれない。  

西文氏(かわちのふみうじ)
西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。


[Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)]

5世紀後半頃,今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述がある。
東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。
蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。

http://jumgon.exblog.jp/16100144/野中寺(羽曳野市)でお話した船氏は今来漢人である「王辰爾」を祖としています。

[6世紀頃、来日した渡来人]

彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。

(1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。

(2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。

(3)554年、医博士・易博士・暦博士が渡来しました。

(4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法・天文地理の書を伝えました。

(5)604年、初めて暦を使用しました。

(6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えました。

(7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。

[Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。]
7~9世紀にも多くの渡来人が日本に来ている。
白村江の戦いのあと,百済から多くの渡来人が亡命してきた。
その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり,子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
日本書紀に「余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(天智8年(669年))という記述がある。
鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭にまでなっている。彼らをこの地に移住させ,荒れ地の開墾をさせたのではないかと考えられている。

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by jumgon | 2011-06-16 21:36 | ★言語、歴史
弟媛はどこに行った?

日本書紀に
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
という記述がある。

阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。
道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。
呉の王は工女、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。

この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。

◎応神天皇37年の春2月1日から応神天皇41年春2月、ということはまる4年かかったということですね
この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

筑紫国に残った「兄媛」に関しては
ブログ<ひもろぎ逍遙>
http://lunabura.exblog.jp/
で詳しく述べられています。

残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。
三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

この続きを
ブログ<ちょっと歴史っぽい西宮>
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402344.html?1307885430#comment-form
よりお借りして書いていきましょう。(一部省略・改変)

ここまでは正史(日本書紀)に記載があります。そしてここからは伝承です。

女性技術者三人を含む阿知使主一行は西宮につきます。阿知使主らは往復で4年。呉を出発してからも長い日々だったでしょう。
一行は武庫の港に上陸、そしてしばしの休憩をとります。そこは、松原が広がる風光明媚な場所であったようです。彼女らは松に身を寄せ、故郷を偲んだとされています。 

その場所には現在、喜多向稲荷神社があります。北に向かっておられるのでそう呼ぶのだと思いますが、御祭神は「織姫大明神」です。

「史蹟 漢織呉織松 染殿池」と石碑にあります。この石碑は大正時代に建てられたもので、そのときはまだ松があったのですね。
日本書紀では「穴織(あなはとり)」でしたがここでは「漢織(あやはとり)」となっています。「綾織」とも書いたりします。
その漢織呉織松はもう枯れてありませんが、染殿池は神社裏にあります。

彼女らはこの池の水を使って糸を染め、布を織ったとされています。今見ればこの池は「水溜り」でしかありませんが、かつては清らかな水がこんこんと湧いていたのでしょうか。
 あれ、武庫の港に着いたのは兄媛を除く3人だったはず。弟媛はどこ行ったんかいな?と思いますけど、これはあくまで伝承。

ところで、この伝承とほとんど同じ話が、大阪の池田市にも残っているのです。
しかも、あっちのほうが充実している(笑)。

その池田の名を冠した「伊居太(いけだ)神社」も正式名は穴織宮伊居太神社で式内社、さらに「呉服(くれは)神社」もあり、その両社の神主は阿知使主の末裔。

この呉服神社から、和装衣服のことを「ごふく」と呼ぶようになったという、実に完璧な伝承です。
染殿井もあります。染殿池ならこっちにもありますが、池田には織殿も「星の宮」として伝えられ、穴織、呉織の没年も伝承として残り、阿知使主らとともに相当に顕彰されています。

池田で歴史散策をやれば、穴織・呉織ゆかりの地が中心になってしまうかも。うーむ。
 しかし、日本書紀には「武庫」に着いたことはちゃんと書かれてあることです。
矛盾無く説明するとすれば、まず一行は西宮に着き、そして仁徳天皇に謁見、そしてその後池田に居を構え、日本の紡績業の元祖としてその発展に力を尽くし、池田に没した。池田には伝承として墓もあるそうです。
 猪名川河畔に「唐船ヶ淵」という史跡があって、彼女らはそこから上陸した、との伝承だけはちょっと納得がいきませんが。着いたのは「武庫」だろう?(笑)。

ところでさっきも書きましたが、日本書紀には「既而率其三婦女」とはっきり書かれています。ところが池田においても「呉織・穴織」の二人です。
 弟媛の足跡が全然たどれません。もしかしたら、彼女は長命できなかったのかも、とそんな想像もしてしまいます。
だとすれば、遠い日本に連れてこられて、織物をこの異国の地に根付かせようという青雲の志もあったやもしれませんが、姉と強引に別れさせられ、そして足跡も残らなかった「おとひめさま」のことに、僕は思いを馳せてしまったりもするのです。

◎「池田には伝承として墓もあるそうです」って!!
 確かあとの三人は飛鳥の栗原に居住したのではなかったかしら?
 一体何が本当のことなのかしら?



●栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。
雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。
『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。
いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。

•雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
•雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
•雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
•雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。
呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である。
 

◎日本書紀の応神記と雄略記を比較してみましょう。
応神記では
使いは、『阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)』・『宗像に兄媛を留めた』・『武庫の津につく』・『武庫に着いたのは遣いのものと3人の工女』

雄略記では
使いは、『身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)』・『宗像での話は無し』・『住吉に着く』・『住吉に着いたのは遣いのものと4人の工女』

だいぶ整理されてきた。
ナルホド、二つの話がごっちゃになっていたのだ。

阿知使主の時は多分「西宮」にも「池田」辺りにも滞在して足跡を残したのだろう。

◎ちなみに、前回の記事で僧、道照が火葬されたのは 「明日香村栗原」だって覚えてられますか?
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by jumgon | 2011-06-14 20:20 | ★言語、歴史