古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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天平写経について

前回読んだ「穢土荘厳」の中に写経のアルバイトをしている中国からきた老人が登場してきた。
架空の人物と思われるが、多分そういう人はいたであろうと思われる。

昔?写経の練習をしようと思って買った本がある。確か光明皇后の「楽毅論」とか聖武天皇の書跡かと言われている「大聖武」なるものを見た覚えがある。
引っ張り出して読み始めた。

この墨跡は、744年光明皇后44歳の時の書で、王羲之の楽毅論を臨書したものといわれている。
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◎光明皇后の性格を意思が強いように「穢土荘厳」の中で造形されているがこの王羲之の臨書から想像したものではないかと私には思える。

さて、天平時代は仏教の隆盛に従って造寺もその数を増し、それに伴って経典の需要も多くなり写経事業も個人的なものから写経司、写経所へと発展して、質量ともに天平写経は黄金時代を迎えました。この時代の写経は現存するものが多く、正倉院などに多く納められています。

写経所・写後経所・写疏所

天平6年(724)には官立写経所が設けられていたことが分かっています。

天平13年(741)には「金字写経所」が設けられました。これはこの年の勅令によって日本全国に国分寺と国分尼寺が建立され、国分寺の搭ごとに紫紙金字の金光明最勝王経を納めることになったので、その金字経を書写するための写経所です。

写後経所
写後経所は法華経と金光明王経以外の書写を担当した。
写疏所
写疏所は注や経典の注釈書を書写したところです。


天平写経生の生活
正倉院文書にみえる写経生の名前は700名を優に超えます。写経生となるためには試字の試験を受けて合格しなければなりません。
写経生は下級の役人から多く選ばれましたが、その名前から判断すると帰化人かその子孫が大多数です。
写経生となると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執りました。

◎お香を嗅ぎながらなんてよい雰囲気ですね!伽羅の香りだったら素敵です!

日照時間の長短によって一日の勤務時間は違いますが、平均して一日に七紙を書きました。
一紙の字数は17字詰め、24行くらいですから、一日およそ3千字になります。
一枚の書写料は4文(金字、銀字は七文)ですが、誤字や脱字があると罰金が課せられ、一行の脱字があると紙四枚分、20字の誤字があると紙一枚分が差し引かれました。

また、30枚につき調布一端という報酬もありました。

◎一日中、字を書いてるとかなり疲れると思うけど、試験に通らないとできない仕事なので、ほかの仕事よりはましな収入だったのでしょうね。
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by jumgon | 2011-07-30 17:48 |  ○天平写経
杉本苑子 穢土荘厳

この本は多分10年以上前に読んだことがある。
私の記憶力はいい加減なもので、大まかな時代設定は覚えていたが内容はすっかり忘れていて、全く初めての本を読むのと同じ感覚だった。
丁度、飛鳥・天平の歴史を調べていて少しは知識ができたせいでこの小説をかなり消化することができた。
時代の前後がバラバラの知識がこの小説のおかげで流れの中におけるようになった。

杉本氏の著作は登場人物の性格設定は作者の推察・想像だと思うが、登場する実在人物や年代は正確だ。

おおまかなあらすじを記しておく。

藤原京から平城京に移り、橘美千代・藤原4兄弟・長屋王家滅亡(陰謀?)を経て、光明子を聖武天皇の夫人から皇后へとおしあげた。
さまざまな良心の呵責からか、聖武天皇は恭仁京、紫香楽の宮、難波宮など各地を転々した。
その時期に僧行基に出会い帰依する。
やがて遣唐使の吉備真備・玄昉らの帰国。
藤原四兄弟の疫病死。

世間の反発にやむなく平城京に戻った聖武天皇は世の疲弊を顧みることなく、己の魂の救済求め、大仏造立、国分寺建立を思いつく。
官寺以外にも私の寺院造りを奨励する。
◎多分この頃に葛井寺(藤井寺市)が建立されたと思われる。

聖武天皇は自分の命あるうちにと大仏開眼供養を執り行う。(金が足りないので顔だけ鍍金した状態だった)
聖武天皇後は光明子、孝謙天皇、藤原仲麻呂を中心に政務は進められ、吉備真備は追い払われる形で再度遣唐使として唐に渡ることになる。
大体のあらすじは以上である。

この本の中に登場する、大伴旅人、大伴家持、山上憶良、長屋王など名前だけ知っていた人たちの人生・生活を垣間見れて面白かった。

私にとって新しい知識は「三世一身の法」である。
これは官位の上下で開墾できる面積が決まっており、開墾する財力があるものほど私有地を増やせる。
大仏造立への布施の多寡により官位も与えられた。そして官位が上がればたくさんの私有地を持つことができるというシステムで、末端の民衆にはほとんど恩恵はなかったようだ。

国が大仏造立の資金捻出のため思いついた法のようだ。
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by jumgon | 2011-07-25 12:02 | ★読書・放送・講演会

唐招提寺・千手観音の謎

唐招提寺・千手観音の謎

杉山二郎著
「天平のペルシア人」より

左京条二坊にあった大安寺が長安の西明寺を模倣した、天平中期の東アジア圏いや西アジアの商人や技術者の蝟集した国際ホテルを擁して活気のあったところだったのですが、どうやら鑑真和尚がこの唐招提寺を造立した天平末期には、この地に東アジア・西アジア出身の人たちが集まってきていたのではないか、とわたしは推定しているのです。
~中略

金堂は天平建築物の代表のように考えられておりますが、実は鑑真和尚が遷化されてから、約四十余年たってからの 大同年間の造立徒建築史の方々の意見があります。
鑑真和尚の遷化した天平宝字7年(763)にはこの金堂はまだなかったのです。

当時既に造立されていた仏像も、本尊毘盧遮那仏と、小さな木造梵天、帝釈天、それに四天王像の7体と考えてよいでしょう。

となりますと両脇侍の丈六の千手観音立像と薬師如来立像は、何時どのように造られたかが問題となりましょう。
これは私の個人的な見解なのですが、千手観音立像は寺の言い伝えによりますと、「天人一夜の御作」と呼ばれています。
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鑑真和上の徳力によって、天人たちが舞い降りてきて、一晩のうちにこの千本の手を持つ観音像を造り上げたとする伝承なのです。しかし天人が虚空からやって来たと考えるよりも、唐招提寺の近くにあった国家管理の手を放れた氏寺にあった尊像を、金堂に持ってきて一晩のうちに解体した像を組み立てたとする方が、理解納得がゆくのではないでしょうか。
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わたくしはすぐ近くにあった藤原仲麻呂(光謙女帝から恵美押勝と愛称された寵臣)の邸宅にあった、千手堂の本尊だったのではないかと推測しています。

ご存知のように橘奈良麿が孝謙帝の廃立を計画して反乱を企てたおり、藤原仲麻呂がその反乱の鎮圧勝利を祈念して、私宅に造立したのが木身乾漆造りの千本の手のある観音像だったと思われるのです。
私寺の千手堂の本尊ながら、国家鎮護のための造立ですから、光明子と光謙天皇の寵愛を一身に享けた彼仲麻呂は、東大寺の諸仏を造立していた官営造仏所の工匠・工人らを自由に利用できたはずです。ですから文字通り千本の手を差し込んで合理的に造るやり方を用いたのでした。~

光謙帝の寵愛が道鏡に移り、光明子の庇護を失った恵美押勝は,遂に天平奉宝字8年(764)に道鏡を除こうと兵を挙げ、そして結局殺されてしまい、彼の邸宅も官に没収、多くガ破却される運命となりました。
千手堂の本尊であった千手観音丈六像は、廃邸の余計物ですから、至近距離にあった唐招提寺に解体して運搬し、そして一昼夜くらいのスピードで再び組み立てることも可能かとおもわれます。
ですから「天人一夜の御作」の伝承がここから生まれたのでしょう。
もちろん、唐招提寺の建築も仏像も、年号銘文ではっきりした造立年次がわかっておりませんので、やはり推測の域を出ません。
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by jumgon | 2011-07-08 15:28 | ★言語、歴史

伎楽の歴史

伎楽の歴史

WIKI その他の記事を参考にして書きました。

伎楽は「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった。そのルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり、散楽といわれたものである。 我が国には「神楽」があったがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能は幅広い豊かなものとなった。
ところが、宮廷が衰えた武家時代に、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技を行うようになっていった。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、『日本書紀』欽明天皇(在位 西暦540年~572年)の項においてである。
呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述がある。
ただしこのとき、実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。


『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
この年に百済人味摩之(みまし)が帰化してきた。その人の言うことに「呉の国に勉強に行き伎楽舞(くれのまい)を学んできました。」と。
そこで桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。
そこで、真野首(まののおびと)弟子、新漢(今木の綾)斎文(さいもん)の二人がこれを習って伝えた、これが今の「大市(おおいち)の首(おびと)、辟田(へきた)の首らの祖先である。
この記事が、実際に日本で伎楽が行われた記録としては最古である。 


聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めた。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあった。

『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていた。
4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会と、少なくとも年2回の上演があった。

●えんぎ-しき 【延喜式】
(1)平安中期の律令の施行細則。五〇巻。905年(延喜5)藤原時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平らにより927年完成。施行は967年

◎ということは平安中期にも法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていたということですね。

また天武天皇14年(西暦685年)には、筑紫で外国の賓客を供応するため伎楽が行われた。このように伎楽は仏教行事以外の場でも上演されている。

東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演された。

奈良時代にさかんに行われていた伎楽も平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった。しかし現在でも「獅子舞」や、各地の寺院で行われる「お練供養」にその痕跡をとどめている。

◎「獅子舞」「お練供養」が伎楽の痕跡をとどめてるって?
そうなんですか、、、
以前訪れた「当麻寺」(奈良県御所市)では毎年お練供養がある。
聖徳太子と縁のあるお寺だ。
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『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
の記事に
百済人味摩之を桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。

と書いてある。
さてここに出てくる桜井の地名がどこかということで二つの説がある。

●一つは奈良県桜井市にある「土舞台」説
■ 伎楽は奈良時代に栄えたが平安時代末期以後は途絶えてしまう。
戦後、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)(1910 - 1981)は、味摩之が伎楽を若者たちに教習させた場所を考証した。
そして、江戸時代の『大和名所図絵』に土舞台が描かれているのを知り、そこが伎楽教習所だったとし、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと、有志を募って「土舞台」と刻した標石を昭和47年11月3日に建てた。
翌日にはその標石の前で市が後援する盛大な顕彰式典が挙行された。それ以来、土舞台顕彰会主催の顕彰式典が毎年行なわれ、土舞台が我が国演劇史上の大切な史蹟地であることを喧伝している。

●もう一つは「明日香村豊浦」説

現在の向原寺(明日香村)の南に、難波池(なんばいけ)と呼ばれている小さな池がある。
H22年7月15日付けの奈良新聞の報道によると、ここに碑を建てることを思い立ったのは、韓国の世宗大学校日語日文学科教授の李応寿(イウンス)教授(56)だそうだ。
聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所ついて、教授はその所在地は現在の明日香村豊浦であるとする新説を2年前に発表された。
そして百済人・味摩之(みまし)が伎楽を伝えた場所に、そのことを顕彰する記念碑を建てるなら、現在の向原寺の境内に立ててみたいと思われたそうだ。
そうした願いを実現されたことになる。
この説に興味がある方はこちらをご覧ください。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0723.htm
さてどちらの説が正しいのでしょうか?
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by jumgon | 2011-07-04 22:57 | ★言語、歴史