古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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伎楽の歴史

伎楽の歴史

WIKI その他の記事を参考にして書きました。

伎楽は「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった。そのルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり、散楽といわれたものである。 我が国には「神楽」があったがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能は幅広い豊かなものとなった。
ところが、宮廷が衰えた武家時代に、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技を行うようになっていった。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、『日本書紀』欽明天皇(在位 西暦540年~572年)の項においてである。
呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述がある。
ただしこのとき、実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。


『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
この年に百済人味摩之(みまし)が帰化してきた。その人の言うことに「呉の国に勉強に行き伎楽舞(くれのまい)を学んできました。」と。
そこで桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。
そこで、真野首(まののおびと)弟子、新漢(今木の綾)斎文(さいもん)の二人がこれを習って伝えた、これが今の「大市(おおいち)の首(おびと)、辟田(へきた)の首らの祖先である。
この記事が、実際に日本で伎楽が行われた記録としては最古である。 


聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めた。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあった。

『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていた。
4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会と、少なくとも年2回の上演があった。

●えんぎ-しき 【延喜式】
(1)平安中期の律令の施行細則。五〇巻。905年(延喜5)藤原時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平らにより927年完成。施行は967年

◎ということは平安中期にも法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていたということですね。

また天武天皇14年(西暦685年)には、筑紫で外国の賓客を供応するため伎楽が行われた。このように伎楽は仏教行事以外の場でも上演されている。

東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演された。

奈良時代にさかんに行われていた伎楽も平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった。しかし現在でも「獅子舞」や、各地の寺院で行われる「お練供養」にその痕跡をとどめている。

◎「獅子舞」「お練供養」が伎楽の痕跡をとどめてるって?
そうなんですか、、、
以前訪れた「当麻寺」(奈良県御所市)では毎年お練供養がある。
聖徳太子と縁のあるお寺だ。
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『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
の記事に
百済人味摩之を桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。

と書いてある。
さてここに出てくる桜井の地名がどこかということで二つの説がある。

●一つは奈良県桜井市にある「土舞台」説
■ 伎楽は奈良時代に栄えたが平安時代末期以後は途絶えてしまう。
戦後、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)(1910 - 1981)は、味摩之が伎楽を若者たちに教習させた場所を考証した。
そして、江戸時代の『大和名所図絵』に土舞台が描かれているのを知り、そこが伎楽教習所だったとし、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと、有志を募って「土舞台」と刻した標石を昭和47年11月3日に建てた。
翌日にはその標石の前で市が後援する盛大な顕彰式典が挙行された。それ以来、土舞台顕彰会主催の顕彰式典が毎年行なわれ、土舞台が我が国演劇史上の大切な史蹟地であることを喧伝している。

●もう一つは「明日香村豊浦」説

現在の向原寺(明日香村)の南に、難波池(なんばいけ)と呼ばれている小さな池がある。
H22年7月15日付けの奈良新聞の報道によると、ここに碑を建てることを思い立ったのは、韓国の世宗大学校日語日文学科教授の李応寿(イウンス)教授(56)だそうだ。
聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所ついて、教授はその所在地は現在の明日香村豊浦であるとする新説を2年前に発表された。
そして百済人・味摩之(みまし)が伎楽を伝えた場所に、そのことを顕彰する記念碑を建てるなら、現在の向原寺の境内に立ててみたいと思われたそうだ。
そうした願いを実現されたことになる。
この説に興味がある方はこちらをご覧ください。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0723.htm
さてどちらの説が正しいのでしょうか?
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# by jumgon | 2011-07-04 22:57 | ★言語、歴史
   遣唐使物語
736年(天平8年)に帰日した遣唐使船と共にやって来た外国人

今回は 
天平5年(733年)出発の第10回遣唐使について書きたいと思う。

天平5年(733年)出発
天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

天平5年(733年)に日本を出発、
天平5(733)年8月、遣唐使船、4船とも相次いで蘇州の岸に漂着、ついで東都洛陽にはいる。
◎漂着しただけで難破したわけではないので献納物は無事だったのでしょね?

天平6(734)年4月、多治比広成、洛陽に入る。
日本国使、絁400疋を唐の政府に献上。
(この年、阿倍仲麻呂36歳、吉備真備、ほかに僧玄昉が留学生として唐にあった。)
日本への帰路
天平6年10月(734/11月)
帰路、4つの船で同時に蘇州を出発したが、悪風が突然に起こり、4隻の船はお互いに見失った
◇第1船
大使広成、玄昉、吉備真備
天平6年11月20日(734/12/23)、多治比広成ら(第1船)が多祢島(種子島)に到着。
天平7年3月10日(735/04/11)、多治比広成らが、唐国から帰朝し、節刀を返上した。
天平7年3月25日(735/04/26)、遣唐使一行が天皇に拝謁する。

◇第2船
中臣名代(第2船)は、インドシナに漂着し(734年)、翌年洛陽に戻る。天平7年閏11月洛陽を発ち、帰国
天平8年8月23日(736/10/06)、遣唐使・副使中臣名代らが唐人3人、ペルシャ人1人を率いて帰国の挨拶のため天皇を拝謁した。
副使中臣名代、道璿、理鏡(日本人入唐留学生) 、婆羅門僧菩提僊那(39歳)、安南僧仏哲、皇甫東朝(こうほとうちょう)、袁普卿(えんしんきょう18歳)、ペルシャ人李密翳、景雲(日本人入唐留学生)


◇第3船
第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
平郡広成の乗った船115人は崑崙国(ベトナム。マレー、スマトラとも)に漂着した。賊兵に包囲され、捕虜となる。
殺されたり、逃亡したり、残ったものも90人余りが病気(マラリアか)にかかり死亡した。
広成ら4名だけが生き残り、崑崙王に謁見し、わずかな食料を与えられ、よくない場所にかこわれた。
中略
渤海が使いを派遣しようとしているのに出会ったのですぐその使節に同行して出発した。 渤海船は1隻が波にのまれて転覆し、大使・胥要徳(しょようとく)ら40人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽に到着した(天平11年7月13日)。
天平11年(739年)10月27日に帰国。

◇第4船難破して帰らず

以上が帰路についた4船の顛末である。
 
今回は第2船でやって来た、外国人について書く事にする。

第二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。
唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。
これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。
東大寺のHPより
天平8年8月、菩提僊那(ぼだいせんな 33歳)、仏哲、道璿(どうせん 35歳)ら難波津に着く、行基(69歳)らが迎える


さてこれら外国人たちはどこに住んでいたのだろう?

杉山 二郎 「天平のペルシア人」によると
「おそらく、大安寺、史書には記されていない商人や遊芸の徒たちもやってきたと思われる。それらの人たちは東市、西市辺りか大安寺ではないか、、、、もとより証拠はない。」

と記されている。
この時代はわたしの認識不足かも知れないが、想像以上に国際的な華やかな雰囲気をもっていたようだ。

正倉院に残る楽器や伎楽面、衣装,幟などから、東大寺の大仏開眼供養がその煌きの頂点だと想像できる。

さて前回訪問した「大安寺」に住んだ僧達

□菩提僊那(704~760)
菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊に会うためという説もある)。
唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、チャンパ国出身の僧仏哲・唐の僧道璿とともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。

◎インド呪術って密教的なものかしら?

751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。

□仏哲(ぶってつ)
仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。林邑国フエの出身。
インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。
唐開元年間(713年 - 741年)菩提僊那とともに唐に入り、当時日本から唐に入っていた僧理鏡らの招きにより、736年(天平8年)師の菩提僊那・唐の僧道璿とともに来日した。
大宰府を経て京に入り、奈良大安寺に住した。

「菩薩」・「抜頭」などといった舞や林邑楽(雅楽の楽種の一つ)を伝え、また多くの密教経典も請来したという。
大安寺では林邑楽などを楽人に教え、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養会の際も舞を伝授した。
◎大安寺で林邑楽を楽人に教えたのですって!!
 大安寺は国立音楽学校でもあったのですね

□道璿(どうせん、702年~ 760年)
中国唐代の僧。
入唐した僧栄叡(えいよう)・普照(ふしょう)の要請により、鑑真に先だち戒律を将来するために日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊(33才)・ベトナム出身の僧仏哲とともに来日する。

□袁晋卿
•?-?奈良時代の官吏。
天平(てんぴょう)8年(736)帰国の遣唐使にともなわれ、18-19歳で唐から来日。
音博士、大学頭、玄蕃頭などを歴任。
宝亀(ほうき)9年(778)清村(浄村)宿禰(すくね)の氏姓をあたえられた。

●真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。
◎この人は何処に住んでいたか史書に記録はない。

□皇甫東朝(こうほとうちょう)
皇甫東朝は、唐王朝の楽士としてその名が聞こえた存在だったのだろう。
その彼に海東の日本に行くことを誘ったのは、おそらく下道真備(後の吉備真備)だったと思われる。
真備は帰国するに当たって楽書として『楽書要録』十巻を将来したことが知られている。

当時の我が国には、大宝律令によって治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれていた。これは、技楽・唐楽・和楽の制度化した寮であり、中国に倣って師と生徒の数を決めて楽人を養成していた。

●下道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。

芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。

天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺の大仏開眼の法要が盛大に行われ、国風歌舞の五節舞、久米舞などと共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽などが盛大に演奏された。
楽人として来日した東朝たちもその式典に参加しただろうと推測される。

皇甫東朝の名が『続日本紀』に帰国記事以来、記されるのは天平神護2年(766)になってからである。
この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。
この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐楽を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。

皇甫東朝は称徳天皇に重用されたと思われ、翌年の神護景雲元年(767)3月20日の人事異動では、雅楽(うた)員外助に任じられ、合わせて花苑司正(かえんしのかみ、花卉や園地の業務を担当する長官)を兼任することになった。

また、上記のように西大寺は、天平宝字8年(764)9月に勃発した恵美押勝の乱の平定を祈願して、孝謙上皇が金銅四天王像の造立を発願したのが始まりとされる寺だが、この地にも皇甫東朝が足跡を残している。

花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。
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◎中国の絵画では「ぼたん」などがよく描かれている。美しいガーデンをつくったのかしら
□皇甫昇女(こうほしょうじょ)
東朝の娘とする説があるが、どうであろうか。東朝と一緒に皇甫昇女も従五位下に叙された点を考慮すると、年齢的に二人は夫婦であった可能性が強い。

□李密翳(りみつえい)
生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月、遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師、楽人、幻術師、商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが、倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して、官工房などに属し、技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)


□李元環(りげんかん)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-?奈良時代の官吏。
唐(とう)(中国)の人。清宗氏の祖。渡来は天平(てんぴょう)6年か。天平宝字7年(763)織部正(おりべのかみ)、8年出雲員外介(いずものいんがいのすけ)となる。正五位下。

□善意(ぜんい)
史書には記録はない。
三重県伊勢津市西来寺(せいらいじ)に国宝の大般若経がある。
大般若経(国宝)唐僧善意記天平年間ノ物 と書いてある。
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天平19年、唐僧 善意ノ跋アリ、と津市の国指定文化財の説明にかいてある。
このお経は「天平年間のものです」と奥書に書いてあったということか。
このお経は唐から来たものか、日本で書写されたものか~どこを経巡って三重県の西来寺にやってきたのだろうか?
西来寺で絵はがきになってたこともあるらしい。
(行ったことがないので今もあるか分かりません) 




 
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# by jumgon | 2011-06-30 20:38 | ★言語、歴史

大安寺(平城京)訪問記

東大寺大仏の開眼供養で勅命により大導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)が大安寺に住んでいたと、いう記事を読んだことがあり、大安寺というお寺のことを知りたくなった。今まで訪れたことはない。

大安寺は平城京にある寺院である。
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無料駐車場がある。

駐車場のすぐ傍に「推古天皇社」なるものがあった。
なぜこんな処に?
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『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿が描かれています。
 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです
 現在の社殿は明治9年の再建
 祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(推古天皇)

 
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あじさいの花が咲いていました。
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◎そうか、創建当時にも推古天皇を祀る社があったのでここに有志の人たちが推古天皇社を復興したのだ。

さて、現在の大安寺へ~
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大きな門です!
復元されていました!!
中を覗きます。
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境内は広そうです。

●中門跡の石碑・奥に見えるのはドイツからの記念樹の楠
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大安寺前貫主・河野清晃師は荒れ果てた大安寺の復興に尽力しますが、大戦で応召。帰山後も苦労を重ねます。
そういった中、若い人たちを国際的に目覚めさせようと、奈良日独文化友の会を創って、活動を始めました。昭和三十八年(1963年)には会を「奈良日独協会」と改称し大安寺を本部としました。
きっかけとなったのは清晃師が高野山大学時代に発表した論文「高野山根本大塔の研究」をベルリン大学教授で京都日独文化研究所主事であったF・M・トラウツ博士がドイツ語に翻訳、広く世界に紹介したことにありました。

記念樹の下にあるプレート
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後でネットで読んだのですが大安寺は秀吉時代の地震で堂塔全て壊滅したそうです。
今見る南門も何もなく、訪れても「ここにあったのか」と確認するだけでその痕跡を想像することもできません。
それをここまで復興するのは大変なことだったと思います。
大安寺の歴史については、改めて書く予定です。
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大きな楠、横に竹、ビワの実が成ってるのが見えます。

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12輪?搭・いつからあるか分からない。
特に説明はない。
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塔の台座です。

●いよいよ本堂です。明治時代に復元されたそうです。

正面じゃなくて横から撮っています。
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屋根のてっぺんにあるのは何と呼ぶのかな?
本堂の中を覗かせてもらいました
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◎この照明ペンダントのデザイン素敵ですね
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暑いので蔀戸を半分上げています。
○蔀戸(しとみど)
上下2枚に分かれ、下1枚を柱間(はしらま)に建て込み、上1枚だけを跳ねあげる半蔀(はじとみ)と上下に分かれず開口部いっぱいの大きさになる一枚蔀戸もあります。

●大安寺歴代住侶供養の五輪塔と石碑
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供養碑
当山は聖徳太子の熊凝精舎に発するわが国最初の官大寺である。
奈良朝の盛時には887名もの内外学侶が止宿居住し あたかも迎賓館兼仏教総合大学の観を呈した
わが国の文化はこれら学侶の学恩によること多大である
茲に供養の五輪塔一基を建立しその鴻恩に報い奉らんとするものである
                                    現住 良文

◎大安寺に住した主な僧侶については別に記事を書く予定です。
名前のわからない大きな木がありました。
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古くなると幹に縦の筋目が入る木・どこかで読んだおぼえがあるのですが、名前を思い出せません。葉は少し細長い。
◎クヌギかあべまき、のようだ。
クヌギとあべまきの区別はむつかしい。おまけにどんぐりまで似ている。

さて南門の横に大安寺旧境内の説明板がありました。

平城京の左京六条、七条の四坊に十五町(約8万坪)もの寺地を有していました。
伽藍中心部には金堂を中心に講堂や僧坊がならび、搭院には東西に二基の七重の塔がそびえていました。
塔が伽藍中心部の南に「搭院」として独立し、回廊壁画にまで仏画が描かれるなど、それまでの寺院にはない特徴がみられます。
現在も残る東西両搭跡の土壇が往時の壮大な伽藍を彷彿させます。

大安寺の南門をでる。大安寺の敷地はいまとは違ってもっと広かったと書いてあった。
ちょっと周りを歩いてみよう。
推古天皇社を右手に見ながら歩いていくと、御霊神社という鳥居がある。
境内地図に書いてある「竜王社」のようだ。
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御霊神社由緒記(神社看板)より
本神社は元石清水八幡宮と称す。(八幡神社)
大同2年8月17日、大安寺の僧、行教和尚が大安寺の鎮守社として筑紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の宣託により獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る。
而して遥に男山八幡岩清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神として、高オカミ、善女竜王命ニ柱の紙を祀られた。~

H12年12月吉日   大安寺町評議委員会

やっぱり水の神様だ。

さてもっと歩いていくと、
畑があったり民家が建ってたりする。
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あっ、何か遺跡っぽいものが、、、
道の左側は小学校。
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奥の突き当り,、、、、近づいてみると
「経楼跡」と書いてある。
そうか、勿論ここも境内だったのだ。
唐から持ち帰った多くの経典があったはずだ。

もうこの辺で引き返そう。
学校や民家が建っていては発掘調査もできないだろうし~

大安寺のこと何も知らなかった私は、奈良時代の壮大な寺院を発見しただけでもワクワクしています。
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# by jumgon | 2011-06-29 21:24 | ○大安寺(奈良)
白鳥神社(しらとりじんじゃ)
(大阪府羽曳野市古市1-1 )

ネットで検索して、びっくりした!
なんと白鳥神社は全国にどっさりあるのだ!
東北から九州まで~。
ヤマトタケルは全国を平定して回ったと、記紀に記されているからあちこちにヤマトタケルを祀る神社があってもおかしくないかも、、、、。

さてともかく白鳥神社を訪ねてみよう。

古市駅から2,3分もいくと商店街の左手に鳥居がある。(行きしなには気付かなかった。)
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西琳寺を探すためにその道を通り過ぎ次の角で左に曲がる。
道の左手奥に鳥居が見える。
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一の鳥居です。
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入っていくと右手は小学校になっていて、学校の前にしめ縄をまいた木があった。
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(御神木につき周囲をきれいにしましょう)と書いてある。昔はここも境内だったのかしら?
二の鳥居から階段をあがると本殿です。
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本殿の前には大きな灯籠が一対ありますね。
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上の灯籠の裏側に
〈文政5年壬年8月〉
(石工 山田村 武兵衛)
と刻印がある。
文政5年(1822)に村の人たちが寄進したのかしら?
本殿左手にある灯籠には(油働中)の刻印
油関係の商人の組合・講?が寄進?
境内をお掃除していたおじさまに聞いたけど「油働中の意味はわからないけど寄進者の名前です」とのこと。

本殿のなかを覗かせてもらいました。
鏡があります。「伊岐宮」の額も、、、
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それと壁には奉納額絵がありました。
●奉納額絵
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菊水法憲会
「楠勢 渡邉橋畔に敵の病兵を救う」とある。

楠正成と白鳥神社は何の関係があるのかしら?

菊水法憲会って河内の英雄、楠正成を顕彰する会?
この額絵、何時からあるのかしら?
かなり新しそうです。

境内左には白長大明神(はくちょうだいみょうじん)と書かれた稲荷っぽい鳥居
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昭和50年3月の寄進者名碑がありました。

村社として生きている神社なのですね。
本殿の屋根の飾り?が不思議な感じがしたので写真をパチリ。意味があるのかないのか~
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さて、神社にある説明版を読んでみましょう。

歴史街道 白鳥神社
白鳥神社の社伝によると
寛永年間(1624~43)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷にあった「伊岐宮」を古市村の産土神として現在の地に移築したとあります。
伊岐宮には日本武尊が祀られていましたが南北朝や戦国時代の兵火によって焼失し、峯ケ塚古墳にある小さな祠として存在していました。
しかし、慶長の大地震(1596)で倒壊するとそのまま放置されたといわれていました。
享和元年(1801)の河内名所図絵には「伊岐宮、誉田の南、5町、古市村にあり、日本武尊の霊を祀って、白鳥神社と称す。

さて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。
南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。
天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。
明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている

この二つの解説をあわせると

次のようにわたしは解釈しました。
何時から軽里の西方の伊岐谷に「伊岐宮」があったかはわからない。それが白鳥陵とよばれていたかどうかもわからない。(いつから白鳥陵と呼ばれていたのだろうか?)
あれっ、現在地に移されたのが、「寛永年間(1624~43)末期」と「天明4年(1784年)」の二つになってますね。
享和元年(1801)の河内名所図絵には載っている。
ということだろうか?


いくつかのサイトにこんな記事がある。
その出典は書いていないが、伝承があるものと解釈している。
現在白鳥神社のあるところは、欽明天皇の賓陵(仮の墓)と伝えられている前方後円墳の後円部にあたるといわれていますが、前方部は近鉄古市駅や国道の造設のため、削られてなくなっているのだそうです。

古代の当地は河内文氏(王仁の子孫)の本拠であり、また百済系の古市村主の居住地であった。

祭神 日本武尊、素盞嗚命、稻田姫命 
     合 饒速日命、廣國押武金日命(欽明天皇)
明治四十一年高屋神社「饒速日命」を合祀、昭和二十九年高屋神社は再度独立したが、合祀した饒速日命、廣國押武金日命を合祭神としている。
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# by jumgon | 2011-06-26 11:15 | ★言語、歴史

白鳥伝説と白鳥陵

白鳥伝説と白鳥陵

先日、羽曳野市古市にある西琳寺を訪れたが古市駅の東側すぐそばに白鳥神社がある。
駅を西へ進むと白鳥古墳もある。

いわゆる白鳥伝説と関係のあるところらしい。

先ず白鳥伝説について確認しよう。

白 鳥 伝 説 
 
日本武尊(ヤマトタケル)は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
 その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えています。
幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。

 体を横たえ、日本武尊は大和への思いを、
 『大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる大和し美し』
 と詠んでいます。

  能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、
琴弾原(御所市)
を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

 亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれ、日本武尊・白鳥伝説は今も息づいています。
(この三市で交流イベントなどやってるようだ。 羽曳野市では市民祭りで「タケル君音頭」によるダンスコンテストもある。)

 ◎ふーむ、白鳥が飛んでいった先にまでお墓を造るの?
   魂が降り立った場所だということで~。
  

 
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)
三重県亀山市にある前方後円墳である。
宮内庁により日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と治定され、日本武尊能褒野陵として管理されている。(今のところ宮内庁はこの古墳を日本武尊陵としているがほかの意見もある。)

能褒野神社
祭神  日本武尊 配祀 弟橘姫命
由緒  日本武尊はこの地で薨ぜられた。明治十六年、社号を能褒野神社として創立された。
◎えっ、明治十六年に創立?
お姿 能褒野王塚古墳の横に鎮座する。この古墳は前方後円墳であり、全長90mの大きいものである。
4世紀末頃の築造と考えられている。
 倭王権で言えば倭王武の時代、記紀で言えば雄略天皇の時代、多くの兵士が東国平定に赴いた時期であり、当地まで帰ってきて亡くなった兵士もいたのだろう。

琴弾原白鳥陵
(奈良県 御所市富田)

訪れた人の記事を読むと地元でも場所を知らない人が多いらしい。
日本武尊白鳥陵、と書かれている。周りは畑と田んぼ。田舎、である。
第六代考安天皇陵から南へ約1km。白鳥陵の東、数100mのところにある山の名前は「国見山」。
訪れる人は他にいない。
小山に向かって畑の中へと進むが、案内板はないのでどこまで進んでいいのかわからない。
たまたま、犬の散歩をしていたおじさんが教えてくれた。この人がいなかったら、拝所までたどりつけなかったかも。

2010年に行った方のブログには日本武尊琴弾原白鳥陵は民家に挟まれた細い道を進んで行きますが、案内板が設置されているので、迷うことはありませんでした。と書いてある。
そんなだからこれに付随する神社はないのかな~。


白鳥陵(大阪府羽曳野市古市)
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羽曳野市のHPを見ると
墳丘長190m、後円部の直径106mの前方後円墳、前方部の幅165mで、幅40〜80mの濠を持つ。日本武尊の陵墓との伝承がある。
と簡単な説明。
◎日本武尊の陵墓かどうかは分からないけど伝承はある、と言うことらしい。
 それにしても大きな古墳ですね。



◎白鳥陵も大きいけれど、応神天皇陵の大きさには改めてビックリ!

                                           つづく 白鳥神社
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# by jumgon | 2011-06-24 23:45 | ★言語、歴史