古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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縄文時代の大阪湾

以前 「ナニワからヤマトへの交通路」
http://jumgon.exblog.jp/14986924で縄文時代の大阪湾の地図をアップしました。


自分でアップしながら無責任なのですが、イマイチ現在の地理との位置関係がはっきりと掴めていませんでした。

6月20日の朝日の夕刊に「知遊自在 地図を歩く」という記事に縄文時代の大阪の地図が載っていました。

現在の大阪の地名が書いてあるので、イメージが確かになってくる地図です。残念ながら地図の写真は白黒なのでわかりにくい。
どこかにないかと探したら、 国土地理院のホームページ掲載の航空レーザ測量によるカラー陰影段彩図なるものがあるのを次のサイトで知った。

十三(じゅうそ)のいま昔を歩こう:大阪アースダイバーへの道
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-419.html


その中にこんな記事がありました。

知ってるつもり?!
縄文時代の大阪
先日の4月16日、ナカノシマ大学4月講座で
「大阪アースダイバーへの道」の講座が行われました。

◎「大阪アースダイバーへの道」なる講座があったんですね!!
 世の中、色々勉強してらっしゃる方がいらっしゃるものと感心しました。


そのサイトから写真をお借りしてきました。

縄文時代前期の後半(約5500年前)
f0215268_22594322.jpg

この地図の右下に 国府(こう)
 という地名がのっていますね。
ここは石器時代の遺跡があるところで「人骨やケツ状耳飾り」が出土しています。
古代人はどうやってこんな内陸までやってきたんだろうと思ってたら納得!(徒歩ではないよね!)
船でここまでこれたんだ。(石器時代には縄文海進はここまで進んでなかったと思うけど、川が使えるからね。

石器時代の遺跡「国府遺跡」
http://jumgon.exblog.jp/i63/



上町台地だけは細長い半島になっています。
JR大阪駅は海の中。
上町台地の突端に大阪城。
へえ~。あの辺ってそんなに高い土地なの?

現代の地図を重ねるとこの様な位置関係になります。
f0215268_23181058.jpg


神社仏閣、墓地などをプロットした地図
f0215268_23185151.jpg


面白いのは断崖絶壁の西側にパワースポットが集中しているところ。

●大阪城
●難波宮
●四天王寺
●住吉大社
などの位置が良くわかりました!!
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# by jumgon | 2011-06-21 22:53 | ★言語、歴史

天平の僧 行基

以前から気になっていた行基について書きとめておこう

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gyouki.html
千田 稔著 「天平の僧 行基」
などを参照しました。

行基 ぎょうき
生没年 668(天智7)~749(天平21)
系譜 父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。
[略伝] 
668年 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれる。
683年 15歳で出家。
(出家得度したお寺は、飛鳥寺、大官大寺など諸説ある。飛鳥寺にはこの時道照がいた筈だが~)
692年 24歳の年、受戒。
 (持統5年・行基菩薩伝によれば戒師は高宮寺徳光禅師であると記している。)
◎高宮寺というのは、奈良県御所市(ごせし)にある「高鴨神社」の南西、標高550メートルの所に金堂跡と搭跡の礎石と基壇が残り瓦も出土しています。)

高宮という地名がでてくる、日本書紀・神功皇后摂政5年の記述
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

http://jumgon.exblog.jp/i42/に書いています。

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◎この高宮という土地は、高宮寺や高鴨神社のある辺りである。襲津彦の娘・仁徳天皇の皇后、磐之媛の実家があったところです。
◎この地図に蘇我氏勢力圏がのってますね。
呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり) の記事に
•雄略14年1月、身狭村主青檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国
身狭・檜隈はこの辺ののことだったのです。 ⇔http://jumgon.exblog.jp/page/2/

ちょっと脱線しました。行基に戻りましょう。

•初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。(このあたりが役小角と共通点を感じる。)
705年頃、(37歳頃)山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年(49才)、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。
また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続けた。

722年(養老6)年(54才)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。行基の影響力を無視し得なくなった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは
●奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。
●法の主な内容
灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。
◇思うように効果があがらなかったようで,20年後には墾田永年私財法が出された。

年代暗記:三世一身の法(ほう)…なにさ(723)3代ばっかしで

731(天平3)年 朝廷は、、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許した。

740(天平12年(行基72才)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。
同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
•聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17・行基77才)年正月には、異例の大僧正に任じている。
また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21・行基82?才)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

◎ 道昭と行基は師弟関係については、師弟関係はなかったとする意見もある。
師弟関係ではなかったとしても、行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて「天下行業の徒、和尚に従ひて禅を学べり」(續日本記)とあることから察して、行基が道照の影響を受けたと見るべきだろう。
行基の後年の社会事業、つまり利他業は、道照のもとで学んだことによる見たほうが自然だろう。

道照と行基の関連
629年  道照(0才)
668年  行基(0才)、道照(40才)
669年  道照(41才)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679年  道照(51歳)10月の勅により、京にもどる。
683年  行基(15才)出家    道照(54才)
692年  行基(24才)受戒・道照(64才)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。
693年  行基(25才)薬師寺   道照(64才)
698年  道照(70歳)大僧都に任命される。 (疑問とする説も多い)
700年  道照(72歳)3月10日没
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# by jumgon | 2011-06-21 14:08 | ○道照・行基・役小角
渡来人西文(かわちのふみ)氏創建の「西琳寺」
(所在地:羽曳野市古市2丁目)

30年近く前「ふるさと歴史散歩」で古市(大阪府羽曳野市)周辺を訪れたことがある。
少し遠いけれどチャリンコで行けないこともない近さだ。
そのとき「西琳寺」へ行ったことは覚えている。
渡来人が創建したと解説を聞いた筈だけど、その「渡来人が」が西文(かわちのふみ)氏らしいことまでは覚えていなかった。
調べてみるとやはり西文(かわちのふみ)氏の創建らしい。
久しぶりに訪れてみよう。

近鉄南大阪線の古市駅から東へ5,6分も歩くとつく。近くには白鳥神社もある。
近いけど見つからないので通行してる方に教えてもらった。

西琳寺西門全景
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境内は広くない。でも古い大きな銀杏の木があり、歴史を感じさせる。
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門を入ると左手に大きな塔心礎がデーンとすえられている。
「これ、本当に塔心礎なの?」というくらい大きい。
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●塔心礎(3.2×2.3×1.5m・約27t)
メチャクチャ大きい!というのが第一印象です。それに27tって重い
wikiには27トンと書いてあるが、2トンとか2,6トンと書いてあるサイトもある。重すぎてピンとこないけどどっちが本当なんだろう?
この前訪問した野中寺の塔心礎と比べると大きさの違いに驚き!

今は、その巨大さを誇るのみになってしまった心礎が、境内西に戻されています。(以前は、大和川堤で碑の台座として使用されていたそうです。)
心礎には、心柱を支える為の添柱穴も見られ(4個か5個か判別不能)、舎利埋納孔は添柱孔の横に穿たれていたそうです。雨水の為に見ることのできない心礎孔の底辺には、「刹」という文字が刻まれているそうですが、創建時のものではないという説もあります。
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塔心礎を上から写した写真です。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/27osaka/sairin/sairin.html
からお借りしてきました。
こんな大きな石の上面をどうやって撮ったのかしら?今の状態だったらよじ登ってまで撮せませんよね。
心礎の窪み、変わった形ですね。

そういえば、野中寺の心礎の穴は花びらみたいな形でしたね。
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野中寺
http://jumgon.exblog.jp/16100144/

この奥に石造五輪塔がある。
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●西琳寺石造五輪塔
昭和32年(1957)、工事中に高屋城跡の土塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。
文安3年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関係した高僧の供養塔とされる。
いずれも花崗岩製で最も大きな叡尊塔とされるものは高さ3.1mあり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりである。


さて、wikiより概略を見てみましょう。

Wikiより
沿革
欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。

創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。
出土品の瓦などから飛鳥時代創建は確実であり、境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。
●これまでの発掘調査によって、創建は飛鳥時代(7世紀前半)であり、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されている。
679年には七堂伽藍が完成しており、流記資材帳によると743年まで七堂伽藍を揃えていたことを確認できるが、安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により中世以前の堂塔ほぼ全てを喪失した。
◎743年ということは聖武天皇の時代です。

●鎌倉時代には、奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)が、寺を中興し、広い寺領を所有し隆盛をきわめた。
東西一町(約109m)、南北二町(約218m)の寺域を持ち、金堂・講堂・五重塔・回廊・鐘堂・食堂。僧坊などを備えた堂々たる大寺院だったという。
それが、天正年間の兵火や明治の廃仏で、建物の殆どを失ってしまった。


羽曳野市HPを見ましょう

西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。
西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。
現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の 丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。
当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。
現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。
この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。

 現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、市役所1階ロビーに展示されています。
ガラスケースに入っていて光ってうまく撮れないのでHPからお借りしました。
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次の二枚の写真左側は裏側(腹側)から撮したものです。
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●鴟尾の全体がうかがえる稀少な例である。胴部と側面と鰭部には段違いの羽根状の模様を削り出し、腹部には火焔宝珠(かえんほうじゅ)と蓮華文(れんげもん)が浮彫りされており、仏教芸術の 新たな史料として注目される。

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# by jumgon | 2011-06-19 22:30 | ○西琳寺(羽曳野市)

道照の父・船恵尺

道昭の父・船恵尺で書き忘れたことがあるので追加します。

道昭の父・船恵尺【ふねのえさか】
 
朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 生没年不詳
7世紀中ごろ,大和王権に仕えた人物。僧道昭の父。
百済 からの渡来人で船氏の祖王辰爾の子か孫という。姓は史,名は恵釈とも書く。
『日本書紀』によれば,
乙巳の変(645)で中臣鎌足,中大兄皇子(のちの天智天皇)らに襲われた蘇我蝦夷が自害したとき,その邸宅にあった「国記」が焼失しようとしたのを火中から取り出して中大兄に献上したと伝える。
このエピソードから元来,文筆に長けた家柄の出である船恵尺が当時,蘇我氏の下で「国記」など歴史書の編纂に当たっていたと考えられる。また西文氏の祖王仁の伝承も,このころ恵尺によって作られたという説がある。<参考文献>井上光貞『日本古代思想史の研究』,山尾幸久『日本古代王権形成史論』
(鈴木靖民)

◎道昭の父・船恵尺と「乙巳の変」、教科書で読んだ歴史が少しずつ具体的に見えてきたように思えます。
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# by jumgon | 2011-06-16 22:16 | ○道照・行基・役小角

渡来人について

歴史書物を読んでいるとあちこちで渡来人の記事が出てくる。
いろいろな時期にやって来た渡来人がいるようなので、整理してみよう。


渡来時期を4つに区分すると・・・
  
Ⅰ 紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

[Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人]

秦氏
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。
弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。
土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。
大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。

東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
平安時代になると,東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではない。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので,互いに対抗意識をもっていたのかもしれない。  

西文氏(かわちのふみうじ)
西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。


[Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)]

5世紀後半頃,今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述がある。
東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。
蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。

http://jumgon.exblog.jp/16100144/野中寺(羽曳野市)でお話した船氏は今来漢人である「王辰爾」を祖としています。

[6世紀頃、来日した渡来人]

彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。

(1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。

(2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。

(3)554年、医博士・易博士・暦博士が渡来しました。

(4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法・天文地理の書を伝えました。

(5)604年、初めて暦を使用しました。

(6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えました。

(7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。

[Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。]
7~9世紀にも多くの渡来人が日本に来ている。
白村江の戦いのあと,百済から多くの渡来人が亡命してきた。
その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり,子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
日本書紀に「余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(天智8年(669年))という記述がある。
鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭にまでなっている。彼らをこの地に移住させ,荒れ地の開墾をさせたのではないかと考えられている。

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# by jumgon | 2011-06-16 21:36 | ★言語、歴史