古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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弟媛はどこに行った?

日本書紀に
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
という記述がある。

阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。
道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。
呉の王は工女、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。

この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。

◎応神天皇37年の春2月1日から応神天皇41年春2月、ということはまる4年かかったということですね
この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

筑紫国に残った「兄媛」に関しては
ブログ<ひもろぎ逍遙>
http://lunabura.exblog.jp/
で詳しく述べられています。

残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。
三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

この続きを
ブログ<ちょっと歴史っぽい西宮>
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402344.html?1307885430#comment-form
よりお借りして書いていきましょう。(一部省略・改変)

ここまでは正史(日本書紀)に記載があります。そしてここからは伝承です。

女性技術者三人を含む阿知使主一行は西宮につきます。阿知使主らは往復で4年。呉を出発してからも長い日々だったでしょう。
一行は武庫の港に上陸、そしてしばしの休憩をとります。そこは、松原が広がる風光明媚な場所であったようです。彼女らは松に身を寄せ、故郷を偲んだとされています。 

その場所には現在、喜多向稲荷神社があります。北に向かっておられるのでそう呼ぶのだと思いますが、御祭神は「織姫大明神」です。

「史蹟 漢織呉織松 染殿池」と石碑にあります。この石碑は大正時代に建てられたもので、そのときはまだ松があったのですね。
日本書紀では「穴織(あなはとり)」でしたがここでは「漢織(あやはとり)」となっています。「綾織」とも書いたりします。
その漢織呉織松はもう枯れてありませんが、染殿池は神社裏にあります。

彼女らはこの池の水を使って糸を染め、布を織ったとされています。今見ればこの池は「水溜り」でしかありませんが、かつては清らかな水がこんこんと湧いていたのでしょうか。
 あれ、武庫の港に着いたのは兄媛を除く3人だったはず。弟媛はどこ行ったんかいな?と思いますけど、これはあくまで伝承。

ところで、この伝承とほとんど同じ話が、大阪の池田市にも残っているのです。
しかも、あっちのほうが充実している(笑)。

その池田の名を冠した「伊居太(いけだ)神社」も正式名は穴織宮伊居太神社で式内社、さらに「呉服(くれは)神社」もあり、その両社の神主は阿知使主の末裔。

この呉服神社から、和装衣服のことを「ごふく」と呼ぶようになったという、実に完璧な伝承です。
染殿井もあります。染殿池ならこっちにもありますが、池田には織殿も「星の宮」として伝えられ、穴織、呉織の没年も伝承として残り、阿知使主らとともに相当に顕彰されています。

池田で歴史散策をやれば、穴織・呉織ゆかりの地が中心になってしまうかも。うーむ。
 しかし、日本書紀には「武庫」に着いたことはちゃんと書かれてあることです。
矛盾無く説明するとすれば、まず一行は西宮に着き、そして仁徳天皇に謁見、そしてその後池田に居を構え、日本の紡績業の元祖としてその発展に力を尽くし、池田に没した。池田には伝承として墓もあるそうです。
 猪名川河畔に「唐船ヶ淵」という史跡があって、彼女らはそこから上陸した、との伝承だけはちょっと納得がいきませんが。着いたのは「武庫」だろう?(笑)。

ところでさっきも書きましたが、日本書紀には「既而率其三婦女」とはっきり書かれています。ところが池田においても「呉織・穴織」の二人です。
 弟媛の足跡が全然たどれません。もしかしたら、彼女は長命できなかったのかも、とそんな想像もしてしまいます。
だとすれば、遠い日本に連れてこられて、織物をこの異国の地に根付かせようという青雲の志もあったやもしれませんが、姉と強引に別れさせられ、そして足跡も残らなかった「おとひめさま」のことに、僕は思いを馳せてしまったりもするのです。

◎「池田には伝承として墓もあるそうです」って!!
 確かあとの三人は飛鳥の栗原に居住したのではなかったかしら?
 一体何が本当のことなのかしら?



●栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。
雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。
『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。
いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。

•雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
•雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
•雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
•雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。
呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である。
 

◎日本書紀の応神記と雄略記を比較してみましょう。
応神記では
使いは、『阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)』・『宗像に兄媛を留めた』・『武庫の津につく』・『武庫に着いたのは遣いのものと3人の工女』

雄略記では
使いは、『身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)』・『宗像での話は無し』・『住吉に着く』・『住吉に着いたのは遣いのものと4人の工女』

だいぶ整理されてきた。
ナルホド、二つの話がごっちゃになっていたのだ。

阿知使主の時は多分「西宮」にも「池田」辺りにも滞在して足跡を残したのだろう。

◎ちなみに、前回の記事で僧、道照が火葬されたのは 「明日香村栗原」だって覚えてられますか?
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# by jumgon | 2011-06-14 20:20 | ★言語、歴史

道照・続日本紀より

道照について「続日本紀」に記述があるので、ここに保存しておきたい。

続日本紀の記述 
和尚は河内国丹比「たじひ」郡の人である。俗姓は船連。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。
 ある時、弟子がその人なりを試そうと思い、密かに和尚の便器に穴を空けておいた。そのため穴から漏れて寝具を汚した。和尚は微笑んで「いたずら小僧が、ひとの寝床を汚したな」と言っただけで一言の文句も言わなかった。
◎えっ、寝床に便器をおいて寝ていたの?
 はじめ孝徳天皇四年に遣唐使に随行して入唐した際に、玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。
◎白雉4年(653年)出発の遣唐使船で入唐したとあちこちの書で書いてあるが、孝徳天皇四年は649年になるので矛盾する。
 「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。今お前こそはあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」
と。また次のようにも言った。
 「経論は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。それよりもお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのがよかろう」と。
道照和尚は教えられたことを守って、初めて禅定(座禅)を学び、悟ることが次第に広くなった。その後、遣唐使に随って帰朝するとき、別れ際に三蔵は所持した舎利と経論を悉く和尚に授けて言った。
 「論語に-人間こそよく道を広めることができる-という言葉がある。今この言葉を私はお前に付け足して贈りたい」と。
 また一つの鍋を和尚に授けて言った。
 「これは私が西域から持って帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いると、いつも霊験があった」と。
 そこで和尚は謹んで礼を述べ、涙を流して別れた。
 帰国の一行が登州(山東省北部の港)についた頃、使いの人々の多くが病気になった。和尚が鍋を取り出して、水をあたためて粥を煮て、遍く病人たちに食べさせた。するとその日すぐに、病気が治った。そこで纜[ともづな]を解いて海に乗り出した。
          

 海のただ中に及んだ頃、船が漂いだしてどうしても進まず、七日七夜にもなった。皆が怪しんで「風の勢いは快調である。出発以来の日を数えると、本国日本に着ける筈だ。それなのに船が敢えて進まないのは、思うに、何かの訳があるのだろう」と言った。
占い師(陰陽師が同船することになっていた)が、「海神竜王が鍋を欲しがっているのだ」と言った。これを聞いた和尚は「この鍋こそは三蔵法師が、私に施して下さったものです。どうして竜王が無理に求めようとするのでしょうか」と言った。しかし皆の者は「今、鍋を惜しんで与えなかったら、恐らく船が覆って全員魚の餌食になるだろう」と言った。そのため和尚は鍋を取って海中に投げ入れた。すると忽ち船は進みはじめ、一行は日本に帰りついた。

 道照和尚は元興寺(飛鳥寺)の東南の隅に禅院を建てて住んだ。この時、国中の仏道修行を志す者たちは、和尚に従って禅を学んだ。
後に和尚は天下を周遊して、路の傍らに井戸を堀り、各地の渡し場の船を造ったり、橋を架けたりした。 
山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。
◎「山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。」
これには異説があります。

和尚の周遊はおよそ十余年に及んだが、寺に還って欲しいという勅があり、禅院に戻って住むようになった。
 座禅は旧の如く熱心に重ねた。
そしてある時は三日に一度起ったり、七日に一度起ったりする状態であったが、ある時、俄かに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き怪しんで居間に入り、和尚を見ると、縄床(縄を張って作った腰掛)に端座したまま、息が絶えていた。時に七十二歳であった。

 弟子たちは遺言の教えに従って、栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。
天下の火葬はこれから始まった。
世の伝えでは、火葬が終わったあと、親族と弟子が争って、和尚の骨を取り集めようとすると、俄かにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、何処に行ったか分からなくなった。
当時の人は不思議がった。
のち、都を奈良に移すとき、和尚の弟と弟子たちとが、天皇に上奏して、禅院を新京(平城京)に移築した。今の平城京右京の禅院がこれである。
◎現在の元興寺のことです。
この禅院には経論が沢山あり、それらは筆跡が整って良く、その上誤りが無い。すべて和尚が唐から持ち帰ったものである。


○栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。
 「日本書紀」   
雄略14年 1月 
   身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
   雄略14年 3月 
   臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
   衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。


http://lunabura.exblog.jp/「ひもろぎ逍遙」にこれに関する記事があります。

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。

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# by jumgon | 2011-06-13 10:42 | ○道照・行基・役小角

おふさ観音バラまつり

おふさ観音はバラのお寺

橿原市にあるおふさ観音というお寺がある。

入場無料で精込めた多くのバラを公開している。
おまけに駐車場は無料。花好きにはありがたいお寺です。

トイレの入口には、男・女などと書いてなくて「善男」「善女」と書かれています。
こんな風にかかれると悪いこと出来そうにない。
なんとも言えず奥ゆかしいお寺だ。

小さなお寺だが境内いっぱい、バラでうめている。バラは鉢植えが中心なので、手入れが大変だと思う。


4月の24日に早すぎるとは思ったが訪れてみたが、早咲きつるバラが門を飾っていた。
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だけど境内のバラはまだつぼみも見えないくらいだった。
白い可憐な花が咲いていた。多分姫リンゴだと思う。
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◎バラにはやはり早すぎた。

それで今日6月11日、お昼過ぎから雨がやんだので再度訪問。
昨日も雨だったのでかなりバラが傷んでいると思ったが今日を逃すとバラの季節が終わりそうな気がしたのだ。
今日はもう2番花の時期になっている。
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そばで見ると昨日の雨で傷んだ花も多い。かわいそうに!
でも境内いっぱいバラで埋めつくされている。
オールドローズを中心に植えられてるとHPで知ってたので楽しみでした。
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アーチの小径
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バラだけでなくクレマチスも色々な品種を集めておられます。
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クレマチスの紫に包まれて黄色いバラがよく映える。
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あんず色のオールドローズ
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これは一重中輪のバラのアーチ
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まるで赤い花びらを食べてるみたいな狛犬。
お寺に狛犬?まっ、いいか。配色が素敵!
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「あれ置物のはと?」と思うくらいじっとしてる、2羽の鳩。そばへ寄ってみるとわずかに胸が動いてる。
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雨にうたれたバラ
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まだまだありましたが、今日はこれくらいで~
駐車場近くの畑で「ちどりそう」が咲いてました。あまりに綺麗ので写真を撮らせてもらいました。
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# by jumgon | 2011-06-12 00:15 | ★散歩、自然観察

野中寺(羽曳野市)

野中寺は渡来系氏族・船氏の氏寺?

前回、続日本紀 700文武4年からの引用した文中に、
道照は、河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連
とありました。

野中寺はその渡来氏族である船氏の氏寺という説がある。

今日は出かける用事があってその帰り道にある野中寺(やちゅうじ)を訪れることにした。

野中寺が見えてきました。
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野中寺の山門に着きました。
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◎「犬を散歩お断り」という立て札。
  そして仁王さんの柵には「猫を捨てないでください」なんて張り紙がある。
  そんなことする人がいるの?


○山門をはいると右手に金堂跡礎石がある
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そして参道をはさんで左側に「塔跡の土壇と礎石」がみえる
○塔の礎石
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真ん中にある、塔の心礎が変わった形をしている!
搭の心礎 手前に目が見える。足も見えるのだが、、、どうやら亀の顔みたいな線刻がある。

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搭跡のよこにピンク色の石棺が~
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解説版によると
○ヒチンジョ池西古墳の石棺だそうです。
  ヒチンジョ池西古墳とは野中寺の南西約1kmの所で1946年(昭和21)に発見された古墳で保存のため野中寺境内に移築されたという。

◎変わった名前ですね。今日は脱線しないで野中寺だけに絞ります。

○かっての講堂跡に建つ本堂
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野中寺は何度も火災にあっている。
南北朝の延元の戦い(野中寺合戦)では、伽藍は悉く灰塵に帰した。
◎そうか、今ある建物はすべて後世のものなのだ。礎石のみが創建当時のものらしい。
境域にはその頃の伽藍跡の土壇や礎石の列が残っていて、創建当時は東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式の伽藍配置だったことが判明している。
金堂跡や塔跡の他にも、中門跡・講堂跡・回廊跡にも多くの礎石が現在も存留しており、国の史跡指定を受けて保存されている。
江戸時代になって寛文年間に慈忍恵猛律師らによって再建されたが、享保年間に火災にあった。現在の方丈や勧学院はその後に再建されたものである。


さて、羽曳野市が作ったホームページを見てみよう(一部省略)

野中寺(やちゅうじ)

聖 徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ「中の太子」と呼ばれています。
創建当時は、野中寺独特の伽藍(がらん)配置で、竹内街道に面して南大門をおく大寺院でした。
現在では境内に、塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っており、国指定の史跡になっています。
方また、野中寺の東方に広がる野々上遺跡では、大型の建物群の跡が発見され、野中寺の造営や維持管理に携わった有力氏族が居住していたところと推定されています。
さらに同遺跡内には、当時の野中寺に使用されていた屋根瓦を焼いたとみられる下田池瓦窯跡(しもだいけかわらがまあと)も検出されています。
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寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。だが、考古学的知見では、境内出土の瓦から創建は7世紀後半とされている。


○渡来系氏族・船氏の氏寺?
 
正倉院文書によれば、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。
船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫である。
王辰爾は百済からの今来(いまき)の渡来人で、欽明天皇の時代に船賦を計録して船長に任じられ、船史姓を賜わった。
○欽明天皇(きんめいてんのう)、第29代天皇・(在位: 539年 12月30日~( 571年 4月15日)

王辰爾の名は、敏達天皇元年(572)にカラスの羽に書かれた高句麗からの国書を読み解いたことで有名である。
 船氏は、葛井(ふじい)氏や津氏と同族で、百済の第14代・近仇首王(きんくすおう)を共通の先祖ととしており、渡来した後もお互いに近くに居住していた。
葛井氏は今の藤井寺、津氏はその西1.2キロの大津神社付近を本拠地としていた。野中寺はこれらの二地点から南1.3キロに位置する。

地図に野中寺、藤井寺、大津神社がみえますね。


【所在】大阪府羽曳野市野々上5-9-24
【宗派】真言宗
【山号】青龍山
【本尊】薬師如来坐像
【開基】蘇我馬子
【アクセス】近鉄南大阪線「藤井寺」駅より羽曳が丘方面行き近鉄バスで約5分。「野々上」バス停下車、すぐ。


船氏、藤井氏、津氏 関係の系図
これは「金達寿」の書物からいただきました
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# by jumgon | 2011-06-08 23:59 | ○野中寺(羽曳野市)

道照と役小角

役小角や行基に興味をもちだした私が今注目しているのは道照という僧です。

道照は役小角や行基と接点のある僧なのです。

今回は「道照と役小角」の関係を探っていきましょう。

道照(道昭)  629年生れ~700年没
役小角     634年生れ~701年没
ほぼ同時代の人物です。

●まず道照の履歴を見ていきましょう。
629舒明1年( 1歳)河内国丹比郡に生まれる。若くして飛鳥寺(元興寺)に住む。
653白雉4年(25歳)5月、遣唐使、貞慧もこのとき参加。玄奘三蔵に師事。

◎貞慧(貞慧・定恵とも書かれる)は藤原鎌足の長男、不比等の兄です。満10歳?

661斉明7年(33歳)この頃帰国。元興寺の東南隅に禅院を建立。弟子に行基など。

669天智8年(41歳)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679天武8年(51歳)10月の勅により、京にもどる。
680天武9年(52歳)天武天皇の勅願により、往生院(大阪府泉南市牧野)を開基。
692持統6年(64歳)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。

698文武2年(70歳)大僧都に任命される。(疑問とする説も多い)
700文武4年(72歳)3月10日没。座禅のまま没した。「記録上火葬された最初の人物」

◎653白雉4年(25歳)5月、遣唐使として、中臣鎌足の長男貞慧らとともに参加します。中国ではあの孫悟空で有名な玄奘三蔵に師事したとあります。玄奘三蔵について気になる記事があるので引用いたします。
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.htmlより
●玄奘三蔵について
インドへ取経の大旅行を敢行したあの玄奘三蔵は少林寺で修行したことがあると思われる。。

●嵩山少林寺
拳法の寺として知られる嵩山少林寺の開基者・仏陀禅師はインドの人で諸国をへめぐった後、北魏の孝文帝の庇護により嵩山少林寺を開創(496年)する。
仏陀禅師の高弟・慧光、僧稠も武術をよくしたといわれ、その法系には仏陀禅師が没し、その10年あまり後にダルマさんの愛称で親しまれているインド僧・達磨が中国にやって来た。

◎この記事を見ると、道照や貞慧も玄奘三蔵から拳法(武術)の修業を受けたと思われる。

さて道照は660斉明6年(32歳)頃帰国したようです。もといた元興寺の東南隅に禅院を建立し、ここを基点に修行したようです。

そこでこの役小角と道照の接点です。
日本霊異記に紹介された役小角を「聖」すぐれた能力者であると認めた人物に道照がいます。
道照について、続日本紀はまれにみる長文をもって彼の小史を載せています。

日本霊異記22にも載せられた讃辞より長いのです。朝廷からの信頼の大きさがわかる一文です。

その道照が若い頃から修行に励む役小角を褒め称えたようです。山に籠り厳しい修行を自分に課す仙人、役小角行者を知るものだからこその讃辞です。

黒岩重吾氏は「役小角仙道剣」で役小角にこうした舶来の学問を授けたのは、道照あたりではなかったと卓越した視点で書いておられます。

伝承でも650白雉1年 役小角17歳のとき、飛鳥寺(元興寺)で、孔雀明王の呪法を学ぶとあります。このとき、道照も飛鳥寺にいたはずです。唐に留学する前ですね。少なくとも、この頃から道照と役小角は知り合いであるわけです。


○孔雀明王とは
元々は梵名は孔雀を意味するマカマユリ。
孔雀は毒蛇を食すので一切の害毒を除き浄化する功徳を神格化した女性の明王。仏母大孔雀明王菩薩ともいいます。
 インドではコブラなどの毒蛇を食べる孔雀を益鳥として大切にしていました。
毒蛇は人の世の煩悩や汚れにたとえられるので、毒蛇を退治する孔雀は神格化されました。また、雨期の到来をいち早く告げてくれるので慈雨をもたらす有り難い鳥としてインドの国鳥にもなっています。

経典と信仰
「仏母大孔雀明王経・不空訳」。「「孔雀王呪経」に孔雀明王が前生で僧であったとき毒蛇にかまれ死んだので蛇毒を除く誓願を立てたとされる。
修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)はこの孔雀明王を信仰して超人的仙術を得、飛行自在になったという。
◎飛行自在だなんて、ちょっと信じられない!!
 高度な肉体能力があったので、誇大に神秘化されたのだと思う。
 でも役小角は道照や行基とは違ってその力を社会事業には発揮しなかったのですね。
 ただの超能力者におわったみたい。(これはわたしの単なる印象です。)


また、天台密教の伝教大師最澄、真言密教の弘法大師空海など密教でもこの仏を重要視し雨乞いや息災を祈願する孔雀明王法が修された。平安後期から鎌倉時代にかけ信仰を集めた。


もう少し、道照を追います。

続日本紀 700文武4年

「3月10日 道照和尚が物化(死去)した。天皇はそれを大変惜しんで、使いを遣わして弔い、物を賜った。和尚は河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連、父は少錦下(従五位下相当)の恵釈である。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。~」宇治谷孟 訳

日本で記録上、火葬すなわち荼毘に付された最初の人物と言われています。

そして、2年後、702大宝2年12月22日、持統太上天皇も火葬されました。

皇室でも初めてのことと言われます。明らかに、道照を見習ったものです。道照の教えに大きな影響をうけ仏教に帰依したものです。

これはとんでもないことだったはずです。一般の古い風習に従わず、愛し尊敬し続けた夫、天武天皇の持つ死後の道教の概念を踏襲することなく、自分の肉体を1年後の12月17日とはいえ火葬させたのです。
この一年におよぶ殯(もがり)の儀式は行われ、復活への思いは残したようです。

◎持統天皇が自分を火葬させたなんて知らなかった。
私の持統天皇へのイメージはこれで変わりました。

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# by jumgon | 2011-06-08 00:25 | ○道照・行基・役小角