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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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日本人~はるかな旅展 より

そして日本人がうまれた

縄文人は、四角く立体的な顔で、小柄ながら筋肉質の身体つきをしていました。
およそ2300年前に中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人は、長く平坦な顔で、大柄な身体つきをしていました。
彼ら渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成しました。彼らと共に渡来した文化は、在来の縄文文化と融合して、弥生文化を生み出しました。
水田稲作技術は、食生活だけでなく、日本人の意識をも変えていくことになります。
渡来系弥生人の影響が少なかった北海道と沖縄では、それぞれアイヌと琉球人が縄文人の姿形を色濃く残しながら、独自の文化を築いていきます。その結果、いま、日本列島には、アイヌ・本土人・琉球人という三つの民族集団が住んでいるのです。(後に述べますが、今では別の見解が現れています。)

○縄文人の姿
日本列島では、4~3万年前の後期旧石器時代には人間が住み始めていたことは確実です。しかし、その時代の日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは、まだ良くわかっていません。わたしたちの祖先の姿をはっきりと見ることができるのは、縄文時代からです。

○縄文人の顔
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◎頭蓋骨を見ても私たちには顔を想像できないからイラストを借りてきました。
 でもイラストは思い込みを作ってしまう危険性もありますね!


(縄文人復元胸像・3500年前・若海貝塚出土人骨に基づく・国立科学博物館蔵)
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○あらたな民族の侵入:渡来系弥生人
およそ2300年前、西日本には、縄文人とはまったく異なった顔だちや身体つきの人々が現れました。渡来系弥生人とよばれる人々です。
彼らによって、水田稲作の技術と金属器の文化が大陸から伝えられ、人々の生活は大きく変化していきました。
○渡来系弥生人の姿
渡来してきたと考えられる弥生人の骨が最初に見つかったのは、山口県の日本海に面する土井ヶ浜遺跡です。
彼らの人骨は、これまで発見されていた縄文人の人骨とはまったく違っていました。
(弥生人復元胸像・1世紀・土井ヶ浜遺跡出土人骨に基づく・国立科学博物館蔵)
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渡来系弥生人イラスト・(イラスト 石井 礼子)
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○渡来系弥生人の故郷を中国に求めて
渡来系弥生人によく似た頭骨が発見されている中国の遺跡
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渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。
最近の調査により、水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人によく似た人骨があいついで見つかっています。
この時代の中国は、政治的に動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

○弥生人の生活
紀元前4~5世紀ごろ、九州、四国、本州で水田稲作が始まりました。しかし、南西諸島や北海道は食料採取に依存していました。稲米は、粒が大きく収穫量は多く、保存もよかったのです。
ブタの飼育も始まりました。鉄器は実用品として、青銅器は祭り用として発達しました。
土地と水、富をめぐって戦いが始まり、交通路の掌握や朝鮮・中国との外交権をめぐる戦争へと発展していきました。こうして、集団内にも集団間にも、支配・従属の関係が次第に作られていったのです。


○アイヌ・本土人・琉球人
日本列島に住んでいる私たちは、単一民族ではないことは明らかです。
アイヌ、本土人、琉球人 は、それぞれ長年にわたって独自の誇り高い文化を築き上げてきました。
しかし、祖先をたどれば、お互いに無関係ではないことがわかります。日本列島に広く分布した縄文人と、現在の私たちとは、どのような関係にあるのでしょうか。

○古墳時代以降の日本人
大陸からの渡来民の流入は、古墳時代の終わりの7世紀頃まで続きました。この間、大陸からの新しい文化や技術を持ち込んだ渡来民は、本州を東に進んで近畿地方に進出し、大和朝廷を築き、さらに関東、東北へと、先住の縄文系の人々と混血しながら進出していったようです。
このような混血により古墳時代の末には、渡来民が主体となって現代の本土人の原型がほぼできあがったと考えられています。一方、北海道と沖縄地域では、縄文系の人々が主体となって、それぞれ現代のアイヌと琉球人になっていったと考えられています。


○日本人の二重構造
日本人の顔をみると、平坦でのっぺりした顔や立体的で目鼻立ちがはっきりしている顔など変化に富んでいます。
しかも、地域によって、傾向が違っています。これは、縄文系の人々をベ-スに、渡来系の人々が地域によってさまざまな程度に混じり合うことによって、日本人が成立したためと考えられています。
西日本の人々は渡来民の遺伝子を多く受け継いでおり、東日本の人々では縄文人の遺伝子がやや多くなっていることが、骨の形態から推定されています。

縄文系と渡来系の人々の体の違い
身体特徴            縄文系の人々              渡来系の人々
顔形               四角/長方形                  丸/楕円
造作の線構成            直線               曲線
プロフィル               凹凸              なめらか立体的   
彫りの深さ             立体的                  平坦
眉             太い/濃い/直線              細い/薄い/半円
ヒゲ                  濃い/多い              薄い/少ない
 まぶた                 二重              一重
頬骨                   小さい                大きい
耳たぶ                大きい/福耳             小さい/貧乏耳
耳アカ                 湿る/飴耳               乾く/粉耳
鼻                    広い/高い                狭い/低い
唇                      厚い                 薄い
歯                     小さい                 大きい
 口元                 引き締まる                出っ張り気味
四肢の末端             長い                  短い
体毛                  多い                  少ない


◎自分は縄文系か弥生系かみてみたが、どちらも混じっている。

○分子レベルでみた日本人のルーツ
日本人の起源については、最近著しく発達したDNA(遺伝子を構成する細胞内の物質)解析による研究もたくさんあります
。日本列島には、人々の移住によって、いろいろな遺伝子が外から入ってきたようで、それぞれ違った傾向を示しています。その結果、さまざまな解釈が生まれていますが、たとえば、

①日本人の祖先集団は決して1つや2つではなかったという考え方
②琉球人は本土日本人や韓国人と似ているがアイヌとは似ていないという考え
③アイヌと琉球人は共に縄文人の子孫なので類似していて、その起源は中央アジアだろうという考え方などがあります。


今まで」私が参照してきたのは
「私たちはどこから来たのか」~日本列島人の起源に迫る~というテレビ番組をまとめたものです。(2001年)
それに関する論評を加えられている伊藤氏のHPを紹介します。
NHKハイビジョン特集を論評する
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/014_1NHK_hi-vision_tokusyuu_2010-06-13.html
興味のある方はご覧ください。このブログではあまりに専門的で煩雑になるので引用はさけました。

その中から
一つだけ興味深くわかりやすい記事があったので紹介します。
「新しい見解が出てくる背景には、新しい発見や研究があったことは言うまでもない。 NHK特集が提示しているのは次のようなものである。」
  「港川人は縄文人の祖先ではなかった」(2010年6月)
「海部陽介氏の研究の結果から湊川縄文人の想像図がのせられている。」
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◎オーストラリア先住民・アボリジニなどに似ていますね。

○縄文人流入の3ルート
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馬場は、縄文人について次のようにまとめる。
「これまで言われていたように、1つのルートからやってきた人が均一の縄文人を形成した、という話からはずいぶん変わってきた。たとえば、mtDNAの解析によって縄文人が多様なことが非常にはっきりしてきた。」

◎ナルホド~この地図では縄文人は違う年代に三ヶ所から流入してきたことになっている。
◎これからもわかるように、今回わたしがお勉強した日本人の起源に関しても学問が進むに連れて書き直されていくものがあると思う。
これまでまとめてきたものは、現時点でのおおまかな考え、ということになるのでしょうか?

# by jumgon | 2011-06-03 22:10 | ○日本人はどこからやって来たか
日本人~はるかな旅展 より

成熟する縄文文化

およそ1万年前の完新世になると、黒潮の分流が対馬海流となって日本海側にも進入し、現在と同じように温暖湿潤なモンスーン気候が広く日本列島を覆いました。
各地に実り多い恵みをもたらす森林が発達した結果、陸海のさまざまな食料資源を活用し、豊かな文化を育む縄文時代人の生活が始まったのです。
南九州では、豊かな照葉樹林のなかで大集落が発展しましたが(上野原遺跡)、約6500年前の鬼界カルデラの巨大噴火で、南の縄文文化は消滅してしまいました。
青森県では、対馬海流を利用した「海の交易センター」が成立し(三内丸山遺跡)、北海道礼文島には貝アクセサリーの工場が存在していました(船泊遺跡)。

○縄文時代総論
日本列島で土器が出現した約1万2000年前から、水田稲作農耕が始まる約2300年前までの、採集経済のもとで定住生活をおくった時代を「縄文時代」、その時代の文化を「縄文文化」と呼んでいます。
縄文文化は、完新世の温暖湿潤な自然環境に適応し、大陸から離れた日本列島内で1万年以上も持続した、世界でも例のない食料採集民文化です。また、本格的な農耕・牧畜をもたない日本型の「新石器文化」といってもよいものです。

○年表、南九州縄文文化の先進性
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○上野原遺跡(約6500年前の鬼界カルデラの巨大噴火で南の縄文文化は消滅)
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鹿児島県上野原遺跡は、桜島を望むシラス台地(姶良カルデラの火砕流)上にあります。
発掘調査で縄文時代早期の二つの時期の大規模集落が発見されました。
約9500年前の時期は、竪穴住居、集石、連結土坑、土坑、道跡など多数の遺構が整然と配置され、日本最古、最大規模の定住集落が明らかにされました。
約7500年前の時期では、集石と大型壺形土器、磨製石斧などを埋納した祭祀遺構、そして10万点におよぶ土器、石器、装身具などが発見され、南九州地域に先進的な縄文文化(貝文土器文化)が早くから開花していたことがわかります。

上野原遺跡想像復元図
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◎上野原遺跡からはこんな石器も出土しています。不思議な形ですね。一体何に使ったものでしょう?
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(異形石器・7500年前・上野原遺跡出土・鹿児島県教育委員会蔵)

○青森県三内丸山遺跡
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青森県三内丸山遺跡は、陸奥湾を望む高台に構築された約5000年前(縄文時代中期初頭)を中心にした巨大集落です。
広さ約5万m2が発掘され、住居、墓、倉庫、やぐら、ゴミ捨て場などが台地上や斜面にまで密集して数多く確認され、4万箱にものぼる土器片の出土がありました。
遺物の中には、各地の貴重な原石で製作された装身具などが数多く出土しました。北海道や長野県の黒曜石でつくった矢じり、秋田県のアスファルトが付着した矢じり、新潟県のヒスイ玉、岩手県のコハク原石、琉球列島のイモガイをまねた土製品などが発見され、ここが北の交易センターとしての重要拠点であったことがわかります。


○三内丸山交易センター
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三内丸山遺跡からは「交易品」の、ヒスイ製の玉類、黒曜石製の矢じり、コハク原石、アスファルトが付着した矢じり、イモガイをまねた土製品などが発見されています。これらの貴石や貴重品はそれぞれの地域の特産品であり、はるばる日本海を丸木舟でわたってこの地に運ばれてきたものです。
三内丸山遺跡出土・けつじょうみみかざり・ケツ(王+決)状耳飾
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(5000年前・三内丸山遺跡出土・青森県教育委員会蔵)
◎あれ、けつじょうみみかざりは藤井寺市の国府遺跡からも出土している。(国府遺跡は墓地として数時代にわたり使用されたようだ。)
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石器時代・国府遺跡 ⇔ http://jumgon.exblog.jp/i63/

○最北に生きた縄文人
上野原遺跡や三内丸山遺跡の発見により、縄文人は、私たちのイメージをくつがえすほど豊かな生活をしていたことが明らかになりました。
さらに驚くことに、日本の最北端、礼文島の船泊遺跡では、小さな北の島の縄文人が、想像以上にダイナミックな交易をおこなっていたことがわかりました。
○船泊遺跡
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船泊遺跡は礼文島北部の船泊湾の砂丘に位置します。発見されたのは、今からおよそ3,800~3,500年前の縄文時代後期の竪穴式住居の跡と墓です。
○船泊遺跡・縄文人の顔
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礼文島は、ロシアのサハリンや沿海州にもっとも近い島です。
そのため、発掘当初は、埋葬されていたのは面長で平らな顔立ちをした北方アジア系の人たちかもしれない、と想像されました。しかし、壊れた人骨を復元してみると、幅が広く上下に短い顔面、出っぱった眉間、隆起した高い鼻など、彫りが深く四角い顔立ちが浮かび上がり、まさに本州で見られる典型的な縄文人そのものでした。

○南方との交易品
船泊遺跡には、はるばる本州や九州などから海を越えて持ち込まれたとみられる交易品がたくさん見つかっています。
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(マクラガイ製ブレスレット・3500年前・船泊遺跡出土・礼文町教育委員会蔵)

イモガイ、マクラガイやタカラガイは南の暖かい海に生息する貝です。特にイモガイは日本では九州や沖縄でしか採れません。はるばる日本の南から北の果てまで交易品として伝わってきたのです。

○翡翠製のペンダント
このヒスイのペンダントは、7号墓に埋葬されていた男性が身につけていたものです。ヒスイは新潟県糸魚川周辺が産地で、はるばる礼文島まで持ち込まれたのでしょう。ヒスイは貴重品です。身につけていた男性は村のなかでも相当に地位が高かったのかもしれません。
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ヒスイ製のペンダントをつけた7号墓の男性人骨
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ヒスイ製のペンダントをつけた7号人骨の復元想像図
(イラスト 石井 礼子)

船泊遺跡からは、シベリアやサハリンなどの北方の人々とも盛んに交易していたことを示す品々も見つかっています。
ビノスガイ製のアクセサリー
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これと同じ貝玉アクセサリーは、はるか遠くのロシアのバイカル湖あたりからも発見されています。ロシアから持ち込まれたのでしょうか。船泊遺跡からみつかった貝玉の総数は数万点にもなります。自分たちが身につけるにはあまりにも数が多いのです。実は貝玉製品を作製するための道具一式が船泊遺跡からみつかっています。貝玉は、ロシアから持ち込まれたのではなく、礼文島の縄文人が大陸の人々との交易品として自ら作っていたのです。
礼文島縄文人の交易品ルート
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                                               つづく
# by jumgon | 2011-06-02 21:34 | ○日本人はどこからやって来たか
日本人~はるかな旅展 より

黒潮の民・・・スンダランドからの旅立ち
およそ6万年前にアフリカを出発し東南アジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)たちは、海水面の低下によって生じた広大なスンダランド(インドネシアとその周辺を含む亜大陸)を発見しました。
彼らは、気候がよく豊かな食物資源に恵まれていたスンダランドで人口をふやし、次への発展に備えていました。
ある人々は、海を越え、東隣のサフールランド(オーストラリアとニューギニアを含む大陸)へと旅立っていきました。
また、陸を踏破し海を越え、何世代もかかって、中国や日本列島にやってきた人々もいたことでしょう。

○スンダランドは海洋民の故郷
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約7万年前頃からはじまる最終氷期には、海水面が低下したり上昇したりをくりかえしました。
海水面が低下したときには、現在のインドネシア付近の島々は、ひと続きとなってスンダランドと呼ばれる陸地になっていました。
海水面が上昇したときには、今と同じような島々に分かれました。
アフリカからきた新人(ホモ・サピエンス)は、陸上の食物だけでなく、丸木舟やイカダを使って海洋の食物を利用し、徐々に人口をふやしていきました。
東南アジア海洋民の誕生といえるでしょう。
やがて、彼らは、ここスンダランドを新しい故郷として、アジア各地に移住・拡散していきました。
丸木舟で黒潮に乗って北上し、琉球列島にまで到達した人々がいたことでしょう。彼らの子孫が、港川人や縄文人になったと考えられます。

◎日本神話や昔話にオセアニアなどの地域と共通のもの(ハイヌエレ神話)がありますね。
 もう何十年も昔に初めてこれに関した本を読んだとき、短絡的に「源日本人はオセアニアからやって来た」なんて思いました。そのうちそんな単純なものではないと知ったのですが~


ハイヌウェレ型神話について
ひもろぎ逍遙でも言及されています。
http://lunabura.exblog.jp/15336975

ハイヌウェレ型神話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハイヌウェレ型神話(ハイヌウェレがたしんわ、ハイヌヴェレとも)とは、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。ヴェマーレ族のハイヌウェレの神話は次のようなものである。
ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。
あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。
ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布している。それらはみな、芋類を栽培して主食としていた民族である。
イェンゼンは、このような民族は原始的な作物栽培文化を持つ「古栽培民」と分類した。彼らの儀礼には、生贄の人間や家畜など動物を屠った後で肉の一部を皆で食べ、残りを畑に撒く習慣があり、これは神話と儀礼と密接に結びつける例とされた。
日本神話のオオゲツヒメや保食神(ウケモチ)・ワクムスビにもハイヌウェレ型の説話が見られ、東南アジアやオセアニアから伝わったものと考えられる。
しかし、日本神話においては、発生したのは宝物や芋類ではなく五穀である。よって、日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦中国南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと考えられている。

○黒潮圈文化
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黒潮は日本海流とも呼ばれる暖流であり、世界で最大最強の海流です。
黒潮は、フィリピンの東海上で誕生し、太平洋岸を流れ、日本列島の中央部以北まで到達します。
氷期には、海水面が下降していたために、黒潮は日本海には入り込んでいませんでした。
約8000年前頃になると、黒潮本流は東シナ海のトカラ海峡あたりで二分し、分流(対馬海流)が北上し日本海側に流入しました。
こうして日本列島の広い範囲が黒潮の影響を受けることになり、現在と同じ温帯モンスーン気候になりました。日本列島の文化は、温かい黒潮の恵みを多く受けており、黒潮圏文化と呼ぶことも可能です。
鹿児島の栫ノ原(かこいのはら)遺跡から、身が円筒形で刃部が丸ノミ状であり、頭部が亀頭状にふくらんだ珍しい形態の磨製石斧が発見され、「栫ノ原型石斧」と命名されました。栫ノ原型石斧はチョーナ型(横斧)で、その用途は木材伐採や一般加工ですが、特に「丸木舟」の製作に使われたと考えられます。


○栫ノ原(かこいのはら)遺跡(鹿児島)栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧(レプリカ)NHKスペシャル制作班蔵
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浦入遺跡の丸木舟・・・縄文時代の外洋船
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日本でも縄文時代には、人々が海と深くかかわっていたことを示す証拠があります。
京都府舞鶴市浦入遺跡は、日本海に面した舞鶴湾の外海との出入口に位置しています。
この丸木舟は舳先(前の方)を南の海側に向けて約50cmの深さに埋まっていました。
丸木舟をよく観察してみると、材料は直径2m前後のスギ材を半割りしたものであり、焼いた石を表面に置いて木材を焦がしながら、磨製石斧でくりぬいたものであることがわかりました。
遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見され、当時の船着場と考えられます。遺跡の位置からして外洋漁業の基地だったのでしょう。

○黒潮の道ー南方旧石器文化の流れ
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東南アジアの島々から南中国、台湾にかけて、不定形の剥片を使用した旧石器文化が分布しています。
同様な石器群が、琉球列島の徳之島、奄美大島、さらに東京・武蔵野台地の旧石器遺跡にも確認されており、南方からの石器文化の流れがあったと考えられています。

私たちの祖先港川人
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港川人というのは、沖縄県具志頭村港川石灰岩採石場で1970年に大山盛保によって発見された化石人骨に付けられた名前です。
彼らの年代は、放射性炭素法によって、1万8000~1万6000年ほど前と推定されています。港川人の骨は4体分の骨格が残っていて、これらの人骨によって後期更新世時代の日本人の祖先がどのような姿形をしていたかが初めて明らかになりました。
港川人の骨は、日本人の祖先の骨格として重要なだけでなく、東アジアの新人化石の中で最も保存が良く、アジアにおける新人の進化を解明する上で貴重な資料です。

○港川人から縄文人へ 
港川人は、顔は縄文人と似ていますが、前頭骨が小さく後頭骨の上半分が突出する点や四肢骨の筋肉付着部が発達していない点では、縄文人とは似ていません。
上部港川人や浜北人は、時代も新しく、大腿骨の筋肉付着部が発達しているところは縄文人とそっくりです。

おそらく、港川人と同じような人々が、生活技術の発展あるいは環境の変化によって上部港川人や浜北人のような人々に進化し、さらに縄文人になったのでしょう。やがて、縄文人は、日本列島各地で人口をふやし、独自の豊かな文化を築いていきます。


                                  つづく



                                     
# by jumgon | 2011-06-01 12:01 | ○日本人はどこからやって来たか
日本人はどこからやって来たか?
先日「勢野東遺跡」で石器時代の石器工房跡が見つかったというニュースがあった。
日本には他にも石器時代の遺跡がある。

いわゆる弥生人(渡来人)がやってくる前から人々は住んでいた。
この人たちはどういうルートで日本列島にやってきたのだろうか?
そしてどういう人種?だったのだろうか?

今まで日本人の遺伝子分析や血液型、指紋、言語、神話 などから様々なアプローチがなされてきた。
何年か前にNHKで[日本人~はるかな旅]という番組を放送していた。
それをまとめた
日本人~はるかな旅展のHPを見つけた。http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/index.html#

日本人のやって来た道は、私の手に負えない話だからお勉強にそれを読んでいこう。


日本人~はるかな旅展

私たちはアフリカで生まれた
私たち日本人の祖先となる集団が、日本列島へ最初にやって来たのは、今から4~3万年前だったと考えられます。
彼らは、およそ10万年前にアフリカで誕生した新人(ホモ・サピエンス)の直接の子孫でした。日本列島における人類の歴史を見る前に、人類がアフリカで誕生してから、新人に進化し、そして世界へ拡散していった、600万年に及ぶ長い歴史を振り返ってみましょう。

○ホモサピエンスの世界進出
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◎スンダランドというのが地図に見えますね。これについては又後ほど出てきます。

この地図は、新人(ホモ・サピエンス)がそれぞれの地域へ進出した年代の推定値と、考えられる主な移動経路を示しています。
それぞれの地域への進出には、さまざまな困難があったはずですが、 私たちの祖先は、新しい技術や状況に応じた工夫によってそれを 乗り越えていきました。
地図を見ながら、私たちの祖先が旅先で 演じたであろうドラマを想像してみてください。
たとえば、オーストラリアへ渡ったオーストラリア先住民の祖先たちは、偶然の漂流もあったかも知れませんが、海を渡るだけの装備や航海術を考案していたことでしょう。また、厳寒のシベリア地域をさらに北へ進むには、新たな防寒具や狩猟具などを開発する必要がありました。

○氷河時代の日本列島
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日本列島に新人たちが現れるのは、およそ4~3万年前のことです。
この時期には、海面低下の影響で、陸地が拡大し、日本列島周辺の海岸線は今とはずいぶん異なっていました。日本列島の一部では、大陸と陸続きになったり、大陸との間の海峡が非常に狭くなったりしました。列島に現れた日本人の祖先たちは、どこからやってきたのでしょうか?

マンモスハンター・・・シベリアからの旅立ち・・
シベリアは、かつて「白い静寂の大陸」あるいは「マンモスの大陸」とも呼ばれた地域です。アフリカで誕生した人類が、なぜ、この酷寒のシベリアをめざしたのでしょうか。人類史の七不思議のひとつであり、今なお確かな理由はわかりません。
しかし、2万年以上前の旧石器時代、技術開発と創意工夫によって寒さに挑戦し、ついには寒さを味方にして、シベリアでマンモスを狩って暮らしていた人々がいたのです。
そして、彼らが私たちの祖先集団の一つであったことが近年の研究で明らかにされています。

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○黒曜石の道~北方旧石器文化の流れ
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中国北部、蒙古、シベリアなどおよそ北緯40度以北には、後期旧石器時代の石刃技法や細石刃技法を特徴とする旧石器文化が広がっています。
日本の旧石器文化は、これら北の旧石器文化が、朝鮮半島やサハリンを経由してもたらされたものです。また、石器の材料となる北海道の黒曜石がサハリンや大陸に運ばれていて、大陸と日本列島を行き交う人々の様子が解明されつつあります。
北海道の白滝・赤石山は、日本有数の黒曜石産地で、推定埋蔵量60億トンともいわれています。黒曜石の産出地を中心として、集落における石材搬出のための分業システムや中継地など、広大な流通ネットワークが存在したことが推測されています。

◎北海道から黒曜石がサハリンや大陸に運ばれていってたのですね。
 一方的に文化がやってきただけではないようです。


次回は
黒潮の民・・・スンダランドからの旅立ち
 を読んでいきましょう。
# by jumgon | 2011-05-31 22:28 | ○日本人はどこからやって来たか
ナイフ型奈良・勢野東遺跡で約2万点の石器出土 石器製作の工程知る資料2011.5.27 18:57 (サンケイニュース)

◎地図を見るとわかるが「法隆寺」「龍田大社」に近い場所だ。以前龍田大社を訪れた時勢野という地名のところで道に迷ってウロウロした覚えがある。

奈良・勢野東遺跡で見つかった縄文時代草創期初頭の石器工房跡(奈良県立橿原考古学研究所提供)
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 奈良県三郷町の勢野(せや)東遺跡で、縄文時代草創期(約1万5000年前)の石器工房跡が見つかり、県立橿原考古学研究所と同町教委が27日、発表した。

狩りで使う槍先形尖頭器を作っていたとみられ、石器約2万点が出土した。橿考研は「石器工房跡が見つかるのは西日本では珍しく、一連の工程を知る資料として価値が高い」としている。
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 石器は1センチから十数センチまでの大小さまざまな破片が大部分を占め、最初から最後までの製作工程を示している。完成品はほとんどなく、尖頭器とわかる石器は30点以上あったが、製作途中で割れた“不良品”が大半だった。

 出土状況から、川べりで、縄文人が石のハンマーを使って石器の形を整えていたとみられる。石材は、9キロ南の二上山で採れるサヌカイト(安山岩の一種)と推定される。

 藤野次史・広島大准教授(旧石器考古学)は「製作の様子だけでなく、石を採集した人と石器を使った人のつながりを考える基礎になる遺跡になるだろう」と話している。

 石器は6月1~9日、三郷町役場隣の町文化センターで展示される。


石器工房の遺跡として、大阪羽曳野市の翠鳥園遺跡がある。
http://jumgon.exblog.jp/i60
これは約1万8千年前から続く工房だ。
ここの石も二上山で採れるサヌカイトだ。
●翠鳥園遺跡の旧石器時代のナイフ型石器
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のちの時代にいわゆる渡来人と呼ばれる人が日本列島にやってくる前にすでにどこかからやって来た人がいたのだ。

それについて色々調べている。
定説はないが、おおすじ考えられるルートが学者の研究で分かってきているようだ。

次回はそれについて書きたいと思っているが、、、、、
まとめられないで収拾がつかなくなりそう~。
# by jumgon | 2011-05-31 09:47 | ○旧石器時代の勢野東遺跡