古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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龍田神社

「龍田神社」

◎田中八郎氏の本で、「竜田の神」・竜田神社と「広瀬の神・広瀬神社」が崇神天皇を悩ませたような記述がある。

●竜田は、弥生の頃の原始的な風による製鉄?(大きなタタラ場は奈良時代以降で、それ以前の風による野タタラ)をおこなう金属加工技術者がいて勢力があった。
●広瀬神社の方は「忌神」とされていた。(ナニワと大和を結ぶ水運の要の地を抑えていて勢力があった。


日本の神々・神社と聖地(谷川健一編)より・・・一部抜粋
広瀬大社
奈良盆地を潤す富雄川・佐保川・初瀬川・寺川・飛鳥川・蘇我川・葛城川・高田川の合流地点に鎮座する。
室町中期以前は盛観を窺い知る記録があるが戦国乱世においては縁起だけでも残すのがやっとであっただろう。天文14年(1546年)に社殿の復興があり、以後歴史を経、現在の春日作りの本殿は、正徳元年(1711年)に造営されたものである。(大矢良哲)


そういうわけで、この二社は以前から気になっていた。
今年さいごの紅葉を見がてら「竜田神社」にまいってきた。
有名な神社だけど、HPで調べても駐車場のことはどこにも書いてないので「車を停めるところはあるだろうか?」なんて心配しながらJR三郷町へ向かう。

駅から徒歩5分と書いてあった。
そのあたりに近づくと「七五三まいり」とかかれた旗がいっぱいはためいている。
さすがに歌にも読まれた神社だ。かなり社地は広そうである。
そして、20~30台は停めれる大きな駐車場があった。

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◎この鳥居のあし、どこかで見たことある。
 そうだ、「辛國神社の鳥居もこの形だった。(色は赤くないけど、、、)⇒★神社⇒辛国神社
 扁額には「竜田宮」とある。

境内は広く、木が多く今もなお氏子さんの多い神社だと分かる。

この神社のしめ縄はすべて「左綯え」だ

これが田中八郎氏の言うように<王朝予備軍にたいする反骨のなごり>になるのかどうか分からないけど、、、>
時代が下って天皇から武家の時代になってからは、縄文・弥生神たちも朝廷となかよくしてるようです。
大神神社だって拝殿には菊の御紋がついてますから。

WIKIより
祭神
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)を祭神とし、龍田風神と総称される。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(しながつひこ・男神)、国御柱命は級長戸辺命(しながとべ・女神)のこととされている。

歴史
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。

正史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田に祀らせたとの『日本書紀』の記事が初見である。『延喜式』では名神大社に列し、二十二社の一社とされた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に龍田神社として官幣大社に列した。


境内には摂社が色々あるが後の時代に勧請されたものなので省略。
八幡さまは何時から祀られているか不詳ということで、おそらくかなり古い時期から鎮座しているのではないかとおもう。
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戦争の犠牲者を祀る「忠魂碑」もあった。

◎神様というのは、人間の要望でいくらでも増える。
 単科別に、「武神を祀る神社」「目の病に効く神様・神社」「商売の神様」
 「五穀豊穣の神様」etc.....
 わたしの場合、古代史を探る目的なのであとで追加された神様はとばしていきます。

  
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by jumgon | 2010-12-06 17:50 | ★寺院・神社
今日新聞で、中西進の万葉キッズ塾を読んでると気になることが書いてある。

先ずその歌

泊瀬女(はつせめ)の 造る木綿(ゆう)花(はな)
み吉野の 滝(たぎ)の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや
   

◇ 巻六の九一二番、笠金村(かさのかなむら)の歌

泊瀬の女が作る木綿垂(しで)が、吉野川の逆まく波の水の泡に、花のように咲いているではないか

◇ その解釈  
 作者は吉野川の急流を見ているうちに、ふしぎな幻想にとらわれました。
 急流の波頭(なみがしら)に木綿の花が咲いている、と。
 ところが木綿というのは、植物の繊維を細長く束(たば)ねたもので、花ではありません。いま、しめ縄に垂らす紙がありますね。あれが木綿垂(ゆうしで)のなごりです。  また泊瀬女が作る、独特な花のような木綿垂が有名だったのでしょう。
◎真っ白な繊維のたばで、花みたいに結んだのかしら? 結局作者は、急流の白い飛沫(ひまつ)を花のようだと思い、さらに神祭りの「花木綿垂」に似ていると思ったのでした。
 白い花火のような飛沫が、神聖な美しさに輝いていたのですね。
 こうした、自然の美しさを人工の物にたとえる見方も、万葉びとはすでに持っていたようです。近代になってこのような見方を「自然が芸術のまねをする」といった人がいます。
(奈良県立万葉文化館長・中西進)


ふーむ、しめ縄についてる紙の紙垂(シデ)は元は植物の繊維だったのか、、、

*万葉時代、楮の繊維で作った神祭りの幣帛のことを木綿「ゆう」といいました
。「もめん」ではありません。「もめん」が日本に伝来するのは、鎌倉時代以降のことです。

*木綿(ゆふ ゆう)は、麻や楮(こうぞ)等のさらした繊維を垂らしたもの。
(さらして、白くしたのですね!
木綿垂(ゆふしで ゆうしで)ともいわれる。
今も神道で祓の串や幣に用いられる。
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by jumgon | 2010-11-07 15:49 | ★言語、歴史
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」
前回はここで終わりました。

その証拠?なるものがあります。
① ミムロ神は注連縄が逆さ飾り
② ミワ鳥居の怪
③ 鎮花祭の目的は祟り神をしずめること
④ 狛犬がいない
⑤ そうではないのに、大和王権の守護神とされた

先ず、しめ縄の歴史から、みていきましょう。

田中八郎「大和誕生と神々」より
ミムロ地域の縄文期の信仰について述べましょう
縄文神は、雷や風や光や古木・岩石といった自然現象や物質を依り代としていました。人工の建築物や鏡や剣などには宿らぬのが慣わしでした。
縄文社会では集落も神も自由に移動していた。収穫物や気象や環境が良好な間はそこにとどまり、悪化すると良好な土地に移動するわけです。(洪水が多かったらしい)
大自然ということは神の能力は無制限に広がっていた。だから、どこへ村が移動しても神も移動できた。土地の収奪が最大の目標だった王権予備族にとって実に好都合な状況だった。
留守の間に土地を占領してしまうと今度は労働力を確保する為に先住民を奴隷化する必要があった。
建設すべき自分たちの王土作りのために、労働力の確保が必要だった。それには集落の移動を禁止し手、労働力の逃散を食い止めなければいけない。
労働力の逃散を食い止めたい王権予備軍は「ヤシロ(社・屋代)という神の定住処」を強制的に押し付けました。
といっても当初の社は簡単なものだったでしょう。
いわゆる神社建築は、仏教の普及に刺激を受けて設けられたものだから、六世紀よりさかのぼることはありません。「神とその指導者層を柵の中に閉じ込めておけば、村人は柵のまわりに群がって逃散する気遣いはない。」>(◎そういえば神社のまわりはたいてい石の柵で囲まれています。これは発生時の意味が変化し、神聖な神域を示すものに変化していったものと思う。)
どんな柵かというと、人がすり抜けられぬ約10cm間隔に地面に打ち込んだ木杭の周列で、容易に乗り越せない高さだったとおもわれる。この周柵に神と指導者を拘束して柵をくくり上げた縄が注連縄でした。だから注連縄の原初形は長い縄に下がりが数多くぶら下がっているもので、下がりが立ち杭を表現していた。

(この説、信じていいかしら?とりあえず、このまま進行します。)
長い縄に下がりが数多くぶら下がっているしめ縄?ありました。板締めという形式です。
板締め
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垂らした藁は隙間なくギッシリ詰まる。
全国各地で見られるが、福岡市水鏡神社・久留米市水天宮など九州北部に多い。
(なぜ、大神神社にないの?)

さて、しめ縄といえば紙垂(しで)がぶら下がっています。これは何を意味するのでしょう?

周柵内に閉じ込められ、〆られた国つ神へ村人は頻繁に指導を受けたり、相談することが必要でした。面会の手段として工夫されたのがシデ(紙垂・四手)です。
シデは三本の縄を撚り合わせたしめ縄の撚りをもどして出来た隙間に挟み込んで飾るのが元来のやり方です。幽閉された神に面会を求める村人たちはこう言いました。「シメをゆるめましたからどうぞ出てきてください」
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(要するに人を捕縛する細い縄。)
注連縄の2種類の綯え方があります。上図の通りです。

つまり右綯いの注連縄をしている神は注連縄によって〆られているのです。鳥居の外から右こぶしを上げられている、ということです。

この説も信頼じていいのかしら?(一説によると、注連縄の右綯いは80%、左綯いは20%だそうです。)
強い勢力をもったミムロ神は、王権予備軍の用意した社(やしろ)に閉じ込められるのはイヤでした。そんなこと許したくありませんでした。でもとうとう「ミムロを敬うふりをした大神神社」に祀られてしまいました。
王権予備軍側もミワ勢力と正面衝突をしないでいたかったのでしょう。注連縄はするけど、右こぶしは上げてません。
王権予備軍が右こぶしを上げるのではなく、ミムロ神の方が内側から右こぶしをあげている事になります。(表面的にはミムロ神をたて、実利を取る作戦です)
お正月に各戸の門口に飾る注連縄は下がりの部分が三本か五本に整形美容されたものだし、縄の真ん中が太くデフォルメされていて、神を捕縛する役目を忘れさせる形になっている。うかうか見過ごしていると、注連縄の原初の意味はうかがい知ることさえ出来なくなっています。

大神神社のしめ縄はすべて「左綯え」です。

じゃ、出雲大社のしめ縄は?

大きな勢力をもちながら大和王権にやむなく屈しただけあって、左綯いですね!
こうしないと、大国主のたたりが恐かったのかしら?
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上の写真は出雲大社の神楽殿のしめなわです。ほんとにデザイン的にカッコイイけど原初の形から変化したみたい。柵を意味した下がり部分をまとめたのかしら?
注連縄は時代が下るにつけ色々変化していってようですね。
田中氏いわく、「王権の神を祀った神社には注連縄はありません。」

◎でも確か、応神天皇が御祭神の誉田八幡宮には鳥居には注連縄はなかったけど、拝殿には注連縄があった。
私の勝手な想像だけど、原初の意味は次第に失われ、神の神域を示すものへと意味が変化したのではないだろうか?

注連縄の素材は稲藁です。
つまり稲に代表される農業が祭祀と古墳とに関わりを強くしたところから、注連縄の習俗が生まれた。
縄文神を押さえつけるのが注連縄なんです。

次ぎはミワ鳥居の怪について
② ミワ鳥居の怪
三輪山には本殿はありません。三輪山そのものが神とされ、拝殿があるだけです。
だけど拝するのに鳥居をくぐれないのです。
「なぜ?もう鳥居は2つくぐってきたけど、、、、。」
御神体の前にもう一つ鳥居があるのです。でもその鳥居の前に格子があるのです。だから鳥居はくぐれないのです。
この鳥居は神聖物として拝見できませんけど同様のものが檜原(ひばら)神社
にもあり、これは容易に見ることができます。
神に会いたい人は「格子越しの面会しかできないのです。格子というのは牢獄です。
格子つき鳥居はミムロ神を閉じ込める仕切りだ、ということになります。


大神神社パンフレットより

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大神神社HPより
三ツ鳥居(みつとりい)
明神型鳥居を三つ組み合わせた、一名「三輪鳥居(みわとりい)」とも言われる独特の鳥居です。いつ頃どのようにして、この形式が出来たのかは不明で、神社の記録にも「古来、一社の神秘なり」と記されているだけです。
左右には、長さ16間の瑞垣(みずがき)が設けられ、ご祭神とゆかり深い動物、花鳥など、すぐれた木彫りの欄間が、はめ込まれています。三ツ鳥居、瑞垣ともに重要文化財に指定されています。 これが大神神社の三つ鳥居です。拝殿の裏、拝殿と三輪山の境にあります。

創建は平安時代ともいわれています。鳥居の上部左右が上に跳ね上がる形は出雲大社型です。なお、伊勢神宮型はまっすぐです。

下写真は檜原(ひばら)神社
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大神神社の摂社、檜原(ひばら)神社の同じ形の三つ鳥居です。三輪山の西北麓に位置し、天照大神を伊勢神宮に遷す前に祭祀した「倭の笠縫の邑(元伊勢)」と伝えられます。 
伊勢神宮も大神神社(大物主神)の摂社かもしれません。
三輪山から「山之辺の道」をたどると、30分くらいでここへつきます。
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by jumgon | 2010-10-25 13:31 |  ○三輪神社・大神神社