古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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三輪山信仰の変遷

三輪山信仰はどのように変化してきたか?

私は古い遺跡や古墳をめぐったり、出土品をみても「古い時代の物」くらいの認識しかなかった!
農具や武器などもいっぱひとからげに、「大昔のもの」でおわっていた。

やっとこのごろ、遺跡や出土品は、出土状況、時代をキッチリ意識したら、歴史の意味がすこしずつ見えてくることが分かってきた。

さて、以前から、大神神社について書いてきたが、それぞれの遺物、鳥居や摂社、末社等がどういう意味があるのかもうひとつハッキリしなかった。
いつから、どの摂社が追加されたのか、記紀に描かれた記述だけを信用していいものか分からなかった。

そんな時、つぎのHPで三輪山信仰の変遷を知ることができたので紹介する。
ただしこれも、筆者のただ今の見解で考えが変わることもあり得る、ということです。(歴史の見解はみなそうですが、、、、)

三輪山周辺の祭祀遺跡変遷http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.htmlより

三輪山周辺地域の分類・・・纏向・三輪・初瀬・三輪山の4地域に細分されます(寺沢1988)。
下の地図をご覧下さい。
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・纏向地域: 狭井川より北方で、桜井市と天理市の境界辺りまでの地域。
・三輪地域:東は三輪山がそびえ、西は狭井川と初瀬川(大和川)に挟まれた三角形の区域。古代歌謡では「水垣」といわれ、清浄な場所とされました。(田中八郎氏もここが「ミワ神の勢力地と書いている。」
・初瀬地域:三輪地域より以東の、初瀬川流域の一帯を呼称。広義の初瀬地域は、現在の長谷寺や天神山(与喜山)のそびえる辺りまでを呼びますが、本稿においては、現在の朝倉・忍坂地区周辺をもって狭義の初瀬地域とみなしたいと思います。
・三輪山地域:三輪山そのものを指します。

 この地域区分に沿って、三輪山周辺地域の祭祀遺跡変遷を見ていきたいと思います。

<前段階>(~3c初)
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○三輪地域が勢力集団の本拠地だった時期(~3c初)
○三輪地域に、芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡などの集落遺跡が集在。
○三輪山信仰は始まっていたが、三輪地域を「不入の聖域」と見る考え方には至っていなかったと見る。
○書記:崇仁天皇三年の秋九月。(紀元前94年?)屋敷を磯城(しき)に移した。
瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。
これから三代に渡り、纒向(まきく)遺跡周辺に宮が置かれることになる。) 

*以前から「水垣」地域に住んでいた人達のところへ、崇仁天皇が瑞籬宮をおいたのか、、、
 まだ対立は起きてなかった、とおもわれる。

<第1段階>(3c初~4c)
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○纏向遺跡が三輪全域を神聖視していた時期(3c初~4c)
○祭祀場は、纏向遺跡の集落内祭祀。
三輪地域は聖地化され、集落も墳墓も築造されず。blockquote>
*纏向地域が発展してきたのだろうか?
 集落は「水垣」から纏向地域に移ったようだ。 


<第2段階前半>(4c後~5c前)
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○三輪地域に祭祀場が設けられた時期(4c後~6c初)
山ノ神祭祀遺跡(前半)を中心に、三輪地域の祭祀場化。

<第2段階後半>(5c後~6c初)
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○山ノ神祭祀遺跡(後半)
奥垣内祭祀遺跡。三輪地域における子持勾玉祭祀の始まり。
○三輪地域北部に茅原大墓古墳の築造。


<第3段階>(6c前~7c初)
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禁足地における勾玉祭祀期(6c前~7c初)
三輪地域→禁足地へ祭祀領域がせばまった。
禁足地磐座群(中津磐座)を志向した祭祀の可能性。
○三輪地域北部で後期古墳が築造されていく。

<第4段階>(7c前~14c?)
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○禁足地内「長方形土壇(御主殿)」祭祀期(7c前~14c?)
○「屋代」としての祭祀場。禁足地磐座群の見える位置での祭祀。


<第5段階>(1317~)
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○拝殿祭祀期(1317~)
山岳登拝の慣習も普及し、「奥津磐座」「中津磐座」「辺津磐座」概念が生まれた。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。

○この頃になると、三輪山を中心として様々な磐座が設けられ、信仰された。


*ナルホド!!
 こんな風に整理されたら本当によく分かる。


子持勾玉の型式変遷略図
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[三輪山出土の子持勾玉] 
子持勾玉とは、大きい勾玉(親)に小さい勾玉(子)が突起の如く付属している祭具です。
三輪山周辺地域は、全国的に最も子持勾玉が出土している所で、その型式変遷から、大きく古式と新式の2期に分けることができます。
そして、その古式と新式の出土した場所に偏りがあることから、これも三輪山祭祀遺跡の分布変遷の傍証となりえます。
 
○三輪地域(芝遺跡・山ノ神遺跡・茅原源水遺跡)出土 → 古式の特徴。5c末ころ。
 ○禁足地出土 → 新式の特徴。6c代

古式の特徴は、断面が丸く、全体的に作りが曲線的であるという点です。子勾玉も忠実に再現されています。対して、新式の特徴は断面が平面的で、全体的な作りが直線的で、先端部が尖っているといった点です。子勾玉は、単なる突起に形骸化していきました。
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by jumgon | 2010-12-15 20:22 |  ○三輪神社・大神神社
色々ややこしい御託をならべずに、大神神社はどこにあるのか、又だいたいの概略図だけでも見せてもらわないと、どんな神社だか訳が分からない!という声がきこえてきそうです。
ちょっと観光案内風に大神神社をたどりましよう。


大体の場所は分かってもらえましたね。
つぎは大神神社の境内図です。
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大鳥居をくぐって、進んでいきましょう。(うこの鳥居の説明はやめときます。)
鳥居をくぐって参道をすすみます。
こんな可愛い和小物を売ってるお店がありました。
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さらに進むと屋台が並んでいます。
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「あれ、今日はお祭りかな?」
そうでした。
10月24日は秋の大神祭の日でした
なんだか来る時も道が混んでると思った。

順番に境内の説明をしましょう。

大神神社公式HPより
巳の神杉(みのかみすぎ)
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江戸時代には、「雨降杉」とあり、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをしました。いつの時代からか、杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています。
蛇は、古来より三輪の神の化身として意識されており、『日本書紀』の崇神天皇10年9月条に、「小蛇(こおろち)」と記され、『同紀』雄略天皇7年7月条には、三輪山に登って捉えて来たのが「大蛇(おろち)」であったと伝えています。いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていたことを示していると考えられます。
これは、古代の人たちが、三輪山は千古鉞(おの)を入れず鬱蒼たる森林として、何がひそんでいるかわからない不気味さを覚え、そのお山から流れ出る水により、種々の農作物を作り、日々の暮らしをたて、山に立ち昇る霧や雲に神意を感得して、山内に棲む蛇を直感したものであったのでしょう。
三輪の神の原初の形とされる蛇は、水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができます。

あと色んな大きな杉がありますが、これも省略。

狭井神社(さいじんじゃ)
祭神    大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
        大物主神(おおものぬしのかみ)
        媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
        勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
        事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日4月10日
鎮花祭4月18日
本社の荒魂をおまつりしている、延喜式神名帳に記される古社であります。古くより、華鎮社(はなしづめのやしろ)と称され、病気を鎮める神としての信仰が厚く、ご神水の湧き出る薬井戸があります。
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薬井戸(くすりいど)
狭井神社拝殿の左手にあり、ご神水がこんこんと湧き出ています。この霊泉は万病に効くと古くから伝えられており、遠近よりたくさんの方が受けに来られます。


狭井神社に入る手前に「市杵島姫神社」がある。
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◎市杵島姫を祀る宗像海人族が、神武以前か以後かは分からないけど、やってきた証拠だと思う。
九州の夜須地方と大和の地名が配置の方向まで類似しているとの安本美典氏の意見がある。
これもやがて書くつもりだが、脱線しないで境内めぐりを続けよう。

久延彦神社(くえひこじんじゃ)
祭神久延毘古命
例祭日5月5日 9月1日 12月第1日曜日
ご祭神の久延毘古命は、大国主神が国造りの際、多くの神がご存じなかった、少彦名命(すくなひこなのみこと)の神名をお教えになられた神様であり、知恵は世に類なく優れておられ、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている神様であります。
特に受験合格・入学・進学・就職等の成就安全をおまもり下さる、知恵の神様として信仰されており、社頭にはそれぞれの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられています。

この神社はすこし小高い丘の上にあります。(デジカメの調子が悪いので写真はありません)

次ぎは大鳥居を左に行ったところにある大直禰子神社です。
久延彦神社(くくえひこじんじゃ)から急な石の階段を下りたところにあります。
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大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ。若宮社とも言われる)
祭神大直禰子命(おおたたねこのみこと)
配祀少彦名命(すくなひこなのみこと)活玉依姫命(いくたまよりひめのみこと)
例祭日4月8日 10月23日
奈良時代には、神仏習合の姿をとり、大神神社の神宮寺、大神寺(おおみわでら)として栄えました。中世には、三輪流神道がこの地より広まり、各方面に多大の影響を与えました。
明治の神仏分離までは、大御輪寺の本堂として、若宮の大神様とともに本地仏十一面観音(国宝、現聖林寺奉安)が併祀されていました。
現社殿は、昭和62年より3年間に亘り解体修理が実施され、応永19年(1412)の姿に復元されたものであります。(重要文化財)

◎「おおたたねこ」ってどこで区切るの?
「おおた・たねこ」と単純におもっていたけど、「おお・たたねこ」かも知れないと思う。
「おお」というのは「多」「太」「意富」とか漢字かかれることもある。
「太安万侶」っていましたね。氏族の名前ではないかな?


田中八郎氏によると、「オオタタネコ」は縄文先住民と王権予備軍の仲介役だったが、そのうち王権がわに取り込まれ、ミムロ神の監視役になり下がった。とのことです。その証拠がただ一つある、狛犬だそうです。「大神神社」にはここ以外に狛犬はどこにありません。

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◎あっ、又脱線しちゃった。これも又の機会にもう少し詳しく書きますね!
次ぎは宝物収蔵庫
宝物収蔵庫(ほうもつしゅうぞうこ)
当社の宝物は、宝物収蔵庫に収蔵され、そこで一般に公開されています。その展示品は大きく、古代 祭祀関係の出土品・伝世の神宝類・神宮寺関係文書・神宮下賜の御神宝・近現代の美術品の5種類に分けられます。 特に、古代祭祀関係の出土品が多く、総数では数千点となっています。
「館内は写真はご遠慮ください「とのことなのでHPからうつします。
祭祀遺跡から出土したものがあったが、少しだけ紹介しよう。

石製模造品【子持勾玉(こもちまがたま)・勾玉・臼玉】
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祭祀遺跡として、最も神聖な三輪山内の禁足地から出た子持勾玉は、祭祀用品であったことは勿論、信仰の上からもある呪力をもつものであり、親の玉が子の玉を生じて増加するという、多産増幅の意義をふくむ神秘の象徴とされ、特に祈願を行った上で埋斎されたものであります。
◎この前羽曳野市の綾南の森資料室に「三輪山麓遺跡出土、子持ち勾玉」が展示されていました。ここのと同じように、具象的でなくどちらかといえば幾何学的な形をしていました。こちらから借りてきたのでしょうね。気になったのは「陶製」と書いてあってあったことです。「須恵・陶」で造ったということなんですよね。オオタタネコは「スエ」出身です。

山の神出土品
山の神祭祀遺跡は、狭井神社より東北方の山林傾斜地にあります。大正7年、露出していた巨石の下と、その周辺より大量に出土しました。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。
その他の出土品の写真です。
禁足地出土品
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今日はこの辺で、、、、
                                           つづく
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by jumgon | 2010-10-25 20:23 |  ○三輪神社・大神神社
勾玉の由来は鳥か?

勾玉の由来についてかかれている方がいらっしゃったので紹介します。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/index.html
「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」より
勾玉は、何を象ったものでしょうか。
 これまでに①人魂説、②月(半月)形説、③釣り針説、④ナマズ説(?)などが出されているようです。私は、上記の「八尺の勾玉」のマオリ語解釈とも関連して、これまで「山幸彦・海幸彦説話にみるように海洋民族の宝物である釣り針」説に傾いておりましたが、最近(平成11年5月)長年の宿願であった韓国旅行を果たした際の見聞から、新たに⑤鳥形説を主張したいと思います。
 ソウルの国立中央博物館の伽耶室に、5~6世紀の古墳から出土した多数の鉄器、鉄挺などに混じって、写真の「有刺利器」が展示され、用途は不明とされていました。この左と中央の鉄器には、明らかに「鳥形」が付けられています。また、慶州博物館にも、下図のように単純化した「鳥形」をつけた有刺利器が展示されていました。これは正に勾玉の形そのものです。

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*勾玉の由来は①人魂説、②月(半月)形説、③釣り針説、④ナマズ説(?)以外にも胎児形説、巴文様説などがあるようです。


実はこの方のサイト、初めはトンデモ説かな?なんて疑いながら読んでたんですが、「日本人はどこからやってきたか」を調べているうちに(バイカル湖のほとりからやってきた人達)と(中国南部、東南アジアが陸続きだった頃にやってきた人達がいることがやってきたことが分かった。

参考リンク「日本人の起源」を参照してかなりはしょって書いてます。
中国南部、東南アジアが陸続きだった頃にやってきた人達
は海流に乗りオセアニア、ポリネシアにも行っただろうし、またやってきたと思われるから、ポリネシア語が原始日本語に反映されていてもおかしくないとおもう。
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古代日本語は「ヒコホホデミ」とか「ニニギ」とか、とても日本語とは思えない。
おまけにその発音が「ピコポポデミ」かも、と聞いたらもう私の手に負えない。
この話題はあまりに壮大になりすぎるけど、少しずつ勉強していきたいとおもいます。

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by jumgon | 2010-10-15 19:33 | ★勾玉の話

子持ち勾玉の話 ②


藤井寺市から出土した子持ち勾玉

先日、藤井寺文化財保護課へ雑用と質問があり、行ってきました。


私の予想
「子持ち勾玉が先に発生してあとからスッキリしたデザインの勾玉が作られるようになったのでは、、、、」という話をしたら
「いえ、子持ち勾玉は古墳中期頃から作られるようになりました。普通の勾玉は石器時代からありました。」
みたいな事おっしゃった。
「本当に間違いないですか?」となおも食い下がると、
「出土した子持ち勾玉を集めて研究した人がいるので、多分間違いないです。」

そうなのか、、、わたしは陵南の森の展示室の4点だけ比較して、新旧考えてたけど、、、、。
*「子持ち勾玉は集団の儀式での器物ではなく、亡き子ども、あるいは生贄の動物への哀悼の気持ちから作って埋められた」という私の夢想は捨てないとイケないのか、、、、!

「実は藤井寺からも、子持ち勾玉が同じ古墳から3点も出てるんですよ。
」といって実物を大事そうに持ってきて下さいました。
      箱にふんわり綿を敷いて、VIP扱いの出土品です。
大サービスありがとうございます!!( 展示会なんかではガラス越しに見るだけですものね)

おまけに「触ってもいいですか?」というより先に手にとってしまった私!
少し不安そうな文化財保護課の方。
( 大丈夫です。不審者ではありません!重さを知りたかっただけですから、、、)

やっぱり重い。勾玉の目にあたるところに穴があいている。ひもを通したんだろうな。こんなの首からかけたら肩がこりそう。
もしかしたら遺体の首につけたのかも。遺体なら重くても平気だろうと思う。
、、、、あの、けつ状耳飾だって、遺体につけて埋めたんだもの、、、わたしの妄想はどこまで続くのか?)

写真の左から順に、長さ、9cm、10cm、9cmぐらいでした。。( メジャーを持っていて良かった!)一番左が整った形でだんだん崩れた形になっていった、と報告書に書いてありました。
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上の写真は2年前の発掘報速報展での写真。
「平成20年に允恭天皇陵の陪塚(潮音寺北遺跡)から出土しました。」
ほかにも円筒はにわとか出たみたいだけど、やっぱり一番の目玉は「子持ち勾玉で、同じ位置から3個まとまって出土したのは全国的にもめずらしい」
とのことです。

允恭天皇陵は宮内省の管轄なので発掘出来ません。
溝から何か出てきたみたいだけど。
それは又今度書きたいと思います。
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by jumgon | 2010-10-07 15:09 | ★勾玉の話

唐古・鍵ミュージアム

昨日古・鍵遺跡へ行った。
遺跡には、楼閣の絵画土器をもとに復元した楼閣を唐古池上に復元している。
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この遺跡があるのは奈良県磯城郡田原本町で、その一帯にはたくさんの遺跡や出土品があって、全国でも出土例が少ない「蛇行状鉄器」が団栗山古墳という小さな古墳から出ている。(現物は国立博物館で展示されている)
唐古・鍵遺跡は、弥生時代の大環濠集落である。(この前行ったメタ神社のある稗田環濠集落は鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されている。)

現在の水田下約50cmに2千年前の生活に関する様々な遺物が眠っている。
発掘調査では、集落を囲む環濠や竪穴住居、井戸、青銅器の工房跡、木棺墓などが検出されている。
また、多量の土器や石器のほか、楼閣などの絵画土器、岡山県東部や静岡県西部からの搬入土器、青銅器の鋳造に伴う鋳型など弥生時代でも貴重な遺物が多い。特に絵画土器は、唐古・鍵遺跡とその分村である清水風遺跡の2遺跡で、全国の絵画土器出土総数の約半分を占める。
出土遺物は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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盾持人埴輪(顔に刺青があるのがわかりますね。)
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こんなきれいなアクセサリーのパーツもある。
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わたしがここで一番気に入ったのは褐鉄鉱の宝石箱だ。
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1褐鉄鉱容器80次縦14.5㎝横13.2㎝中期ゲート展示ケース
2ヒスイ勾玉80次長さ4.6㎝中期
3ヒスイ勾玉80次長さ3.6㎝中期
4土器片(甕)80次横8.2㎝中期

☆奈良市から平群町にかけて分布する200万年前の大阪層群中で形成される褐鉄鉱は、良質な粘土の周辺に鉄分が凝縮して生成された自然の好物です。
褐鉄鉱の内部の粘土は乾燥収縮し、それが内壁にあたって音をたてる為、江戸時代の好事家の間では「鳴石」や「鈴石」として珍重されていたという。
実際に手にとることができ、振ると鈴みたいな音がした。
ミュージアムには、褐鉄鉱に2個のヒスイ勾玉をいれ、土器片で蓋をしたと推定されるものが展示されていた。
まさにヒスイ勾玉をいれた宝石箱といえます。

こんな子持ち勾玉というのもあった。(長さ、約6,5cm)
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by jumgon | 2010-08-30 20:34 |  ○唐古・鍵ミュージアム