古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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白鳥伝説と白鳥陵

白鳥伝説と白鳥陵

先日、羽曳野市古市にある西琳寺を訪れたが古市駅の東側すぐそばに白鳥神社がある。
駅を西へ進むと白鳥古墳もある。

いわゆる白鳥伝説と関係のあるところらしい。

先ず白鳥伝説について確認しよう。

白 鳥 伝 説 
 
日本武尊(ヤマトタケル)は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
 その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えています。
幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。

 体を横たえ、日本武尊は大和への思いを、
 『大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる大和し美し』
 と詠んでいます。

  能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、
琴弾原(御所市)
を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

 亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれ、日本武尊・白鳥伝説は今も息づいています。
(この三市で交流イベントなどやってるようだ。 羽曳野市では市民祭りで「タケル君音頭」によるダンスコンテストもある。)

 ◎ふーむ、白鳥が飛んでいった先にまでお墓を造るの?
   魂が降り立った場所だということで~。
  

 
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)
三重県亀山市にある前方後円墳である。
宮内庁により日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と治定され、日本武尊能褒野陵として管理されている。(今のところ宮内庁はこの古墳を日本武尊陵としているがほかの意見もある。)

能褒野神社
祭神  日本武尊 配祀 弟橘姫命
由緒  日本武尊はこの地で薨ぜられた。明治十六年、社号を能褒野神社として創立された。
◎えっ、明治十六年に創立?
お姿 能褒野王塚古墳の横に鎮座する。この古墳は前方後円墳であり、全長90mの大きいものである。
4世紀末頃の築造と考えられている。
 倭王権で言えば倭王武の時代、記紀で言えば雄略天皇の時代、多くの兵士が東国平定に赴いた時期であり、当地まで帰ってきて亡くなった兵士もいたのだろう。

琴弾原白鳥陵
(奈良県 御所市富田)

訪れた人の記事を読むと地元でも場所を知らない人が多いらしい。
日本武尊白鳥陵、と書かれている。周りは畑と田んぼ。田舎、である。
第六代考安天皇陵から南へ約1km。白鳥陵の東、数100mのところにある山の名前は「国見山」。
訪れる人は他にいない。
小山に向かって畑の中へと進むが、案内板はないのでどこまで進んでいいのかわからない。
たまたま、犬の散歩をしていたおじさんが教えてくれた。この人がいなかったら、拝所までたどりつけなかったかも。

2010年に行った方のブログには日本武尊琴弾原白鳥陵は民家に挟まれた細い道を進んで行きますが、案内板が設置されているので、迷うことはありませんでした。と書いてある。
そんなだからこれに付随する神社はないのかな~。


白鳥陵(大阪府羽曳野市古市)
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羽曳野市のHPを見ると
墳丘長190m、後円部の直径106mの前方後円墳、前方部の幅165mで、幅40〜80mの濠を持つ。日本武尊の陵墓との伝承がある。
と簡単な説明。
◎日本武尊の陵墓かどうかは分からないけど伝承はある、と言うことらしい。
 それにしても大きな古墳ですね。



◎白鳥陵も大きいけれど、応神天皇陵の大きさには改めてビックリ!

                                           つづく 白鳥神社
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by jumgon | 2011-06-24 23:45 | ★言語、歴史
新沢千塚古墳群と千塚資料館
http://www.nantokanko.jp/mytown2008125.htmlより
概略を確認しておこう。


〒634-0826  【橿原市千塚資料館】橿原市川西町858-1
問い合わせ先      TEL 橿原市千塚資料館 0744-27-9681
休      日      【新沢千塚古墳群】 無休
【橿原市千塚資料館】月曜日(祝日の場合は翌日)
料      金    【 新沢千塚古墳群】無料
              【橿原市千塚資料館】大人100円、中学生~大学生70円、小学生50円
見      学     【新沢千塚古墳群】自由
【橿原市千塚資料館】  9:00~17:00(入館は16:30まで)
交通(マイカー)南阪奈道路葛城ICから国道165号経由、約6km、約12分
交通(公共交通機関)近鉄橿原神宮前駅から近鉄御所駅行きバスで約12分、川西下車すぐ
駐  車  場      【新沢千塚古墳群】無し
【橿原市千塚資料館】  有り/無料

発掘調査は、1947年(昭和22年)以来、1962年(昭和37年)からの本格的な調査までに数度実施されている。この地域は昭和30年代に農林省の計画が実施されることの事前調査として、1962年(昭和37年)から5カ年計画で実施された。
その結果、古墳時代の新たな研究課題が提起され、保存へと繋がった。その後史跡にも指定され、市や県の計画の事前調査が実施された。1962年(昭和37年)の調査で、粘土槨を内部主体とする前方後円墳である500号を含む23基の古墳が発掘された。500号墳から古墳時代前期に類する副葬品が検出され、その中に懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。
1960年代に同志社大学などにより調査が行われ、約130基が調査された。武具、馬具をはじめとして副葬品は豊富に出土したが、5世紀後半の126号墳からは、大量の装飾品とともに、日本史上初の火熨斗(ひのし)、の出土や、中国を経由せず西域から新羅経由でもたらされたと見られる希少なローマンガラス製品の出土があり、古代日本の交易範囲の広さを立証する遺跡として報道され、当時全国的に大きな話題となった。

126号墳の出土品は東京国立博物館に所蔵されており、一括して国の重要文化財に指定されている。
資料館にはそれらの出土品のレプリカが展示されています。

さて、そろそろ千塚資料館のなかを見てみましょう。

目をひく物はたくさんあります。
【126号墳の出土品】
◆金製歩揺
とてもきれいなスパンコール
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◆金製方形冠飾・垂飾つき耳飾り
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◆金製螺旋状髪飾り
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◆金堂製帯金具
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◆銀製指輪
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◆金製指輪の写真(横から・上から)
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◆棺に納められた様子をあらわしたイラスト
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◎多分女性だったのでは、、、。でも古代人は男性でもアクセサリーをつけてますけど~
◆火熨斗(ひのし)とガラス皿・ガラス碗
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◎火熨斗は柏原市「高井田横穴群」からも1点出土しています。今のところ日本では2点しか出土していません。この被葬者はかなりの身分の人だったのでしょうね!
◆ガラス製品が運ばれたルートの地図
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◆鉄刀
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◆出土した位置どおりに並べられた様子
この写真は
http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.htmlよりお借りしてきました
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【115号墳】
◆115号墳説明板
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直径18mほどの円墳で、築造された時は周りに円筒埴輪が巡らせてあった。その中央に箱形の木棺が直接埋葬されていて、発掘調査で衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と三角板鋲留短甲(さんかくいたびょうどめたんこう)が一式見つかった。さらに五鈴鏡や二神三獣鏡、鉄鏃(てつぞく)なども出土したという。おそらく武人的性格の族長を埋葬した墓であろう。

◆115号墳から出土した衝角付冑、三角板鋲留短甲、頸甲、肩甲
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三角板鋲留短甲、頸甲、肩甲(*1)
◆115号墳から出土した五鈴鏡と二神三獣鏡
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【南山4号墳出土鉄製品】
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◎雁股鏃 とは
雁 かり 股 また 鏃 ぞく :鉄でできていて、先端が二股に分かれているやじり です 。
◎ここからも鉄ていが出土している!!

【156号墳を再現した展示】
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まだまだ橿原市出土のお宝はいっぱいあるけれど今日は新沢千塚に絞ってアップしました。
それにしてもスゴイきらびやかな出土品ですね!!
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by jumgon | 2011-05-07 15:55 | ★新沢千塚古墳群と千塚資料館

新沢千塚古墳 1

以前から気になっていた新沢千塚を訪れた。

群集墳で貴重な出土品があるらしい。

今までいった群集墳といえば、高井田横穴群(大阪府柏原市)、近つ飛鳥資料館のある、「一須賀古墳群」も群集墳である。
ここはどんなところだろう。時代は?出土品は?

古墳群の近くに橿原市千塚資料館があって、車をとめられる。
そこから案内地図に従ってあるいていく。

この道でいいのだろうか?
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新緑の道
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やがて人を誘うようなかいだんが~
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階段を登りなさいといってるみたい。
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ここはかなり広い。
あっ、古墳らしい丸い丘
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新緑が美しい!!
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新緑の気持ちのいい散歩道
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こんなのがいくつもある!!

346基もあるそうだ。

やがて畝傍山が見える場所にでた
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この古墳群で最もよく知られるのが126号墳だ。
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5世紀後半に造られた東西約22m、南北約16m、高さ約1.5mの長方形墳で、赤色顔料も残る割竹形木棺(わりたけがたもっかん)が発掘された。
木棺の外部からは、鉄刀、四神が描かれた漆盤(しつばん)などが、内部からはガラス製の碗、垂飾つき耳飾り、腕輪などが出土、そのいくつかは国の重要文化財にもなっている。
特にガラス碗は、ササン朝ペルシャのものと考えられており、シルクロードのつながりを感じさせるもの。このことから新沢千塚古墳群は“地下の正倉院”とも呼ばれている。

ここの古墳は全部埋め戻され開口部は無い。
みんな低いなだらかな丘になっている。

115号墳の解説板
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◎ふーん、こんな珍しい五鈴鏡が出土したのか、、、

千塚古墳群は発掘調査は終えこの古墳の出土品は千塚資料館で展示されている。

◆新沢千塚古墳群は
4世紀末から7世紀にかけて造営され、特に5世紀半ばから6世紀末まで盛んに墳墓が作られた。かつては川西(かわにし)千塚、または鳥屋(とりや)千塚と呼ばれていた。この古墳群の氏族ないし埋葬者は特定されておらず、大伴氏、漢氏(あやし)、蘇我氏など諸説ある。

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by jumgon | 2011-05-06 21:26 | ★新沢千塚古墳群と千塚資料館

飛鳥資料館 1

飛鳥資料館は何度か訪れた事がある。

キトラ古墳の「玄武」特別公開の時には見学者が多くて長い行列だった!
公式HPで調べると、2007年5月とある。ちょうど4年前になる。


飛鳥資料館の主な展示物は、
高松塚古墳出土品
キトラ古墳石室復元、
山田寺仏頭レプリカ
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飛鳥寺塔埋納物
牽牛子塚古墳出土品
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飛鳥のお寺の復元模型やパネル、発見された瓦などの展示
亀形石造物のレプリカ
 下の写真は現場のものです。
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 全長約2.4m、全幅約2mの大きさがあり、小判形石造物から流れ出た水が、亀の鼻を通り、背中の水槽に水をためる仕組みになっています。

◆山田寺東回廊

山田寺東回廊のポスター
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◎こんな実物が資料館内にあるのです!
 下は出土時の写真。
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1982年の発掘調査で山田寺東回廊が倒れた状態で地中に埋もれているのが見つかりました。
もっとも状態がよかった柱間3間分の部材を保存処理して当時の建築構造と規模が分かるように再現しています。

以上のように、どれもすごい貴重な財産が収められています。
◎特に私が今回注目したのは
飛鳥寺塔心礎からでた埋納物と山田寺東回廊です。

 飛鳥寺を訪れた時に「塔心礎からでた埋納物」はどこにあるのかと尋ねたところ
「多分、飛鳥資料館あたりでしょう」とお寺の方がおっしゃていた。
その写真を載せたいのですが、残念ながら飛鳥資料館内は写真撮影禁止なのです。

写真はWeb上で取り込める物だけです。

飛鳥寺塔埋納物
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塔を建てる際地下に埋納した宝物。金や玉、砥石や鎧まで。同時期の古墳とほぼ同じ内容であるのが注目される。

塔心礎の舎利孔付近から出土した埋納物は、各種の玉類、金環、金銅製打出し金具、金銀延板などのほか、桂甲一領と馬具と見られる青銅製鈴や蛇行条鉄器が確認されています。

さて、資料館の入り口から紹介しよう。
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飛鳥資料館の庭には亀石、猿石、石人像、、酒船石、須弥山石など、飛鳥の石造物の往時の様子をレプリカで展示しています。
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しだれ桜が満開でした!!
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亀石
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須弥山石と石人像
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須弥山石とともに発掘されたもので、同様に古代の噴水施設とされています。盃を口にあてた男性に女性が寄り添う形をしています。
※飛鳥資料館で見学できます。(石人像はオリジナルが館内にありました。庭にあるのはレプリカ)
須弥山石(石神遺跡出土)
石人像(当館ロビーに展示)と共に石神から明治時代に掘り出された。全体の型や山型の浮彫があるところから須弥山石(しゅみせんせき)とよばれる。庭園にともなう噴水施設で、周辺から溝や石敷きもみつかっている。斉明朝(655~661年)に、蝦夷や南方の人をもてなしたとき、甘樫丘東方の河原や飛鳥寺西方に造ったという須弥山は、このようなものであった。


八釣マキト5号墳
というのがこの資料館の庭に移築されています。
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八釣マキト5号墳って、いったいどこにあったの?

そばにある説明板を読みましょう。
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八釣・東山古墳群は八釣にある東山丘陵の農業基盤整備に伴い事前調査された古墳群で7基の古墳が発見されました。このうちマキト支群5基で比較的状態の良い1号墳と4号墳が元の場所から100m離れた八釣集落の古墳公園内に移築され5号墳のみ飛鳥資料館の外庭で移築保存されています。

この花の木の奥に見えています。
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発掘調査:1999年
★被葬者:中臣氏関連?(近くの大原に大伴夫人墓や藤原鎌足生誕地等、中臣氏ゆかりの史跡がある事より)
★大伴夫人(大徳冠大伴久比子(咋子)卿の女。中臣御食子に娶られ鎌子を産む(尊卑分脉)中臣鎌子(のちの鎌足)の母(尊卑分脉)。『藤氏家伝』には大伴夫人とある。)

のどかな春の飛鳥資料館でした!
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by jumgon | 2011-04-14 01:30 |  ○飛鳥資料館

笑う人物はにわ?

かわいい笑ってる人物埴輪!

朝日新聞 2011年2月24日23時40分

奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(国史跡、全長86メートル)で、古墳時代中期初め(4世紀末)に作られたとみられる武人の埴輪(はにわ)1体が見つかった。市教委が24日発表した。
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人を表現した人物埴輪の出土例は、これまで5世紀初め~前半が最古とされてきた。市教委は「人を埴輪で表現するようになった契機がわかる重要な発見」と話している。

見つかった埴輪片をつなぎ合わせたところ、高さ67センチ、幅50センチの武人と判明した。盾を構え、頭にはかぶとをかぶっている。
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目と口は穴が開いた形で表現され、目やほおの周りに赤い顔料が残っていた。あごには入れ墨を示す線刻模様があった。
◎これが武人?あまりにかわいすぎる!
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埴輪は、古墳時代に円筒や水鳥、家などの形で現れたといわれる。しばらく人の形は作られず、大和王権の中枢があった畿内に現れたあと、全国へ広まったと考えられている。

人物の最古の出土例は、5世紀初め~前半の拝塚(はいづか)古墳(福岡市)や墓山(はかやま)古墳(大阪府羽曳野市)だった。

古来、神の山とあがめられた三輪山の西のふもとにあることから、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「三輪山の信仰と強い関わりのある一族が古墳を守護する意味で作ったのだろう」とみる。


現地説明会は26日午前10時~午後3時。埴輪も見ることができる。JR三輪駅の北約1キロ。問い合わせは市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)へ
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by jumgon | 2011-02-25 10:59 | ★新聞きりぬき
明日香村埋蔵文化財資料室

越塚御門古墳の見学会へ行く前に明日香村埋蔵文化財資料室を訪れた。
牽午子塚出土の装飾品(ガラス玉など)があると聞いていたから、気になっていた。
⇒ひもろぎ逍遥 http://lunabura.exblog.jp/i45/  参照してください

そこは他の発掘説明会(どの遺跡だか忘れた)があった折、出土品を展示していたので行ったことがあった。
水落遺跡のすぐ近くだ。
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明日香村が発掘した文化財を展示している。旧飛鳥小学校の建物を利用しているから、
ちょっとレトロな雰囲気。
すぐ隣に明日香の農産物を売ってる店もできた。
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残念ながら牽午子塚出土の装飾品(ガラス玉など)はもうなかった。
ボランティアの説明の人にきいたら、「飛鳥資料館あたりに持って行ったのかな?」
と言うことでした。

<明日香村埋蔵文化財展示室>
利用案内
◆利用時間: 平日の午前9時から午後5時まで
◆休日: 土、日、祝日、年末年始
◆入場料 : 無料
※特別展示等の場合は上記の限りではありません。

平成22年4月1日から平成23年3月31日までの期間、明日香村埋蔵文化財展示室の開館日を、下記のとおり拡大します。
◆休日 : 年末年始のみ
◆利用時間 : 午前9時から午後5時まで
※なお、土・日・祝日については、解説員を配置します。
◎ずっと、土日も開いて欲しいよ。私なんて日曜くらいしか行けないのだから~

主な展示内容
1)明日香村内出土遺物展示
2)キトラ古墳石室模型展示
 その他、村の文化財課で発掘している最新情報のスペースも...

◎今回資料室で見たもので興味のあるものを紹介しましょう。
①牽午子塚の石室の内扉・・・貴重なものですが見て面白いものではない。
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◎穴が2つ見えます。多分横に引っ張って開閉したのだろうと、いうことです。
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②★小治田宮(おはりだのみや)の井戸。
◎これはすごい!レプリカではありません。飛鳥時代の本物が残っていたのです。
  檜でつくられてるそうです。

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井戸枠内からは土師器や須恵器、墨書土器が出土しています。
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③キトラ古墳レプリカ
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キトラ古墳星宿図と干支図(復元)
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その他いろいろ展示されていました。
◎小治田宮(おはりだのみや)とキトラ古墳はもっと詳しく調べたいが
あまりに長くなりそうなので、そのうちにまた書きましょう。

◎3年半位前、キトラの壁画「玄武」公開の時は一時間以上並んで待った覚えがあります。
  キトラ古墳の資料は飛鳥資料館で展示されています。

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by jumgon | 2010-12-21 14:06 | ★資料館・博物館

越塚御門古墳見学会

大田皇女の墓か?石室を新たに発見 
  牽牛子塚古墳のすぐ近く


先日、牽牛子塚古墳のすぐ近くで発見された古墳の見学会に行ってきた。
9月に行ったばかりなので、場所はだいたい分かっている。
あの時ほど混まないとは思っていたが、警備員さんが「9月の半分位の人出」と言っていた。

◎9月に行ったとき、牽牛子塚古墳へ行く途中の山?畑?に穴が4、5箇所ほどあった。
「まるで古墳の入り口みたい!」
何の洞穴かな?と気になってた。その前にはごみや袋がおいてある。農家の人が物置に使ってるみたい。
「もしかしたら、この辺の人が遺体を葬ってるのかな、それとも未発見の古墳か?」なんてドキドキしてしまった。
そのことについて見学会の整理をしている人に尋ねたら「あれは生姜の保存場所です。」
えっ、そんなとこに保存しとくの?多分穴の中が保存に適してるらしい、とその整理マンが教えてくれた。


ぎりぎりの3時半に現地に着くように行ったけど、それでもまだ行列は続いていた。
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先ず産経新聞の記事から
産経新聞 12月9日(木)20時17分配信
 天皇クラスの墓に限定される八角形墳であることが今年9月にわかり、被葬者が斉明天皇(在位655~661年)であるとほぼ確定した奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳のすぐ前から、存在が知られていなかった7世紀後半の石室が新たに発見され、同村教育委員会が9日、発表した。
667年、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を埋葬したと記している日本書紀の内容と一致し、被葬者を決定づける超一級の資料となった。


 大田皇女は天智天皇の娘で、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)の后(きさき)となったが、20代で亡くなったとされている。
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見つかった石室は「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」という構造で、牽牛子塚古墳の約20メートル南東で出土。地名から越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。
◎本当に近くなので驚いた。12~13人位の人が手をつなげば越塚の入り口になる。
 石室は、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)をくり抜いた4メートル大の上石(うわいし)を床石にかぶせる構造で、総重量は推定約80トン。上石は後世の盗掘で4分の3程度失われたが、内部は長さ2・4メートル、幅90センチ、高さ60センチ分がくり抜かれ、木棺が納められていたという。
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◎盗掘坑という説明札が見えますね!
 石室付近からは、土に付着した漆や木質が残る鉄釘が見つかり、棺は外側が黒、内側が赤の漆塗り木棺と推測されるという。
副葬品は見つからなかった。
◎残念!

 墳丘は上部が大きく削られて規模や形状は不明だが、牽牛子塚古墳と近接していた。牽牛子塚古墳造営に伴う整地層を掘り込んで新たに墳丘を築いており、越塚御門古墳の方が後の造営と判明した。また石室南側に、人頭大の石を両脇に並べ、路面に小石を敷いた墓道(長さ4メートル以上、幅1メートル)も検出された。

 
斉明天皇陵と大田皇女の墓について宮内庁は、それぞれ南西約2・5キロにある別の2つの古墳(奈良県高取町)に治定している。

天智天皇、3女性の埋葬済ませ遷都
毎日新聞 12月9日(木)21時36分配信
 斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が葬られたとみられる奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の前に造られた古墳が新たに見つかった。孫の大田皇女の墓とみられる越塚御門古墳。中大兄皇子(天智天皇)が埋葬してから1300年余りの時を経て、日本書紀に記された肉親3女性をめぐる古代史のドラマがよみがえる。

 斉明は中大兄皇子、大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)の母。
661年、朝鮮半島の百済を救援するために遠征していた朝倉宮(福岡県)で亡くなった。中大兄が指揮する日本軍は663年の白村江(はくそんこう)の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗。
665年には妹の間人が亡くなった。大田は中大兄の長女で、大海人の妻。2人の子を残して若くして亡くなり、667年2月に斉明、間人を合葬した陵の前の墓に葬られたと日本書紀が伝える。
日本書紀は天智天皇の六年春二月二十七日条に、
「天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬り。是の日、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す」

 わずか6年で最も親しい3女性を相次いで失った中大兄が、都を飛鳥から近江大津宮(大津市)に移したのは、3人を埋葬した翌月だった。
牽牛子塚、越塚御門の堅固な構造に、前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は「飛鳥を去る前に、親しかった女性たちの墓をしっかり造りたかったのだろう」と心境を思いやる。

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by jumgon | 2010-12-19 23:30 |  ○牽午子塚
11月24日・毎日新聞
秋津遺跡:大型建物群跡発見 ヤマト王権の重要祭祀施設か

大型建物群跡の見つかった秋津遺跡
 奈良県御所(ごせ)市の秋津遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)の大型建物群跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。
珍しい構造の塀で囲まれた国内最大規模の区画の中に、4棟が規則的に並んでいた。
同研究所は、ヤマト王権の大王か有力豪族が重要な祭祀(さいし)を行う施設だった可能性があるとみて、文献の少ない「空白の4世紀」を考える上で重要な成果だとしている。
 
秋津遺跡で出土した塀跡や大型建物跡(奈良県立橿原考古学研究所提供の合成写真を加工)
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昨年5月から約1万8500平方メートルを調査し今年1月、方形区画の一部を確認したと発表。これまでに区画が六つ見つかり、いずれも杭(くい)を打ち並べた溝の内外を、2~3メートル間隔で打った丸太で押さえる特異な構造の塀で囲まれていた。
最大の区画は南北50メートル、東西48メートル以上と国内最大規模で、内部に南北13.5メートル、東西7メートルの同じ大きさの大型建物跡4棟が、方位をそろえて規則的に並んでいた。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡も計52棟確認された。
 
区画内からは生活に使われる土器がほとんど出土せず、北側の川跡に供物を置く高坏(たかつき)など祭祀用具が大量に捨てられていたことから、橿考研は「内部を清浄に保ち、祭祀を行った施設の可能性がある」とみている。

 
中国の歴史書「魏志倭人伝」は3世紀の卑弥呼、「宋書倭国伝」は5世紀の「倭の五王」について書かれているが、4世紀の記述はなく、古代史上「空白の4世紀」とされる。

 この施設で誰が祭祀などを行ったかについて、学者の間からは
ヤマト王権
▽5世紀に大王(天皇)の外戚(がいせき)として栄え、この地域を支配した葛城(かづらき)氏につながる豪族--などの見方が出ている。
 
現地説明会は28日午前10時~午後3時。JR玉手駅の南西約1.4キロ。駐車場あり。雨天決行。【高島博之】(実はこの日体調が悪くて行けませんでした!)

◎現地説明会にいった方の情報によると、

■「馬歯」の出土品があった。
◎この時期にすでに馬がいた。
唐古・鍵の団栗山古墳からも、馬具(蛇状鉄器)が出土しているから、馬は弥生時代からいたと推測できる。
(⇒★唐古・鍵ミュージアム)

■「鉄滓とふいご」も出土していた。
◎一般には製鉄は古墳時代後期より遡らないと言われている。(⇒日本における鉄の歴史
◎また、塀があったということは、木を加工するのに鉄器は必要であり鉄器を生産又はどこかから手に入れていた。

塀と大型建物の復元イメージ図(県立橿原考古学研究所作成)
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 大王をしのぐ力 
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
「後の葛城氏の根拠地に当たり、その王宮とも言えるのではないか。大規模な施設から、葛城氏が大王をしのぐ力を持っていたことがうかがえ、4世紀の政権構造を明らかにするきっかけになる」

葛城氏とは? 
奈良県御所市など葛城地方を拠点とした古代の有力豪族。4世紀末~5世紀初めに実在した葛城襲津彦(そつひこ)が始祖。その娘は仁徳天皇の皇后となり、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)天皇の母となった。
5世紀後半、雄略天皇に首長の葛城円(つぶら)が滅ぼされたのを機に衰退したとされる。古代、一帯は奈良盆地南の交通の要衝。

葛城襲津彦について「古事記の神々」というブログで語られています。
http://himeluna.exblog.jp/
 
関連の遺跡では、南西約1キロに始祖・葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる室宮山(むろみややま)古墳があるほか、葛城円(つぶら)の居館跡といわれる極楽寺ヒビキ遺跡などが御所市内で見つかっている。だが、いずれも5世紀代の遺跡で、それ以前の葛城氏の実像は不明だった。


<宮山古墳>
全長238mの前方後円墳で、別名「室の大墓」とも言う。明治年間に前方部から木棺と鏡11面、さらに玉類が多数出土し、大正10年に史跡に指定された。
その後、昭和25年に奈良県橿原考古学研究所が発掘調査を行い、竪穴式石室内に六区の方形を刻した長持形石棺が安置され、封土上には石室を囲って短形に靭、盾、短甲、草摺、家等の埴輪が立ててあったのが確認された。
橿原考古学研究所の室宮山古墳の石棺模型
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後円部径105m、後円部高25m、前方部幅22m、前方部高22mを測る、3段築成の古墳時代中期(5世紀)の古墳と考えられる。三段に造成された墳丘には、花崗岩を割った葺石がまかれ、石室の上にはさまざまな埴輪が方形に並べられていた。
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(橿原考古学博物館蔵)
これらの埴輪のうち、高さ142.6cm、最大幅95.5cmの靫形埴輪は特に有名である。銅部の上端に有茎式柳葉形鉄鏃が表現され、左右に広がったヒレとその表面の装飾は渦巻き文や直弧文で構成された豪華絢爛なもので、現在墳丘上にレプリカが立っている。埴輪の列の下に竪穴式石室があり、その中に長持ち型の組み合わせ式石棺が納められている。
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by jumgon | 2010-12-01 16:39 | ★葛城

河内に陵墓がある天皇

「河内王朝」
日本古代史に「河内王朝」という言葉がある。

こんな言葉を聞くと河内に都があったように誤解してしまう。
記紀にもそんな記載はない。

一説には「天皇の皇后の実家近くに陵墓は造られる」というのがある。

私の考え
陵墓を造るには膨大な土地がいる。
(陵墓築造に必要な様々な人員、住居、食料、資材の倉庫などの確保)
だから、都の近くに古墳は造れない。


以下、河内に陵墓のある天皇の都の所在地を記す。

代数   漢名    和風諡号      都所在地      陵墓名      現在の住所14 仲哀天皇・タラシナカツヒコ・穴戸豊浦宮・筑紫橿日宮・恵我長野西陵・藤井寺市

15 応神天皇"・ホムダワケノミコト、オホトモワケノミコト"・"軽島豊明宮(現在の奈良県橿原市大軽町か)大隅宮(難波?)"・川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡・羽曳野市

16 仁徳天皇・”オホサザキノミコト”・難波高津宮・百舌鳥耳原中陵・堺区

17 履中天皇・”イザホワケ"・伊波礼若桜宮(記)、磐余稚桜宮(紀・いわれのわかざくらのみや)・百舌鳥耳原南陵・堺区

18 反正天皇・”タジヒノミズハワケ”・丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)・百舌鳥耳原北陵・堺区

19 允恭天皇・”オアサヅマワクゴノスクネ”・遠飛鳥宮(高市郡明日香村)・恵我長野北陵・藤井寺市

20 安康天皇・”アナホノミコ”・石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)・菅原伏見西陵・奈良市

21 雄略天皇・”オオハツセワカタケルノミコト"・磐余宮(紀)、泊瀬朝倉宮(記紀・はつせのあさくらのみや)、斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる・丹比高鷲原陵・羽曳野市

22 清寧天皇・”シラガタケヒロクニオシワカヤマトネコ"・伊波礼之甕栗宮(記)、磐余甕栗宮(紀・いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市が伝承地) ・河内坂門原陵・羽曳野市

23 顕宗天皇・”ヲケノスメラミコト"・近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)、明日香村八鈎、羽曳野市飛鳥の2説あり・傍丘磐坏丘南陵・奈良県香芝市

24 仁顕天皇・”オケノスメラミコト”・石上広高宮・埴生坂本陵・藤井寺市

25 武烈天皇・”オハツセワカサザキノミコト"・泊瀬列城宮(紀・はつせのなみきのみや、
奈良県桜井市出雲か・
傍丘磐坏丘北陵・奈良県香芝市
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by jumgon | 2010-11-30 19:36 | ★言語、歴史
「応神天皇陵」

恵我藻伏崗陵
現在の地名・・・・・大阪府羽曳野市誉田

とにかく大きい。遠くからでもかなり長い間目につく大きさだ。
まわりを一周りしよう。すぐ傍を通れる場所もあるが、高速道路のガード下ちかくを通ったり古墳を背に民家がたってたりして、必ずしもよい散歩道とはいえない。もう少し整備して遊歩道を作ってくれたら、、、、何て思うけれどしかたがない。だが最近では古墳にホタルが出てくるという。
人が入れない大きな森だから自然が守られているんだろう。

近くには小室山古墳、大鳥山古墳、仲津媛命陵(応神天皇の后)がある。

空から見た応神天皇陵

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応神天皇陵の掲示板
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「ここより中にはいれませんとある。だから天皇陵ってイヤなんだ。看板だけ見に来たんじゃないよ。横の道を回ると宮内庁の管理事務がある。まだちょっと先まではいれそうだ。
あった!やっと正面へでた
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誉田御廟山古墳(応神陵)は墳丘長425mで、堺市の大仙古墳(仁徳陵)に次ぐ全国第2位の墳丘長を測ります。また、古墳の表面積や体積では大仙古墳を上回り全国一の巨大古墳です。 
前方部を北北西に向け、墳丘は三段築成で、くびれ部両側に方壇状の造出しを備え、濠と堤を二重にめぐらせています。墳丘や内・外堤の斜面には葺石が施され、円筒埴輪が確認されています。
 埴輪はすべて窖窯で焼成された製品です。円筒埴輪は基部の径が40cm前後の大型品が多く、形象埴輪には家・蓋・靱・水鳥・馬形等があり、蓋形木製品や各種魚形土製品も出土しています。
 築造年代は、埴輪の特徴から5世紀前半代に比定されます。なお、後円部南側に現存する誉田八幡宮の境内には長持形石棺や石槨の一部と推測される石材が残されており、本墳から出土したものと考えられ、内部の様子をうかがうことができる重要な資料です。

近くにある小室山
前方後円墳。内部構造や副葬品について詳細は不明です。
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これも近くにある大鳥塚古墳
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仲津山(仲津媛陵

皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) - 品陀真若王女 、とウィキペディアにあるが、古事記のどこにそんな記事あったかな?日本書紀に書いてあるのかな?またじっくり読まなければ、、、

国府台地の最高所に築造された墳丘長290mの前方後円墳で、古市古墳群内では誉田御廟山古墳(応神陵)に次ぐ墳丘長を測り、全国でも8、9番目の大きさを誇ります。
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すこし離れますが蕃所山(径、22M)という小さな円墳があります。
蕃所山古墳は、応神天皇陵を作るときモッコを置いたところと言われモッコ塚とも呼ばれています。

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by jumgon | 2010-09-09 21:30 |  ○誉田八幡宮と応神天皇陵