古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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縄文時代の大阪湾

以前 「ナニワからヤマトへの交通路」
http://jumgon.exblog.jp/14986924で縄文時代の大阪湾の地図をアップしました。


自分でアップしながら無責任なのですが、イマイチ現在の地理との位置関係がはっきりと掴めていませんでした。

6月20日の朝日の夕刊に「知遊自在 地図を歩く」という記事に縄文時代の大阪の地図が載っていました。

現在の大阪の地名が書いてあるので、イメージが確かになってくる地図です。残念ながら地図の写真は白黒なのでわかりにくい。
どこかにないかと探したら、 国土地理院のホームページ掲載の航空レーザ測量によるカラー陰影段彩図なるものがあるのを次のサイトで知った。

十三(じゅうそ)のいま昔を歩こう:大阪アースダイバーへの道
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-419.html


その中にこんな記事がありました。

知ってるつもり?!
縄文時代の大阪
先日の4月16日、ナカノシマ大学4月講座で
「大阪アースダイバーへの道」の講座が行われました。

◎「大阪アースダイバーへの道」なる講座があったんですね!!
 世の中、色々勉強してらっしゃる方がいらっしゃるものと感心しました。


そのサイトから写真をお借りしてきました。

縄文時代前期の後半(約5500年前)
f0215268_22594322.jpg

この地図の右下に 国府(こう)
 という地名がのっていますね。
ここは石器時代の遺跡があるところで「人骨やケツ状耳飾り」が出土しています。
古代人はどうやってこんな内陸までやってきたんだろうと思ってたら納得!(徒歩ではないよね!)
船でここまでこれたんだ。(石器時代には縄文海進はここまで進んでなかったと思うけど、川が使えるからね。

石器時代の遺跡「国府遺跡」
http://jumgon.exblog.jp/i63/



上町台地だけは細長い半島になっています。
JR大阪駅は海の中。
上町台地の突端に大阪城。
へえ~。あの辺ってそんなに高い土地なの?

現代の地図を重ねるとこの様な位置関係になります。
f0215268_23181058.jpg


神社仏閣、墓地などをプロットした地図
f0215268_23185151.jpg


面白いのは断崖絶壁の西側にパワースポットが集中しているところ。

●大阪城
●難波宮
●四天王寺
●住吉大社
などの位置が良くわかりました!!
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by jumgon | 2011-06-21 22:53 | ★言語、歴史

天平の僧 行基

以前から気になっていた行基について書きとめておこう

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gyouki.html
千田 稔著 「天平の僧 行基」
などを参照しました。

行基 ぎょうき
生没年 668(天智7)~749(天平21)
系譜 父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。
[略伝] 
668年 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれる。
683年 15歳で出家。
(出家得度したお寺は、飛鳥寺、大官大寺など諸説ある。飛鳥寺にはこの時道照がいた筈だが~)
692年 24歳の年、受戒。
 (持統5年・行基菩薩伝によれば戒師は高宮寺徳光禅師であると記している。)
◎高宮寺というのは、奈良県御所市(ごせし)にある「高鴨神社」の南西、標高550メートルの所に金堂跡と搭跡の礎石と基壇が残り瓦も出土しています。)

高宮という地名がでてくる、日本書紀・神功皇后摂政5年の記述
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

http://jumgon.exblog.jp/i42/に書いています。

f0215268_13412663.jpg


◎この高宮という土地は、高宮寺や高鴨神社のある辺りである。襲津彦の娘・仁徳天皇の皇后、磐之媛の実家があったところです。
◎この地図に蘇我氏勢力圏がのってますね。
呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり) の記事に
•雄略14年1月、身狭村主青檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国
身狭・檜隈はこの辺ののことだったのです。 ⇔http://jumgon.exblog.jp/page/2/

ちょっと脱線しました。行基に戻りましょう。

•初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。(このあたりが役小角と共通点を感じる。)
705年頃、(37歳頃)山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年(49才)、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。
また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続けた。

722年(養老6)年(54才)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。行基の影響力を無視し得なくなった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは
●奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。
●法の主な内容
灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。
◇思うように効果があがらなかったようで,20年後には墾田永年私財法が出された。

年代暗記:三世一身の法(ほう)…なにさ(723)3代ばっかしで

731(天平3)年 朝廷は、、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許した。

740(天平12年(行基72才)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。
同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
•聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17・行基77才)年正月には、異例の大僧正に任じている。
また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21・行基82?才)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

◎ 道昭と行基は師弟関係については、師弟関係はなかったとする意見もある。
師弟関係ではなかったとしても、行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて「天下行業の徒、和尚に従ひて禅を学べり」(續日本記)とあることから察して、行基が道照の影響を受けたと見るべきだろう。
行基の後年の社会事業、つまり利他業は、道照のもとで学んだことによる見たほうが自然だろう。

道照と行基の関連
629年  道照(0才)
668年  行基(0才)、道照(40才)
669年  道照(41才)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679年  道照(51歳)10月の勅により、京にもどる。
683年  行基(15才)出家    道照(54才)
692年  行基(24才)受戒・道照(64才)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。
693年  行基(25才)薬師寺   道照(64才)
698年  道照(70歳)大僧都に任命される。 (疑問とする説も多い)
700年  道照(72歳)3月10日没
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by jumgon | 2011-06-21 14:08 | ○道照・行基・役小角
記紀に色々な地名が出てくる。
いったい今でいえばどのあたりなんだろう?


前からそれを知りたいと思っていた。
難しいけれど、出来るだけ調べていこう。
先ず今回は神功皇后の時代の記事から~

記紀はいろんな方が訳しておられます。詳しい内容はつぎをご参照ください。

「古事記の神々(現在語で)
http://himeluna.exblog.jp/
葛城襲津彦(3)の記事から


摂政5年
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

◎サビは多分「佐味」、忍海は現在地名でそのままと、理解できる。
 あと問題は「高宮」だ。高宮なんてあちこちにある。「桑原」は探してみたが、これも大阪市内など何箇所かあり確定できない。

やはりもう研究されてました。
次に地図をのせます。
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◎ソツヒコが連れて帰ったのですから、勢力範囲の葛城に居住させたのですね。
 地図の下に解説が書いてあります。
 「葛城氏が没落後、蘇我氏はこれらの人々を取り込み、力をつけていった。」
 飛鳥時代に蘇我氏が力をつけたのはこういう訳だったのですね!


◎葛城襲津彦の伝承WIKIより
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。
先祖
o父:武内宿禰( 孝元天皇の曾孫)
o母:葛城国造荒田彦女葛比賣

o葦田宿禰
o玉田宿禰
o磐之媛(仁徳后)
o的戸田宿禰(的(いくは)氏祖)
o腰裾宿禰(忍坂氏祖)
o熊道宿禰(忍海原氏・朝野氏祖)

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by jumgon | 2010-12-07 17:22 | ★葛城

鉄の古語

鉄を表わす古語
真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」のなかに面白い記事があるので書き停めます。(一部改変省略)

鉄の古語には次ぎの種類がある。
①テツ、タタラ、タタール、韃靼
②サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ
③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
④ニフ、ニブ、ニビ、ネウ
⑤ヒシ、ヘシ、ベシ、ペシ

①テツの語群
テツ(鉄)は、ヒッタイト民族が鉄をもって築いた強大な王国トルコの名に由来することは広く知られている。
◎わたしは知らなかったよ~
このヒッタイトの創始した製鉄技術は、シルクロードを経由して紀元前13世紀頃の殷代の中国に入ったとされている。
殷・周代は中国では青銅器文化が発達したが、鉄は戦国時代に武器として用いられ、漢代には鉄は国の管理下におかれた。
このトルコ、タタール、、韃靼に発した製鉄技術がタタラにほかならない。
タクタク、タツタツともいい、鉄の語源ともなった。
わが国では北方大陸系文化としてもたらされたものである。

②サヒの語群
ヤマタノオロチ退治のときスサノヲノミコトが使用された剣を「韓鋤剣」(カラサヒノツルギ)といい、鋤持神」(サヒモトノカミ)という。

*蛇の韓鋤の剣は蛇の麁正はとも呼ばれ、岩波文庫版「日本書紀」の註によれば、aramasa(麁正)とkaramasafi(韓鋤)は同根であって、「韓鋤(からさひ)」の「サヒ」とは、日本では小刀または刀の意。従って、韓から伝来した刀という意味ではないかと説明している。
サヒはサブ、サビ、サムとも転化し、寒川・寒田、寒河江・祖父江の地名もこれに由来する。
賽神(サイノカミ)というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。
サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ等、この語類のサ行音は、元来砂、小石を意味する言葉で、砂鉄が精錬されて鉄となり普通の砂や石と違った貴重な性質を帯びることから、サ・シ・ソの一音だけでも鉄を意味することになった。
日向の襲の国(ソノクニ)、熊襲(クマソ)のソもやはり鉄の産地を意味した。

③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
福士幸次郎はサナ、サヌ、サニ、シノ、シナ等の語源を追い求めた末、サナとは果実の核の部分を意味し、カナサナ(金讃)とは外皮を鉄でまとった果物や穀物の如き形状のもの、即ち鈴・鐸(サナギ)のことであるとした。
◎褐鉄鉱の鳴石ってまさしくそれね!⇒「唐古・鍵遺跡ミュージアム」
唐古・鍵遺跡ミュージアムへ行った時それに出会いました。それは褐鉄鉱の鈴を割って、中に翡翠の勾玉が入れてありました。鈴石だけでも貴重なのにその不思議な自然の力にプラス、自分の宝物を入れたのですね!銅鐸の起源かもしれませんね。

*鈴石(鳴石)について
褐鉄鉱は、良質な粘土の周辺に鉄分が凝縮して生成された自然の好物です。
褐鉄鉱の内部の粘土は乾燥収縮し、それが内壁にあたって音をたてる為、江戸時代の好事家の間では「鳴石」や「鈴石」として珍重されていたという。振ると鈴みたいな音がする。

奇石博物館にある、鈴石(鳴石)
奈良県生駒郡平群町産(割れ口の見える2個)
京都府相良郡和束町産(割れてない1個)
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④ニフ、ニブ、ニビ、ニホ
「ニフ」(丹生)は通常、朱砂(辰砂)の産する地につけられた名と考えられている。
しかし井塚政義氏の教示によると古代には硫化水銀を「朱」、四塩化鉛を「丹」、褐鉄鉱・赤鉄鉱・酸化鉄を「赭」にそれぞれ区分しながらも、これらを一括して「丹」とよんだ由で、丹生の地は鉄産地をも意味したという。
◎フーン、そんなに細かく区別表現していたのか~
丹生より派生した「ニブ」(二部・鉗)「ミブ」(壬生)・「ニビ」(鉗)や「ネウ」(根雨)もそれである。

⑤ヒシ・ヘシヒシ・ヘシは「和名抄」によると、鉄鏃を意味し、棹の先に装着した鉄片である。
この語から派生した「鉄の川」がイヒシ(飯石)川、イビ(揖斐)川であるとしたのも
福士幸次郎である。
ヒシ・ヘシの語が南方系海洋民の鉄・鉄斧を意味するという情報もある。
ベシ・ヘシの語によって表象される古代鉄文化は南方系海洋民によって運ばれ、琉球弧を北上して九州から朝鮮半島西岸、山東半島まで達していたと想像できる。

古代鉄を表わす語が色んな系統に分かれているのですね。
鉄の渡来には様々な民族、ルートがあるのでしょう。

◎そういえば日本語の数詞に「いち・に・さん」と「ひぃ・ふう・みぃ」(ひとつ・ふたつ・みつ)の二系統がありますが、これも日本列島へ流入した民族の違いを表わしているような気がします。
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by jumgon | 2010-12-03 14:27 | ★日本の鉄の歴史

葛城地域に関して ①

前回、「高鴨神社」で書き忘れたが、
葛城は大和の葛城山麓に展開する大地名で、『山城風土記』によれば襲の嶺に下りた「カモタケツヌミ(鴨武角身)」が、神武東征に先んじて東遷し、定住した所である。
という情報があります。

賀茂建角身命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/10/03 12:43 UTC 版)
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、日本神話に登場する神である。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
◎そんなに簡単に日向から大和まで行けるのでしょうか?そんな昔に、、、、、

襲の嶺とは「鉄の峰という意味があるという。⇒次回掲載の「鉄の古語」をご覧下さい。
そういえば、高鴨神社近く、「風の森」というバス停がありそこから5分くらいのところに
「風の森神社」というのがある。今は小さな祠が残るだけのようだ。

http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/kazenomori.htmより

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風の森神社
祭  神:志那都比古神
      (伊耶那岐命と伊耶那美命が34番目に産んだ神様です)

境内看板には、
      「本社は、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上に位置し
       ています。
       御祭神は、志那都比古神をおまつりしています。
       志那都比古神は、風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神
       に因んだ事柄が記載されています。
       又、葛城地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、
       風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神としてまつら
       れています。
       日本では、古くから、風の神に対する信仰があり、毎年旧六月に
       は、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。」
       とあります。
  住  所:奈良県御所市大字鴨神
 

 ◎風が強く野タタラで鉄を作りやすいので、風の神を祀ったと私は思います。そして鉄で農具を作ったのではないでしょうか。木の鋤を作るにも鉄がないと能率がわるいし、先だけ鉄を使ったかもしれない。よく資料館などでみます。 

さて前回葛城王朝説について触れたが少し気になることがあるのでもう一度考えることにする。

葛城王朝説は鳥越憲三郎が唱えた説。
神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。

◎欠史八代までは、鴨族なのかな?
  葛城氏は鴨族の末裔なの?

河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。
さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。

こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。

◎崇神王朝に滅ぼされたとするのに、なぜ崇神後の天皇と関わりがあるのだろうか?
  鴨族と葛城氏はおなじなの、別なの?


欠史八代実在説・安本美典
初代神武天皇と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(「≒推定」の意)する説である。
この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族であったとされる第10代崇神天皇に踏襲されたとこの説は結論付けている。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国であるとする説などがある。

また、欠史八代の多くは畿内の有力氏族と婚姻関係にあったとされる。


ああ、ややこしい!
その時代に生きていたわけではないから、結論はむつかしいね!
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by jumgon | 2010-12-02 22:46 | ★葛城

辛國神社 ①

「大阪みどりの百選」に選ばれた辛國神社
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家から駅へ向かうとき、藤井寺南門に向かう道を通ります。
藤本酒造の白壁塀は最近補修して美しくなり趣のある道だ。葛井寺につき当るので左へ行くとすぐ辛國神社です。
藤井寺市藤井寺に鎮座する「辛国神社」
葛井寺の西に対をなすように鎮座している。
旧郡村字名 丹南郡岡村字春日山
神社専用駐車場 無し
延喜式内社
東向き

神社のその深い緑が日常生活にうるおいを与えてくれています。
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今日はじっくりと境内をみてみましょう。
御神燈の上がっている入り口の3段くらいの階段をのぼってすぐに、鳥居の基壇らしきものが左右に一対ありました。多分昔の鳥居はここに立っていたのでしょう。
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5~6メートルほど進むと木製の鳥居があります。
ここの鳥居は足の両横に足がそれぞれ付いていて、立派です。台風なんかで被害にあわないようにこうしたのかな?と思っていました。
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柱が一部補修されていてその部分は新しい木の色をしています。よく見ると今の鳥居の少し横に丸い石の基壇みたいなのがあります。
多分この鳥居がたてられる前は、石製かそれとも基壇だけ石製だったのか?
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木漏れ日がなんともいえず心地よい。
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10~15mほど進むと、やや小さめの石の鳥居がある。
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二ノ鳥居はもと葛井寺の境内に鎮座していた「長野神社」の鳥居
明治41年辛国神社に合祀された。
「元禄十七年、牛頭天王」の銘が彫られている。(これは延喜式内社を見て歩いた人のホームページに書いてあった。
でも私が今日見た鳥居の足には「長野神社 明治27年9月再建」もう一方の足には「長野神社」と彫られていた。???
どうなってるの?
まさか「延喜式内社を見て歩いた人のホームページ」を明治27年以前に作成したっていうの?それだったら、
「元禄十七年、牛頭天王」の銘を見たかもしれないけど、、、、、、。
(宮司さんにきけばはっきりわかるとはおもうけど、、、)

神社というのは参道が大事だとつくづく思う。

たいして大きな神社でないのに、奥行きを感じさせる社だ。

参道を進むうちに、敬虔な気持ちを盛り上げてくれる。

進むうちに、「御由緒」を書いた立て札がある。
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御由緒
当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。
日本書記には「雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とありますが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われます。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになりました
三代実録には、清和天皇「貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る」とあります。
元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われます。
室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられています。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っています。


御祭神
主神 饒速日命(にぎはやひのみこと・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神)  
    天児屋根命(あめのこやねのみこと・藤原氏の祖神)
    素盞鳴命(すさのおのみこと)・・・天照大神の弟神
相殿 品陀別命(ほんだわけのみこと)
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
末社
    春日稲荷神社(宇迦之御魂大神)
    春日天満宮
物部目大連の祖神は「ニギハヤヒ」です。
長野神社について
祈年祭に鍬が加えられた古社で格式があった。
「もと葛井寺の南西隅に在ったが明治41年、辛国神社へ合祀された。
祭神は、素戔鳴命
葛井氏は5世紀頃百済から渡来した百済十六代辰斯王の王子辰孫王の後裔で、長野連も同じ系譜の氏族と考えられている。
この辺りは志紀郡長野郷と呼ばれたので、氏族名と地名から長野神社と称し、長野連の祖を祀ったものであろう。」
辛国神社が゙在る地名が変わっていってる。
餌香長野邑→河内国志紀郡→たびたびの市町村合併の後→藤井寺市藤井寺1丁目
地名の事はまた他の機会に詳細に調べよう。

いよいよ拝殿です。
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そして、拝殿右横を裏手に進むと本殿が木間からみえる。
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鰹木のあがった立派な社です。
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by jumgon | 2010-10-12 22:00 | ★寺院・神社

恵我という地名 ①

     先日から「ひもろぎ逍遥」(サイドバーにリンクしています)の管理人のるなさんと
      牽牛子塚(けんごしづか)古墳がある場所の昔の地名探しをしているうちに
         近所の天皇陵の地名のことが気になってきた



仲哀天皇チュウアイ恵我長野西陵・大阪府藤井寺市藤井寺・岡ミサンザイ古墳

応神天皇オウジン恵我藻伏崗陵・大阪府羽曳野市誉田・誉田御廟山古墳

允恭天皇インギョウ恵我長野北陵・・大阪府藤井寺市国府・国府市ノ山古墳

*古墳名のあとの青い文字列は現在の住所表記
古墳の陵名にえか(恵我)がでてくるのはこの三つだ。
*古代は濁音はないそうだ

エカと言う地名はいつからあったのか?  
  現在羽曳野市恵我之荘(えがのしょう)という地名があり駅名もある。
  駅の周辺は恵我之荘1丁目、二丁目、、、、、と続く。
  えが(ゑか?)の地名は確か日本書紀で出てきた記憶があるが
  どこでだかハッキリ覚えていない。
  その文を読んだとき、ああこの恵我之荘辺りに飛鳥時代にエカの市があり、
  その後平安時代に誰かの荘園に なったのかな?と勝手に解釈していた。

ちゃんと調べてみよう!
     調べてみるとでてきた。

  えかのいちとして『日本書紀』にも出てくる古くからの名称で、飛鳥時代から奈良時代にかけて栄えた。
市とは市場の市(いち)。
所在地は確定できないが、現在の大阪府藤井寺市国府の大和川と石川(餌香川)の合流点付近にあったとされる/span>
 ☆川の合流点付近一帯というのは説得力がありますね。
百科事典マイペディアの解説.
餌香の市
河内(かわち)を流れる餌香川(現在の石川)左岸にあった古代の市。所在地は確定できないが,現大阪府藤井寺市の国府(こう)とする説が有力。国府は石川の舟運のほか東西に大津道(のちの長尾街道),南北に東高野(こうや)街道が通る要所で,河内国府(国衙(こくが))が置かれていた。
*藤井寺市国府は、石器時代の遺跡で
「シュラホール」に展示してある、<けつじょうピアス>が出土した所です
   
デジタル大辞泉の解説えか‐の‐いち 〔ゑか‐〕 【×餌香の市】 より           
古代、河内(かわち)国に置かれたという市。 
現在の大阪府藤井寺市国府付近、もしくは羽曳野市古市付近が考えられる。 
          以上の記事によると、今の恵我之荘駅の至近地ではなさそうだ。
      駅名なんて鉄道敷設のときに、近辺の地名を参考にしてつけたものだと
      思われるから ちょっと離れてるけど「えが」を借りてきたのかもしれない。 
         ちなみに、恵という字をくずすと「ゑ」という変体仮名になる。
          だから、「ゑか」と発音されたと思われる。
            ゑ(ィエ)に近い発音だと、母が言ってた


結論としては
   今の「恵我之荘」と昔の「ゑか」は比較的近いとは言え、少しはなれた位置にある。
     それとも「ゑか」という地名が広範囲をさしていたのか?
  
       まだ分かりません。
     この件に関して、調べ次第また追加して行きます。

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by jumgon | 2010-09-28 13:19 | ★言語、歴史