古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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三輪山信仰の変遷

三輪山信仰はどのように変化してきたか?

私は古い遺跡や古墳をめぐったり、出土品をみても「古い時代の物」くらいの認識しかなかった!
農具や武器などもいっぱひとからげに、「大昔のもの」でおわっていた。

やっとこのごろ、遺跡や出土品は、出土状況、時代をキッチリ意識したら、歴史の意味がすこしずつ見えてくることが分かってきた。

さて、以前から、大神神社について書いてきたが、それぞれの遺物、鳥居や摂社、末社等がどういう意味があるのかもうひとつハッキリしなかった。
いつから、どの摂社が追加されたのか、記紀に描かれた記述だけを信用していいものか分からなかった。

そんな時、つぎのHPで三輪山信仰の変遷を知ることができたので紹介する。
ただしこれも、筆者のただ今の見解で考えが変わることもあり得る、ということです。(歴史の見解はみなそうですが、、、、)

三輪山周辺の祭祀遺跡変遷http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.htmlより

三輪山周辺地域の分類・・・纏向・三輪・初瀬・三輪山の4地域に細分されます(寺沢1988)。
下の地図をご覧下さい。
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・纏向地域: 狭井川より北方で、桜井市と天理市の境界辺りまでの地域。
・三輪地域:東は三輪山がそびえ、西は狭井川と初瀬川(大和川)に挟まれた三角形の区域。古代歌謡では「水垣」といわれ、清浄な場所とされました。(田中八郎氏もここが「ミワ神の勢力地と書いている。」
・初瀬地域:三輪地域より以東の、初瀬川流域の一帯を呼称。広義の初瀬地域は、現在の長谷寺や天神山(与喜山)のそびえる辺りまでを呼びますが、本稿においては、現在の朝倉・忍坂地区周辺をもって狭義の初瀬地域とみなしたいと思います。
・三輪山地域:三輪山そのものを指します。

 この地域区分に沿って、三輪山周辺地域の祭祀遺跡変遷を見ていきたいと思います。

<前段階>(~3c初)
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○三輪地域が勢力集団の本拠地だった時期(~3c初)
○三輪地域に、芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡などの集落遺跡が集在。
○三輪山信仰は始まっていたが、三輪地域を「不入の聖域」と見る考え方には至っていなかったと見る。
○書記:崇仁天皇三年の秋九月。(紀元前94年?)屋敷を磯城(しき)に移した。
瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。
これから三代に渡り、纒向(まきく)遺跡周辺に宮が置かれることになる。) 

*以前から「水垣」地域に住んでいた人達のところへ、崇仁天皇が瑞籬宮をおいたのか、、、
 まだ対立は起きてなかった、とおもわれる。

<第1段階>(3c初~4c)
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○纏向遺跡が三輪全域を神聖視していた時期(3c初~4c)
○祭祀場は、纏向遺跡の集落内祭祀。
三輪地域は聖地化され、集落も墳墓も築造されず。blockquote>
*纏向地域が発展してきたのだろうか?
 集落は「水垣」から纏向地域に移ったようだ。 


<第2段階前半>(4c後~5c前)
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○三輪地域に祭祀場が設けられた時期(4c後~6c初)
山ノ神祭祀遺跡(前半)を中心に、三輪地域の祭祀場化。

<第2段階後半>(5c後~6c初)
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○山ノ神祭祀遺跡(後半)
奥垣内祭祀遺跡。三輪地域における子持勾玉祭祀の始まり。
○三輪地域北部に茅原大墓古墳の築造。


<第3段階>(6c前~7c初)
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禁足地における勾玉祭祀期(6c前~7c初)
三輪地域→禁足地へ祭祀領域がせばまった。
禁足地磐座群(中津磐座)を志向した祭祀の可能性。
○三輪地域北部で後期古墳が築造されていく。

<第4段階>(7c前~14c?)
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○禁足地内「長方形土壇(御主殿)」祭祀期(7c前~14c?)
○「屋代」としての祭祀場。禁足地磐座群の見える位置での祭祀。


<第5段階>(1317~)
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○拝殿祭祀期(1317~)
山岳登拝の慣習も普及し、「奥津磐座」「中津磐座」「辺津磐座」概念が生まれた。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。

○この頃になると、三輪山を中心として様々な磐座が設けられ、信仰された。


*ナルホド!!
 こんな風に整理されたら本当によく分かる。


子持勾玉の型式変遷略図
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[三輪山出土の子持勾玉] 
子持勾玉とは、大きい勾玉(親)に小さい勾玉(子)が突起の如く付属している祭具です。
三輪山周辺地域は、全国的に最も子持勾玉が出土している所で、その型式変遷から、大きく古式と新式の2期に分けることができます。
そして、その古式と新式の出土した場所に偏りがあることから、これも三輪山祭祀遺跡の分布変遷の傍証となりえます。
 
○三輪地域(芝遺跡・山ノ神遺跡・茅原源水遺跡)出土 → 古式の特徴。5c末ころ。
 ○禁足地出土 → 新式の特徴。6c代

古式の特徴は、断面が丸く、全体的に作りが曲線的であるという点です。子勾玉も忠実に再現されています。対して、新式の特徴は断面が平面的で、全体的な作りが直線的で、先端部が尖っているといった点です。子勾玉は、単なる突起に形骸化していきました。
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by jumgon | 2010-12-15 20:22 |  ○三輪神社・大神神社

倭と古代朝鮮との往来

         記紀にしるされている
      倭と朝鮮との交流記事は本当だったのだろうか?


日本列島と朝鮮との頻繁な往来が記紀で語られている。

「遣唐使の頃でさえあんなに、遭難が多かったのにもっと以前にそんなに頻繁に
    往来できたのだろうか?遭難の記事もみかけないし、、、。」


      こんな風に疑問をもったのは私だけではないと思う。

だけど現実に、日本の古い古墳からの出土品から朝鮮半島製のものが多く出土している。
記紀には神功皇后の新羅遠征、とかそれ以外にもいっぱい朝鮮半島との行き来の記録がある。
またわが国以外の記録としては、有名な好太王碑がある。(教科書にでてきますね。)

「好太王碑」
通説では以下のように解釈される。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉

解釈にはいろいろ異論もあり、又一時改ざん説も取沙汰されたが、一応改ざんはなかったと、するのが学界の定説のようである。

古代交通について調べていると、とても分かり易いサイトが見つかった。

遣唐使船の記事だ。
http://kondoh-k.at.webry.info/200512/article_3.html
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海事博物館ボランティアより

前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。

しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。

◎そうか、遣唐使船は後期になって、沿岸航路ではなくなったから、海難事故が多かったのか?
 ナルホド!!

このサイトには遣唐使船のもっと詳しいことが載っています。興味のある方は訪問してみてください。
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by jumgon | 2010-12-06 14:45 | ★言語、歴史
高鴨神社(たかかもじんじゃ)へ以前から行ってみたいと思いつつ、やっとこの秋に行ってきました。
葛城の道というハイキングコースがありますが、一言主神社を経て歩いていくのは、かなり距離があります。(わたしにとってですが、、、、)
私は車で行きました。正解です。車でも20分以上かかりました。

以前一言主神社へ来た時はあまり天気がよくなくて、「葛城の道」と言えば少し暗いイメージがありました。でも今回は晴れて、稲刈直前の季節でのどけさに包まれるような、道でした。
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山ふところに抱かれた実り豊かな農村風景です。
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やっと高鴨神社ちかくにきたようです。
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「歴史文化棺」というのが高鴨神社のすぐそばにあり、その前が車3,4台停められるようになっています。
大きな木があって、いかにも古い歴史を感じさせる雰囲気です。
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この一の鳥居の左側に「歴史資料館は」あります。
少し入ると、お祓い用の祓え串があります。
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そして清めの水で手を洗います。
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前に池があります。
本殿への道・二の鳥居のそばに背の高い杉の木が立っています。
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階段を登ると本殿です。

高鴨神社の説明版
高鴨神社
御祭神
   阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)
   下照比売命
   天稚彦命

由緒
本社は古代豪族の鴨族が発祥の地に奉斎した神社である。
鴨一族は全国各地に移住して、郡名、郷名に加茂の名を伝え多数の加茂社を祀ったが、本社はそれらの総社に当り、名神大社である。
神話においては国譲りに際し御祭神の三柱ともに御活躍され、また神武天皇の大和平定もヤタガラスとして武勲をたてられた御神徳高き神にてまします。
御本殿は極彩色の彫刻をもつ室町時代の建築で、県下の神社建築の中でもっともすぐれ、国の重要文化財に指定されている。

◎えっ、じゃあ「ヤタガラス」は鴨族なの?

神社のHPから
神社の後由緒
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。
また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。
そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。

三つの鴨神社の位置を確認しましょう。(秋津遺跡の大体の位置も入れました。)
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だんだん鴨族が広がっていたのですね!

( このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。

 『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました


WIKIで調べたら
神武天皇
      妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売) - 阿多小椅君の妹
      皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女

綏靖天皇(すいぜい-てんのう)
      妻:五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと) 
      ※一説には川派媛(かわまたひめ)または糸織媛(いとおりひめ)

安寧天皇
      皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと。鴨王の女、あるいは天日方奇日方命の女か。      『古事記』では河俣毘売の兄である師木県主波延の娘 阿久斗比売)


◎安寧天皇の皇后は鴨王の娘?とあるが他の天皇はどうなの?たくさん妃がいたから載ってないのかしら?


葛城王朝説について
鳥越憲三郎が唱えた説で、実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。
河内王朝(百舌鳥・古市古墳群のある辺り)は瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。
仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。
こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。

 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。

こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。
高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。

さて本殿の方へ行きましょう。
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 現在の御本殿は室町時代の三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されています。

摂社
   東神社(天児屋根命・天照大御神・住吉三前大神)
   神社(主祭神 多紀理毘売命、配祀 天御勝姫命・塩冶彦命・瀧津彦命)
末社
   八幡神社・一言主神社・猿田彦神社・金刀比羅神社・聖神社・稻荷神社・松尾神社
   細井神社・大山神社・春日神社・雷社・市杵島神社・八坂神社・西佐味神社
   祓戸神社・牛瀧神社・佐味護國神社
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境内に末社がイッパイあります。最近再築されたものらしく、木の匂いが漂ってくるようでした。
今もたくさんの人々に崇敬されているのですね。
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by jumgon | 2010-12-02 20:27 | ★葛城
11月24日・毎日新聞
秋津遺跡:大型建物群跡発見 ヤマト王権の重要祭祀施設か

大型建物群跡の見つかった秋津遺跡
 奈良県御所(ごせ)市の秋津遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)の大型建物群跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。
珍しい構造の塀で囲まれた国内最大規模の区画の中に、4棟が規則的に並んでいた。
同研究所は、ヤマト王権の大王か有力豪族が重要な祭祀(さいし)を行う施設だった可能性があるとみて、文献の少ない「空白の4世紀」を考える上で重要な成果だとしている。
 
秋津遺跡で出土した塀跡や大型建物跡(奈良県立橿原考古学研究所提供の合成写真を加工)
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昨年5月から約1万8500平方メートルを調査し今年1月、方形区画の一部を確認したと発表。これまでに区画が六つ見つかり、いずれも杭(くい)を打ち並べた溝の内外を、2~3メートル間隔で打った丸太で押さえる特異な構造の塀で囲まれていた。
最大の区画は南北50メートル、東西48メートル以上と国内最大規模で、内部に南北13.5メートル、東西7メートルの同じ大きさの大型建物跡4棟が、方位をそろえて規則的に並んでいた。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡も計52棟確認された。
 
区画内からは生活に使われる土器がほとんど出土せず、北側の川跡に供物を置く高坏(たかつき)など祭祀用具が大量に捨てられていたことから、橿考研は「内部を清浄に保ち、祭祀を行った施設の可能性がある」とみている。

 
中国の歴史書「魏志倭人伝」は3世紀の卑弥呼、「宋書倭国伝」は5世紀の「倭の五王」について書かれているが、4世紀の記述はなく、古代史上「空白の4世紀」とされる。

 この施設で誰が祭祀などを行ったかについて、学者の間からは
ヤマト王権
▽5世紀に大王(天皇)の外戚(がいせき)として栄え、この地域を支配した葛城(かづらき)氏につながる豪族--などの見方が出ている。
 
現地説明会は28日午前10時~午後3時。JR玉手駅の南西約1.4キロ。駐車場あり。雨天決行。【高島博之】(実はこの日体調が悪くて行けませんでした!)

◎現地説明会にいった方の情報によると、

■「馬歯」の出土品があった。
◎この時期にすでに馬がいた。
唐古・鍵の団栗山古墳からも、馬具(蛇状鉄器)が出土しているから、馬は弥生時代からいたと推測できる。
(⇒★唐古・鍵ミュージアム)

■「鉄滓とふいご」も出土していた。
◎一般には製鉄は古墳時代後期より遡らないと言われている。(⇒日本における鉄の歴史
◎また、塀があったということは、木を加工するのに鉄器は必要であり鉄器を生産又はどこかから手に入れていた。

塀と大型建物の復元イメージ図(県立橿原考古学研究所作成)
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 大王をしのぐ力 
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
「後の葛城氏の根拠地に当たり、その王宮とも言えるのではないか。大規模な施設から、葛城氏が大王をしのぐ力を持っていたことがうかがえ、4世紀の政権構造を明らかにするきっかけになる」

葛城氏とは? 
奈良県御所市など葛城地方を拠点とした古代の有力豪族。4世紀末~5世紀初めに実在した葛城襲津彦(そつひこ)が始祖。その娘は仁徳天皇の皇后となり、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)天皇の母となった。
5世紀後半、雄略天皇に首長の葛城円(つぶら)が滅ぼされたのを機に衰退したとされる。古代、一帯は奈良盆地南の交通の要衝。

葛城襲津彦について「古事記の神々」というブログで語られています。
http://himeluna.exblog.jp/
 
関連の遺跡では、南西約1キロに始祖・葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる室宮山(むろみややま)古墳があるほか、葛城円(つぶら)の居館跡といわれる極楽寺ヒビキ遺跡などが御所市内で見つかっている。だが、いずれも5世紀代の遺跡で、それ以前の葛城氏の実像は不明だった。


<宮山古墳>
全長238mの前方後円墳で、別名「室の大墓」とも言う。明治年間に前方部から木棺と鏡11面、さらに玉類が多数出土し、大正10年に史跡に指定された。
その後、昭和25年に奈良県橿原考古学研究所が発掘調査を行い、竪穴式石室内に六区の方形を刻した長持形石棺が安置され、封土上には石室を囲って短形に靭、盾、短甲、草摺、家等の埴輪が立ててあったのが確認された。
橿原考古学研究所の室宮山古墳の石棺模型
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後円部径105m、後円部高25m、前方部幅22m、前方部高22mを測る、3段築成の古墳時代中期(5世紀)の古墳と考えられる。三段に造成された墳丘には、花崗岩を割った葺石がまかれ、石室の上にはさまざまな埴輪が方形に並べられていた。
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(橿原考古学博物館蔵)
これらの埴輪のうち、高さ142.6cm、最大幅95.5cmの靫形埴輪は特に有名である。銅部の上端に有茎式柳葉形鉄鏃が表現され、左右に広がったヒレとその表面の装飾は渦巻き文や直弧文で構成された豪華絢爛なもので、現在墳丘上にレプリカが立っている。埴輪の列の下に竪穴式石室があり、その中に長持ち型の組み合わせ式石棺が納められている。
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by jumgon | 2010-12-01 16:39 | ★葛城
宇陀って一体どこにあるの?

「大神神社」や「大和の黎明期」によく登場した「辰砂の産地・宇陀」って、どこにあるかご存知ない方も多い事と思う。
今回は「大和の黎明期」に関係のある、土地の大体の位置を確認しよう。

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斑鳩町(聖徳太子・法隆寺)
葛城市(高鴨神社・一言主神社)
田原本町(唐古・鍵遺跡)
明日香(飛鳥寺・石舞台・高松塚)
三輪(大神神社・巻向)
天の香具山
榛原町(古事記にでてくる墨坂神社)
宇陀市大宇陀(ひんがしの丘・阿紀神社)
 宇陀市菟田野町古市場(宇太水分神社)
 宇陀市菟田野町高塚(八咫烏神社)
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by jumgon | 2010-11-06 19:21 | ★宇陀
なぜ古代日本の王権発祥の地は大和なのか?

日本の(文献上の)歴史が奈良盆地から始まったことはいうまでもないが、今の奈良県をみていると「どうしてこの地が重要であったのか?」の疑問がわく。さほど魅力的な土地であったようには思えない。
大和地方で一番古い古墳があるとされる三輪山麓周辺はそんなに広い土地ではない。
明日香も狭い。甘樫の丘から明日香村を見下ろすと、細い飛鳥川を挟んで、狭い平坦な地がある。この地でさえ天武天皇が湿地を埋め立てて平地にし、都を作ったというが、なんでこんな狭い場所を都にしたのか不思議に思うほどである。

飛鳥寺を訪れた時、「この長閑な水田がひろがる土地が本当にかっては日本の首都だったのか?」と思わずにいられなかった。

なぜ王権発祥の地が大和地方なのか?

そもそも西暦後の文明を日本列島に育てた功労者は渡来人である。

(それ以前の渡来者も海からやってきて、縄文文化を華咲かせていたが、、、)


渡来者はまず海岸や港に生活を根付かせたから、新文明の弥生文化の到来は北九州や瀬戸内海や山陰が大和より優位だったのは当然でなことだ。
弥生時代後期の頃の大和は、九州、吉備、や山陰と比べると、紛れもなく後進地だったはずだ。

先進地をおしのけ、後進地の内陸が幾百、幾千あるなかで、大和が選ばれて新国家創建の地になった理由はなにか?

なぜ、筑紫や出雲、吉備でなく大和まで人々はやってきたのか?

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」ではいろいろ細かく語られているが次の二つが大きな理由だ。
① 宇陀に辰砂が産出し大陸から買い付けられた。(買い手があった。)
(えっ、そんな昔から?そういえば、不老不死の薬を求めにやってきた徐福伝説がありますね。中国では「神武天皇は徐福だ」という説があるそうです。
亀の瀬渓谷の地すべりが天然の要塞となり大和を防衛した。

(亀の瀬渓谷ってどこにあるの?たぶん、亀の瀬渓谷なんてたいていの人はご存知ないと思う。これについては、「大和川・河内平野から大和への道)の項でかきます。)
地図で青い星マークが亀の瀬です。


さて、これを詳しく見ていこう。

 辰砂採掘は先住民も行っていたが、後にやってきた王権予備軍は辰砂採掘のみでなく冶金による水銀生産を始めようとした。水銀鉱脈を探す為には地元先住民の協力は無くてはならないものだったし、採掘、冶金の労働者は先住民だったから、それを采配する大国主の力は王権予備軍より大きいものだった。
やがて冶金の技術を知っている王権予備族が次第に力を大きくしていった。(採掘と冶金の権益をめぐって、先住民と王権予備軍との間で軋轢があったことは、大神神社で述べた。)

王権予備軍は 鉄の農工具使用によって古墳を築く為の土を採り出し、あとに出来た大きな平地を水耕稲作地とした。
(巻向時代に先立つ唐古・鍵の弥生時代にも水田生産は実践され、他地方に先行した農法だったが、大規模の実施は箸墓建設にともなった。)古墳建設と水田農耕はセットで推進された。

水田農耕も古墳建設も全て労務者は先住民で、労務の指揮監督者は王権予備軍だった。先住民たちは古墳建設や新農業の合理的な生産と利益の産出に驚き参加しながら、富のおこぼれを得た。(箸墓労務者は単純計算で少なく見積もって年間3400人プラス家族人数、それに加えて管理者、治安要員の人口があり、その食料の必要性が水田稲作を推進させた。)
こうして、だんだん王権派の力が強くなっていった。

 古墳築造・水耕稲作地の開発の為、不特定群集を管理するための組織つくりと不満分子を監督する為の武力(戦闘集団)を作った。これでますます力をつけていった。

○ 決定的な力の差を生んだは、馬の出現だった。運搬力と鉄鉱技術。これによって先住民は分裂して、とうとう王権派が永く続いた拮抗を崩し主導権を握った。


以上が田中八郎氏の「大和誕生と水銀」にかかれた、大和に古代日本の首都が出来た理由です。

ナルホド、地に足がついたお話だ。
先住民と王権予備軍の「せめぎあい」があったとは思うけれど具体的にどういうことだったのか全く分かっていなかった。田中氏によると三輪山麓・巻向時代の特徴は、大王を含む諸豪族と先住民勢力=オオクニヌシ派とが共同統治をおこなっていた、という。物資の輸送人足や労務者の統率には先住民の指導者の協力は必須だった。
双方互角で均衡した有様を映しているのが、ツバ市の域内にあった崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に、オオクニヌシとアマテラスを崇神自身が祭祀していたことにある。
  

奈良の重要な場所は、以下のように移っていったらしい。
1.弥生時代(磯城郡田原本町。唐古・鍵遺跡がある)
2.ヒミコ時代(桜井市・巻向の古墳群)
3.初期大和朝廷時代(桜井市・橿原市)
4.飛鳥時代(明日香村の飛鳥浄御原京)
5.藤原京時代(橿原市)
6.平城京時代(奈良市)

わたしが考えたこと
王権予備軍の人口は先住民より少なかったと田中氏は書いているが王権予備軍はいったい何人ぐらいの集団だったのか?
◎最盛期人口1,600万人もいたインカ帝国を滅ぼしたのはピサロ率いる、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力だった。

わたしの想像では、神武をふくむ幾組かの親族集団でやって来たのではないかとおもう。
神武一族、久米一族、安曇一族、隼人一族、その他。
各親族集団30名位とすると約100~200人位ではなかったか?
先住地元民と戦うときは協力しつつ、それぞれ力を蓄えた各族のうち、神武一族が最終的に王権を握ることになった、、、、てストーリーはどうかしら?
記紀では最初から、他の一族を部下みたいに書いてるけど、、、、。

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by jumgon | 2010-11-04 15:35 |  ○三輪神社・大神神社
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」
前回はここで終わりました。

その証拠?なるものがあります。
① ミムロ神は注連縄が逆さ飾り
② ミワ鳥居の怪
③ 鎮花祭の目的は祟り神をしずめること
④ 狛犬がいない
⑤ そうではないのに、大和王権の守護神とされた

先ず、しめ縄の歴史から、みていきましょう。

田中八郎「大和誕生と神々」より
ミムロ地域の縄文期の信仰について述べましょう
縄文神は、雷や風や光や古木・岩石といった自然現象や物質を依り代としていました。人工の建築物や鏡や剣などには宿らぬのが慣わしでした。
縄文社会では集落も神も自由に移動していた。収穫物や気象や環境が良好な間はそこにとどまり、悪化すると良好な土地に移動するわけです。(洪水が多かったらしい)
大自然ということは神の能力は無制限に広がっていた。だから、どこへ村が移動しても神も移動できた。土地の収奪が最大の目標だった王権予備族にとって実に好都合な状況だった。
留守の間に土地を占領してしまうと今度は労働力を確保する為に先住民を奴隷化する必要があった。
建設すべき自分たちの王土作りのために、労働力の確保が必要だった。それには集落の移動を禁止し手、労働力の逃散を食い止めなければいけない。
労働力の逃散を食い止めたい王権予備軍は「ヤシロ(社・屋代)という神の定住処」を強制的に押し付けました。
といっても当初の社は簡単なものだったでしょう。
いわゆる神社建築は、仏教の普及に刺激を受けて設けられたものだから、六世紀よりさかのぼることはありません。「神とその指導者層を柵の中に閉じ込めておけば、村人は柵のまわりに群がって逃散する気遣いはない。」>(◎そういえば神社のまわりはたいてい石の柵で囲まれています。これは発生時の意味が変化し、神聖な神域を示すものに変化していったものと思う。)
どんな柵かというと、人がすり抜けられぬ約10cm間隔に地面に打ち込んだ木杭の周列で、容易に乗り越せない高さだったとおもわれる。この周柵に神と指導者を拘束して柵をくくり上げた縄が注連縄でした。だから注連縄の原初形は長い縄に下がりが数多くぶら下がっているもので、下がりが立ち杭を表現していた。

(この説、信じていいかしら?とりあえず、このまま進行します。)
長い縄に下がりが数多くぶら下がっているしめ縄?ありました。板締めという形式です。
板締め
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垂らした藁は隙間なくギッシリ詰まる。
全国各地で見られるが、福岡市水鏡神社・久留米市水天宮など九州北部に多い。
(なぜ、大神神社にないの?)

さて、しめ縄といえば紙垂(しで)がぶら下がっています。これは何を意味するのでしょう?

周柵内に閉じ込められ、〆られた国つ神へ村人は頻繁に指導を受けたり、相談することが必要でした。面会の手段として工夫されたのがシデ(紙垂・四手)です。
シデは三本の縄を撚り合わせたしめ縄の撚りをもどして出来た隙間に挟み込んで飾るのが元来のやり方です。幽閉された神に面会を求める村人たちはこう言いました。「シメをゆるめましたからどうぞ出てきてください」
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(要するに人を捕縛する細い縄。)
注連縄の2種類の綯え方があります。上図の通りです。

つまり右綯いの注連縄をしている神は注連縄によって〆られているのです。鳥居の外から右こぶしを上げられている、ということです。

この説も信頼じていいのかしら?(一説によると、注連縄の右綯いは80%、左綯いは20%だそうです。)
強い勢力をもったミムロ神は、王権予備軍の用意した社(やしろ)に閉じ込められるのはイヤでした。そんなこと許したくありませんでした。でもとうとう「ミムロを敬うふりをした大神神社」に祀られてしまいました。
王権予備軍側もミワ勢力と正面衝突をしないでいたかったのでしょう。注連縄はするけど、右こぶしは上げてません。
王権予備軍が右こぶしを上げるのではなく、ミムロ神の方が内側から右こぶしをあげている事になります。(表面的にはミムロ神をたて、実利を取る作戦です)
お正月に各戸の門口に飾る注連縄は下がりの部分が三本か五本に整形美容されたものだし、縄の真ん中が太くデフォルメされていて、神を捕縛する役目を忘れさせる形になっている。うかうか見過ごしていると、注連縄の原初の意味はうかがい知ることさえ出来なくなっています。

大神神社のしめ縄はすべて「左綯え」です。

じゃ、出雲大社のしめ縄は?

大きな勢力をもちながら大和王権にやむなく屈しただけあって、左綯いですね!
こうしないと、大国主のたたりが恐かったのかしら?
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上の写真は出雲大社の神楽殿のしめなわです。ほんとにデザイン的にカッコイイけど原初の形から変化したみたい。柵を意味した下がり部分をまとめたのかしら?
注連縄は時代が下るにつけ色々変化していってようですね。
田中氏いわく、「王権の神を祀った神社には注連縄はありません。」

◎でも確か、応神天皇が御祭神の誉田八幡宮には鳥居には注連縄はなかったけど、拝殿には注連縄があった。
私の勝手な想像だけど、原初の意味は次第に失われ、神の神域を示すものへと意味が変化したのではないだろうか?

注連縄の素材は稲藁です。
つまり稲に代表される農業が祭祀と古墳とに関わりを強くしたところから、注連縄の習俗が生まれた。
縄文神を押さえつけるのが注連縄なんです。

次ぎはミワ鳥居の怪について
② ミワ鳥居の怪
三輪山には本殿はありません。三輪山そのものが神とされ、拝殿があるだけです。
だけど拝するのに鳥居をくぐれないのです。
「なぜ?もう鳥居は2つくぐってきたけど、、、、。」
御神体の前にもう一つ鳥居があるのです。でもその鳥居の前に格子があるのです。だから鳥居はくぐれないのです。
この鳥居は神聖物として拝見できませんけど同様のものが檜原(ひばら)神社
にもあり、これは容易に見ることができます。
神に会いたい人は「格子越しの面会しかできないのです。格子というのは牢獄です。
格子つき鳥居はミムロ神を閉じ込める仕切りだ、ということになります。


大神神社パンフレットより

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大神神社HPより
三ツ鳥居(みつとりい)
明神型鳥居を三つ組み合わせた、一名「三輪鳥居(みわとりい)」とも言われる独特の鳥居です。いつ頃どのようにして、この形式が出来たのかは不明で、神社の記録にも「古来、一社の神秘なり」と記されているだけです。
左右には、長さ16間の瑞垣(みずがき)が設けられ、ご祭神とゆかり深い動物、花鳥など、すぐれた木彫りの欄間が、はめ込まれています。三ツ鳥居、瑞垣ともに重要文化財に指定されています。 これが大神神社の三つ鳥居です。拝殿の裏、拝殿と三輪山の境にあります。

創建は平安時代ともいわれています。鳥居の上部左右が上に跳ね上がる形は出雲大社型です。なお、伊勢神宮型はまっすぐです。

下写真は檜原(ひばら)神社
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大神神社の摂社、檜原(ひばら)神社の同じ形の三つ鳥居です。三輪山の西北麓に位置し、天照大神を伊勢神宮に遷す前に祭祀した「倭の笠縫の邑(元伊勢)」と伝えられます。 
伊勢神宮も大神神社(大物主神)の摂社かもしれません。
三輪山から「山之辺の道」をたどると、30分くらいでここへつきます。
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by jumgon | 2010-10-25 13:31 |  ○三輪神社・大神神社

唐古・鍵ミュージアム

昨日古・鍵遺跡へ行った。
遺跡には、楼閣の絵画土器をもとに復元した楼閣を唐古池上に復元している。
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この遺跡があるのは奈良県磯城郡田原本町で、その一帯にはたくさんの遺跡や出土品があって、全国でも出土例が少ない「蛇行状鉄器」が団栗山古墳という小さな古墳から出ている。(現物は国立博物館で展示されている)
唐古・鍵遺跡は、弥生時代の大環濠集落である。(この前行ったメタ神社のある稗田環濠集落は鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されている。)

現在の水田下約50cmに2千年前の生活に関する様々な遺物が眠っている。
発掘調査では、集落を囲む環濠や竪穴住居、井戸、青銅器の工房跡、木棺墓などが検出されている。
また、多量の土器や石器のほか、楼閣などの絵画土器、岡山県東部や静岡県西部からの搬入土器、青銅器の鋳造に伴う鋳型など弥生時代でも貴重な遺物が多い。特に絵画土器は、唐古・鍵遺跡とその分村である清水風遺跡の2遺跡で、全国の絵画土器出土総数の約半分を占める。
出土遺物は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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盾持人埴輪(顔に刺青があるのがわかりますね。)
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こんなきれいなアクセサリーのパーツもある。
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わたしがここで一番気に入ったのは褐鉄鉱の宝石箱だ。
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1褐鉄鉱容器80次縦14.5㎝横13.2㎝中期ゲート展示ケース
2ヒスイ勾玉80次長さ4.6㎝中期
3ヒスイ勾玉80次長さ3.6㎝中期
4土器片(甕)80次横8.2㎝中期

☆奈良市から平群町にかけて分布する200万年前の大阪層群中で形成される褐鉄鉱は、良質な粘土の周辺に鉄分が凝縮して生成された自然の好物です。
褐鉄鉱の内部の粘土は乾燥収縮し、それが内壁にあたって音をたてる為、江戸時代の好事家の間では「鳴石」や「鈴石」として珍重されていたという。
実際に手にとることができ、振ると鈴みたいな音がした。
ミュージアムには、褐鉄鉱に2個のヒスイ勾玉をいれ、土器片で蓋をしたと推定されるものが展示されていた。
まさにヒスイ勾玉をいれた宝石箱といえます。

こんな子持ち勾玉というのもあった。(長さ、約6,5cm)
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by jumgon | 2010-08-30 20:34 |  ○唐古・鍵ミュージアム

石上神宮

石上神宮を訪れる。こんな暑い日は、神社の木漏れ日涼しい神さびた道が懐かしい。
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この神社には鶏がたくさん放し飼いされている。
<鳥居→鳥居>の連想から、神の使いめいた雰囲気が漂う。
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でもちょっと待って!
私の娘の友人が小学生の頃、近所のお祭りでゲットした(ひよこ)、大きくなって面倒見切れなくなって「石上神宮に放しにいった。」と聞いた事がある!!
この鳥たちいったい何時から居るのやら~、、、
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さて、石上神宮の歴史を、ウィキペディア>、その他から
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。
古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。
その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、
日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に
代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こった。
使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。

当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
国宝
•拝殿-入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代。
o白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄贈したとの伝承がある。
•摂社出雲建雄神社拝殿(せっしゃいずもたけおじんじゃはいでん)-内山永久寺(天理市杣之内町にあった廃寺)から1914年に移築したもの。正安2年(1300年)頃の建立。建物の中央部分を土間の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式。
七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)-銘文の中に369年に当たると推定される「泰和四年」の年紀が刻まれ、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。
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重要文化財
•楼門-文保2年(1318年)建立
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石上神宮の鎮魂祭についての記述から引用、
この中の儀式で、まことに奇妙な神事があります。
布瑠の言 布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。
「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。
饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている
十種神宝とは
『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。
分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

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by jumgon | 2010-08-16 19:14 |  ○石上神宮