古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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大和川と石川が合流する地点を少し奈良の方に進むと、弥生時代の史跡高井田横穴群がある。
30年位前からその存在は知っていたが、当時は写真でみると、山の中の木や笹などの間から穴があちこち見える、といった感じで、一人で行くのはちょっと恐い感じであった。
現在は、「史跡高井田横穴公園」となってそばには「柏原市立歴史資料館」が出来ていて、柏原市の歴史がわかるようになっている。
前回アップした、「大和川付け替え」についての資料も展示されている。


奈良方面から亀瀬峡谷を通り抜けてようやく河内平野へ流れ出た大和川は、石川と合流する手前で大きく北へ蛇行する。
その蛇行地点に近い北岸は、生駒山系の南端にあたる。鬱蒼と樹木が生い茂った丘陵が河岸近くまで張り出してきている。樹木を育てている土の表層を一枚まくれば、その下には凝灰岩(ぎょうかいがん)が横たわっている。
今から1000万年以上も前に、二上山の噴火で降り注いだ火山灰が固まってできた岩盤だ。
凝灰岩は柔らかい。掘るのが簡単で、加工もしやすい。そうした性質を利用して、この地域に盤踞した古代氏族は、丘陵の斜面に多くの横穴を穿ち集団墓地を築いた。6世紀の中頃から7世紀の初めころのことで、ちょうど聖徳太子が生きた時代にあたる。

横穴をめぐる遊歩道
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史跡高井田横穴は、総数200基以上と推定される大規模な横穴群です。
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横穴は、6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたお墓で、二上山の火山灰が積もってできた凝灰岩と呼ばれる岩盤に洞窟のような穴を掘り、 死者をほうむったものです。横穴からは、土器や武器、装身具などが発見されています。 また、人物、鳥、馬など様々な線刻壁画が描かれた横穴もあり、貴重な文化財です。


現在までに確認されている横穴墓の数は162基、実際には200基以上はあると推測されているという。
この史跡を有名にしているのは、横穴墓が密集していることもさることながら、線刻壁画が描かれた古墳が27基も存在することだ。

壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまである。何を描いたのか理解できない線刻も多数あるという。
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27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳だろう。玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、よく知られた複数の人物が描かれている。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれている。この人物は、左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っている。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようだ。

その左には「正装の人物」が描かれている。船に乗る男と同じ服装をしているが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしている。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいている。船に乗る男を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っている。

高井田山古墳
高井田横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかった古墳で、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳である。
埋葬の主体部は内部に薄い板石を積み上げた初期横穴式石室だった。近畿地方では最も古い横穴式石室とのことだ。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)があった。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品である。

ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんの話によれば、「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けている。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。」と言う。
桑野さんによれば、畿内の横穴式石室には2種類あって、朝鮮半島からいったん九州を経て伝わったもの(5世紀半ばころから)と、直接畿内へ来たもの(6世紀頃から)とに分けられると言う。
百済との関係を裏付けるのは、石室の形態と副葬品である。
石室を上から見た形は九州のものと違って「韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」という事になる。(よく判別できないけれど、、、)
また、資料館に行けば見れる古代のアイロン、火熨斗(ひのし)の出土は、国内では2例目であるが、中国・朝鮮では多く出土している。
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百済の武寧王陵では、王妃(526年没)の副葬品として出土している。高井田山古墳でも、玄室には副葬品から見て二人埋葬されていた可能性が高く、火熨斗が出た方の棺からは中国産の鏡も見つかっている事から、こちらも女性の可能性が高い。
その他に、純金製やガラス玉製の耳飾り、剣、槍、矛などの武器類や甲冑(かっちゅう)、および神人龍虎画像鏡と呼ばれる銅鏡などが出土した。
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by jumgon | 2010-11-18 21:45 | ★高井田甌穴群(柏原市)と歴史資

大阪湾と大和川

古代大阪の姿・大和川
3枚の写真をみると、大阪湾がだんだん陸地になっていく様子が分かりますね。
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かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、
大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。

縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行く.

古代河内は今は陸地のところが海で、小さな川が、何本もながれ河内地方は、じきに洪水に襲われ、ジュクジュクの湿地だった。(水耕稲作には湿地帯は洪水さえなければ良いのだが、、)

仁徳天皇による堀江掘削
『日本書紀』巻十一の仁徳天皇十一年十月の条に、『宮(高津宮)北の郊原を掘りて、南の水(大和川)引きて西の海(大阪湾)に入る。困りて其の水を号けて堀江という。
大阪湾内が泥水で腐り困って、海へ繋がる道を開削したそうです。
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又、将に北の河のこみを防がんとして、以て茨田堤を築く』とあり、上町台地の北端、現在の大阪城の北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘ったとされ、大和川の排水を促す工事としては最初のものであり、淀川左岸の築堤とともに日本で初めての大規模治水工事と考えられている。


■和気清麻呂の工事
律令制制定以降もたびたび大和川流域一帯で護岸工事が行われ、『続日本書紀』の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して河内国志紀郡・渋川郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある。
その後、延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが、上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区・阿倍野区の地名である「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの名はこの工事が由来していると言われている。

◎和気清麻呂って、宇佐神宮に神托の確認にいった人よね。
  神託と土木工事というのがどうも結びつかない。


■平安時代以降も大和川流域の洪水被害は頻発していた。堤防補修費用捻出のために弘仁3年(812年)には「出挙」とよばれる利子付貸し付けを行い、その利子を工事費に充てるとことも行われた。さらに、『日本三代実録』の記述によると、貞観12年(870年)には河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど、国家事業として大和川治水が行われていた。

■江戸時代初期
豊臣秀吉が日本全土を平定し、大坂に城下町を整備するのに合わせて淀川・大和川水系の治水工事も大がかりに行われ、断続的だった堤防はこの頃には連続のものになっていく。江戸時代には「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれ、堤防の管理・保全が行われた。
このころには大和川の流路は人為的に固定されてしまったため、上流からの土砂は逃げ場を失い、川底に堆積し、天井川となっていった。堤防決壊による洪水被害も起こりやすくなり、被害の復旧、堤防のかさ上げや川浚えなどに多額の費用と労力が費やされた。


■江戸時代の川違え(付け替え)工事
度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。
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安堂駅近くに「大和川治水公園」があり、中甚兵衛の銅像がたっている。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。
安堂付近の大和川からみる二上山(手前にプールのらせん滑り台がみえる。)
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大和川の築留

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by jumgon | 2010-11-15 21:18 | ○ナニワからヤマトへの交通路
大神神社や宇陀水銀の話でよく出てきた「亀の瀬」についてお話しする前に、先ずナニワから大和までの大和川の流れをみていこう。

古代河内平野、大和川の地図を見てみよう。
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縄文・弥生時代から飛鳥・奈良時代からずっと難波から大和へのルートを握ってきたのが、大和川である。
現在の大和川は江戸時代に付け替えられたもので、いまとは違う。

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大和川でナニワからヤマトへすんなり入れたら問題はなかったのだが、途中で亀の瀬という、難所があり、それが、逆にヤマトの防衛機能を果たせたという見解もある。
大和川でナニワからヤマトへ荷物や人を運ぶには「二つのルート」が考えられる。

1) ナニワ→亀の瀬→竜田越え→奈良盆地
2) ナニワ→亀の瀬でいったん陸揚げされ上流へ向かう川船に積み替え→奈良盆地

古代の奈良盆地における水陸交通網の謎を追う より
亀の瀬は古代でも大和川水運の難所だったが、どのようにこの難所を通り抜けたか

■亀の瀬は、宿命的な地すべり地帯だといわれてきた。北側の山麓で地滑りが起きると、崩れ落ちた土砂で大和川がせき止められたり、川底が浅くなって川が滝のように流れた。当然、川船による運行はできない。

1) 竜田越え南路」を利用して難波から奈良へ向かうには、青谷~堅上(かたがみ)~雁見尾畑(かりんどうばた)~竜田山古道里山公園~峠八幡神社(とうげはちまん)~立野というルートもあったようだ。
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2) ナニワ→亀の瀬でいったん陸揚げされ上流へ向かう川船に積み替え→奈良盆地

飛鳥時代以前、どちらの道が使われたにせよ、荷物を運んだり道案内を頼んだりするために、人足衆が必要で、それを采配する指導者が広瀬神社に祀られている「広瀬の神」である。(田中八郎氏)

亀の瀬・・・・・緑と川が美しい
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『日本書紀』に記載された外国使節の往来に関する記事による。
推古天皇16年(608)6月、遣隋使節として隋に赴いた小野妹子は隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を伴って帰国した。このとき、難波津に到着した隋使たちは8月に海柘榴市(つばいち)から小墾田宮へ迎えられている。
すなわち、一行は船で大和川をさかのぼり、三輪山の近くの港湾都市・海柘榴市で上陸している。

■このとき、一行はどのように亀の瀬の難所を越えたのであろうか。亀の瀬の手前で船を下りて「竜田越え南路」を通って大和に入り、ふたたび川船で大和川を遡航したと考えるのが一般的であろう。
だが、雁見尾畑(かりんどうばた)を越えていく峠道は、筆者(和田)も徒歩で踏破した経験があるが、かなり厳しい坂道である。もっと簡便な方法があったのでないか、と考えていたときヒントになったのが、江戸時代に開拓された大和川水運の例である。
◎雁多尾畑(雁見尾畑)って、変わった地名ですね。
まるで横溝正史のミステリィに出てきそう。昔仕事でいったことあるけど、ちょっと隠里という雰囲気の村です。


■大和川の水運は、慶長6年(1601)に小泉藩の領主だった片桐且元(かたぎりかつもと)が、年貢米を大坂に運搬するために亀ノ瀬の岩壁を開削して水運を開発したとされている。この水運では、王寺町の亀の瀬がターミナルだった。
その亀の瀬を境に、上流と下流とで二つの水運区域をなしていた。亀の瀬から上流の大和川はあまり水深がなかったため、船底は平らで浅い魚梁船(やなぶね)が用いられた。魚梁船は長さ約15m、幅約1.5m、約1トンの荷物を積むことができた。

■一方、亀の瀬から下流は、剣先船(けんさきぶね)が用いられた。
剣先船は大坂から亀の瀬まで積み荷を運んだ。だが、亀の瀬には銚子口という滝があったためにそれより上流に遡ることができない。
そこで、剣先船を係留する浜で荷物を小揚げし魚梁船に積み替えて上流の大和まで運んだとされている。

■そうであれば、古代においても亀の瀬は大和川水運の中継地点であったはずで、上流から運ばれてきた荷物は亀の瀬の岸でいったん小揚げされ、荷物を扱う仲仕などによって下流に運ばれ、再び川船に積み替えられて難波へ運ばれたであろう。下流から運ばれてきた荷物も同じように、亀の瀬でいったん陸揚げされ、上流へ向かう川船に積み替えられたであろう。
亀の瀬の滝と成って流れる急流はそれほど長くない。

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by jumgon | 2010-11-14 22:40 | ○ナニワからヤマトへの交通路