古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

宇陀の阿紀神社

アマテラスを祀った・阿紀神社

大宇陀町には古事記に出てくる場所がたくさんある。
○阿紀神社
○阿紀野・人麻呂公園
○万葉公園(かぎろひの丘)
の三ヶ所がごく近くにある。

先ず、アキ神社を訪れよう。

いかにも村の古社という雰囲気の場所だ。
f0215268_22503090.jpg


鳥居横にに石柱がある。
f0215268_22019.jpg


石柱を読むと「式内郷社・阿紀神社」 「奈良県宇陀郡神戸村大字迫間 吾城野・神戸鎮座 明治32年8月」とある。
 明治時代にはこのの地名だったのですね。
祭神
天照皇大神
合祀 天手力男命、秋姫命、八意思兼命

阿紀神社の鳥居の脇に、この神社の由来を書いた説明板が立っている。それによると
古文書がこの神社に残っていて、当社が天照大神を祀る所以を次のように記しているという。すなわち、神武天皇が紀州熊野の難所を越えて宇陀の地まで進軍してきたとき、この地で御祖の神(=天照大神)を祭って大和の方へ押し出すと、日神の威勢に背中を後押しされて賊軍を打ち払うことができた。そのため、この地に天照大神を祭祀するようになった、というのである。
 確かにこの神社の社殿は神明造り南向きであり、伊勢神宮正殿とまったく同じ建て方になっている。板塀に囲われているので、詳しくは分からないが、建物全体が直線的である。屋根を見ると、長く突き出た破風板(はぶいた)が左右に交わり、その先端が千木(ちぎ)になっている。棟の上に甲板(こういた)を付け、その上に堅魚木(かつおぎ)が列べてある。

伝承は伝承として、神武天皇の頃はまだ、当地に天照大神は祀られていない。
f0215268_2218245.jpg

上の写真は本殿。扉には鍵がかかっていた。

『日本書紀』は別の話を載せている。第11代・垂仁天皇の時代のことである。それまで豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和の笠縫村で祀っていた天照大神を、倭姫命(やまとひめのみこと)に託して別の場所に祀ることになった。
◎大和の笠縫村で祀っていたというのは、桧原神社のことだと言われています。
<三輪山の話 ② しめ縄と三つ鳥居>をごらん下さい。


天照皇大神の放浪

創祀については、倭姫命の神幸伝承に求める説がある。「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世紀」によると、倭姫命が天照皇大神の御霊を奉じて、大和の美和の御諸宮から宇太の阿貴宮、佐々並多宮、伊賀の穴穂宮、阿閇拓殖宮、近江の坂田宮、美濃の伊久良賀波の宮、伊勢の桑名野代官、鈴鹿小山宮、壱志藤方片樋宮、飯野高宮、多気佐々牟迤宮、磯宮、宇治家田上宮等から五十鈴川上に斎き祀ったという。

◎天照皇大神が色々な場所を転々としてたなんて知らなかった。待遇が悪かったから移っていったのかな?
f0215268_19125778.gif

最終的には伊勢の五十鈴川上に今も大切に斎き祀られているのですが、、、、。
どういう理由だったのか気になる。天照皇大神の放浪については機会があったら、調べてみたいと思う。

社務所は閉じられていて、普段は無人のようだ。旧神戸村と言うのは多分そんなに戸数は多くないようだ。
今では何か村の行事がある時だけ祭礼があるのだろう。
境内はそんなに広くない。
f0215268_2252186.jpg

阿紀神社の境内中央には、古びた能舞台が据えられている。
宇陀の地は元和年間(1615~1623)に織田藩の治所となり、その三代目の当主・織田長頼の頃に阿紀神社で能楽が奉納された。それを起源として、この能舞台では、寛文年間(1661~1673)から大正時代まで能楽興業が行われてきた。
 大宇陀町は平成4年に薪能をこの神社で再開し、平成7年からは「あきの蛍能」として6月中旬に能楽を開催している。能の最中に明かりをおとし、蛍が闇に放たれて幻想的な世界を演出するという。神社の前に位置する「かぎろひの丘」の麓を流れる水路は蛍水路と呼ばれ、蛍が育てられている。

能舞台
f0215268_23105723.jpg

「あきの蛍能」、、、、、想像するだけでも幻想的ですね。でも夜にここに来るのはちょっと遠いからムリかな?
[PR]
by jumgon | 2010-11-08 23:27 | ★宇陀

宇太水分神社を訪ねる

田中八郎「大和誕生と水銀」を読むまで私は「宇太水分神社」の存在を知らなかった。

宇陀には何度か訪れたことがあったが、今日は「宇太水分神社」を訪れることにしよう。

その前に、田中八郎「大和誕生と水銀」より
水分神社とは
水分神社は「水を生み水を配分する神様を祭る神社」という通説がある。
大抵の人は字面をみてそう思うし、神社縁起なんかにもそう書いてある。
が、そうではない。。
水分とは「鉱石を冶金すること」を指す。
水分神、それは特定の時期に一斉に現れて、天之水分・国之水分という職掌名はあっても固体の神名は封じられた神でした。
水分神は地元の縄文神だったものが、大和王権が新規開発した水銀や銅などの金属生産の現場担当になったものだ。
その論拠は長く細かくなるので、省略する。

大阪から宇陀へ車でいっても遠い。斑鳩や飛鳥・奈良からまだ30分以上走らないと着かない。
弥生時代の人は三輪山麓から宇陀までどうして行ったんだろう?歩いて?小船を利用して?
以前2~3回来たことがある、が。榛原から右折する道が狭いので来るたびに通り過ぎてしまって、今日も又Uターンして右折する道を探すハメになった。
でも車が混んでないので、遠くの山並みと美しい緑を楽しみながら、どうにか大宇陀のメイン観光地?である、「くすりの館」や「森野薬草園」あたりに着いた。

(地図で水色のアイコンのところは「御破裂山」、中の大兄の皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒す密談をした処と伝えられている。)

が、今日の第一の目的は「宇太水分神社」だ。
道の駅でおりて、ゆっくりマップをみる。
大宇陀町から菟田野町古市場へ行く道は「もしかしてかなり狭い道?」かと心配したが、そうでもなかった。
よく考えれば「古市場」という地名だ。むかし市場があって栄えた所なのだ。
大宇陀から菟田野町へ向かう道には「毛皮・レザー用品」の会社や商店がたくさんある。畜産加工業が盛んなところらしい。
そして、やっと着きました。!
道の両側には商店や民家のある道沿いにありますが、いかにも古いたたずまいです。
大和のおく深くにある国宝の社殿を有する「宇水分神社」、宇水分神社、ではありません。

f0215268_20183272.jpg

いかにも古い狛犬がいます。刻印を読むと「嘉永7年甲寅9月」とあります。
嘉永7年といえば1854年(56年前)、江戸末期、「安政」の直前です。
境内に薬の井(御神水)があります。 
  推古天皇が莵田野に薬狩りをされた時、この井泉で心身を清められたとの伝えから、この水を田にいれると稲が豊かに稔ると言われている。
頼朝杉 
  樹齢400年の杉は二代目の頼朝杉と言われ、初代は頼朝が杉苗を植えたとの伝えである。
境内には大きな「頼朝杉など古い大きな杉がたくさんあります。

まず、HPから
宇太水分神社の歴史
●第十代崇神天皇7年2月(古事記の注釈によると紀元前90年ごろ)  
     崇神天皇の勅命により祀られたと伝えられている。

●大和朝廷が飛鳥に置かれた頃
    大和の国の東西南北(宇太、葛城、吉野、都祁)に水分神社が祀られた

●推古天皇19年(西暦610年)   
    推古天皇が菟田野に薬狩りをされた際、薬の井で身を清められ たとされる

◇平城京遷都 西暦710年

●大同元年(西暦806年)        神封一戸が奉られる。

◇平安京遷都 西暦794年 

●延長5年(西暦927年)      
     大和四水分が大社に列せられ、祈年祭、新嘗祭、月次祭の案上官幣に預かる。

●平安時代末期(年代不詳)    
     源頼朝、幼少時に当社に詣でて、大将軍になれるかどうかを占うために杉を植えさせたとされる。

元応2年(西暦1320年)    
     本殿の三棟が建設される。(現 国宝)、棟木銘により判明

f0215268_20344753.jpg
こんな大和の奥深くに華麗な神殿があったなんて、、、、。
御祭神は
第一殿     天水分神 (あめのみくまりのかみ)・王権の神
第二殿     速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
第三殿     国水分神 (くにのみくまりのかみ) ・縄文先住民の神

•本殿3棟
(同形の3棟が並ぶ。第一殿の棟木に元応2年(1320年)の墨書があり、他の2棟も同時の建立と推定される。3棟とも春日造で、隅木入春日造で建立年代の明らかなものとしては最古のものである。 )

摂社・末社がたくさんある。それぞれ丹塗りの華やかな社だ。
摂社
春日神社    天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
宗像神社    市杵島比売命(いちきしまひめのみこと) 
末社
恵比須神社   蛭子之大神(ひるこのおおかみ)
金刀比羅神社  大物主命(おおものぬしのみこと)

鳥居からでて帰ろうとすると「あれ!向こうに一の鳥居らしきものがある。」
行って見よう。
一の鳥居から
f0215268_2201322.jpg


道を挟んで川がながれている。
f0215268_2224868.jpg

土地のおじさんに聞いたら「ほうのがわ」とのこと。「どんな字ですか?」「芳野川ですよ」
ついでに気になってた、下水のフタの模様のことをきいた。
「あれは、鳥、、めじろだったかな?それと紫陽花と杉の木をデザインしたものです」とのこと。
わたしは、もしかしてこの鳥、ヤタガラスかな?と思ったんですけど、、、、
足は3本なかったけど~
何でも地元の人に尋ねることだ、とおもった。
f0215268_22322171.jpg

[PR]
by jumgon | 2010-11-06 20:42 | ★宇陀
宇陀って一体どこにあるの?

「大神神社」や「大和の黎明期」によく登場した「辰砂の産地・宇陀」って、どこにあるかご存知ない方も多い事と思う。
今回は「大和の黎明期」に関係のある、土地の大体の位置を確認しよう。

f0215268_19211480.jpg

斑鳩町(聖徳太子・法隆寺)
葛城市(高鴨神社・一言主神社)
田原本町(唐古・鍵遺跡)
明日香(飛鳥寺・石舞台・高松塚)
三輪(大神神社・巻向)
天の香具山
榛原町(古事記にでてくる墨坂神社)
宇陀市大宇陀(ひんがしの丘・阿紀神社)
 宇陀市菟田野町古市場(宇太水分神社)
 宇陀市菟田野町高塚(八咫烏神社)
[PR]
by jumgon | 2010-11-06 19:21 | ★宇陀

辰砂・水銀とは ②

水銀の話 ②
古代に宇陀では辰砂がとれた、と「辰砂・水銀とは ①」でお話ししました。

補足を書きます。
宇陀地方の辰砂採取は4~5世紀にまでさかのぼれ丹生氏が採取していました。
ただこの頃は露天での採取だったようです。水銀の坑道採掘は6世紀後半に秦氏によってはじめられ、この宇陀の地は秦氏の管轄下におかれたようです。
宇陀の水銀採取は平安初期にはおわり、その後は伊勢の水銀に代わっていきました。

前回の水銀の話は、分かったけどもう一つハッキリしないという方もいらっしゃると思うので
続編を書きます。(分かってないのは私なんですけども、、、)

辰砂と水銀は一緒なのか?、、、

銀色の液体状のものが水銀(Hg)です。
日本語ではみずかねと呼ばれていた。 漢字では古来「汞」の字をあて、現代の中国語でもこの表記が正式である(中国でも「水銀」は通称として用いられる)。

水銀の化合物が、硫化水銀・辰砂(Hgs)で固体です。次ぎの二種類があります
•辰砂 - HgS(三方晶系)
•黒辰砂 - HgS(等軸晶系)。
別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。


岩石状のものが辰砂で液体状のものが水銀なんですね。
宇陀の鉱山ではほとんど自然水銀(液体状のもの)はとれず、硫化水銀(辰砂・固体)でした。

日本における辰砂・水銀鉱山
WIKIより

丹生鉱山(にうこうざん)
三重県多気郡多気町(旧・同郡勢和村)にあった水銀鉱山である。ここでは自然水銀の産出が多い。縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行なわれていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見されている。さらに、40ヶ所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・加工が行われていた。


徳島県阿南市水井町には若杉山遺跡が存在している。同遺跡からは石臼・辰砂原石が発見されており、古墳時代の水銀採取遺跡として知られている。この付近には江戸時代末期に発見された水井鉱山(由岐水銀鉱山)があり、近隣の那賀郡那賀町(旧・鷲敷町)仁宇には、丹生神社を合祀した八幡神社が存在する。また、この付近一帯は「丹生谷」と呼ばれている。


高野山麓には丹生都比売神社が存在し、ニウヅヒメが祭神となっている。ニウヅヒメは元々、大和国の丹生川のはてに住んでみえたので名付けれたという。現在、ニウヅヒメは「祈雨止雨の神」であり、同神社は同信仰の拠点となっている。また、ニウヅヒメは伊勢国に姿を見せたともされている。
同地は丹生氏の本拠地だったともいわれ、水銀にまつわる神と考えられる。この事から丹生都比売神社と、同町丹生地区の丹生神社は祈雨止雨信仰と共に水銀鉱業に関するつながりもあるものと見られる。
ただし、元来、ニウヅヒメと祈雨止雨信仰は無関係のものであった。これは古代の水銀鉱業の衰退に伴い、丹生氏が水銀鉱業から農業に生業を転換していく際、農業に重要な水を司る女神であるミヅハノメを主神に迎え入れた。この結果、ニウヅヒメとミヅハノメの混同されるようになり、ニウヅヒメは「祈雨止雨の神」となってしまった。
◎大和宇陀地方にたくさんある水分神社も元来は辰砂採掘地の縄文神を祀っていたが、後に水分神社と言う名称が与えられ、今では、農業神、水の神を祀る神社と思われている。水分神社のことは又別稿で書きます。)
一方、丹生神社にはカナヤマヒメとカナヤマヒコの男女一組の神も合祀されている。他の鉱山でも「山神」として祭られる事もあり、鉱山に密接した神といえる。


水銀の性質
水銀は、各種の金属と混和し、アマルガムと呼ばれる合金をつくる。これは水銀が大半を占める場合には液体、水銀の量が少なければ固体となる。白金、マンガン、鉄、コバルト、ニッケル、タングステンとは合金を形成しないので、水銀の保存には鉄の容器が用いられる。

水銀の保存には、鉄の容器を用いるのか!
粉状の辰砂粉末の保存容器はどんなものがいいのだろうか?
天神山古墳の辰砂は「木櫃」に入ってたけど、、、。


それから、私には分からないことがあります。
「辰砂は顔料に使用される、、、」と辞書には書いてあるが、石棺や人体などに塗るときは粉のまま塗ったんだろうか?粉状のままでは、パラパラ落ちてしまうと思うけど、、、、。日本画では「岩絵の具」をニカワ液でといて用いるけど、、、。
ようするに接着剤的なものはあったのか、無かったのか、分からないのです。

どなたか知ってる方は教えてください。


★ あるお寺で清めの為、塗り香というものを手につけたことがあります。微粉末なので粉だけでわりあいにとれにくかったのを覚えています。だから接着剤はいらなかったかもしれません。
[PR]
by jumgon | 2010-11-01 22:21 | ★辰砂・水銀

辰砂・水銀とは?

宇陀の水銀で、ミムロ地方が栄えたと田中八郎氏の書物に書いてある。

◎宇陀の水銀で大和が栄えた、というは本当だろうか?
丹生のつく地名は水銀と関係がある、と書物で読んだことがある。
だけど宇陀には見つからない。(ありました!奈良県宇陀郡菟田野町入谷の丹生神社・榛原町雨師の丹生神社)
三重県や和歌山には丹生神社がどっさりあるのに、、、、、。


WIKIでは古代では、伊勢がおおきな水銀産出地とかいてある。
戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。

◎あまてらすを伊勢に祀ったのは、これと関係がありそうな気がする。

他に情報はないかな?

見つかりました!いろいろな趣味の方がおられるということがよくわかりました!

「気ままに鉱山・炭鉱めぐり」
http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/index.html
以下、ここより情報をいただきました。

大和水銀鉱山
奈良県宇陀郡という地域は万葉集の「大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかば・・・・云々」という歌にもあるように古代から辰砂(朱砂)産出の多い地域である。(”丹”というのは水銀の意味である。) 水銀採掘はその後も続いていたと思うが特に明治に入ってからは政府の植民地政策であらゆる金属の増産が叫ばれ水銀も例外ではなかった。かつて立派な辰砂や自然水銀を産出したことで有名な鉱山でしたが、公害汚染を防ぐため、ズリは現在埋め尽くされて、現在では何もないようです。

f0215268_1511352.gif

◎ナルホド、宇陀から辰砂が出たのは本当だ!

水銀とは
水銀(元素記号:Hg、原子番号:80、比重:約13.5)の歴史は古いしまた使用範囲も広い。一般には縄文時代にはすでに顔料として使われていたと言う。顔料とは簡単に言うと塗料だ。その各種の色の元になる物質だ。水銀はその原鉱石である辰砂(朱砂)の赤っぽい色を利用して赤の顔料として使われていた。


◎水銀と言えば私などは水銀体温計ぐらいしか思いつかないがあの銀色の光沢のある液状のものが元は赤い石ころだったなんて自然て実に不思議です。
古代人って直感力や観察力、洞察力がすごいんですね。

他にも用途としてはたくさんありますが特に古代中国では”不老長寿”の薬としてもつかわれていたことはもう常識ですね。当時、埋葬された古墳などの骨から高濃度の水銀が検出されているそうです

【中国の水銀の歴史と効用】
中国の水銀は産出量も多く、利用の歴史も長い。殷王朝(前1100年頃)の遺跡「殷墟」から発見された玉製の戈やト辞を刻んだ甲骨からは水銀朱が使われていて、すでに高度な水準だった。秦の始皇帝は前210年に不老不死の実現を試み、蓬莱山から神仙薬の入手に奔走している。ヤマトで水銀の発掘が始まる1200年前から中国では水銀の利用が重ねられていた。
また水銀の効果は防腐力という点ですさまじい。遺体の防腐に成功した事例として中国湖北省の荊州博物館のミイラがある。1975年に発掘されたミイラは薄紅色の液体に浮かんでいた。そばの竹簡によれば、紀元前167年の遺体である。そのミイラは内臓も鼓膜もほぼ完全に保たれ、胃には胃潰瘍の後まで残っており死因まで確認できる。驚く事に2200年間内臓と鼓膜まで保存した技術であった。容器の中にあった液体は硫化第二水銀であった。この事からも中国の水銀技術は世界に比類なき高度なものであり、この技術を発展したのが漢方の薬学であった。

◎ミイラの話はいつか新聞で読んだことがある。オドロキの防腐力ですね!

【漢方の薬学と水銀の関係】
不老不死の究極の願望を身近に近寄せたのが漢方である。700に及ぶ処方の研究は、水銀を主原料とする薬で不老、神仙、軽身を効能に掲げ、長命を目指した医薬だった。
富裕層が競って服用したが、老衰と発病にかかり、それでも大陸水銀の品質の問題にした為に蓬莱山に水銀を求め、その行軍が徐福であった。東海の島にあると言われる蓬莱山を目指した一行は和歌山県新宮市に渡来したことになっている。彼の目的が辰砂だとすれば、熊野に上陸して植民したコースは神武天皇が宇陀水銀を目指したコースと重なる。
 話は変わるが小さな切り傷などケガをした時に最近はバンドエイドを貼ったりスプレー式の物で傷口を保護したりするが昔は赤チン(正式にはマーキュロクロム液)を塗っていた。 この赤チンに今は入っていないがかつては水銀が入っていた。
 金属鉱物の製錬でこれほど便利なものはほかにあまりない。ただし毒性を除いてはだが。第一に入手が比較的に簡単。そして多くの金属と溶けやすい性質がありアマルガムを造りやすい。沸点が低く(約350度ぐらい)分離(精錬)がたやすいなど考えようによっては精錬にうってつけの金属である。(ただし日本では現在は水銀は使われていない)
 
東大寺の大仏さん建立時の金メッキで大量の(三重県の丹生鉱山)の水銀が使われたことはあまりに有名です。大仏にメッキ(鍍金)の金を定着させるために人足たちは手に持っている松明を近づけてその火で水銀を蒸発させた。当然顔は松明より下に離さないと蒸気を吸い込んでしまう。そういう注意はされたとは思うが、この時代には水銀蒸気の有害性はわかっていたのだろうか?
察するに相当の水銀中毒犠牲者が出たことだと思う。

水銀が採れるところ
水銀は深い地層にあるものだが、宇陀と桜井と高野山で採取されやすかったのは、断層で地表に近づいたからです。
伊勢から室生・桜井・飛鳥・高野山・紀ノ川河口へさらに徳島・松山までが列島最大の中央構造線と呼ばれる断層です。

f0215268_1551450.gif

水銀の呼び名
硫化水銀の素鉱は、丹・丹砂・朱・朱砂・真朱・真珠・銀朱・水銀灰・辰砂・巴砂・越砂と記述されている。
f0215268_1415117.jpg

わが国で採取される水銀のほとんどが辰砂(硫化水銀)なのは火山地質層であるので硫化物になるのが少ない。
銀色のブヨブヨした純水銀は少ない。
辰砂の結晶は光沢があり美しいが少しの打撃で粉砕されるほど硬度が低く、宝石にはならない。
辰砂の粉末の粒子を細かくするほど、朱のようにオレンジ色になります。
f0215268_152927.jpg


⇒<天神山古墳>出土品
◎私みたいな人間でも、硫化水銀の素鉱を偶然石にこすりつけ、赤い色がつくのに気付いて、塗料として辰砂の利用を思いついたかもしれない!! (縄文時代人なみになれるかも、、、)

[PR]
by jumgon | 2010-10-30 15:06 | ★辰砂・水銀
「大神神社」とは?
ずっと書きたかったけどなかなかまとめられないでいた「大神神社」(みわさん)について、じょじょに書いていこう。
あとで文を整理したり、訂正したり、別の考えが出てきたらその時また書き足していきたいと思う。
田中八郎氏の「大和誕生と神々」を主に参考にし、他の先生たちの書物の知識もとりいれ、自分なりにまとめたいと思う。
f0215268_13573081.jpg

さて先ずは公式HPから
三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山であります。古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。

高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川(はせがわ)、北は巻向川(まきむくがわ)の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ヘクタールとなっています。

山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています。


「田中八郎氏の「大和誕生と神々」には次のように記されている。

三輪山は神体山である、とする慣用句がガイドブックから考古学、歴史学の論文にいたるまで数々の記述に頻出するので、つい吟味せず資料視しするが初出は山崎闇斎(1618~82)のようだ。
彼は将軍家綱と綱吉治世の頃の儒学神道学者で、神儒一致説を唱えて垂加神道を創始した。
その中で三輪山の神体説を打ち出した。かれの大きな影響力もあって「三輪山神体説」が古代色も付け加わりながら浸透したとおもわれる。
現拝殿は寛文4年(1664)の再建で、将軍家綱の棟札があるので、山崎闇斎の影響が拝殿の方にまで及んだらしい。世を挙げて仏教一色のなかで、三輪山の役目をひきたてる必要から神体山説が意味をもったのだろうか。
山と神の話では、ヤマトトトヒモモソヒメと契った男がミムロ山に帰った神であった。という箸墓説話がある。

箸墓伝説 
大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

又、 『日本書紀』に記されている伝説で、第十四代雄略天皇がチイサコベノスガルに「三諸岳の神の形が見たい」と命じました。スガルは三諸岳に登って大蛇をとらえ、天皇に奉り、天皇は斎戒をせずにそれをご覧になりました。すると大蛇が雷のような音をたて、眼はギラギラと輝いたので、天皇は見ることができず眼を覆って殿中に隠れてしまわれ、大蛇をお山にお返ししました。これによって三諸岳は「雷の岳」と名を改めたといいます。

この二つの話によれば
①神の住所はミムロ山で、山が神だとは言っていない。
②王権予備軍がミムロの神を懐柔するためヤマトトトビモモソヒメを派遣したが失敗。(水銀の流通権益を譲らせる為)
③ミムロの神が王権予備軍と拮抗した大きな力を持っていたことを表わしている。


拝殿奥の三つ鳥居から山頂にかけて磐座(いわくら)とか磐境(いわさか)とよぶ祭祀用岩石群があって信仰の対象になっている。これは岩石信仰であって山そのものの祭祀ではない。
山の土そのものに霊力があるとされた「天の香具山」とはちがうのだ。

山そのものを祭祀して拝殿が造られたのは「大神神社」であって、ミムロ山を根拠地とした(ミムロ神)信仰ではない

◎ややこしいので平たくいうと、ミムロ地方の先住縄文人の頭領やその祖先神がミムロ神で、先住縄文人たちは山の磐座をミムロ神の依り代として祀った。鳥居も拝殿もなかった。
◎大和王権が承認した名前が「三輪」で王権が成立していない以前の時代、つまり縄文時代の三輪山とその神は「ミムロ」である。

ミムロ山は、砂金も鉄鉱石もベンガラも産出しない。大和地方の繁栄の原動力となった地下資源は、宇陀、都祁の辰砂であり、その流通を押さえていたミムロの住民が勢力をはっていた。そこに、王権予備軍がやってきて、辰砂の権益を横取りし鉄の農工具を使って農耕地を広げ、大和王権をたてようとした。そのとき先住民の激しい反撃を懐柔するために「先住民の神を大事にしてますよ」というポーズのため作ったのが「大神神社」(おおみわじんじゃ)である。

f0215268_14311818.jpgf0215268_14322775.jpg









ところで縄文時代の人は辰砂を見て、それから水銀が採れるとどうして知ったんだろう?
辰砂とは?
辰砂は単独の鉱物としてより、水銀を取り出す為の鉱石として名前が知られている。
水銀を取り出す方法は、とても簡単で、ただ熱すればいい。
熱すると辰砂は亜硫酸ガスと水銀に分離される。
また、古くは辰砂自体の赤い色を絵の具に使用していたらしく
英名はギリシャ語でそのまま
「kinnabaris=赤い絵の具」に由来する。

私たち現在人は本当に自然を知らない。(特に私は)
自分で火もおこせないし、糸も針も作れない。きっと縄文人たちは色んな植物、岩石などの知識を持っていたのだろう。
スイッチやボタンひとつで電気をつけたりガスでお湯をわかしたりしている現在人とは能力が違うのだろう。

さて、「大神神社」に話をもどします。
なんで、「大神神社」を「おおみわじんじゃ」と読むのだろうと不思議に思わないくらい、浸透してしまっている名前。
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」

                                                              つづく
[PR]
by jumgon | 2010-10-21 13:52 |  ○三輪神社・大神神社