古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
前回の「天平写経」を書いているときに思い出したのが経典の版木だ。

高校時代に訪れた京都のお寺で見たことがある。
「こんなのがあるんだ。」と感動したのを覚えている。
高尾の神護寺だったように思えるが何しろ半世紀近く前の話だ。
ネットで調べたけれどどうやら神護寺ではないようだ。

ネットで調べると、宇治の黄檗山萬福寺の宝蔵院に版木が収蔵されているとある。

私が行ったときはお寺の一部屋にあったと記憶しているが、現在の宝蔵院収蔵庫は立派な鉄筋建ての建物だ。


宝蔵院と鉄眼一切経
   (重要文化財)
 
黄檗山宝蔵院は、1669年一切経の開版を志した鉄眼禅師が、隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立したものです。
 全6,956巻、現在仏教各宗派で使われているお経は、いずれもこの一切経のうちに含まれています。
 6万枚の版木は、縦26cm、横82cm、厚さ1.8cmで、3cmの縁がついています。版木材料はすべて吉野桜。版木の書体は明朝体であり、現在広く使われている書体としての明朝体はこれから発したものです。
桜材 26.3cm×86.2cm 延宝6年(1678)完成  国重要文化財
f0215268_22532141.jpg

f0215268_22505957.jpg


鉄眼一切経
原稿用紙の元になったのもこの一切経といわれております。
明朝体と合わせて今日の「図書・印刷」鉄眼禅師が
文化のルーツとされる所以です・・・


一切経とは・・・ 
仏教思想は三蔵に収まります。即ち釈尊が説かれた「経」と戒められた「律」及び釈尊とその弟子が「経・律」を解説した「諭」の3つで、つまり一切経6,956巻をいい、精神面はもとより、天文・人文・医術・薬学・人道など社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科事典とも言うべきものです。
 古来インドで出来た経文は梵文であり、これをまとめて中国語に訳した高僧が玄奘三蔵法師達であり、日本に広めたのが鉄眼禅師です。

版木の現在・・・ 
黄一切経の版木は、現在も完全な形で保存されていて、国の重要文化財にも指定されています。
 宝蔵院内では、この版木を用いて現在も経本の印刷(木版印刷)・出版が行われています。
 一切経は、初刷より現在まで約2,000部余りが印刷され。国内はもちろん明治時代にはアメリカ、イギリス、ドイツ、タイ、昭和には満州、中国にも搬出され、中華民国中央研究所(台湾)にも納められました。

一度に刷れる数も限られ、湿度と温度をみながら一枚ごと丁寧に刷り上げられています。
f0215268_231058.jpg


◎現在も印刷されてるなんて、大きな遺産ですね!
[PR]
by jumgon | 2011-08-01 23:03 | ★言語、歴史

唐招提寺・千手観音の謎

唐招提寺・千手観音の謎

杉山二郎著
「天平のペルシア人」より

左京条二坊にあった大安寺が長安の西明寺を模倣した、天平中期の東アジア圏いや西アジアの商人や技術者の蝟集した国際ホテルを擁して活気のあったところだったのですが、どうやら鑑真和尚がこの唐招提寺を造立した天平末期には、この地に東アジア・西アジア出身の人たちが集まってきていたのではないか、とわたしは推定しているのです。
~中略

金堂は天平建築物の代表のように考えられておりますが、実は鑑真和尚が遷化されてから、約四十余年たってからの 大同年間の造立徒建築史の方々の意見があります。
鑑真和尚の遷化した天平宝字7年(763)にはこの金堂はまだなかったのです。

当時既に造立されていた仏像も、本尊毘盧遮那仏と、小さな木造梵天、帝釈天、それに四天王像の7体と考えてよいでしょう。

となりますと両脇侍の丈六の千手観音立像と薬師如来立像は、何時どのように造られたかが問題となりましょう。
これは私の個人的な見解なのですが、千手観音立像は寺の言い伝えによりますと、「天人一夜の御作」と呼ばれています。
f0215268_950417.jpg


鑑真和上の徳力によって、天人たちが舞い降りてきて、一晩のうちにこの千本の手を持つ観音像を造り上げたとする伝承なのです。しかし天人が虚空からやって来たと考えるよりも、唐招提寺の近くにあった国家管理の手を放れた氏寺にあった尊像を、金堂に持ってきて一晩のうちに解体した像を組み立てたとする方が、理解納得がゆくのではないでしょうか。
f0215268_15265121.gif

わたくしはすぐ近くにあった藤原仲麻呂(光謙女帝から恵美押勝と愛称された寵臣)の邸宅にあった、千手堂の本尊だったのではないかと推測しています。

ご存知のように橘奈良麿が孝謙帝の廃立を計画して反乱を企てたおり、藤原仲麻呂がその反乱の鎮圧勝利を祈念して、私宅に造立したのが木身乾漆造りの千本の手のある観音像だったと思われるのです。
私寺の千手堂の本尊ながら、国家鎮護のための造立ですから、光明子と光謙天皇の寵愛を一身に享けた彼仲麻呂は、東大寺の諸仏を造立していた官営造仏所の工匠・工人らを自由に利用できたはずです。ですから文字通り千本の手を差し込んで合理的に造るやり方を用いたのでした。~

光謙帝の寵愛が道鏡に移り、光明子の庇護を失った恵美押勝は,遂に天平奉宝字8年(764)に道鏡を除こうと兵を挙げ、そして結局殺されてしまい、彼の邸宅も官に没収、多くガ破却される運命となりました。
千手堂の本尊であった千手観音丈六像は、廃邸の余計物ですから、至近距離にあった唐招提寺に解体して運搬し、そして一昼夜くらいのスピードで再び組み立てることも可能かとおもわれます。
ですから「天人一夜の御作」の伝承がここから生まれたのでしょう。
もちろん、唐招提寺の建築も仏像も、年号銘文ではっきりした造立年次がわかっておりませんので、やはり推測の域を出ません。
[PR]
by jumgon | 2011-07-08 15:28 | ★言語、歴史
渡来人西文(かわちのふみ)氏創建の「西琳寺」
(所在地:羽曳野市古市2丁目)

30年近く前「ふるさと歴史散歩」で古市(大阪府羽曳野市)周辺を訪れたことがある。
少し遠いけれどチャリンコで行けないこともない近さだ。
そのとき「西琳寺」へ行ったことは覚えている。
渡来人が創建したと解説を聞いた筈だけど、その「渡来人が」が西文(かわちのふみ)氏らしいことまでは覚えていなかった。
調べてみるとやはり西文(かわちのふみ)氏の創建らしい。
久しぶりに訪れてみよう。

近鉄南大阪線の古市駅から東へ5,6分も歩くとつく。近くには白鳥神社もある。
近いけど見つからないので通行してる方に教えてもらった。

西琳寺西門全景
f0215268_2291252.jpg


境内は広くない。でも古い大きな銀杏の木があり、歴史を感じさせる。
f0215268_21482672.jpg

門を入ると左手に大きな塔心礎がデーンとすえられている。
「これ、本当に塔心礎なの?」というくらい大きい。
f0215268_21501985.jpg


●塔心礎(3.2×2.3×1.5m・約27t)
メチャクチャ大きい!というのが第一印象です。それに27tって重い
wikiには27トンと書いてあるが、2トンとか2,6トンと書いてあるサイトもある。重すぎてピンとこないけどどっちが本当なんだろう?
この前訪問した野中寺の塔心礎と比べると大きさの違いに驚き!

今は、その巨大さを誇るのみになってしまった心礎が、境内西に戻されています。(以前は、大和川堤で碑の台座として使用されていたそうです。)
心礎には、心柱を支える為の添柱穴も見られ(4個か5個か判別不能)、舎利埋納孔は添柱孔の横に穿たれていたそうです。雨水の為に見ることのできない心礎孔の底辺には、「刹」という文字が刻まれているそうですが、創建時のものではないという説もあります。
f0215268_2155534.jpg

塔心礎を上から写した写真です。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/27osaka/sairin/sairin.html
からお借りしてきました。
こんな大きな石の上面をどうやって撮ったのかしら?今の状態だったらよじ登ってまで撮せませんよね。
心礎の窪み、変わった形ですね。

そういえば、野中寺の心礎の穴は花びらみたいな形でしたね。
f0215268_2224744.jpg

野中寺
http://jumgon.exblog.jp/16100144/

この奥に石造五輪塔がある。
f0215268_2244351.jpg


●西琳寺石造五輪塔
昭和32年(1957)、工事中に高屋城跡の土塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。
文安3年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関係した高僧の供養塔とされる。
いずれも花崗岩製で最も大きな叡尊塔とされるものは高さ3.1mあり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりである。


さて、wikiより概略を見てみましょう。

Wikiより
沿革
欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。

創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。
出土品の瓦などから飛鳥時代創建は確実であり、境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。
●これまでの発掘調査によって、創建は飛鳥時代(7世紀前半)であり、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されている。
679年には七堂伽藍が完成しており、流記資材帳によると743年まで七堂伽藍を揃えていたことを確認できるが、安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により中世以前の堂塔ほぼ全てを喪失した。
◎743年ということは聖武天皇の時代です。

●鎌倉時代には、奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)が、寺を中興し、広い寺領を所有し隆盛をきわめた。
東西一町(約109m)、南北二町(約218m)の寺域を持ち、金堂・講堂・五重塔・回廊・鐘堂・食堂。僧坊などを備えた堂々たる大寺院だったという。
それが、天正年間の兵火や明治の廃仏で、建物の殆どを失ってしまった。


羽曳野市HPを見ましょう

西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。
西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。
現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の 丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。
当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。
現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。
この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。

 現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、市役所1階ロビーに展示されています。
ガラスケースに入っていて光ってうまく撮れないのでHPからお借りしました。
f0215268_22241635.jpg

次の二枚の写真左側は裏側(腹側)から撮したものです。
f0215268_22255299.jpg

●鴟尾の全体がうかがえる稀少な例である。胴部と側面と鰭部には段違いの羽根状の模様を削り出し、腹部には火焔宝珠(かえんほうじゅ)と蓮華文(れんげもん)が浮彫りされており、仏教芸術の 新たな史料として注目される。

[PR]
by jumgon | 2011-06-19 22:30 | ○西琳寺(羽曳野市)