古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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大安寺(平城京)訪問記

東大寺大仏の開眼供養で勅命により大導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)が大安寺に住んでいたと、いう記事を読んだことがあり、大安寺というお寺のことを知りたくなった。今まで訪れたことはない。

大安寺は平城京にある寺院である。
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無料駐車場がある。

駐車場のすぐ傍に「推古天皇社」なるものがあった。
なぜこんな処に?
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『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿が描かれています。
 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです
 現在の社殿は明治9年の再建
 祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(推古天皇)

 
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あじさいの花が咲いていました。
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◎そうか、創建当時にも推古天皇を祀る社があったのでここに有志の人たちが推古天皇社を復興したのだ。

さて、現在の大安寺へ~
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大きな門です!
復元されていました!!
中を覗きます。
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境内は広そうです。

●中門跡の石碑・奥に見えるのはドイツからの記念樹の楠
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大安寺前貫主・河野清晃師は荒れ果てた大安寺の復興に尽力しますが、大戦で応召。帰山後も苦労を重ねます。
そういった中、若い人たちを国際的に目覚めさせようと、奈良日独文化友の会を創って、活動を始めました。昭和三十八年(1963年)には会を「奈良日独協会」と改称し大安寺を本部としました。
きっかけとなったのは清晃師が高野山大学時代に発表した論文「高野山根本大塔の研究」をベルリン大学教授で京都日独文化研究所主事であったF・M・トラウツ博士がドイツ語に翻訳、広く世界に紹介したことにありました。

記念樹の下にあるプレート
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後でネットで読んだのですが大安寺は秀吉時代の地震で堂塔全て壊滅したそうです。
今見る南門も何もなく、訪れても「ここにあったのか」と確認するだけでその痕跡を想像することもできません。
それをここまで復興するのは大変なことだったと思います。
大安寺の歴史については、改めて書く予定です。
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大きな楠、横に竹、ビワの実が成ってるのが見えます。

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12輪?搭・いつからあるか分からない。
特に説明はない。
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塔の台座です。

●いよいよ本堂です。明治時代に復元されたそうです。

正面じゃなくて横から撮っています。
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屋根のてっぺんにあるのは何と呼ぶのかな?
本堂の中を覗かせてもらいました
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◎この照明ペンダントのデザイン素敵ですね
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暑いので蔀戸を半分上げています。
○蔀戸(しとみど)
上下2枚に分かれ、下1枚を柱間(はしらま)に建て込み、上1枚だけを跳ねあげる半蔀(はじとみ)と上下に分かれず開口部いっぱいの大きさになる一枚蔀戸もあります。

●大安寺歴代住侶供養の五輪塔と石碑
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供養碑
当山は聖徳太子の熊凝精舎に発するわが国最初の官大寺である。
奈良朝の盛時には887名もの内外学侶が止宿居住し あたかも迎賓館兼仏教総合大学の観を呈した
わが国の文化はこれら学侶の学恩によること多大である
茲に供養の五輪塔一基を建立しその鴻恩に報い奉らんとするものである
                                    現住 良文

◎大安寺に住した主な僧侶については別に記事を書く予定です。
名前のわからない大きな木がありました。
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古くなると幹に縦の筋目が入る木・どこかで読んだおぼえがあるのですが、名前を思い出せません。葉は少し細長い。
◎クヌギかあべまき、のようだ。
クヌギとあべまきの区別はむつかしい。おまけにどんぐりまで似ている。

さて南門の横に大安寺旧境内の説明板がありました。

平城京の左京六条、七条の四坊に十五町(約8万坪)もの寺地を有していました。
伽藍中心部には金堂を中心に講堂や僧坊がならび、搭院には東西に二基の七重の塔がそびえていました。
塔が伽藍中心部の南に「搭院」として独立し、回廊壁画にまで仏画が描かれるなど、それまでの寺院にはない特徴がみられます。
現在も残る東西両搭跡の土壇が往時の壮大な伽藍を彷彿させます。

大安寺の南門をでる。大安寺の敷地はいまとは違ってもっと広かったと書いてあった。
ちょっと周りを歩いてみよう。
推古天皇社を右手に見ながら歩いていくと、御霊神社という鳥居がある。
境内地図に書いてある「竜王社」のようだ。
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御霊神社由緒記(神社看板)より
本神社は元石清水八幡宮と称す。(八幡神社)
大同2年8月17日、大安寺の僧、行教和尚が大安寺の鎮守社として筑紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の宣託により獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る。
而して遥に男山八幡岩清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神として、高オカミ、善女竜王命ニ柱の紙を祀られた。~

H12年12月吉日   大安寺町評議委員会

やっぱり水の神様だ。

さてもっと歩いていくと、
畑があったり民家が建ってたりする。
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あっ、何か遺跡っぽいものが、、、
道の左側は小学校。
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奥の突き当り,、、、、近づいてみると
「経楼跡」と書いてある。
そうか、勿論ここも境内だったのだ。
唐から持ち帰った多くの経典があったはずだ。

もうこの辺で引き返そう。
学校や民家が建っていては発掘調査もできないだろうし~

大安寺のこと何も知らなかった私は、奈良時代の壮大な寺院を発見しただけでもワクワクしています。
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by jumgon | 2011-06-29 21:24 | ○大安寺(奈良)

おふさ観音バラまつり

おふさ観音はバラのお寺

橿原市にあるおふさ観音というお寺がある。

入場無料で精込めた多くのバラを公開している。
おまけに駐車場は無料。花好きにはありがたいお寺です。

トイレの入口には、男・女などと書いてなくて「善男」「善女」と書かれています。
こんな風にかかれると悪いこと出来そうにない。
なんとも言えず奥ゆかしいお寺だ。

小さなお寺だが境内いっぱい、バラでうめている。バラは鉢植えが中心なので、手入れが大変だと思う。


4月の24日に早すぎるとは思ったが訪れてみたが、早咲きつるバラが門を飾っていた。
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だけど境内のバラはまだつぼみも見えないくらいだった。
白い可憐な花が咲いていた。多分姫リンゴだと思う。
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◎バラにはやはり早すぎた。

それで今日6月11日、お昼過ぎから雨がやんだので再度訪問。
昨日も雨だったのでかなりバラが傷んでいると思ったが今日を逃すとバラの季節が終わりそうな気がしたのだ。
今日はもう2番花の時期になっている。
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そばで見ると昨日の雨で傷んだ花も多い。かわいそうに!
でも境内いっぱいバラで埋めつくされている。
オールドローズを中心に植えられてるとHPで知ってたので楽しみでした。
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アーチの小径
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バラだけでなくクレマチスも色々な品種を集めておられます。
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クレマチスの紫に包まれて黄色いバラがよく映える。
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あんず色のオールドローズ
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これは一重中輪のバラのアーチ
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まるで赤い花びらを食べてるみたいな狛犬。
お寺に狛犬?まっ、いいか。配色が素敵!
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「あれ置物のはと?」と思うくらいじっとしてる、2羽の鳩。そばへ寄ってみるとわずかに胸が動いてる。
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雨にうたれたバラ
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まだまだありましたが、今日はこれくらいで~
駐車場近くの畑で「ちどりそう」が咲いてました。あまりに綺麗ので写真を撮らせてもらいました。
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by jumgon | 2011-06-12 00:15 | ★散歩、自然観察
当麻寺は2、3度訪れたことがある。
最初の訪問は30年ほど前。


その時は最寄駅から当麻寺まで歩いた。お寺までの道がとても印象的だった。

當麻駅から当麻寺への道で、玄関の軒下に旧式の手押し式の消防ポンプ「水吐龍」が吊り下げらた家がありました。
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道の両側のおうちの幾つかには玄関に手形を写した半紙が貼られていた。
「どういう意味があるのだろう?」
それに、しめ縄が5月というのにまだ飾ってあった。「普通お正月が終わったらはずすのではないかしら?」と思った記憶がある。
その他ハッキリと覚えてないけど、小さな杉玉みたいなのも何軒かのおうちにはぶら下がっていたように思う。

とにかく古い風習が残っていそうな雰囲気の民家が両脇に建っていた。


もう一度みてみたいと思ってたけど、なかなか機会がなかった。当麻寺を訪れても、駅からの参道は通らずに直接境内に入っていた。(駐車場の関係で)

5月はちょうど「ボタン」の季節!

今回はぜひ駅から歩くコースにしよう!!

車をおいて両側の民家を見ながら進んでいく。でもなんだか昔の雰囲気とは違う。
それはそうだろう。30年前のまま、という訳にはいかない。

大抵のおうちは玄関を花できれいに飾っている。

ピンクと水色のわすれなぐさの二色植え・とてもオシャレ
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このおうちも玄関に、手入れの行き届いた鉢植えを置いて當麻への訪問者を歓迎しているようだ。
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これは當麻町の下水の蓋・お寺の塔とボタンが自慢の町だ。
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あれ、これは鯛釣り草。親切に名前を書いた紙まで貼ってある。
名前を尋ねる人が多いのだろうか?
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やっと、しめ縄をかかげたおうちがあった。このしめ縄は比較的新しそうだ。
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このしめ縄も新しい。写真は失敗したが「5,6年前のもの?」と思えるようなのを掲げてるおうちもある。
上にはミニ払え串三つ、下には垂れが三つ下がってる。
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時の流れは仕方がない。昔の印象とはかなり変わっていた。
でも現在のおうちも住んでる人の雰囲気を感じさせる。
思い出の中の家々は思い出の中にしずまっているのもいいかもしれない。

やっと仁王門

その手前は和風お食事どころとなっている。
昔はこんなお店はなかったなぁ~。

仁王門は三間一戸の楼門です。が行った日には改修中だったのかシートがかけられていた。

境内へ入ってみよう。
おみせが4,5軒でている。屋台の奥に見えるのは「鐘楼」
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当麻寺の境内は散歩自由。
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当麻寺は大阪と奈良県の県境にある二上山の東の麓に位置する。
南阪奈道路で「葛城IC」からはすぐだ、大阪からは近い。
白鳳時代に創建された当麻寺は国宝や重要文化財が大変多い。
参道から石段を上り仁王門をくぐるとゆったりとした広場があり左右に僧坊が連なる。
平安時代には40ほどの僧坊があったとされている。
僧坊はそれぞれ独立した寺でもありそれぞれに牡丹園を持っている。
それだけに、各牡丹園ごとに料金を払うことになる。
双塔園」「中の坊」「奥の院」「西南院」などがある。

◎ボタンを鑑賞するだけなら一箇所入るだけでいいね!

以前行ったときには確か「水琴窟」というものを初めて知った覚えがある。その後あちこちの日本庭園にあると知った。
ネットで調べたら、それは「西南院」」の中にあるらしい。
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水琴窟とは手水鉢やつくばい(茶庭の手水鉢)近くにつりがね状のかめを伏せて地中に埋め、小さな穴から水を落とすと水滴の音が反響して妙音を出す仕掛けになっています。
江戸中期の排水技術として考案されました。名称の定説はなく、音色が琴と似ているためと考えられてます。

各僧坊ではボタン園の入り口で呼び込み?をしている。「ここではハンカチの木が咲いてますよ!」「石楠花も見ごろです!」

今日は町並みウオッチングとボタンがめあてだ。

水琴窟のある西南院へは前に入った事があるから、今回は浄土庭園がある「奥の院」へはいることにした。
◎じつはあまり覚えていないけど~
奥の院の入り口あたりの壁の色がレンガ色で珍しいように思った。
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「浄土庭園」の看板の絵につられて入ったけど、よかった!
大きな石や池の組み合わせで、デザインされた広い庭だ。
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赤いボタンの奥には白い藤も咲いている。
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奥の院からは東西二つの塔も遠望できる。
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先日新沢千塚へいった帰りに橿原神宮を通りかかったら、「あれ、陶器市の看板が、、、」
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ちょっと目の保養に寄ってみたが、ゆっくり見れなかった。
今日は当麻寺でお花を楽しんだ帰りに橿原神宮の陶器市へ寄ることにした。

こんな可愛いお茶碗とマグカップ買ってしまいました。
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                    次回は当麻寺の文化財を紹介しましょう。
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by jumgon | 2011-05-10 00:55 | ○当麻寺(奈良県)
葛井寺は西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)5番札所である。

毎日18日になると札所巡りのバスがやってきたりして、いつもより人が多い。
そもそも、札所というのはいつからできたのだろう?
以下の記事は
西国三十三所巡礼の旅  http://saikoku33.gr.jp/05/ や藤井寺市のHPなどを参考にしました。

西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)または西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

◎そうか観音様にお願い事を頼んでまわるのではなくて、巡礼参拝したら「現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できる」という意味なのか。
巡礼参拝したら「現世で犯したあらゆる罪業が消滅し」なんて、実は私には考えられない。あまりに都合よすぎませんか?
今みたいにバスで簡単に行けるからそう思うのかな?昔は全行程じぶんの足で歩いてまわっていたらしい。

伝承

養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。
そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人はこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして三十三所巡礼は忘れ去られていった。

◎「三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかった」と言うのはどういう理由だろうか?
冥土の入口で閻魔大王に会ったなんて、庶民は本気にしなかったのか。時間と経済的余裕のある人しか現実に「三十三所巡礼」を実行することはできない。車も電車もない時代に何泊も(どこに?)しながら巡るのだから。
徳道上人が冥土の入口で閻魔大王に会い、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受ける。
この様子を絵にしたのが下の写真です。
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現在92歳の方が描いて納められたということです。
下の写真はそれを刻した、石碑です。
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徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(968年 - 1008年)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を受ける。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)

葛井寺は、平安時代後半には観音霊場として知られるようになり、江戸時代から西国三十三番観音霊場の第五番札所として賑わっています。

札所の歴史

霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。 札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。


◎西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)5番札所である葛井寺は今は境内もあまり広くはありません。
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でもお寺を守っていこうという人がたくさんいて、訪れて見所がある場所にしようとされているようです。
藤の花育成会(正式な名前かどうかは分かりません)の方々
その方々の手入れのおかげでこんな綺麗な藤を楽しむ事ができます。
あの絵を描いた方。(お風呂やさんの壁の絵を描いていた方だそうです。)
その他、地元の方々が、いろいろお世話をなさっています。
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by jumgon | 2011-05-04 22:30 |  ○葛井寺(藤井寺市)

藤井寺②葛井寺の歴史

2011年5月1日の葛井寺
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葛井寺の歴史
以下の記事は
西国三十三所巡礼の旅  http://saikoku33.gr.jp/05/ や藤井寺市のHPなどを参考にしました。

 飛鳥時代から奈良時代にかけては、全国各地で有力な氏族が、仏教興隆を奉じて競っ
って氏寺を造りました。葛井寺もその一つです。
葛井氏は、6世紀に活躍した渡来系の王辰爾の甥の胆津を祖とし、『日本書紀』によれば、吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績で白猪氏の姓を賜りました。その後、葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建したと伝わります。
永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が葛井寺の荒廃を嘆きその復興に尽力したと伝えられる。藤井寺という地名はそこからまれたといいます。

吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績とは
569年(欽明30)の春正月に、詔で吉備の白猪屯倉(しらいのみやけ)では、年齢が十歳あまりに達しているのに、籍に漏れているために賦課を免ぜられている者が多い。膽津(いつ)を遣わして田部の丁籍を検定せよと述べた。4月になって、膽津は詔に述べられているとおりによく丁(よほろ)を調査して籍を定め、田戸を編成したので、その功をほめて白猪史(しらいのふひと)の姓を賜い、田令(たづかい)に任じた(『日本書紀』)。

◆「よほろ」とは?
•百科事典マイペディアの解説
•律令制において課税対象となる成年男子を丁(〈よほろ〉とも)といい,そのうち21~60歳までの男子を正丁とし,庸(よう)・調(ちょう)・徭(よう)などの課役を賦課。
 
◆田令(たづかい)ってなあに?
必要な時だけ中央から現地に赴く監督者

◎いつの時代も税を免れたく思うのは庶民のならい。胆津(いつ)は税の徴収に力を発揮したのですね。その功績で白猪史(しらいのふひと)の姓を賜い、その後、葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建した、ということなのですね。
飛鳥時代から奈良時代にかけては軍事より財務・実務官僚が必要とされる時代になってきたようですね。


◆参考までに造籍に関する記録を見てみよう。
造籍に関する古い例としては、
540年(欽明元年)八月の条「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」(『日本書紀』)。

とあり、6世紀の中頃、欽明朝頃には、まず渡来系の人々を戸籍によって支配したことが窺われる。
 *大蔵掾は人名

葛井寺創建の諸説  
永正七年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による2Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)
古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
 その聖武天皇が春日仏師【稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子】
に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。

寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、実際は百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定される。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。

◎「聖武天皇の勅願で行基が創建したという説」と「百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建された」という二つの説があるようです

中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。
南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。
室町時代は、奈良・興福寺の末寺として栄えましたが、明応2年(1493)、畠山家の内紛に端を発した兵火にあって、楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなりました。残った建物も永正7年(1510年)の地震で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建である。

全国の地震災害履歴一覧表によると
*永正7年(1510年)の地震で摂津・河内の諸寺で被害.大阪で潰死者があった。
 余震が70余日続く。
◎昔も地震の被害があったのですね。余震が70余日もあったなんて怖かったでしょうね!

四脚門
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 近世は豊臣家・徳川家の庇護を受け、とくに豊臣秀頼が寄進した四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指定の重要文化財となっています。この門はもと南大門として建てられましたが、現在の西門の位置に移建されました。


                                          (つづく)
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by jumgon | 2011-05-01 08:33 |  ○葛井寺(藤井寺市)

藤井寺①

4月19日から葛井寺は藤まつりだと南門に書いてある。いつも駅へ行く途中にそばを通る葛井寺。
身近すぎてかえってよく知らない。

南大門への道・酒造会社の白壁の塀
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葛井寺南大門の手前左に辛國神社がある。ここの入り口の「ゆずりは」・濃い緑と新緑の美しいコンビネーション。この木にはいつも心を癒される。植物の力!
「ゆずりは」アップ
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南大門てまえのお土産やさんの横に石の道標が~・あまり古くはなさそうだ。文字の刻印もハッキリとわかる。
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◎この石の道標については別稿でふれる事にする。


葛井寺は西国三十三所5番札所である。
札所とは何か?いつからそんなものができたのか?
そもそも葛井寺(ふじいでら)は何時創建されたのだろう?葛井寺について調べてみよう。


先ず今回は、葛井寺にいってみよう。
南大門まえの広場にはちょうど八重桜が満開。近所のこどもたちが集まって遊んでいるなんて光景は今は珍しくなっているのでうれしい気持ちになる。
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南大門横の白い小さな花びらの枝垂桜。藤まつり期間中だということで、紅白の幕が南大門にかかっている。
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境内図
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藤まつりだといってもまだ藤の花には少し早い。
でも、場所によっては咲いている。
阿弥陀二十五菩薩堂のまえに咲く藤
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あれ、阿弥陀二十五菩薩堂の横に、不思議な石像が~
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その前には石で四角く囲まれたものが~。
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歴史ボランティアの方が藤まつり期間中はいらっしゃるし藤井寺のことをよく知っている酒造会社の方もいて、いろいろ教えてくださった。

「ああ、あれは役行者の像です。その前の四角く区切られたところで護摩焚きをして、吉野・大峰へ出かけたのですよ。」
「えっ、役行者?いつ頃の話?」
「役行者が生きてた頃です。(!!)多分昔から多くの人々がここから大峰へ修験にでかけたのでしょうが、この玉垣や石像がつくられたのは、50年くらい前です。」
要するに書物による記録はないが、古くから修験道が盛んだったということらしい。
わたしが以前住んでいた地域(羽曳野市・藤井寺市の隣)でも舅(明治34年生まれ)は毎年大峰登山をしていたと言う。主人も小学生の頃父親に連れていってもらったことがある。

◎葛井寺の創建には修験道のことは書いてなかったと思うけど~。
  神社やお寺はその変遷の過程でいろいろ民のニーズに応えて各種の信仰が付け加わるものらしい。


                                         <つづく>
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by jumgon | 2011-04-29 18:27 |  ○葛井寺(藤井寺市)

今井町で出会った花たち

天気のよい一日ゆっくりと散歩して、春を探しました。
きんれんか(何度か種まきした事があるけど、結局失敗。土があわなかったのかしら?
鮮やかな色に魅かれます。でも咲くの少し早くないかしら?)
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わすれなぐさ
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つきぬき忍冬
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ラベンダーもいっぱい種類がありますね。
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玄関先にこんな大きな寄せ植
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丹頂草(さくらそうの横にある、やつでの葉っぱみたいなのがついてます。
これは私ははじめて見ました。名前を調べました、多分間違いナイだろうと思います。)
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by jumgon | 2011-04-25 16:08 | ★散歩、自然観察

近隣の春

暖かいと思ったら寒くなったりするけど、春はたしかに来ています。
はなすおうと雪柳
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はなすおうのアップ
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松葉うんらん・しゃがんで地面に目を向ければ、細い茎の先にちっちゃな紫の花がついてる!
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踊子草、だと思うのですが~姫踊子草らしい、、
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ビンカマジョール・こんなにきれいな花なのにどこかの解説に増えすぎて困るなんて、、、
左巻きにまいた風車みたい、白いふちどりがキレイ!
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一面にひろがる米粒つめくさ
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米粒詰草アップ

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まんさくと黄緑の葉が美しい

よそのおうちの玄関先を無断で撮っちゃいました
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たちかたばみ
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ライラックとあげは蝶
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黄色いオキザリス
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紫に白の縁取りがすてきなパンジー
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小輪のつつじ
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近所の八重桜・ピンクのフリルがかさなってくす玉みたい!!
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あめりかふうろ(葉っぱが印象的です)
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白い花とガーベラ(よそのおうちの玄関さきです)
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小さな青い花がついてます。多分「ローズマリー」だと思う
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by jumgon | 2011-04-23 12:49 | ★散歩、自然観察

椋の木

以前からひもろぎ逍遥というブログで次のようなきじを読んで以来、私は椋の木が気になっていた。
http://lunabura.exblog.jp/15310757

椋の木には黒く固い実が成るのであるが、それを空から降る隕石の化身と信じた、について
これについては眞鍋氏はこう説明しています。

記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。

◎うーん、確か羽根つきのに使われるのはムクロジの種だったと思うのだけど~。
下の写真はムクロジの実と種
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羽根つきの羽根のこと
このブログない「洗濯の歴史」に次のように述べています。

●羽根つきの羽根はムクロジなどの木ノ実に鳥の羽根をつけてできあがったもので、「羽子」「羽子板」は道具の名称です。
「羽根」は球についているものですが「つきばね」「おいばね」という遊び方のスタイルの名称としても現れます。

◎ムクロジなどの木ノ実に鳥の羽根をつけて、、、、とあるから黒く固い椋の実ももちいられたのだろう。
季節の花300より
椋の実
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●眞鍋氏の説明
2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。

椋の木はそれほど珍しい木でもなさそうだけど、そんなにちょくちょく隕石なんて落ちて来たのだろうか?と不審に思わないでもない。
それによく考えれば私はその木について何も知らない。もしかしたら見たことあるかもしれないけど、それが椋の木かどうか知らないから気が付かなかっただろう。

まず、木と隕石と関係があると言う記事はないかとネットで検索してみた。
それらしい記事はなかなか見つからない。

やっと見つけたのが

京都・東九条の宇賀神社とムクノキの巨木
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樹齢およそ500年  歴史を刻む「ご神木」
 境内東側にあるムクノキは樹齢およそ500年。樹高は約15m、幹まわりは3m以上あるといわれ、遠くからでもわかるほど風格ある姿をしています。
 約60年前、落雷のため、現在の大きさになりましたが、それがなければ現在の姿の2倍くらいの巨木になっていると考えられます。
 また境内西側のイチョウも大変大きな木で、ムクノキとともに神木として崇められています。
なお、境内に雷が石になったと伝えられる雷石があり、これは隕石だといわれているとのことである。


◎だが、隕石とムクノキの関係は述べられていない。

●美星町についてこんな記事があった。

そもそも、美星町 ってどこだかわからない。
井原市美星町は岡山県の西南部に位置する,吉備高原にひらけた町です。
標高505メートルの龍王山を中心に,128の集落が起伏のゆるやかな台地に点在しています。
気象は瀬戸内海内陸型で準高冷地帯に属し,農業にも居住するにも恵まれた環境にあります。
特に晴天率が高く大気が安定していることから,最も天体観測に適した地域としても全国に知られています。

石碑には「星尾大明神降神之地」と書かれています。つまり昔ここに隕石が落ちたということを示しています。美星町にはここ以外にもう2ケ所、合わせて3ケ所に隕石が落ちたそうです。このことから「星尾降神伝説」が生まれたそうです。
 なお、この場所のすぐ近くに「星尾神社」があります。この地の豪族が創建したそうです。
星尾降神伝説
それは遙かむかし。
静かな山村が夜のとばりに包まれたころ,星がひとすじ光跡を描きました。
ところが,その流星はこの村にどんどん近づいてきたのです。
「大きな流れ星だなぁ」と夜空を見上げていた村人も次第に騒ぎはじめました。
間もなくその光は,空中で三つに分かれこの村の北槙,八日市,本村,というところに落ちました。
人々はこれを神さまの使いと信じて,星尾神社,高星神社,明神社を建て厚く信仰しました。
それからいつしか,この村は”星の郷”と呼ばれるようになったということです。


ところが星尾神社には椋の木が生えているという記載はない。
星尾神社の社叢は、胸高直径70cm前後のモミの大径木が優占しており、特に社殿北側には、30mを越えると思われるモミが生育しています。一部にクロマツ、アカマツの大径木の生育がみられるほか、亜高木層にはコシアブラ、モミ、アラカシなどが生育しており、自然状態を保っている植生の一つの形態を典型的に残している注目すべき社叢林といえます。また、チトセカズラが低木層の樹林を覆うほどに繁茂しており、特記すべき群落を形成しています。
◎椋の木ははえてない、と言うことでこれはボツ。
ほかにそれらしい記事は探してもないから椋の木そのものはどんな木か調べてみた・

WIKI、そのほかより
◆ムクノキ(椋木、椋の木、樸樹、 Aphananthe aspera)はニレ科ムクノキ属の落葉高木
東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはムクエノキとも言う。成長が比較的早く、大木になるため、日本では巨木が国や地方自治体の天然記念物に指定されている例がある。また地名や名字(椋本など)となっている例も多い。

日本では関東以南の本州から四国、九州でごく普通に見られ、琉球列島ではまれで屋久島、種子島、沖縄島に分布する。日本国外では、朝鮮、台湾、中国に分布する。特に人家周辺の神社などによく見かける。
◆生育環境
主に山地から低地の森林内に生育する。
山地に生える落葉高木です。
 葉は互生し,葉が開くと同時に淡緑色の小さな花をつけます。果実は直径が 1 センチ前後

季節の花300
http://www.hana300.com/mukuno.html
http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-mukunoki.htm
より写真をお借りしています。

名前の由来
実黒あるいは実木→ムク、樹皮が剥(ム)ける木→ムクなどの説がある。木工の仕上げに、この木の乾燥した葉を使ったことから、「木工(モク)の木」がなまったとも。

・高さ20m以上になる高木。
・上の方でいっぱい枝分かれする。
枝分かれする様子がケヤキに似ている。
●樹皮
(椋の木の樹皮は縦に多数の筋がある。
縦筋のないケヤキとは樹皮で区別できる)
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●葉
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葉は互生し、葉身は卵状長楕円形、葉先は鋭尖頭、葉脚は広いくさび形で、左右不同。
縁は鋭鋸歯がある。表裏共に短い豪毛があり、ざらつく。
骨や角細工を磨くのに用いられた
昔は、この葉っぱでべっこうなどを磨いた。
10月の椋の木の葉っぱ
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12月の椋の木の葉っぱ
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●雄花
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雌雄同株、雌雄異花。
新葉が展開してすぐに、葉腋に集散花序を付け、小さな雄花を多数開く。花被片、雄しべともに5個。

●雌花
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雄花の開花に少し遅れて、枝の先の葉腋には雌花が、数個付く。写真のように目立たない。花柱は先が2裂し微毛が密生する。

●枝
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むくのきの若枝は、灰色のねた毛がありざらつく。紫褐色で小さい丸い皮目がある。冬芽は平たく、先は尖る。芽鱗は褐色で縁は濃い。

●実
7月の椋の木の実
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10月の椋の木の実
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実は核果で、11月に黒く熟す。球形で10mm以上あり大きいので、小鳥には無理か。ムクドリやハトなど少し大きな鳥の餌になる。黒く熟してしわの寄った実は、干し柿のようで甘くて美味しい。
熟した椋の実
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●種
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中にタネがあります
種子は、葉と同様に表面がざらつく。鳥の体内を通過して散布されるために丈夫な作りになっている。
●実生
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ムクノキの実生は見つけやすい。双葉が、アサガオのそれのようにハート形になっている。
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by jumgon | 2011-03-11 15:34 | ★言語、歴史

楠の木について

クスノキってどんな木?

前回のブログで壷井八幡宮の楠の写真をアップしました。

「九州が自生地の南限だと思っていた」というコメントがあり、この機会に楠について調べました。

私はきれいな目立つ花の咲く木の名前は知っていても花の目立たない木はちゃんと区別できてません。葉だけで判別など出来ません。

さすがに「松」「「竹」「槇」」(これはお墓に持っていくので知ってました)くらいは知っています。自分の無知をブログでさらけ出すようですが、さっそく調べた事を書いていきましょう。

http://www.toshiba.co.jp/elekitel/nature/2002/nt_01_kusunoki.htm
を参照しました。

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クスノキは常緑の高木で、しばしば鬱蒼とした大木になり、横広がりで、丸みがあり、」しかも凹凸のある巨大な樹冠をつくる。
◎確かにある病院で見た楠は丸みがあり、しかも凹凸のある巨大な樹冠だった。

樹皮は、縦方向に短冊状に裂け、黄色味のある灰褐色であるが、老木では黒味が強くなる。
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クスノキかどうか、当たりをつけたら、葉をもんでにおいを嗅ぐとよい。樟脳を採取するのがクスノキである。葉をはじめ全体に樟脳の香りがある。もっともクスノキが属するクスノキ科の植物は多かれ少なかれ色々な精油成分を含むためクロモジのように芳香があるので、早合点をしてはいけない。
(写真1)  
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 クスノキらしいと思われたら、その長卵形の葉を探して、そのかたちと側脈が主脈から分かれる部分を見る。ここには小さな昆虫が寄生するため、少し膨らみがある(写真1)。
(写真2)
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 葉は革質で、冬も落葉せず越冬し、晩春に新葉が展開すると、それと入れ替わりに落葉する。若葉は黄緑色をしているが、紅色をおびることもあり(写真2)、
(写真3)
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枝に互生してつき、2センチ前後の柄をもち、葉身は先も基部も尖り、表面は油を塗ったように艶々している。葉の表面には、主脈と基部から左右に出る2つの側脈がはっきりとみえる(写真3)。
(写真4)
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花は雄しべと雌しべの両方をもち、放射相称で、5・6月に咲くが、梢の新葉の腋から伸びた枝に円錐状につき地上からは見難いうえ、直径は6ミリくらいと小さいために、開花に気づかないことが多い(写真4)。
(写真5)
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雌しべは1つ。果実は球形で秋に熟し黒色になり、内には1つの種子がある(写真5)。

●用途
クスノキは生長が速いうえに、樟脳という有用物質を含むため、温暖な地方でさかんに栽培されていた。
その材は虫害に強く、また硬く緻密で、光沢があり、建築材や彫刻材、家具材、器具材などに利用された。
クスノキに彫られた仏像も数多く知られている。建築材としては、大木になることが重要で、昔は大きな構造物の建築には欠かせなかった。床柱、欄間、天井板などにも用いた。
 耐水性が強いため、海中に建つ厳島神社の鳥居もクスノキを柱に用いている。
古代から船材としても利用され、丸木舟が遺跡から出土している。クスノキはもともとは日本に自生せず、中国の江南地方を原産とする、という説もある。 <2002.01>

●日本巨樹ランキング
自然環境保全基礎調査(緑の国勢調査) 「巨樹・巨木林調査」の結果から幹周のトップ10をまとめたものです 。この11本のうち、7本はクスノキです。
ナンバーワンの鹿児島県蒲生町の「蒲生の大楠」は、推定樹齢1500年、幹周が24mもあり、国の特別天然記念物に指定されています。

順位樹種名単木名称幹周cm県市郡町村
1 クスノキ蒲生の大楠2422鹿児島県姶良郡蒲生町
2 クスノキ阿豆佐和気神社の大クス2390㎝静岡県熱海市
3 ガジュマル世名城のガジュマル2350㎝沖縄県島尻郡東風平町
4 イチョウ 北金ヶ沢のイチョウ2200㎝青森県西津軽郡深浦町
5 クスノキ 本庄の大クス2100㎝福岡県築上郡築城町
5 クスノキ 川古の大楠2100㎝ 佐賀県武雄市
10 カツラ 権現山の大カツラ2000㎝山形県最上郡最上町
10 クスノキ 衣掛の森  2000㎝福岡県糟屋郡宇美町
10 クスノキ 武雄の大楠  2000㎝  佐賀県武雄市
10 クスノキ 藤崎台のクスノキ群2000㎝熊本県熊本市
10 ガジュマル 中間ガジュマル2000㎝鹿児島県熊毛郡屋久町

◎あれ~、屋久島の縄文杉はどうなってんの?
楠木の大木は福岡県が多いようですね!

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by jumgon | 2011-02-22 09:47 | ★散歩、自然観察