古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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タグ:水銀・辰砂 ( 2 ) タグの人気記事

「大神神社」とは?
ずっと書きたかったけどなかなかまとめられないでいた「大神神社」(みわさん)について、じょじょに書いていこう。
あとで文を整理したり、訂正したり、別の考えが出てきたらその時また書き足していきたいと思う。
田中八郎氏の「大和誕生と神々」を主に参考にし、他の先生たちの書物の知識もとりいれ、自分なりにまとめたいと思う。
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さて先ずは公式HPから
三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山であります。古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。

高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川(はせがわ)、北は巻向川(まきむくがわ)の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ヘクタールとなっています。

山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています。


「田中八郎氏の「大和誕生と神々」には次のように記されている。

三輪山は神体山である、とする慣用句がガイドブックから考古学、歴史学の論文にいたるまで数々の記述に頻出するので、つい吟味せず資料視しするが初出は山崎闇斎(1618~82)のようだ。
彼は将軍家綱と綱吉治世の頃の儒学神道学者で、神儒一致説を唱えて垂加神道を創始した。
その中で三輪山の神体説を打ち出した。かれの大きな影響力もあって「三輪山神体説」が古代色も付け加わりながら浸透したとおもわれる。
現拝殿は寛文4年(1664)の再建で、将軍家綱の棟札があるので、山崎闇斎の影響が拝殿の方にまで及んだらしい。世を挙げて仏教一色のなかで、三輪山の役目をひきたてる必要から神体山説が意味をもったのだろうか。
山と神の話では、ヤマトトトヒモモソヒメと契った男がミムロ山に帰った神であった。という箸墓説話がある。

箸墓伝説 
大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

又、 『日本書紀』に記されている伝説で、第十四代雄略天皇がチイサコベノスガルに「三諸岳の神の形が見たい」と命じました。スガルは三諸岳に登って大蛇をとらえ、天皇に奉り、天皇は斎戒をせずにそれをご覧になりました。すると大蛇が雷のような音をたて、眼はギラギラと輝いたので、天皇は見ることができず眼を覆って殿中に隠れてしまわれ、大蛇をお山にお返ししました。これによって三諸岳は「雷の岳」と名を改めたといいます。

この二つの話によれば
①神の住所はミムロ山で、山が神だとは言っていない。
②王権予備軍がミムロの神を懐柔するためヤマトトトビモモソヒメを派遣したが失敗。(水銀の流通権益を譲らせる為)
③ミムロの神が王権予備軍と拮抗した大きな力を持っていたことを表わしている。


拝殿奥の三つ鳥居から山頂にかけて磐座(いわくら)とか磐境(いわさか)とよぶ祭祀用岩石群があって信仰の対象になっている。これは岩石信仰であって山そのものの祭祀ではない。
山の土そのものに霊力があるとされた「天の香具山」とはちがうのだ。

山そのものを祭祀して拝殿が造られたのは「大神神社」であって、ミムロ山を根拠地とした(ミムロ神)信仰ではない

◎ややこしいので平たくいうと、ミムロ地方の先住縄文人の頭領やその祖先神がミムロ神で、先住縄文人たちは山の磐座をミムロ神の依り代として祀った。鳥居も拝殿もなかった。
◎大和王権が承認した名前が「三輪」で王権が成立していない以前の時代、つまり縄文時代の三輪山とその神は「ミムロ」である。

ミムロ山は、砂金も鉄鉱石もベンガラも産出しない。大和地方の繁栄の原動力となった地下資源は、宇陀、都祁の辰砂であり、その流通を押さえていたミムロの住民が勢力をはっていた。そこに、王権予備軍がやってきて、辰砂の権益を横取りし鉄の農工具を使って農耕地を広げ、大和王権をたてようとした。そのとき先住民の激しい反撃を懐柔するために「先住民の神を大事にしてますよ」というポーズのため作ったのが「大神神社」(おおみわじんじゃ)である。

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ところで縄文時代の人は辰砂を見て、それから水銀が採れるとどうして知ったんだろう?
辰砂とは?
辰砂は単独の鉱物としてより、水銀を取り出す為の鉱石として名前が知られている。
水銀を取り出す方法は、とても簡単で、ただ熱すればいい。
熱すると辰砂は亜硫酸ガスと水銀に分離される。
また、古くは辰砂自体の赤い色を絵の具に使用していたらしく
英名はギリシャ語でそのまま
「kinnabaris=赤い絵の具」に由来する。

私たち現在人は本当に自然を知らない。(特に私は)
自分で火もおこせないし、糸も針も作れない。きっと縄文人たちは色んな植物、岩石などの知識を持っていたのだろう。
スイッチやボタンひとつで電気をつけたりガスでお湯をわかしたりしている現在人とは能力が違うのだろう。

さて、「大神神社」に話をもどします。
なんで、「大神神社」を「おおみわじんじゃ」と読むのだろうと不思議に思わないくらい、浸透してしまっている名前。
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」

                                                              つづく
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by jumgon | 2010-10-21 13:52 |  ○三輪神社・大神神社

天神山古墳 ①

だれも埋葬されていない古墳②

「田中八郎さん」の「大和誕生と神々」を読んでいたら、人が埋葬されてない「天神山古墳」について述べている箇所があった。
えっ、古墳ってお墓じゃないの?
そういえば、藤井寺の西墓山古墳も人は埋葬されてなくて、多量の鉄剣と、鉄の農工具が埋められていた。!藤井寺シュラホールでその現場をそのまま保存処理してあるのを展示していた。
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◎今は、もう埋め戻され、墳丘は消失しています。

多分私が知らないだけで「人が埋葬されてない古墳」は日本中探したらいくつもあるかもしれません。

でも、今回はその一つ「大和天神山古墳」についておはなししましょう。

古墳内に41キロの水銀朱
大和天神山古墳(やまとてんじんやまこふん)は、奈良県天理市柳本町に所在する古墳時代前期初頭の古墳(前方後円墳)である。
天神山古墳は、大和盆地東辺に立地する柳本(やなぎもと)古墳群の中の1つで、いわゆる崇神(すじん)天皇陵の西方に位置す全1960年(昭和35年)に県道拡張工事で後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた。
発掘当時の写真
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後円部のほぼ中央に長さ6.1メートルの竪穴式石室が検出された。石室の中央部には、現存の長さ2.6メートルの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切って、内法1×0.5メートルの木櫃状になっている。一見木棺のようであるが細部を検討すると木櫃(もくひつ)とした方がよい大きな木製容器が置かれていた。
その櫃内には41キログラムの水銀朱が埋納され、これをとりまくように鏡面を上に向けて20面の鏡と、木櫃外にも3面の鏡が並べられ、さらにその内外に鉄剣、鉄刀、鉄鏃、刀子、鎌などが置かれていた。 鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面で一周し、櫃外の北側に2面と南側にも1面が配され、その内訳は、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)6面、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)4面、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)4面、獣形鏡(じゅうけいきょう)4面、画像鏡(がぞうきょう)2面、三角縁変形神獣鏡(さんかくぶちへんけいしんじゅうきょう)2面、人物鳥獣文鏡(じんぶつちょうじゅうもんきょう)1面である。  天神山古墳の年代は4世紀後半ごろとされているが、これらの鏡は前期古墳によくみられる典型的な三角縁神獣鏡を含まず、後漢時代の方格規矩鏡や内行花文鏡などを主体とする特異な組合せを示している。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に崇神天皇陵があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)とも考えられている。

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◎「天神山出土の木櫃と水銀朱」
上の写真は県立橿原考古学研究所(以下、橿考研と略称)の附属博物館で、2008年に研究所創立70周年を記念して特別展示が開催された時の写真
水銀は『三国志』魏書東夷伝倭人条で「その山に丹あり」といわれ、日本でも産出したが初期古墳では輸入品も使われていたらしい。
水銀朱とは、もともと水銀と硫黄が化合した硫化水銀で、多くの場合辰砂(しんしゃ)を砕いて得られる。辰砂は、中央構造線に沿った断層に多く認められる。

「大和誕生と神々」によれば、「宇陀」「都祁」の水銀を支配していた先住民(縄文人)の親分であるミムロ神(ミムロの有力者)に対抗した新興勢力がその支配権を奪って物資流通の支配力の証に、この天神山古墳をつくった、とかいてある、(かなりはしょってます)

それが後の大和政権に繋がるかどうかは分かりませんが、ジンムも水銀、富を求めてやってきたのでしょう。(ここでは、神武東征はなかった、とか色んな意見は一応おいておきます。)

この古墳も崇神陵のまえにあるので、もしかしたら崇神陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)かもしれない。
藤井寺の西墓山古墳もすぐ近くの「墓山古墳」の陪塚(ばいちょう)とも考えられているそうだ。
以前、公民館講座で文化財課の人がこんなことを言ってました。
「何故こんな貴重品(鉄製品)が多量に埋められているか考えた人は、私に言ってください。妥当だと思ったらパクリますから、、、」なんて冗談をいってました。
西墓山古墳は応神天皇陵などがある、河内王朝の時代だから、鉄を大量に作る技術がもうあって、それほど貴重品でもなくなっていたのかもしれない。

① 古墳は戦闘基地・・・・・古墳に戦士を配置し、武具を近くに埋めて保存した。(西墓山古墳)
② 財力見せびらかしの場所(天神山古墳)
③ 万が一のときの為の財産保存(天神山古墳)


◎天神山古墳は伊射奈岐(いざなぎ)神社の境内の裏手にあります。
   
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by jumgon | 2010-10-19 18:54 | ★古墳