古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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天平の僧 行基

以前から気になっていた行基について書きとめておこう

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gyouki.html
千田 稔著 「天平の僧 行基」
などを参照しました。

行基 ぎょうき
生没年 668(天智7)~749(天平21)
系譜 父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。
[略伝] 
668年 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれる。
683年 15歳で出家。
(出家得度したお寺は、飛鳥寺、大官大寺など諸説ある。飛鳥寺にはこの時道照がいた筈だが~)
692年 24歳の年、受戒。
 (持統5年・行基菩薩伝によれば戒師は高宮寺徳光禅師であると記している。)
◎高宮寺というのは、奈良県御所市(ごせし)にある「高鴨神社」の南西、標高550メートルの所に金堂跡と搭跡の礎石と基壇が残り瓦も出土しています。)

高宮という地名がでてくる、日本書紀・神功皇后摂政5年の記述
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

http://jumgon.exblog.jp/i42/に書いています。

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◎この高宮という土地は、高宮寺や高鴨神社のある辺りである。襲津彦の娘・仁徳天皇の皇后、磐之媛の実家があったところです。
◎この地図に蘇我氏勢力圏がのってますね。
呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり) の記事に
•雄略14年1月、身狭村主青檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国
身狭・檜隈はこの辺ののことだったのです。 ⇔http://jumgon.exblog.jp/page/2/

ちょっと脱線しました。行基に戻りましょう。

•初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。(このあたりが役小角と共通点を感じる。)
705年頃、(37歳頃)山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年(49才)、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。
また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続けた。

722年(養老6)年(54才)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。行基の影響力を無視し得なくなった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは
●奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。
●法の主な内容
灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。
◇思うように効果があがらなかったようで,20年後には墾田永年私財法が出された。

年代暗記:三世一身の法(ほう)…なにさ(723)3代ばっかしで

731(天平3)年 朝廷は、、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許した。

740(天平12年(行基72才)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。
同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
•聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17・行基77才)年正月には、異例の大僧正に任じている。
また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21・行基82?才)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

◎ 道昭と行基は師弟関係については、師弟関係はなかったとする意見もある。
師弟関係ではなかったとしても、行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて「天下行業の徒、和尚に従ひて禅を学べり」(續日本記)とあることから察して、行基が道照の影響を受けたと見るべきだろう。
行基の後年の社会事業、つまり利他業は、道照のもとで学んだことによる見たほうが自然だろう。

道照と行基の関連
629年  道照(0才)
668年  行基(0才)、道照(40才)
669年  道照(41才)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679年  道照(51歳)10月の勅により、京にもどる。
683年  行基(15才)出家    道照(54才)
692年  行基(24才)受戒・道照(64才)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。
693年  行基(25才)薬師寺   道照(64才)
698年  道照(70歳)大僧都に任命される。 (疑問とする説も多い)
700年  道照(72歳)3月10日没
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by jumgon | 2011-06-21 14:08 | ○道照・行基・役小角
渡来人西文(かわちのふみ)氏創建の「西琳寺」
(所在地:羽曳野市古市2丁目)

30年近く前「ふるさと歴史散歩」で古市(大阪府羽曳野市)周辺を訪れたことがある。
少し遠いけれどチャリンコで行けないこともない近さだ。
そのとき「西琳寺」へ行ったことは覚えている。
渡来人が創建したと解説を聞いた筈だけど、その「渡来人が」が西文(かわちのふみ)氏らしいことまでは覚えていなかった。
調べてみるとやはり西文(かわちのふみ)氏の創建らしい。
久しぶりに訪れてみよう。

近鉄南大阪線の古市駅から東へ5,6分も歩くとつく。近くには白鳥神社もある。
近いけど見つからないので通行してる方に教えてもらった。

西琳寺西門全景
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境内は広くない。でも古い大きな銀杏の木があり、歴史を感じさせる。
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門を入ると左手に大きな塔心礎がデーンとすえられている。
「これ、本当に塔心礎なの?」というくらい大きい。
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●塔心礎(3.2×2.3×1.5m・約27t)
メチャクチャ大きい!というのが第一印象です。それに27tって重い
wikiには27トンと書いてあるが、2トンとか2,6トンと書いてあるサイトもある。重すぎてピンとこないけどどっちが本当なんだろう?
この前訪問した野中寺の塔心礎と比べると大きさの違いに驚き!

今は、その巨大さを誇るのみになってしまった心礎が、境内西に戻されています。(以前は、大和川堤で碑の台座として使用されていたそうです。)
心礎には、心柱を支える為の添柱穴も見られ(4個か5個か判別不能)、舎利埋納孔は添柱孔の横に穿たれていたそうです。雨水の為に見ることのできない心礎孔の底辺には、「刹」という文字が刻まれているそうですが、創建時のものではないという説もあります。
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塔心礎を上から写した写真です。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/27osaka/sairin/sairin.html
からお借りしてきました。
こんな大きな石の上面をどうやって撮ったのかしら?今の状態だったらよじ登ってまで撮せませんよね。
心礎の窪み、変わった形ですね。

そういえば、野中寺の心礎の穴は花びらみたいな形でしたね。
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野中寺
http://jumgon.exblog.jp/16100144/

この奥に石造五輪塔がある。
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●西琳寺石造五輪塔
昭和32年(1957)、工事中に高屋城跡の土塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。
文安3年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関係した高僧の供養塔とされる。
いずれも花崗岩製で最も大きな叡尊塔とされるものは高さ3.1mあり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりである。


さて、wikiより概略を見てみましょう。

Wikiより
沿革
欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。

創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。
出土品の瓦などから飛鳥時代創建は確実であり、境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。
●これまでの発掘調査によって、創建は飛鳥時代(7世紀前半)であり、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されている。
679年には七堂伽藍が完成しており、流記資材帳によると743年まで七堂伽藍を揃えていたことを確認できるが、安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により中世以前の堂塔ほぼ全てを喪失した。
◎743年ということは聖武天皇の時代です。

●鎌倉時代には、奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)が、寺を中興し、広い寺領を所有し隆盛をきわめた。
東西一町(約109m)、南北二町(約218m)の寺域を持ち、金堂・講堂・五重塔・回廊・鐘堂・食堂。僧坊などを備えた堂々たる大寺院だったという。
それが、天正年間の兵火や明治の廃仏で、建物の殆どを失ってしまった。


羽曳野市HPを見ましょう

西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。
西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。
現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の 丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。
当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。
現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。
この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。

 現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、市役所1階ロビーに展示されています。
ガラスケースに入っていて光ってうまく撮れないのでHPからお借りしました。
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次の二枚の写真左側は裏側(腹側)から撮したものです。
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●鴟尾の全体がうかがえる稀少な例である。胴部と側面と鰭部には段違いの羽根状の模様を削り出し、腹部には火焔宝珠(かえんほうじゅ)と蓮華文(れんげもん)が浮彫りされており、仏教芸術の 新たな史料として注目される。

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by jumgon | 2011-06-19 22:30 | ○西琳寺(羽曳野市)

道照の父・船恵尺

道昭の父・船恵尺で書き忘れたことがあるので追加します。

道昭の父・船恵尺【ふねのえさか】
 
朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 生没年不詳
7世紀中ごろ,大和王権に仕えた人物。僧道昭の父。
百済 からの渡来人で船氏の祖王辰爾の子か孫という。姓は史,名は恵釈とも書く。
『日本書紀』によれば,
乙巳の変(645)で中臣鎌足,中大兄皇子(のちの天智天皇)らに襲われた蘇我蝦夷が自害したとき,その邸宅にあった「国記」が焼失しようとしたのを火中から取り出して中大兄に献上したと伝える。
このエピソードから元来,文筆に長けた家柄の出である船恵尺が当時,蘇我氏の下で「国記」など歴史書の編纂に当たっていたと考えられる。また西文氏の祖王仁の伝承も,このころ恵尺によって作られたという説がある。<参考文献>井上光貞『日本古代思想史の研究』,山尾幸久『日本古代王権形成史論』
(鈴木靖民)

◎道昭の父・船恵尺と「乙巳の変」、教科書で読んだ歴史が少しずつ具体的に見えてきたように思えます。
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by jumgon | 2011-06-16 22:16 | ○道照・行基・役小角

渡来人について

歴史書物を読んでいるとあちこちで渡来人の記事が出てくる。
いろいろな時期にやって来た渡来人がいるようなので、整理してみよう。


渡来時期を4つに区分すると・・・
  
Ⅰ 紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

[Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人]

秦氏
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。
弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。
土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。
大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。

東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
平安時代になると,東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではない。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので,互いに対抗意識をもっていたのかもしれない。  

西文氏(かわちのふみうじ)
西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。


[Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)]

5世紀後半頃,今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述がある。
東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。
蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。

http://jumgon.exblog.jp/16100144/野中寺(羽曳野市)でお話した船氏は今来漢人である「王辰爾」を祖としています。

[6世紀頃、来日した渡来人]

彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。

(1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。

(2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。

(3)554年、医博士・易博士・暦博士が渡来しました。

(4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法・天文地理の書を伝えました。

(5)604年、初めて暦を使用しました。

(6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えました。

(7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。

[Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。]
7~9世紀にも多くの渡来人が日本に来ている。
白村江の戦いのあと,百済から多くの渡来人が亡命してきた。
その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり,子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
日本書紀に「余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(天智8年(669年))という記述がある。
鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭にまでなっている。彼らをこの地に移住させ,荒れ地の開墾をさせたのではないかと考えられている。

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by jumgon | 2011-06-16 21:36 | ★言語、歴史
弟媛はどこに行った?

日本書紀に
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
という記述がある。

阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。
道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。
呉の王は工女、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。

この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。

◎応神天皇37年の春2月1日から応神天皇41年春2月、ということはまる4年かかったということですね
この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

筑紫国に残った「兄媛」に関しては
ブログ<ひもろぎ逍遙>
http://lunabura.exblog.jp/
で詳しく述べられています。

残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。
三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

この続きを
ブログ<ちょっと歴史っぽい西宮>
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402344.html?1307885430#comment-form
よりお借りして書いていきましょう。(一部省略・改変)

ここまでは正史(日本書紀)に記載があります。そしてここからは伝承です。

女性技術者三人を含む阿知使主一行は西宮につきます。阿知使主らは往復で4年。呉を出発してからも長い日々だったでしょう。
一行は武庫の港に上陸、そしてしばしの休憩をとります。そこは、松原が広がる風光明媚な場所であったようです。彼女らは松に身を寄せ、故郷を偲んだとされています。 

その場所には現在、喜多向稲荷神社があります。北に向かっておられるのでそう呼ぶのだと思いますが、御祭神は「織姫大明神」です。

「史蹟 漢織呉織松 染殿池」と石碑にあります。この石碑は大正時代に建てられたもので、そのときはまだ松があったのですね。
日本書紀では「穴織(あなはとり)」でしたがここでは「漢織(あやはとり)」となっています。「綾織」とも書いたりします。
その漢織呉織松はもう枯れてありませんが、染殿池は神社裏にあります。

彼女らはこの池の水を使って糸を染め、布を織ったとされています。今見ればこの池は「水溜り」でしかありませんが、かつては清らかな水がこんこんと湧いていたのでしょうか。
 あれ、武庫の港に着いたのは兄媛を除く3人だったはず。弟媛はどこ行ったんかいな?と思いますけど、これはあくまで伝承。

ところで、この伝承とほとんど同じ話が、大阪の池田市にも残っているのです。
しかも、あっちのほうが充実している(笑)。

その池田の名を冠した「伊居太(いけだ)神社」も正式名は穴織宮伊居太神社で式内社、さらに「呉服(くれは)神社」もあり、その両社の神主は阿知使主の末裔。

この呉服神社から、和装衣服のことを「ごふく」と呼ぶようになったという、実に完璧な伝承です。
染殿井もあります。染殿池ならこっちにもありますが、池田には織殿も「星の宮」として伝えられ、穴織、呉織の没年も伝承として残り、阿知使主らとともに相当に顕彰されています。

池田で歴史散策をやれば、穴織・呉織ゆかりの地が中心になってしまうかも。うーむ。
 しかし、日本書紀には「武庫」に着いたことはちゃんと書かれてあることです。
矛盾無く説明するとすれば、まず一行は西宮に着き、そして仁徳天皇に謁見、そしてその後池田に居を構え、日本の紡績業の元祖としてその発展に力を尽くし、池田に没した。池田には伝承として墓もあるそうです。
 猪名川河畔に「唐船ヶ淵」という史跡があって、彼女らはそこから上陸した、との伝承だけはちょっと納得がいきませんが。着いたのは「武庫」だろう?(笑)。

ところでさっきも書きましたが、日本書紀には「既而率其三婦女」とはっきり書かれています。ところが池田においても「呉織・穴織」の二人です。
 弟媛の足跡が全然たどれません。もしかしたら、彼女は長命できなかったのかも、とそんな想像もしてしまいます。
だとすれば、遠い日本に連れてこられて、織物をこの異国の地に根付かせようという青雲の志もあったやもしれませんが、姉と強引に別れさせられ、そして足跡も残らなかった「おとひめさま」のことに、僕は思いを馳せてしまったりもするのです。

◎「池田には伝承として墓もあるそうです」って!!
 確かあとの三人は飛鳥の栗原に居住したのではなかったかしら?
 一体何が本当のことなのかしら?



●栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。
雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。
『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。
いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。

•雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
•雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
•雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
•雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。
呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である。
 

◎日本書紀の応神記と雄略記を比較してみましょう。
応神記では
使いは、『阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)』・『宗像に兄媛を留めた』・『武庫の津につく』・『武庫に着いたのは遣いのものと3人の工女』

雄略記では
使いは、『身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)』・『宗像での話は無し』・『住吉に着く』・『住吉に着いたのは遣いのものと4人の工女』

だいぶ整理されてきた。
ナルホド、二つの話がごっちゃになっていたのだ。

阿知使主の時は多分「西宮」にも「池田」辺りにも滞在して足跡を残したのだろう。

◎ちなみに、前回の記事で僧、道照が火葬されたのは 「明日香村栗原」だって覚えてられますか?
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by jumgon | 2011-06-14 20:20 | ★言語、歴史

道照・続日本紀より

道照について「続日本紀」に記述があるので、ここに保存しておきたい。

続日本紀の記述 
和尚は河内国丹比「たじひ」郡の人である。俗姓は船連。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。
 ある時、弟子がその人なりを試そうと思い、密かに和尚の便器に穴を空けておいた。そのため穴から漏れて寝具を汚した。和尚は微笑んで「いたずら小僧が、ひとの寝床を汚したな」と言っただけで一言の文句も言わなかった。
◎えっ、寝床に便器をおいて寝ていたの?
 はじめ孝徳天皇四年に遣唐使に随行して入唐した際に、玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。
◎白雉4年(653年)出発の遣唐使船で入唐したとあちこちの書で書いてあるが、孝徳天皇四年は649年になるので矛盾する。
 「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。今お前こそはあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」
と。また次のようにも言った。
 「経論は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。それよりもお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのがよかろう」と。
道照和尚は教えられたことを守って、初めて禅定(座禅)を学び、悟ることが次第に広くなった。その後、遣唐使に随って帰朝するとき、別れ際に三蔵は所持した舎利と経論を悉く和尚に授けて言った。
 「論語に-人間こそよく道を広めることができる-という言葉がある。今この言葉を私はお前に付け足して贈りたい」と。
 また一つの鍋を和尚に授けて言った。
 「これは私が西域から持って帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いると、いつも霊験があった」と。
 そこで和尚は謹んで礼を述べ、涙を流して別れた。
 帰国の一行が登州(山東省北部の港)についた頃、使いの人々の多くが病気になった。和尚が鍋を取り出して、水をあたためて粥を煮て、遍く病人たちに食べさせた。するとその日すぐに、病気が治った。そこで纜[ともづな]を解いて海に乗り出した。
          

 海のただ中に及んだ頃、船が漂いだしてどうしても進まず、七日七夜にもなった。皆が怪しんで「風の勢いは快調である。出発以来の日を数えると、本国日本に着ける筈だ。それなのに船が敢えて進まないのは、思うに、何かの訳があるのだろう」と言った。
占い師(陰陽師が同船することになっていた)が、「海神竜王が鍋を欲しがっているのだ」と言った。これを聞いた和尚は「この鍋こそは三蔵法師が、私に施して下さったものです。どうして竜王が無理に求めようとするのでしょうか」と言った。しかし皆の者は「今、鍋を惜しんで与えなかったら、恐らく船が覆って全員魚の餌食になるだろう」と言った。そのため和尚は鍋を取って海中に投げ入れた。すると忽ち船は進みはじめ、一行は日本に帰りついた。

 道照和尚は元興寺(飛鳥寺)の東南の隅に禅院を建てて住んだ。この時、国中の仏道修行を志す者たちは、和尚に従って禅を学んだ。
後に和尚は天下を周遊して、路の傍らに井戸を堀り、各地の渡し場の船を造ったり、橋を架けたりした。 
山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。
◎「山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。」
これには異説があります。

和尚の周遊はおよそ十余年に及んだが、寺に還って欲しいという勅があり、禅院に戻って住むようになった。
 座禅は旧の如く熱心に重ねた。
そしてある時は三日に一度起ったり、七日に一度起ったりする状態であったが、ある時、俄かに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き怪しんで居間に入り、和尚を見ると、縄床(縄を張って作った腰掛)に端座したまま、息が絶えていた。時に七十二歳であった。

 弟子たちは遺言の教えに従って、栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。
天下の火葬はこれから始まった。
世の伝えでは、火葬が終わったあと、親族と弟子が争って、和尚の骨を取り集めようとすると、俄かにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、何処に行ったか分からなくなった。
当時の人は不思議がった。
のち、都を奈良に移すとき、和尚の弟と弟子たちとが、天皇に上奏して、禅院を新京(平城京)に移築した。今の平城京右京の禅院がこれである。
◎現在の元興寺のことです。
この禅院には経論が沢山あり、それらは筆跡が整って良く、その上誤りが無い。すべて和尚が唐から持ち帰ったものである。


○栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。
 「日本書紀」   
雄略14年 1月 
   身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
   雄略14年 3月 
   臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
   衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。


http://lunabura.exblog.jp/「ひもろぎ逍遙」にこれに関する記事があります。

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。

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by jumgon | 2011-06-13 10:42 | ○道照・行基・役小角

野中寺(羽曳野市)

野中寺は渡来系氏族・船氏の氏寺?

前回、続日本紀 700文武4年からの引用した文中に、
道照は、河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連
とありました。

野中寺はその渡来氏族である船氏の氏寺という説がある。

今日は出かける用事があってその帰り道にある野中寺(やちゅうじ)を訪れることにした。

野中寺が見えてきました。
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野中寺の山門に着きました。
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◎「犬を散歩お断り」という立て札。
  そして仁王さんの柵には「猫を捨てないでください」なんて張り紙がある。
  そんなことする人がいるの?


○山門をはいると右手に金堂跡礎石がある
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そして参道をはさんで左側に「塔跡の土壇と礎石」がみえる
○塔の礎石
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真ん中にある、塔の心礎が変わった形をしている!
搭の心礎 手前に目が見える。足も見えるのだが、、、どうやら亀の顔みたいな線刻がある。

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搭跡のよこにピンク色の石棺が~
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解説版によると
○ヒチンジョ池西古墳の石棺だそうです。
  ヒチンジョ池西古墳とは野中寺の南西約1kmの所で1946年(昭和21)に発見された古墳で保存のため野中寺境内に移築されたという。

◎変わった名前ですね。今日は脱線しないで野中寺だけに絞ります。

○かっての講堂跡に建つ本堂
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野中寺は何度も火災にあっている。
南北朝の延元の戦い(野中寺合戦)では、伽藍は悉く灰塵に帰した。
◎そうか、今ある建物はすべて後世のものなのだ。礎石のみが創建当時のものらしい。
境域にはその頃の伽藍跡の土壇や礎石の列が残っていて、創建当時は東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式の伽藍配置だったことが判明している。
金堂跡や塔跡の他にも、中門跡・講堂跡・回廊跡にも多くの礎石が現在も存留しており、国の史跡指定を受けて保存されている。
江戸時代になって寛文年間に慈忍恵猛律師らによって再建されたが、享保年間に火災にあった。現在の方丈や勧学院はその後に再建されたものである。


さて、羽曳野市が作ったホームページを見てみよう(一部省略)

野中寺(やちゅうじ)

聖 徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ「中の太子」と呼ばれています。
創建当時は、野中寺独特の伽藍(がらん)配置で、竹内街道に面して南大門をおく大寺院でした。
現在では境内に、塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っており、国指定の史跡になっています。
方また、野中寺の東方に広がる野々上遺跡では、大型の建物群の跡が発見され、野中寺の造営や維持管理に携わった有力氏族が居住していたところと推定されています。
さらに同遺跡内には、当時の野中寺に使用されていた屋根瓦を焼いたとみられる下田池瓦窯跡(しもだいけかわらがまあと)も検出されています。
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寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。だが、考古学的知見では、境内出土の瓦から創建は7世紀後半とされている。


○渡来系氏族・船氏の氏寺?
 
正倉院文書によれば、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。
船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫である。
王辰爾は百済からの今来(いまき)の渡来人で、欽明天皇の時代に船賦を計録して船長に任じられ、船史姓を賜わった。
○欽明天皇(きんめいてんのう)、第29代天皇・(在位: 539年 12月30日~( 571年 4月15日)

王辰爾の名は、敏達天皇元年(572)にカラスの羽に書かれた高句麗からの国書を読み解いたことで有名である。
 船氏は、葛井(ふじい)氏や津氏と同族で、百済の第14代・近仇首王(きんくすおう)を共通の先祖ととしており、渡来した後もお互いに近くに居住していた。
葛井氏は今の藤井寺、津氏はその西1.2キロの大津神社付近を本拠地としていた。野中寺はこれらの二地点から南1.3キロに位置する。

地図に野中寺、藤井寺、大津神社がみえますね。


【所在】大阪府羽曳野市野々上5-9-24
【宗派】真言宗
【山号】青龍山
【本尊】薬師如来坐像
【開基】蘇我馬子
【アクセス】近鉄南大阪線「藤井寺」駅より羽曳が丘方面行き近鉄バスで約5分。「野々上」バス停下車、すぐ。


船氏、藤井氏、津氏 関係の系図
これは「金達寿」の書物からいただきました
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by jumgon | 2011-06-08 23:59 | ○野中寺(羽曳野市)
5月13日の朝日新聞の夕刊で気になる記事を見つけた。

【ナカニシ先生の万葉こども塾】

言問(ことと)はぬ 木すら紫陽花(あじさい)
諸弟(もろと)らが 練(ねり)の腎臓(むらと)に あざむかえけり
巻四の七七三番、大伴家持(おおとものやかもち)の歌

ことばを口にしない木だってアジサイは花の色を変える。ことば巧(たく)みなモロト奴(め)の占いにだまされてしまった
◎そういう意味ですか?想像もつきませんでした。  
 
● 作者は、諸弟という男に恋占いをしてもらったところ、成功するといわれたのに失敗したと、怒っています。 アジサイだって花の色をかえて人をだますのですから、口上手な諸弟には、かないません。では諸弟はどんな占いをしたのでしょう。
 「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にあります。当時肝臓占い(羊の肝臓で神様の祟(たた)りを占うこと)が広く行われていますから、その一つでしょう。
 そうなると、モロトという日本離れした人名は、中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません。
イスラム教の祈りのことばでもあります。ムラードとはミスター祈り。彼はペルシャからやって来た肝臓占師だったでしょうか。
 時の朝廷にいた李密翳(りみつえい)はペルシャ人らしい。
シルクロードがペルシャ文明を運んでいました。家持も、ペルシャかぶれで、失敗したのかもしれません。
(奈良県立万葉文化館長・中西進)

◇この記事の中で疑問に思ったこと

疑問 ①「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にありますという記述。
疑い深い私は先生の記事まで疑うという身の程知らず。
調べてみると、なるほどちゃんと出ている。

むらと 【▼腎】
腎臓(じんぞう)の古名。[和名抄]
[ 大辞林 提供: 三省堂 ]

疑問 ②「諸弟、もろと」は中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません、という記述
 じゃあ、「橘諸兄、たちばなもろえ」も中近東人?なんて思っちゃった。
 でも、これは「もろと」という音からムラードに結びつくので、漢字の「兄」「弟」の意味とは関係ないと自分に言い聞かせました。

疑問 ③李密翳【り・みつえい】
◎こんな人が時の朝廷にいたなんて、もうビックリ!本当かしら?
ついでに李密翳【について検索したら、こんなのが見つかりました。

李密翳【り・みつえい】
•朝日日本歴史人物事典の解説
•生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月,遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師,楽人,幻術師,商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが,正倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して,官営工房などに属し,技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)

◎なるほど「諸弟」なる人物がはるばる日本へ来ていたのか~。
異国の地へやってきてどう感じたのだろうか?
家持とは何語で話したのかしら?
十分に意思疎通できなかったから、自分の都合の良いように占いを解釈したのだろうか?
漢字で筆談?
ずっと日本に住んだのだろうか?
いつ頃まで滞在したのだろうか?


もっと何か情報はないかと検索したら、面白いサイトに出会いました。

橿原日記
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_02.htm
この方の記事はよく調べられていて信頼性が高く、よくお世話になっています。
(以下、上記の「橿原日記」より引用・省略改変あり)

昭和57年(1982)5月8日付けの東京朝日新聞の夕刊記事

以下記事のタイトルは、”イラン系医者は6世紀に来ていた”となっている。
読んでみると、当時は弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏の共同研究によって、イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明したというものである。通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。
松木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を研究するため『日本書紀』をひもといて、見慣れない二人の人名に気づかれた。
欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。

欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、軍事支援の見返りとして「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」と要求した。
要求に応えて百済から派遣されてきた交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。
松木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という人名であることが判明した。
潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、イラン系の医師であると判断したという。
その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。

◎医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」とあるから、何年か日本に滞在したのでしょうね。

松木助教授は、昭和57年(1982)6月5日と6日の両日、京都市の京都医師会館で開催された日本医史学会でこの共同研究を発表されたようだが、どのような評価を受けたかは聞いていない。
◎この研究は学会で今認められているのでしょうか?
ペルシャ人の渡来に関しては、上に述べたように天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人とされている。その後、鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)もペルシャ人だったとされている。

だが、松本清張氏によれば、それ以前にペルシャ人の渡来を記した記述が存在する。例えば、斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、朝廷が召したという記録や、斉明天皇5年(659)に吐火羅(とから)人が妻の舎衛婦人とともに来たとする記録が『日本書紀』にある。

◎覩貨邏(とから)国については諸説あるようです。

ゾロアスター教の寺院は拝火の殿堂であり、そこで光の象徴としての純粋な聖火が焚かれ、祭官がこれを護持している。そのため拝火教とも呼ばれている。西暦226年にパルティアを滅ぼして西アジアを統一したササン朝ペルシア(222~651年)は、ゾロアスター教を国教と定めた。
そのため、ゾロアスター教はイラン人の宗教として、7世紀以降のイスラムの侵入までイランの人々の信仰のよりどころとなっていた。だが、イスラムがイラン国内に入り、各地で大発展を遂げると次第にゾロアスター教は少数派となり消滅していった。
古代イランのゾロアスター教は、後漢末から三国時代にかけて中国に伝えられ、5世紀頃には東西に分裂していた華北の北周や北斉で広まっていたという。
唐代には「けん教」と呼ばれ、都の長安や洛陽、敦煌や涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。
景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
◎「国際都市・唐」のイメージが少し想像できるようになりました。
中国にゾロアスター教を伝えたのは、中央アジアのソグド地方に居住していたイラン・アーリア族の住人である。ソグド地方は古代の東西交易路の三叉路にあたり、この地域の住民は商売がうまくその商業的活動は他の民族の追随を許さなかった。ソグド人は中国で「胡賈(こか、外国商人)」と呼ばれた。「胡」は中央アジア以西のイラン族を指す。
『後漢書』によれば、後漢の霊帝(168-188)は「胡服、胡帳、胡牀、胡座、胡飯、胡クゴ、胡笛、胡舞を好んだので、都の貴族たちは皆これにならった」と伝えている。

◎後漢の桓帝・霊帝の頃(紀元147~189年)といえば「倭は大いに乱れ、国どうしの勢力争いが続き、統一者が出なかった。卑弥呼共立(魏志倭人伝)」

胡の習俗は、後漢以来、中国では一種の先進文化として受け取られていた。ハイカラ趣味のように3世紀以来中国の貴族にもてはやされたのである。
ソグド人の商人はゾロアスター教徒だった。中国に商売のため逗留したり、居住したりする内に、その信奉する宗教が貴族の間で西域趣味としてもてはやされたこともあったろう。


これに関連したうららさんのブログを思いだしました。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/c/df0eb88e365eff56a0bc9c32919440dd/3
うららさんのブログで
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木について言及されたものがあります。

ユーラシアの東の端・日本の法隆寺の香木。
その香木に不思議な不思議な文字がありました。
不思議な文字は、研究の結果、ソグド人のものであることがわかりました。

香木いずれも長さ約60cmで20cmほどにわたる刻銘があり、その端近くに焼印。
刻銘、焼印ともに漢字以外の文字であり、長い間その意味は謎とされてきました。

現在では、刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字で、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名か香木のメーカー名。
焼印の文字はソグド文字の「ニームnym」と「スィールsyr」で、「2分の1シール(重さおよび貨幣の単位)」のことだった。
またその焼印には大きな十字架のマークがあるらしい。
ちなみにパフラビー文字とソグド文字の焼印はともにヘブル語から変化したアラム語です。

輸送の際、木材に荷主を判別するため押印をすることは古今東西広く行われていて、法隆寺の白檀二点の焼印・刻印がソグド語とパフラヴィー語であったことは、その流通・輸送にイラン(ペルシャ)系商人が深く介在したことを示しています。

白檀の原産地である東南アジアから積み出され、中国の広州や揚州などの市場を経て、最終的に法隆寺に納められたと考えられます。


東京国立博物館「法隆寺宝物館」の白檀について、言及されているブログが他にもありました。

http://blogs.yahoo.co.jp/cosmorama7272/53843534.html
(一部省略)
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木の実物は撮影禁止で、週刊朝日別冊に掲載された写真しかアップできません。

 10数年前、塔頭の屋根裏から香木が発見されたという記事には驚きました。 
白檀、栴檀、沈水香の3点の香木でしたが、これらのうち2つにはパフラビー文字(中世ペルシャ語)とソグド語の文字が刻印されているということでした。

 新聞や雑誌にはサイズが書いて無く、ただ写真だけでした。
 その形状から、ゾロアスター教徒が家庭で使用している香木と思いました。せいぜい直径1センチ、長さ10~12センチくらいのものと思いこんでいました。

 ところが実物は直径9センチと11センチで長さは80センチと90センチもあった。
 これは今でもゾロアスター寺院の一番大きなカップで使用している拝火のために使用している木のサイズだ。

 直径1センチ、長さ10センチ程度の香木はインドのゾロアスター教徒専用の仏具店で購入しているが、百段の場合、値段は日本円で200~300円もする。直径10センチ、長さ90センチなら数万、いや数十万はするだろう。

 通常、ゾロアスター寺院では、香木ではなく松か樫の木で火種を絶やさないようにしている。
 香木を使用するのは、よほどの祭事のときだけだ。

 沈水香は複雑な形の根っこだったが、ほかの2本は木の幹だった。
 栴檀のほうも白檀材となっていたから、2本とも白檀の木であろう。

 この香木に刻印されている文字を大阪大の東野教授は、「ボーイトーフ」と読みメーカーの名前か人名と断された。他方、大阪外大の井本教授は、「サオシュヤント」の方言形と言われた。 
◎学者によって解釈が異なるようです。
サオシュヤントは、ゾロアスター教でいう救世主である。仏教なら弥勒ということになろう。
 法隆寺夢殿に安置されている救世観音像と対応する。


以上の記述を事実だとすると
ペルシア人の渡来は

①欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。
②斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着した。
③天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)
④諸弟(大伴家持・718~785)の間のある期間、在日。
⑤天平勝宝6年(754)鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)
となります。

他にもいるかもしれないけど、それほど多くはないので日本文化に大きな影響を与えなかったような気はします。
大伴家持の歌にうたわれているので、それなりの交流があったように想像できます。

◎日本にやって来たらしいペルシア人?について調べているうち、だんだん古代の人間の交流について未知の世界へ運ばれてきました。
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by jumgon | 2011-05-16 17:39 | ★言語、歴史
記紀に色々な地名が出てくる。
いったい今でいえばどのあたりなんだろう?


前からそれを知りたいと思っていた。
難しいけれど、出来るだけ調べていこう。
先ず今回は神功皇后の時代の記事から~

記紀はいろんな方が訳しておられます。詳しい内容はつぎをご参照ください。

「古事記の神々(現在語で)
http://himeluna.exblog.jp/
葛城襲津彦(3)の記事から


摂政5年
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

◎サビは多分「佐味」、忍海は現在地名でそのままと、理解できる。
 あと問題は「高宮」だ。高宮なんてあちこちにある。「桑原」は探してみたが、これも大阪市内など何箇所かあり確定できない。

やはりもう研究されてました。
次に地図をのせます。
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◎ソツヒコが連れて帰ったのですから、勢力範囲の葛城に居住させたのですね。
 地図の下に解説が書いてあります。
 「葛城氏が没落後、蘇我氏はこれらの人々を取り込み、力をつけていった。」
 飛鳥時代に蘇我氏が力をつけたのはこういう訳だったのですね!


◎葛城襲津彦の伝承WIKIより
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。
先祖
o父:武内宿禰( 孝元天皇の曾孫)
o母:葛城国造荒田彦女葛比賣

o葦田宿禰
o玉田宿禰
o磐之媛(仁徳后)
o的戸田宿禰(的(いくは)氏祖)
o腰裾宿禰(忍坂氏祖)
o熊道宿禰(忍海原氏・朝野氏祖)

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by jumgon | 2010-12-07 17:22 | ★葛城
近つ飛鳥風土記の丘

日本を代表する群集墳・「一須賀古墳群」を保存し、褐貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として設置した史跡公園です。

ここに、「近つ飛鳥歴史資料館もあります。

*この資料館の名前の「近つ飛鳥」って、どういう意味?

資料館の学芸員さんが教えてくれました。

難波の宮から
●近い飛鳥が「近つ飛鳥」(大阪府南河内郡周辺)
●遠い飛鳥が「遠つ飛鳥」(いわゆる奈良県明日香村周辺です。)

 近つ飛鳥歴史資料館は大阪府南河内郡河南町にある、一須賀古墳群の地域に建っています。
 建築家・安藤忠雄氏の設計です。
コンクリート打ちっぱなしのユニークな建物です。
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階段のはるか先に神殿があるみたいな雰囲気ですね。
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一須賀古墳群は径15m前後の円墳内に横穴式石室を中心とする約250基からなる南河内最大の古墳時代後期群集墳です。 
1966年(昭和41年)、上野勝巳がその分布を紹介。古墳群は6世紀前葉から7世紀中頃に、基本的には丘陵先端から上方に向かって形成される。石室は羨道が短く、玄室平面プランは正方形気味で推移し、
石室内は2~3体を埋葬するケースが最も多い。遺物では金銀製品、ミニチュアの炊飯具が特徴的。


この古墳群は周囲の古墳と異なり、渡来系のものと考えられる副葬品が発見される。
特にミニチュア炊飯具と呼ばれるものが出てくることで知られる。
現在ここからは20例近く発見されているが、これは、滋賀県湖西地方などごく限られた範囲でしか発見されていない。また、古墳の近くから発見される須恵器、須恵器窯は朝鮮半島から技術が入ってきたごく初期の頃のものであることが分かっている。


ミニチュアの炊飯具
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 何という氏族がこの群集墳を形成したかは、非常に興味がある。上記のように、ミニチュアの炊飯具が多数出土することから、百済系渡来氏族の奥津城だったとの推測がなされている。その推測を補強するような史実がある。

雄略天皇の時代、百済の王族の昆支王(こんきおう)とその一族郎党が渡来して住み着いた場所は、後に「飛鳥戸郡」と呼ばれる土地であったという。
大和朝廷が百済王族に対して無人の原野を与える訳はない。昆支王が来朝した頃には、飛鳥戸郡やその周辺には、半島からの渡来人がすでに多数住んでいたはずである。百済王族とその郎党にはその中の一等地が下賜されたにちがいない。

一須賀古墳群はこうした百済系渡来人の居住地から指呼の距離にあり、彼らの奥津城、つまり共同墓地霊園だったと思われる。 


資料館の学芸員さんが横穴式石室を案内してくれた。
たくさんあるので全て見るわけにもいかない。
石室には、石棺もあるが多くは木棺だということだ。(釘らしきものがあった。)
とにかく山の中のかなり急な坂を登ったところにたくさんある。
木棺ならまだしも、大きな石棺が急な坂を上がったところにあり、どうやってこれを運んできたのだろう?と不思議だった。
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修羅なんかこんな狭い坂道で使えるだろうか?
石棺の素材は、近くの二上山のものもあるが、遠く高砂あたりの石もあるとのことである。

石室はたいていは小さな石を積み重ねて造られていたが人の背丈ぐらいの大きな石が使われた石室もあった。
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線刻などの修飾はないようだ。
下の写真は D-4号墳
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この古墳群から出土したものが資料館にある。

金製垂飾り付耳飾・銀製釵子(かんざし)
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金銅製沓復元模造品
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このきらびやかな沓、実際に履いてたものじゃないですよね。沓裏にまでジャラジャラ飾りがついている。
たしか「藤ノ木古墳」からもこんなのが出ていたと思う。
大王でもない人のお墓にこんなものが副葬されてたなんて!!

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by jumgon | 2010-11-22 23:22 | ○一須賀古墳群