古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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龍田神社

「龍田神社」

◎田中八郎氏の本で、「竜田の神」・竜田神社と「広瀬の神・広瀬神社」が崇神天皇を悩ませたような記述がある。

●竜田は、弥生の頃の原始的な風による製鉄?(大きなタタラ場は奈良時代以降で、それ以前の風による野タタラ)をおこなう金属加工技術者がいて勢力があった。
●広瀬神社の方は「忌神」とされていた。(ナニワと大和を結ぶ水運の要の地を抑えていて勢力があった。


日本の神々・神社と聖地(谷川健一編)より・・・一部抜粋
広瀬大社
奈良盆地を潤す富雄川・佐保川・初瀬川・寺川・飛鳥川・蘇我川・葛城川・高田川の合流地点に鎮座する。
室町中期以前は盛観を窺い知る記録があるが戦国乱世においては縁起だけでも残すのがやっとであっただろう。天文14年(1546年)に社殿の復興があり、以後歴史を経、現在の春日作りの本殿は、正徳元年(1711年)に造営されたものである。(大矢良哲)


そういうわけで、この二社は以前から気になっていた。
今年さいごの紅葉を見がてら「竜田神社」にまいってきた。
有名な神社だけど、HPで調べても駐車場のことはどこにも書いてないので「車を停めるところはあるだろうか?」なんて心配しながらJR三郷町へ向かう。

駅から徒歩5分と書いてあった。
そのあたりに近づくと「七五三まいり」とかかれた旗がいっぱいはためいている。
さすがに歌にも読まれた神社だ。かなり社地は広そうである。
そして、20~30台は停めれる大きな駐車場があった。

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◎この鳥居のあし、どこかで見たことある。
 そうだ、「辛國神社の鳥居もこの形だった。(色は赤くないけど、、、)⇒★神社⇒辛国神社
 扁額には「竜田宮」とある。

境内は広く、木が多く今もなお氏子さんの多い神社だと分かる。

この神社のしめ縄はすべて「左綯え」だ

これが田中八郎氏の言うように<王朝予備軍にたいする反骨のなごり>になるのかどうか分からないけど、、、>
時代が下って天皇から武家の時代になってからは、縄文・弥生神たちも朝廷となかよくしてるようです。
大神神社だって拝殿には菊の御紋がついてますから。

WIKIより
祭神
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)を祭神とし、龍田風神と総称される。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(しながつひこ・男神)、国御柱命は級長戸辺命(しながとべ・女神)のこととされている。

歴史
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。

正史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田に祀らせたとの『日本書紀』の記事が初見である。『延喜式』では名神大社に列し、二十二社の一社とされた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に龍田神社として官幣大社に列した。


境内には摂社が色々あるが後の時代に勧請されたものなので省略。
八幡さまは何時から祀られているか不詳ということで、おそらくかなり古い時期から鎮座しているのではないかとおもう。
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戦争の犠牲者を祀る「忠魂碑」もあった。

◎神様というのは、人間の要望でいくらでも増える。
 単科別に、「武神を祀る神社」「目の病に効く神様・神社」「商売の神様」
 「五穀豊穣の神様」etc.....
 わたしの場合、古代史を探る目的なのであとで追加された神様はとばしていきます。

  
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by jumgon | 2010-12-06 17:50 | ★寺院・神社

宇太水分神社を訪ねる

田中八郎「大和誕生と水銀」を読むまで私は「宇太水分神社」の存在を知らなかった。

宇陀には何度か訪れたことがあったが、今日は「宇太水分神社」を訪れることにしよう。

その前に、田中八郎「大和誕生と水銀」より
水分神社とは
水分神社は「水を生み水を配分する神様を祭る神社」という通説がある。
大抵の人は字面をみてそう思うし、神社縁起なんかにもそう書いてある。
が、そうではない。。
水分とは「鉱石を冶金すること」を指す。
水分神、それは特定の時期に一斉に現れて、天之水分・国之水分という職掌名はあっても固体の神名は封じられた神でした。
水分神は地元の縄文神だったものが、大和王権が新規開発した水銀や銅などの金属生産の現場担当になったものだ。
その論拠は長く細かくなるので、省略する。

大阪から宇陀へ車でいっても遠い。斑鳩や飛鳥・奈良からまだ30分以上走らないと着かない。
弥生時代の人は三輪山麓から宇陀までどうして行ったんだろう?歩いて?小船を利用して?
以前2~3回来たことがある、が。榛原から右折する道が狭いので来るたびに通り過ぎてしまって、今日も又Uターンして右折する道を探すハメになった。
でも車が混んでないので、遠くの山並みと美しい緑を楽しみながら、どうにか大宇陀のメイン観光地?である、「くすりの館」や「森野薬草園」あたりに着いた。

(地図で水色のアイコンのところは「御破裂山」、中の大兄の皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒す密談をした処と伝えられている。)

が、今日の第一の目的は「宇太水分神社」だ。
道の駅でおりて、ゆっくりマップをみる。
大宇陀町から菟田野町古市場へ行く道は「もしかしてかなり狭い道?」かと心配したが、そうでもなかった。
よく考えれば「古市場」という地名だ。むかし市場があって栄えた所なのだ。
大宇陀から菟田野町へ向かう道には「毛皮・レザー用品」の会社や商店がたくさんある。畜産加工業が盛んなところらしい。
そして、やっと着きました。!
道の両側には商店や民家のある道沿いにありますが、いかにも古いたたずまいです。
大和のおく深くにある国宝の社殿を有する「宇水分神社」、宇水分神社、ではありません。

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いかにも古い狛犬がいます。刻印を読むと「嘉永7年甲寅9月」とあります。
嘉永7年といえば1854年(56年前)、江戸末期、「安政」の直前です。
境内に薬の井(御神水)があります。 
  推古天皇が莵田野に薬狩りをされた時、この井泉で心身を清められたとの伝えから、この水を田にいれると稲が豊かに稔ると言われている。
頼朝杉 
  樹齢400年の杉は二代目の頼朝杉と言われ、初代は頼朝が杉苗を植えたとの伝えである。
境内には大きな「頼朝杉など古い大きな杉がたくさんあります。

まず、HPから
宇太水分神社の歴史
●第十代崇神天皇7年2月(古事記の注釈によると紀元前90年ごろ)  
     崇神天皇の勅命により祀られたと伝えられている。

●大和朝廷が飛鳥に置かれた頃
    大和の国の東西南北(宇太、葛城、吉野、都祁)に水分神社が祀られた

●推古天皇19年(西暦610年)   
    推古天皇が菟田野に薬狩りをされた際、薬の井で身を清められ たとされる

◇平城京遷都 西暦710年

●大同元年(西暦806年)        神封一戸が奉られる。

◇平安京遷都 西暦794年 

●延長5年(西暦927年)      
     大和四水分が大社に列せられ、祈年祭、新嘗祭、月次祭の案上官幣に預かる。

●平安時代末期(年代不詳)    
     源頼朝、幼少時に当社に詣でて、大将軍になれるかどうかを占うために杉を植えさせたとされる。

元応2年(西暦1320年)    
     本殿の三棟が建設される。(現 国宝)、棟木銘により判明

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こんな大和の奥深くに華麗な神殿があったなんて、、、、。
御祭神は
第一殿     天水分神 (あめのみくまりのかみ)・王権の神
第二殿     速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
第三殿     国水分神 (くにのみくまりのかみ) ・縄文先住民の神

•本殿3棟
(同形の3棟が並ぶ。第一殿の棟木に元応2年(1320年)の墨書があり、他の2棟も同時の建立と推定される。3棟とも春日造で、隅木入春日造で建立年代の明らかなものとしては最古のものである。 )

摂社・末社がたくさんある。それぞれ丹塗りの華やかな社だ。
摂社
春日神社    天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
宗像神社    市杵島比売命(いちきしまひめのみこと) 
末社
恵比須神社   蛭子之大神(ひるこのおおかみ)
金刀比羅神社  大物主命(おおものぬしのみこと)

鳥居からでて帰ろうとすると「あれ!向こうに一の鳥居らしきものがある。」
行って見よう。
一の鳥居から
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道を挟んで川がながれている。
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土地のおじさんに聞いたら「ほうのがわ」とのこと。「どんな字ですか?」「芳野川ですよ」
ついでに気になってた、下水のフタの模様のことをきいた。
「あれは、鳥、、めじろだったかな?それと紫陽花と杉の木をデザインしたものです」とのこと。
わたしは、もしかしてこの鳥、ヤタガラスかな?と思ったんですけど、、、、
足は3本なかったけど~
何でも地元の人に尋ねることだ、とおもった。
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by jumgon | 2010-11-06 20:42 | ★宇陀
なぜ古代日本の王権発祥の地は大和なのか?

日本の(文献上の)歴史が奈良盆地から始まったことはいうまでもないが、今の奈良県をみていると「どうしてこの地が重要であったのか?」の疑問がわく。さほど魅力的な土地であったようには思えない。
大和地方で一番古い古墳があるとされる三輪山麓周辺はそんなに広い土地ではない。
明日香も狭い。甘樫の丘から明日香村を見下ろすと、細い飛鳥川を挟んで、狭い平坦な地がある。この地でさえ天武天皇が湿地を埋め立てて平地にし、都を作ったというが、なんでこんな狭い場所を都にしたのか不思議に思うほどである。

飛鳥寺を訪れた時、「この長閑な水田がひろがる土地が本当にかっては日本の首都だったのか?」と思わずにいられなかった。

なぜ王権発祥の地が大和地方なのか?

そもそも西暦後の文明を日本列島に育てた功労者は渡来人である。

(それ以前の渡来者も海からやってきて、縄文文化を華咲かせていたが、、、)


渡来者はまず海岸や港に生活を根付かせたから、新文明の弥生文化の到来は北九州や瀬戸内海や山陰が大和より優位だったのは当然でなことだ。
弥生時代後期の頃の大和は、九州、吉備、や山陰と比べると、紛れもなく後進地だったはずだ。

先進地をおしのけ、後進地の内陸が幾百、幾千あるなかで、大和が選ばれて新国家創建の地になった理由はなにか?

なぜ、筑紫や出雲、吉備でなく大和まで人々はやってきたのか?

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」ではいろいろ細かく語られているが次の二つが大きな理由だ。
① 宇陀に辰砂が産出し大陸から買い付けられた。(買い手があった。)
(えっ、そんな昔から?そういえば、不老不死の薬を求めにやってきた徐福伝説がありますね。中国では「神武天皇は徐福だ」という説があるそうです。
亀の瀬渓谷の地すべりが天然の要塞となり大和を防衛した。

(亀の瀬渓谷ってどこにあるの?たぶん、亀の瀬渓谷なんてたいていの人はご存知ないと思う。これについては、「大和川・河内平野から大和への道)の項でかきます。)
地図で青い星マークが亀の瀬です。


さて、これを詳しく見ていこう。

 辰砂採掘は先住民も行っていたが、後にやってきた王権予備軍は辰砂採掘のみでなく冶金による水銀生産を始めようとした。水銀鉱脈を探す為には地元先住民の協力は無くてはならないものだったし、採掘、冶金の労働者は先住民だったから、それを采配する大国主の力は王権予備軍より大きいものだった。
やがて冶金の技術を知っている王権予備族が次第に力を大きくしていった。(採掘と冶金の権益をめぐって、先住民と王権予備軍との間で軋轢があったことは、大神神社で述べた。)

王権予備軍は 鉄の農工具使用によって古墳を築く為の土を採り出し、あとに出来た大きな平地を水耕稲作地とした。
(巻向時代に先立つ唐古・鍵の弥生時代にも水田生産は実践され、他地方に先行した農法だったが、大規模の実施は箸墓建設にともなった。)古墳建設と水田農耕はセットで推進された。

水田農耕も古墳建設も全て労務者は先住民で、労務の指揮監督者は王権予備軍だった。先住民たちは古墳建設や新農業の合理的な生産と利益の産出に驚き参加しながら、富のおこぼれを得た。(箸墓労務者は単純計算で少なく見積もって年間3400人プラス家族人数、それに加えて管理者、治安要員の人口があり、その食料の必要性が水田稲作を推進させた。)
こうして、だんだん王権派の力が強くなっていった。

 古墳築造・水耕稲作地の開発の為、不特定群集を管理するための組織つくりと不満分子を監督する為の武力(戦闘集団)を作った。これでますます力をつけていった。

○ 決定的な力の差を生んだは、馬の出現だった。運搬力と鉄鉱技術。これによって先住民は分裂して、とうとう王権派が永く続いた拮抗を崩し主導権を握った。


以上が田中八郎氏の「大和誕生と水銀」にかかれた、大和に古代日本の首都が出来た理由です。

ナルホド、地に足がついたお話だ。
先住民と王権予備軍の「せめぎあい」があったとは思うけれど具体的にどういうことだったのか全く分かっていなかった。田中氏によると三輪山麓・巻向時代の特徴は、大王を含む諸豪族と先住民勢力=オオクニヌシ派とが共同統治をおこなっていた、という。物資の輸送人足や労務者の統率には先住民の指導者の協力は必須だった。
双方互角で均衡した有様を映しているのが、ツバ市の域内にあった崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に、オオクニヌシとアマテラスを崇神自身が祭祀していたことにある。
  

奈良の重要な場所は、以下のように移っていったらしい。
1.弥生時代(磯城郡田原本町。唐古・鍵遺跡がある)
2.ヒミコ時代(桜井市・巻向の古墳群)
3.初期大和朝廷時代(桜井市・橿原市)
4.飛鳥時代(明日香村の飛鳥浄御原京)
5.藤原京時代(橿原市)
6.平城京時代(奈良市)

わたしが考えたこと
王権予備軍の人口は先住民より少なかったと田中氏は書いているが王権予備軍はいったい何人ぐらいの集団だったのか?
◎最盛期人口1,600万人もいたインカ帝国を滅ぼしたのはピサロ率いる、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力だった。

わたしの想像では、神武をふくむ幾組かの親族集団でやって来たのではないかとおもう。
神武一族、久米一族、安曇一族、隼人一族、その他。
各親族集団30名位とすると約100~200人位ではなかったか?
先住地元民と戦うときは協力しつつ、それぞれ力を蓄えた各族のうち、神武一族が最終的に王権を握ることになった、、、、てストーリーはどうかしら?
記紀では最初から、他の一族を部下みたいに書いてるけど、、、、。

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by jumgon | 2010-11-04 15:35 |  ○三輪神社・大神神社
あてがわれた看板「太陽信仰の神」
三輪山山頂の奥津磐座にある日向(高宮)神社があります。
日向神の登場するいきさつを記紀に見てみましょう。

古事記にはスクナヒコナの神が常世国に行ってしまったので、オオクニヌシは愁いました。
大國主(オホクニヌシ)神は悲しんで、「私一人でどのようにしてこの国を作ることができるだろうか。どの神と私とで、この国を共に作るのか」と告げた。この時、海を照らして寄って来る神がいた。その神は、「私の御魂(みたま)をよく治めるならば、私が共に作り上げよう。もしそうでなければ、国は出来上がらないだろう」と言った。そこで大國主(オホクニヌシ)神が、「それならば、どのようにして治(おさ)め祀(まつ)ればよいでしょうか」と言うと、「そういう汝はだれだ。」「吾は汝の幸御魂奇御魂なり
、「それならば、どのようにして治(おさ)め祀(まつ)ればよいでしょうか」と言うと、「私を倭之青垣(やまとのあをがき)の東の山の上に祭祀(さいし)しなさい」と答えた。これが坐御諸山上神(みもろやまのへのかみ)である。 

これはどういう意味か

「大和誕生と神々」より
「もともとオオクニヌシは出来が悪くて頭領になる素質がなくスクナヒコナが介添えしていたから、頭領としてやってこられたのだ。そのスクナヒコナが去って困っているところに、海の向こうから身元不明ながら国を治める力のあるものがやってきた。オオクニヌシは自らの意思でそのものを、ミムロに招じ入れる選択をした。外来者が強引に武力制圧で押し入ったのではない。招かれて入った神が山頂にいる日向神なのだ。」といいたいのだ。(勿論古事記を編集したサイドが)
ミムロ神は伊勢神の配下である。ミムロの山から伊勢(太陽神)を拝礼している、と宣伝しようとしたのだ。
「日向神」はミムロ神よりえらい。ミムロ神が上に頂いている神だ。
ミムロに取り付き、寄生して、ミムロ神の力を弱める任務を負った社は二社ありました。
一つは山頂の日向神であり、も一つは若宮社のオオタタネコ神社です。
*山頂の日向神は明治の前半の頃に、ここの日向社と山麓のミコノモリという地にある高宮社とが入れ替わっていた。現在日向社はミコノモリにある。


若宮社(オオタタネコ神社)
古事記には大田田根子(オホタタネコ)を大物主(オホモノヌシ)大神の祭主とした、とあります。
「オオタタネコ」は王権予備軍とミムロ神との仲介役にオオクニヌシ(オオモノヌシ)が指名しました。
◎きっと宇陀の辰砂採掘の利権と巻向市場の支配権をめぐっての仲裁を頼んだのでしょう。
田中八郎氏の説では
「オオタタネコ」はやがて王権派にとりこまれてしまった。
「王権予備軍がミムロ派を神社から出れないように(活動できないように)、見張る役目に就いたのが隼人族だ。その名残が、狛犬だ。
だから、「アマツ神を祀る神社には狛犬はいない」
隼人はもともと縄文先住民だったが、王権派が九州をでるときに従ってともに来たらしい。
政の中心にはつかず、その職掌は警備だった。(ようするに下っ端ということ)

◎狛犬に関しては、???という感じですがそのうちその説が妥当かどうか検証していきます。

◇司馬遼太郎は「街道をゆく」で、この地域の古代信仰は大和を拠点に活躍していた出雲族が行なったとしており、その出雲族である「ミワ」という種族が「大物主」を最大の神として祀ったことから三輪山の信仰が始まったとしています。
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by jumgon | 2010-10-30 18:12 |  ○三輪神社・大神神社

辰砂・水銀とは?

宇陀の水銀で、ミムロ地方が栄えたと田中八郎氏の書物に書いてある。

◎宇陀の水銀で大和が栄えた、というは本当だろうか?
丹生のつく地名は水銀と関係がある、と書物で読んだことがある。
だけど宇陀には見つからない。(ありました!奈良県宇陀郡菟田野町入谷の丹生神社・榛原町雨師の丹生神社)
三重県や和歌山には丹生神社がどっさりあるのに、、、、、。


WIKIでは古代では、伊勢がおおきな水銀産出地とかいてある。
戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。

◎あまてらすを伊勢に祀ったのは、これと関係がありそうな気がする。

他に情報はないかな?

見つかりました!いろいろな趣味の方がおられるということがよくわかりました!

「気ままに鉱山・炭鉱めぐり」
http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/index.html
以下、ここより情報をいただきました。

大和水銀鉱山
奈良県宇陀郡という地域は万葉集の「大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかば・・・・云々」という歌にもあるように古代から辰砂(朱砂)産出の多い地域である。(”丹”というのは水銀の意味である。) 水銀採掘はその後も続いていたと思うが特に明治に入ってからは政府の植民地政策であらゆる金属の増産が叫ばれ水銀も例外ではなかった。かつて立派な辰砂や自然水銀を産出したことで有名な鉱山でしたが、公害汚染を防ぐため、ズリは現在埋め尽くされて、現在では何もないようです。

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◎ナルホド、宇陀から辰砂が出たのは本当だ!

水銀とは
水銀(元素記号:Hg、原子番号:80、比重:約13.5)の歴史は古いしまた使用範囲も広い。一般には縄文時代にはすでに顔料として使われていたと言う。顔料とは簡単に言うと塗料だ。その各種の色の元になる物質だ。水銀はその原鉱石である辰砂(朱砂)の赤っぽい色を利用して赤の顔料として使われていた。


◎水銀と言えば私などは水銀体温計ぐらいしか思いつかないがあの銀色の光沢のある液状のものが元は赤い石ころだったなんて自然て実に不思議です。
古代人って直感力や観察力、洞察力がすごいんですね。

他にも用途としてはたくさんありますが特に古代中国では”不老長寿”の薬としてもつかわれていたことはもう常識ですね。当時、埋葬された古墳などの骨から高濃度の水銀が検出されているそうです

【中国の水銀の歴史と効用】
中国の水銀は産出量も多く、利用の歴史も長い。殷王朝(前1100年頃)の遺跡「殷墟」から発見された玉製の戈やト辞を刻んだ甲骨からは水銀朱が使われていて、すでに高度な水準だった。秦の始皇帝は前210年に不老不死の実現を試み、蓬莱山から神仙薬の入手に奔走している。ヤマトで水銀の発掘が始まる1200年前から中国では水銀の利用が重ねられていた。
また水銀の効果は防腐力という点ですさまじい。遺体の防腐に成功した事例として中国湖北省の荊州博物館のミイラがある。1975年に発掘されたミイラは薄紅色の液体に浮かんでいた。そばの竹簡によれば、紀元前167年の遺体である。そのミイラは内臓も鼓膜もほぼ完全に保たれ、胃には胃潰瘍の後まで残っており死因まで確認できる。驚く事に2200年間内臓と鼓膜まで保存した技術であった。容器の中にあった液体は硫化第二水銀であった。この事からも中国の水銀技術は世界に比類なき高度なものであり、この技術を発展したのが漢方の薬学であった。

◎ミイラの話はいつか新聞で読んだことがある。オドロキの防腐力ですね!

【漢方の薬学と水銀の関係】
不老不死の究極の願望を身近に近寄せたのが漢方である。700に及ぶ処方の研究は、水銀を主原料とする薬で不老、神仙、軽身を効能に掲げ、長命を目指した医薬だった。
富裕層が競って服用したが、老衰と発病にかかり、それでも大陸水銀の品質の問題にした為に蓬莱山に水銀を求め、その行軍が徐福であった。東海の島にあると言われる蓬莱山を目指した一行は和歌山県新宮市に渡来したことになっている。彼の目的が辰砂だとすれば、熊野に上陸して植民したコースは神武天皇が宇陀水銀を目指したコースと重なる。
 話は変わるが小さな切り傷などケガをした時に最近はバンドエイドを貼ったりスプレー式の物で傷口を保護したりするが昔は赤チン(正式にはマーキュロクロム液)を塗っていた。 この赤チンに今は入っていないがかつては水銀が入っていた。
 金属鉱物の製錬でこれほど便利なものはほかにあまりない。ただし毒性を除いてはだが。第一に入手が比較的に簡単。そして多くの金属と溶けやすい性質がありアマルガムを造りやすい。沸点が低く(約350度ぐらい)分離(精錬)がたやすいなど考えようによっては精錬にうってつけの金属である。(ただし日本では現在は水銀は使われていない)
 
東大寺の大仏さん建立時の金メッキで大量の(三重県の丹生鉱山)の水銀が使われたことはあまりに有名です。大仏にメッキ(鍍金)の金を定着させるために人足たちは手に持っている松明を近づけてその火で水銀を蒸発させた。当然顔は松明より下に離さないと蒸気を吸い込んでしまう。そういう注意はされたとは思うが、この時代には水銀蒸気の有害性はわかっていたのだろうか?
察するに相当の水銀中毒犠牲者が出たことだと思う。

水銀が採れるところ
水銀は深い地層にあるものだが、宇陀と桜井と高野山で採取されやすかったのは、断層で地表に近づいたからです。
伊勢から室生・桜井・飛鳥・高野山・紀ノ川河口へさらに徳島・松山までが列島最大の中央構造線と呼ばれる断層です。

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水銀の呼び名
硫化水銀の素鉱は、丹・丹砂・朱・朱砂・真朱・真珠・銀朱・水銀灰・辰砂・巴砂・越砂と記述されている。
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わが国で採取される水銀のほとんどが辰砂(硫化水銀)なのは火山地質層であるので硫化物になるのが少ない。
銀色のブヨブヨした純水銀は少ない。
辰砂の結晶は光沢があり美しいが少しの打撃で粉砕されるほど硬度が低く、宝石にはならない。
辰砂の粉末の粒子を細かくするほど、朱のようにオレンジ色になります。
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⇒<天神山古墳>出土品
◎私みたいな人間でも、硫化水銀の素鉱を偶然石にこすりつけ、赤い色がつくのに気付いて、塗料として辰砂の利用を思いついたかもしれない!! (縄文時代人なみになれるかも、、、)

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by jumgon | 2010-10-30 15:06 | ★辰砂・水銀

前々回の三輪山の話 ③では、狭井神社(さいじんじゃ)について、さらっと通り過ぎてしまいました。
今日はもう一度おさらいします。

大神神社HPより
狭井神社(さいじんじゃ)
祭神     大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
        大物主神(おおものぬしのかみ)
        媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
        勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
        事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日4月10日
鎮花祭4月18日

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この神社から三輪山の禁足地への登り口があります。

「大和誕生と神々」より
延喜式神名帳の狭井座大神荒魂神社の祭神はアラタマの荒ぶる神です。大神神社の祭神ニギタマと違って、荒ぶるという表現の中味は疫疾の発生そのものを指しています。養老律令の注釈書である令州解(りょうのしゅうげ)に「春の花の花粉が飛び散るとき疫神が分散して癘を行うので、それを鎮めるためにこの祭を始む。ゆえに鎮花という、とあります。
もしかして花粉症?三輪山は杉が多いから~
古代では皮膚疾患のみが病でありそれ以外は祟りでであると思われていました。その祟り神ミムロが巻き起こす疫病を防止する祭祀が鎮花祭です。
王権が行った疫病対策の最大の施策がこの祭祀なんです。
大神神社の祈祷殿から市杵島姫神社への道にくすり道と呼ばれているみちがあります。
製薬会社の献灯篭が両脇にならんでいて、薬効があると思われる色々な樹木が植えられています。
スープを作るときに使う月桂樹(ローレル)もありましたよ。
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狭井神社の狭井とはやまゆりの古名です。鎮花祭の特殊神饌としてゆりねと忍冬を供える伝統があります。薬用としてのゆり根は漢方薬として多用されており、内臓の働きをよくし、排泄をうながし、強心と強精の効果や、消毒、鎮静、鎮咳、利尿薬として使用されている。
今日では大阪・大和・京都・富山方面の大製薬会社が新薬の数々を献じて薬業の発展を願う祭が鎮花祭です。
下の写真は「山ゆり」です。
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鎮花祭でつかう笹ゆりが激減しているので、今は保存活動をされています。境内のあちこちに「ささゆり園」が設けられています。
人間とイノシシの害を防ぐ為、柵をされています。

あれ、「さい」って山ゆりのことじゃなかったの?まあ、イイカ。たしか神社ではささゆり園って立て札があったけど、、、
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写真はささゆりです。
勿論いまは咲いてませんでしたけど、、、、。

さて、気になるのでゆり根の歴史を調べました。
ゆりねの歴史中国と日本原産のゆりは古名を佐韋(さい)、三枝(さいぐさ)といい、これは賽の河原のサイと同じ意味で、ゆりの霊力が天上の扉を開くと信じられていました。百合というのは漢名で、鱗片(りんぺん)が幾重にも重なり合っていることからつきました。
 古くから薬用として使われ、一部苦みの少ないゆりねは食用にもしていたようです。はじめは自生のものを採取していましたが、17世紀になって栽培されるようになりました。
鬼ゆり
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 現在では食用として栽培されている95%は苦みの少ない小鬼ゆりで、残りの5%が鬼ゆりや苦みのない山ゆりです。
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by jumgon | 2010-10-28 20:23 |  ○三輪神社・大神神社
大和の黎明期

さて、三輪山 ②で大神神社をつくり祀ったのは王権予備軍だといいましたね。

「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔です。

その証拠?なるものがあります。
①ミムロ神は注連縄が逆さ飾り
②ミワ鳥居の怪
③鎮花祭の目的は祟り神をしずめることで
④狛犬がいない
⑤そうではないのに、大和王権の守護神とされた

①、②はもうお話ししました。
③、④,⑤ は相互にからみ合うので、今日は大和の黎明期全体を考えながら、お話ししたいと思います。

なぜ、人々は巻向をめざしたか?
大和の黎明期

王権予備族が大和へ進駐してきた頃の繁栄地域は、ミムロ山麓に展開した社会が活動していた。その繁栄の情報が広く伝わり、交易と生活技術とを求めて関東から九州地方までの各地から、多くの人がミムロ山麓都市である、巻向へと往来していた。遠い旅を、あえてやってくるほどの魅力は、大陸から到来した薬品・食料をふくむ生命を補助してくれる各種の雑貨品と技術でした。九州や日本海沿岸でなく海から隔たった不便な土地の大和へどうして大陸人は荷揚げをしたのでしょう。
それは大陸の人々の欲する物質が、大和でしか手にはいらなかったからです。
その物質とは、ミムロ山の背後から産出した朱砂、辰砂です。それがオオ市、巻向市庭で交易された結果、大陸からの商品がたくさん到来した。

◎大陸や日本の他の地方では朱砂は採れなかったのでしょうか?採れても量が少なかったのでしょうか?これは今、調べるています。
やがて、大和平野に王権予備軍がやってきた。、オオ市、巻向市庭を蚕食し、鉄製農工具をあつかう稲作でそこに自分たちの国をつくろうとした。彼らは先住民を追い抜く力を築いていった。
占領地域の統治をすすめる鉄則は、被占領民の有力者を指導者風にしたてて、それを表看板にして裏から操ること。つまり王権は傀儡役にミムロ神を就任させたかった。懐柔政策としての友好関係を押し売りしました。「ミムロ神は王権の守護神である」などとミムロ神の了解もなしに宣伝しました。

その頃の様子を日本書紀で読みましょう。

日本書紀・崇神記 より

疫病と祭祀
 三年の秋九月。屋敷を磯城(しき)に移した。瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。これから三代に渡り、纒向(まきむく)遺跡周辺に都が置かれることになる。) 
 四年の冬十月。天皇(すめらみこと)は、「祖先の天皇(すめらみこと)(族長)たちは一族の安定・発展のために尽力してきた。そして今、我々は大和国(やまとのくに)でも有数の豪族となったが、さらなる発展のためにはどうすべきか。豪族たちと話し合ってみよう」と語った。
(まだ、大王以前の状態だったと思われる。) 
 五年。国中に疫病(えきびょう)が発生し、大半の民が死亡した。
 六年。百姓が流出し、反逆する者もいた。説得してもその勢いは止まらなかった。

(きっと、先住民たちを酷使して、利益はホンの少しだけ、といった状態だったのでしょう。)
そのため、天皇(すめらみこと)は朝夕に神祇(あまつかみくにつかみ)(天上の神々と地上の神々。いわゆる天神地祇(てんじんちぎ))に祈った。それまでは天照大神(アマテラスオホミカミ)(太陽の女神であり、一族の祖神の一柱)と倭大國魂(ヤマトノオホクニタマ)(大和国(やまとのくに)の国土の神)とを屋敷内で一緒に祀っていたが、その不安定な状態が神の怒りを買った。そこで天照大神(アマテラスオホミカミ)の霊威を豊鍬入姫(トヨスキイリビメ)命の身に憑(つ)け、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬひのむら)(諸説ある)に移し祀ることにした。、そのための神籬(ひもろき)(神が降臨する場所。後の神社)をたてた。

(ようするに、大物主(オホモノヌシ)大神がアマテラスと一緒だと怒るので、アマテラスを移転させた。これがアマテラス流浪の始まりだ、と田中氏は述べている。国つ神も王権予備族の神も、仲良くしようという欺瞞をアマテラスが上手に演出できなかったので、アマテラスはよそへ移転させられた、そうだ。)
また、日本大國魂(ヤマトノオホクニタマ)神の霊威を渟名城入姫(ヌナキノイリビメ)命の身に憑(つ)けて祀らせることにしたが、渟名城入姫(ヌナキノイリビメ)は髪が抜け落ち、痩せ衰えてしまい、祀ることができなかった。

(大物主(オホモノヌシ)大神が進駐勢力と平和的に共存を図れると思ったのに結局先住民の権益がだんだん損なわれていったので、まやかしの祀りを拒否したのことの象徴だそうだ。) 
七年の春二月。天皇(すめらみこと)は、「昔、我らの祖先がこの地に定住してから、一族は安定と繁栄を手に入れた。しかし、思いがけず、今となって災害が多発した。おそらく、よい政(まつりごと)(祭祀と政治)が行われておらず、神々が咎(とが)を与えているのだろう。占いによって、原因を突き止めよう」と語った。そして神浅茅原(かむあさぢはら)(所在は諸説ある。神聖な草原の意)に出向き、占いで神々に尋ねた。この時、一族の神明倭迹迹日百襲姫(カミヤマトトトビモモソヒメ)命の身に神が憑(つ)き、「案ずるな。私を敬い祀れば、自然に安定するだろう」と語った。天皇(すめらみこと)が、「そのように教えてくださるのはどの神でしょうか」と尋ねると、「私は倭国(やまとのくに)の国内にいる神で、大物主(オホモノヌシ)神である」と答えた。そこで、神に教えられた通りに祭祀を行ったものの、なんの兆候も表れなかった。

(王権予備軍の利益代表の神明倭迹迹日百襲姫(カミヤマトトトビモモソヒメ)命が祀りはしたが現実に先住民の納得のいく行動がなかった、ということか?この祀りの失敗は「箸墓伝説に投影されているという)
箸墓伝説 
大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

そのため、天皇(すめらみこと)は身を清め、屋敷を清めて、「私の神への崇敬が足りないのでしょうか。神意をお教えください」と祈った。すると、その夜の夢に大物主(オホモノヌシ)神と名乗る神が自ら現れ、「案ずるな。すべては私が与えた試練である。もし私の子孫の大田田根子(オホタタネコ)に私を祀らせたなら、自然に安定するだろう。また、国外の者たちも従うことになるだろう」と告げた。
 
なんと大物主の方から祭祀者としてオオタタネコを指名したのだ。国つ神と王権予備軍の神との仲裁役として、、、
秋八月。天皇(すめらみこと)の近しい者三人が、夢のお告げを報告した。どの夢も、「大田田根子(オホタタネコ)命に大物主(オホモノヌシ)大神を祀らせ、また、市磯(いちし)の長尾市(ナガヲチ)に倭大國魂(ヤマトノオホクニタマ)神を祀らせたならば、きっと天下は安定するだろう」というものであった。

(疑い深かったのですね!三人の夢のお告げが一致していたので、やっと大田田根子(オホタタネコ)命に大物主(オホモノヌシ)大神を祀らせることにしました。)

天皇(すめらみこと)は夢のお告げに大いに喜び、困窮していた内外の豪族に布告して大田田根子(オホタタネコ)を探させた。すぐに茅渟県(ちぬのあがた)(大阪府南部の沿岸部)の陶邑(すゑのむら)に大田田根子(オホタタネコ)がいることがわかった。そこで、天皇(すめらみこと)は自ら神浅茅原(かむあさぢはら)に出向き、諸豪族や一族の家来たちを集めた。そして大田田根子(オホタタネコ)に、「あなたは誰の子か」と尋ねると、「父方は大物主(オホモノヌシ)大神の子孫、母方は活玉依媛(イクタマヨリビメ)の子孫と言い伝えています。陶津耳(スヱツミミ)の娘です」と答えた

陶津耳(スヱツミミ)の娘ということは、ミムロの民に須恵器をもたらしたということだと思う。
先日、ある資料館で「三輪山麓遺跡出土、子持ち勾玉}を見る機会があったが、その説明の紙札に、「陶製」と書かれていた。今まで、勾玉の材料は、滑石製とか翡翠しか見たことがなかったので、これは何だろう?と気になっていた。
大神神社の資料館にも子持ち勾玉が、欠けたのも含めたら、5個くらい展示されていた。
須恵器(すえき)とはWIKIより
日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、土師器より高級な品として扱われた。
土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用いて製作された。それまでの土器は野焼きで作られていた。このため焼成温度(800~900度)が低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成する。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。



オオタタネコが持ち込んだ須恵器は土器として偉大であり革命的製品だった。(高温で焼かれている為、従来の土器のように、水漏れがしない、硬く割れにくいなど、従前の生活の様相を変えるまでになった。)
これがオオクニヌシがオオタタネコを招いた魂胆だった。
だが、それは縄文価値観の世界内部のことで新しい文化が盆地内に展開され、沸き立っているのにオオクニヌシは気がつかなかった。地面をいじくり、土を盛り上げ古墳と呼び、土を平らにして水田稲作はじめだしたのをみても、それほど意味があると思っていなかった。
ところがその連中が鉄の武器を持って、いつのまにかミムロ神の周りを取り囲んだのです。
そして、新しい勢力に次第に押されていく事になりました。
ミムロ神が土だけでなく、金属の世界に踏み込んでいたなら、鉄の新時代が到来しても、頭領神として、権威を継続することが出来たでしょう。
一見、さほど値打ちもなさそうな岩石が精錬や冶金で鉄になったり、金になったりする。ミムロ神はその魔法を知らなかったのです。でも、その権威は雄略の時代まで、長く続きました。


日本書記・雄略天皇条にこんな記事がある。

七年の秋七月。天皇〔すめらみこと〕は少子部連〔ちひさこべのむらじ〕のスガルを呼び、「三諸岳〔みもろのをか〕の神の姿とやらを見てみたい。おまえはおもいきったことをする男だ。行って捕えて来い」と命じた。<この山の神は大物主〔オホモノヌシ〕神のことであるという。あるいは、菟田墨坂神〔うだのすみさかのかみ〕であるともいう>。スガルは、「ためしてみましょう」と答え、三諸岳〔みもろのをか〕に登って大蛇を捕えて戻った。ところが天皇〔すめらみこと〕が身を清めていなかったため、大蛇は轟音〔ごうおん〕を鳴らして目を光らせた。天皇〔すめらみこと〕はびびり、目を合わせることもできず御殿の奥に隠れ、山に戻させた。そしてその名を改めて雷〔イカヅチ〕とした。
「御諸〔みもろ〕」は神霊の宿る山の意。大物主〔オホモノヌシ〕神は三輪山〔みわやま〕(桜井市)の神で、第10代崇神〔すじん〕天皇の時代からしばらくの間、大和〔やまと〕政権による祭祀の最大の対象であった。
 
                                           つづく
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by jumgon | 2010-10-26 16:57 |  ○三輪神社・大神神社
「大神神社」とは?
ずっと書きたかったけどなかなかまとめられないでいた「大神神社」(みわさん)について、じょじょに書いていこう。
あとで文を整理したり、訂正したり、別の考えが出てきたらその時また書き足していきたいと思う。
田中八郎氏の「大和誕生と神々」を主に参考にし、他の先生たちの書物の知識もとりいれ、自分なりにまとめたいと思う。
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さて先ずは公式HPから
三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山であります。古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。

高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川(はせがわ)、北は巻向川(まきむくがわ)の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ヘクタールとなっています。

山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています。


「田中八郎氏の「大和誕生と神々」には次のように記されている。

三輪山は神体山である、とする慣用句がガイドブックから考古学、歴史学の論文にいたるまで数々の記述に頻出するので、つい吟味せず資料視しするが初出は山崎闇斎(1618~82)のようだ。
彼は将軍家綱と綱吉治世の頃の儒学神道学者で、神儒一致説を唱えて垂加神道を創始した。
その中で三輪山の神体説を打ち出した。かれの大きな影響力もあって「三輪山神体説」が古代色も付け加わりながら浸透したとおもわれる。
現拝殿は寛文4年(1664)の再建で、将軍家綱の棟札があるので、山崎闇斎の影響が拝殿の方にまで及んだらしい。世を挙げて仏教一色のなかで、三輪山の役目をひきたてる必要から神体山説が意味をもったのだろうか。
山と神の話では、ヤマトトトヒモモソヒメと契った男がミムロ山に帰った神であった。という箸墓説話がある。

箸墓伝説 
大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

又、 『日本書紀』に記されている伝説で、第十四代雄略天皇がチイサコベノスガルに「三諸岳の神の形が見たい」と命じました。スガルは三諸岳に登って大蛇をとらえ、天皇に奉り、天皇は斎戒をせずにそれをご覧になりました。すると大蛇が雷のような音をたて、眼はギラギラと輝いたので、天皇は見ることができず眼を覆って殿中に隠れてしまわれ、大蛇をお山にお返ししました。これによって三諸岳は「雷の岳」と名を改めたといいます。

この二つの話によれば
①神の住所はミムロ山で、山が神だとは言っていない。
②王権予備軍がミムロの神を懐柔するためヤマトトトビモモソヒメを派遣したが失敗。(水銀の流通権益を譲らせる為)
③ミムロの神が王権予備軍と拮抗した大きな力を持っていたことを表わしている。


拝殿奥の三つ鳥居から山頂にかけて磐座(いわくら)とか磐境(いわさか)とよぶ祭祀用岩石群があって信仰の対象になっている。これは岩石信仰であって山そのものの祭祀ではない。
山の土そのものに霊力があるとされた「天の香具山」とはちがうのだ。

山そのものを祭祀して拝殿が造られたのは「大神神社」であって、ミムロ山を根拠地とした(ミムロ神)信仰ではない

◎ややこしいので平たくいうと、ミムロ地方の先住縄文人の頭領やその祖先神がミムロ神で、先住縄文人たちは山の磐座をミムロ神の依り代として祀った。鳥居も拝殿もなかった。
◎大和王権が承認した名前が「三輪」で王権が成立していない以前の時代、つまり縄文時代の三輪山とその神は「ミムロ」である。

ミムロ山は、砂金も鉄鉱石もベンガラも産出しない。大和地方の繁栄の原動力となった地下資源は、宇陀、都祁の辰砂であり、その流通を押さえていたミムロの住民が勢力をはっていた。そこに、王権予備軍がやってきて、辰砂の権益を横取りし鉄の農工具を使って農耕地を広げ、大和王権をたてようとした。そのとき先住民の激しい反撃を懐柔するために「先住民の神を大事にしてますよ」というポーズのため作ったのが「大神神社」(おおみわじんじゃ)である。

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ところで縄文時代の人は辰砂を見て、それから水銀が採れるとどうして知ったんだろう?
辰砂とは?
辰砂は単独の鉱物としてより、水銀を取り出す為の鉱石として名前が知られている。
水銀を取り出す方法は、とても簡単で、ただ熱すればいい。
熱すると辰砂は亜硫酸ガスと水銀に分離される。
また、古くは辰砂自体の赤い色を絵の具に使用していたらしく
英名はギリシャ語でそのまま
「kinnabaris=赤い絵の具」に由来する。

私たち現在人は本当に自然を知らない。(特に私は)
自分で火もおこせないし、糸も針も作れない。きっと縄文人たちは色んな植物、岩石などの知識を持っていたのだろう。
スイッチやボタンひとつで電気をつけたりガスでお湯をわかしたりしている現在人とは能力が違うのだろう。

さて、「大神神社」に話をもどします。
なんで、「大神神社」を「おおみわじんじゃ」と読むのだろうと不思議に思わないくらい、浸透してしまっている名前。
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」

                                                              つづく
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by jumgon | 2010-10-21 13:52 |  ○三輪神社・大神神社