古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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   遣唐使物語
736年(天平8年)に帰日した遣唐使船と共にやって来た外国人

今回は 
天平5年(733年)出発の第10回遣唐使について書きたいと思う。

天平5年(733年)出発
天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

天平5年(733年)に日本を出発、
天平5(733)年8月、遣唐使船、4船とも相次いで蘇州の岸に漂着、ついで東都洛陽にはいる。
◎漂着しただけで難破したわけではないので献納物は無事だったのでしょね?

天平6(734)年4月、多治比広成、洛陽に入る。
日本国使、絁400疋を唐の政府に献上。
(この年、阿倍仲麻呂36歳、吉備真備、ほかに僧玄昉が留学生として唐にあった。)
日本への帰路
天平6年10月(734/11月)
帰路、4つの船で同時に蘇州を出発したが、悪風が突然に起こり、4隻の船はお互いに見失った
◇第1船
大使広成、玄昉、吉備真備
天平6年11月20日(734/12/23)、多治比広成ら(第1船)が多祢島(種子島)に到着。
天平7年3月10日(735/04/11)、多治比広成らが、唐国から帰朝し、節刀を返上した。
天平7年3月25日(735/04/26)、遣唐使一行が天皇に拝謁する。

◇第2船
中臣名代(第2船)は、インドシナに漂着し(734年)、翌年洛陽に戻る。天平7年閏11月洛陽を発ち、帰国
天平8年8月23日(736/10/06)、遣唐使・副使中臣名代らが唐人3人、ペルシャ人1人を率いて帰国の挨拶のため天皇を拝謁した。
副使中臣名代、道璿、理鏡(日本人入唐留学生) 、婆羅門僧菩提僊那(39歳)、安南僧仏哲、皇甫東朝(こうほとうちょう)、袁普卿(えんしんきょう18歳)、ペルシャ人李密翳、景雲(日本人入唐留学生)


◇第3船
第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
平郡広成の乗った船115人は崑崙国(ベトナム。マレー、スマトラとも)に漂着した。賊兵に包囲され、捕虜となる。
殺されたり、逃亡したり、残ったものも90人余りが病気(マラリアか)にかかり死亡した。
広成ら4名だけが生き残り、崑崙王に謁見し、わずかな食料を与えられ、よくない場所にかこわれた。
中略
渤海が使いを派遣しようとしているのに出会ったのですぐその使節に同行して出発した。 渤海船は1隻が波にのまれて転覆し、大使・胥要徳(しょようとく)ら40人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽に到着した(天平11年7月13日)。
天平11年(739年)10月27日に帰国。

◇第4船難破して帰らず

以上が帰路についた4船の顛末である。
 
今回は第2船でやって来た、外国人について書く事にする。

第二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。
唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。
これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。
東大寺のHPより
天平8年8月、菩提僊那(ぼだいせんな 33歳)、仏哲、道璿(どうせん 35歳)ら難波津に着く、行基(69歳)らが迎える


さてこれら外国人たちはどこに住んでいたのだろう?

杉山 二郎 「天平のペルシア人」によると
「おそらく、大安寺、史書には記されていない商人や遊芸の徒たちもやってきたと思われる。それらの人たちは東市、西市辺りか大安寺ではないか、、、、もとより証拠はない。」

と記されている。
この時代はわたしの認識不足かも知れないが、想像以上に国際的な華やかな雰囲気をもっていたようだ。

正倉院に残る楽器や伎楽面、衣装,幟などから、東大寺の大仏開眼供養がその煌きの頂点だと想像できる。

さて前回訪問した「大安寺」に住んだ僧達

□菩提僊那(704~760)
菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊に会うためという説もある)。
唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、チャンパ国出身の僧仏哲・唐の僧道璿とともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。

◎インド呪術って密教的なものかしら?

751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。

□仏哲(ぶってつ)
仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。林邑国フエの出身。
インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。
唐開元年間(713年 - 741年)菩提僊那とともに唐に入り、当時日本から唐に入っていた僧理鏡らの招きにより、736年(天平8年)師の菩提僊那・唐の僧道璿とともに来日した。
大宰府を経て京に入り、奈良大安寺に住した。

「菩薩」・「抜頭」などといった舞や林邑楽(雅楽の楽種の一つ)を伝え、また多くの密教経典も請来したという。
大安寺では林邑楽などを楽人に教え、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養会の際も舞を伝授した。
◎大安寺で林邑楽を楽人に教えたのですって!!
 大安寺は国立音楽学校でもあったのですね

□道璿(どうせん、702年~ 760年)
中国唐代の僧。
入唐した僧栄叡(えいよう)・普照(ふしょう)の要請により、鑑真に先だち戒律を将来するために日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊(33才)・ベトナム出身の僧仏哲とともに来日する。

□袁晋卿
•?-?奈良時代の官吏。
天平(てんぴょう)8年(736)帰国の遣唐使にともなわれ、18-19歳で唐から来日。
音博士、大学頭、玄蕃頭などを歴任。
宝亀(ほうき)9年(778)清村(浄村)宿禰(すくね)の氏姓をあたえられた。

●真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。
◎この人は何処に住んでいたか史書に記録はない。

□皇甫東朝(こうほとうちょう)
皇甫東朝は、唐王朝の楽士としてその名が聞こえた存在だったのだろう。
その彼に海東の日本に行くことを誘ったのは、おそらく下道真備(後の吉備真備)だったと思われる。
真備は帰国するに当たって楽書として『楽書要録』十巻を将来したことが知られている。

当時の我が国には、大宝律令によって治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれていた。これは、技楽・唐楽・和楽の制度化した寮であり、中国に倣って師と生徒の数を決めて楽人を養成していた。

●下道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。

芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。

天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺の大仏開眼の法要が盛大に行われ、国風歌舞の五節舞、久米舞などと共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽などが盛大に演奏された。
楽人として来日した東朝たちもその式典に参加しただろうと推測される。

皇甫東朝の名が『続日本紀』に帰国記事以来、記されるのは天平神護2年(766)になってからである。
この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。
この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐楽を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。

皇甫東朝は称徳天皇に重用されたと思われ、翌年の神護景雲元年(767)3月20日の人事異動では、雅楽(うた)員外助に任じられ、合わせて花苑司正(かえんしのかみ、花卉や園地の業務を担当する長官)を兼任することになった。

また、上記のように西大寺は、天平宝字8年(764)9月に勃発した恵美押勝の乱の平定を祈願して、孝謙上皇が金銅四天王像の造立を発願したのが始まりとされる寺だが、この地にも皇甫東朝が足跡を残している。

花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。
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◎中国の絵画では「ぼたん」などがよく描かれている。美しいガーデンをつくったのかしら
□皇甫昇女(こうほしょうじょ)
東朝の娘とする説があるが、どうであろうか。東朝と一緒に皇甫昇女も従五位下に叙された点を考慮すると、年齢的に二人は夫婦であった可能性が強い。

□李密翳(りみつえい)
生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月、遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師、楽人、幻術師、商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが、倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して、官工房などに属し、技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)


□李元環(りげんかん)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-?奈良時代の官吏。
唐(とう)(中国)の人。清宗氏の祖。渡来は天平(てんぴょう)6年か。天平宝字7年(763)織部正(おりべのかみ)、8年出雲員外介(いずものいんがいのすけ)となる。正五位下。

□善意(ぜんい)
史書には記録はない。
三重県伊勢津市西来寺(せいらいじ)に国宝の大般若経がある。
大般若経(国宝)唐僧善意記天平年間ノ物 と書いてある。
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天平19年、唐僧 善意ノ跋アリ、と津市の国指定文化財の説明にかいてある。
このお経は「天平年間のものです」と奥書に書いてあったということか。
このお経は唐から来たものか、日本で書写されたものか~どこを経巡って三重県の西来寺にやってきたのだろうか?
西来寺で絵はがきになってたこともあるらしい。
(行ったことがないので今もあるか分かりません) 




 
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by jumgon | 2011-06-30 20:38 | ★言語、歴史