古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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大安寺(平城京)訪問記

東大寺大仏の開眼供養で勅命により大導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)が大安寺に住んでいたと、いう記事を読んだことがあり、大安寺というお寺のことを知りたくなった。今まで訪れたことはない。

大安寺は平城京にある寺院である。
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無料駐車場がある。

駐車場のすぐ傍に「推古天皇社」なるものがあった。
なぜこんな処に?
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『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿が描かれています。
 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです
 現在の社殿は明治9年の再建
 祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(推古天皇)

 
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あじさいの花が咲いていました。
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◎そうか、創建当時にも推古天皇を祀る社があったのでここに有志の人たちが推古天皇社を復興したのだ。

さて、現在の大安寺へ~
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大きな門です!
復元されていました!!
中を覗きます。
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境内は広そうです。

●中門跡の石碑・奥に見えるのはドイツからの記念樹の楠
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大安寺前貫主・河野清晃師は荒れ果てた大安寺の復興に尽力しますが、大戦で応召。帰山後も苦労を重ねます。
そういった中、若い人たちを国際的に目覚めさせようと、奈良日独文化友の会を創って、活動を始めました。昭和三十八年(1963年)には会を「奈良日独協会」と改称し大安寺を本部としました。
きっかけとなったのは清晃師が高野山大学時代に発表した論文「高野山根本大塔の研究」をベルリン大学教授で京都日独文化研究所主事であったF・M・トラウツ博士がドイツ語に翻訳、広く世界に紹介したことにありました。

記念樹の下にあるプレート
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後でネットで読んだのですが大安寺は秀吉時代の地震で堂塔全て壊滅したそうです。
今見る南門も何もなく、訪れても「ここにあったのか」と確認するだけでその痕跡を想像することもできません。
それをここまで復興するのは大変なことだったと思います。
大安寺の歴史については、改めて書く予定です。
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大きな楠、横に竹、ビワの実が成ってるのが見えます。

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12輪?搭・いつからあるか分からない。
特に説明はない。
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塔の台座です。

●いよいよ本堂です。明治時代に復元されたそうです。

正面じゃなくて横から撮っています。
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屋根のてっぺんにあるのは何と呼ぶのかな?
本堂の中を覗かせてもらいました
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◎この照明ペンダントのデザイン素敵ですね
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暑いので蔀戸を半分上げています。
○蔀戸(しとみど)
上下2枚に分かれ、下1枚を柱間(はしらま)に建て込み、上1枚だけを跳ねあげる半蔀(はじとみ)と上下に分かれず開口部いっぱいの大きさになる一枚蔀戸もあります。

●大安寺歴代住侶供養の五輪塔と石碑
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供養碑
当山は聖徳太子の熊凝精舎に発するわが国最初の官大寺である。
奈良朝の盛時には887名もの内外学侶が止宿居住し あたかも迎賓館兼仏教総合大学の観を呈した
わが国の文化はこれら学侶の学恩によること多大である
茲に供養の五輪塔一基を建立しその鴻恩に報い奉らんとするものである
                                    現住 良文

◎大安寺に住した主な僧侶については別に記事を書く予定です。
名前のわからない大きな木がありました。
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古くなると幹に縦の筋目が入る木・どこかで読んだおぼえがあるのですが、名前を思い出せません。葉は少し細長い。
◎クヌギかあべまき、のようだ。
クヌギとあべまきの区別はむつかしい。おまけにどんぐりまで似ている。

さて南門の横に大安寺旧境内の説明板がありました。

平城京の左京六条、七条の四坊に十五町(約8万坪)もの寺地を有していました。
伽藍中心部には金堂を中心に講堂や僧坊がならび、搭院には東西に二基の七重の塔がそびえていました。
塔が伽藍中心部の南に「搭院」として独立し、回廊壁画にまで仏画が描かれるなど、それまでの寺院にはない特徴がみられます。
現在も残る東西両搭跡の土壇が往時の壮大な伽藍を彷彿させます。

大安寺の南門をでる。大安寺の敷地はいまとは違ってもっと広かったと書いてあった。
ちょっと周りを歩いてみよう。
推古天皇社を右手に見ながら歩いていくと、御霊神社という鳥居がある。
境内地図に書いてある「竜王社」のようだ。
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御霊神社由緒記(神社看板)より
本神社は元石清水八幡宮と称す。(八幡神社)
大同2年8月17日、大安寺の僧、行教和尚が大安寺の鎮守社として筑紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の宣託により獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る。
而して遥に男山八幡岩清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神として、高オカミ、善女竜王命ニ柱の紙を祀られた。~

H12年12月吉日   大安寺町評議委員会

やっぱり水の神様だ。

さてもっと歩いていくと、
畑があったり民家が建ってたりする。
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あっ、何か遺跡っぽいものが、、、
道の左側は小学校。
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奥の突き当り,、、、、近づいてみると
「経楼跡」と書いてある。
そうか、勿論ここも境内だったのだ。
唐から持ち帰った多くの経典があったはずだ。

もうこの辺で引き返そう。
学校や民家が建っていては発掘調査もできないだろうし~

大安寺のこと何も知らなかった私は、奈良時代の壮大な寺院を発見しただけでもワクワクしています。
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by jumgon | 2011-06-29 21:24 | ○大安寺(奈良)
白鳥神社(しらとりじんじゃ)
(大阪府羽曳野市古市1-1 )

ネットで検索して、びっくりした!
なんと白鳥神社は全国にどっさりあるのだ!
東北から九州まで~。
ヤマトタケルは全国を平定して回ったと、記紀に記されているからあちこちにヤマトタケルを祀る神社があってもおかしくないかも、、、、。

さてともかく白鳥神社を訪ねてみよう。

古市駅から2,3分もいくと商店街の左手に鳥居がある。(行きしなには気付かなかった。)
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西琳寺を探すためにその道を通り過ぎ次の角で左に曲がる。
道の左手奥に鳥居が見える。
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一の鳥居です。
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入っていくと右手は小学校になっていて、学校の前にしめ縄をまいた木があった。
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(御神木につき周囲をきれいにしましょう)と書いてある。昔はここも境内だったのかしら?
二の鳥居から階段をあがると本殿です。
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本殿の前には大きな灯籠が一対ありますね。
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上の灯籠の裏側に
〈文政5年壬年8月〉
(石工 山田村 武兵衛)
と刻印がある。
文政5年(1822)に村の人たちが寄進したのかしら?
本殿左手にある灯籠には(油働中)の刻印
油関係の商人の組合・講?が寄進?
境内をお掃除していたおじさまに聞いたけど「油働中の意味はわからないけど寄進者の名前です」とのこと。

本殿のなかを覗かせてもらいました。
鏡があります。「伊岐宮」の額も、、、
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それと壁には奉納額絵がありました。
●奉納額絵
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菊水法憲会
「楠勢 渡邉橋畔に敵の病兵を救う」とある。

楠正成と白鳥神社は何の関係があるのかしら?

菊水法憲会って河内の英雄、楠正成を顕彰する会?
この額絵、何時からあるのかしら?
かなり新しそうです。

境内左には白長大明神(はくちょうだいみょうじん)と書かれた稲荷っぽい鳥居
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昭和50年3月の寄進者名碑がありました。

村社として生きている神社なのですね。
本殿の屋根の飾り?が不思議な感じがしたので写真をパチリ。意味があるのかないのか~
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さて、神社にある説明版を読んでみましょう。

歴史街道 白鳥神社
白鳥神社の社伝によると
寛永年間(1624~43)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷にあった「伊岐宮」を古市村の産土神として現在の地に移築したとあります。
伊岐宮には日本武尊が祀られていましたが南北朝や戦国時代の兵火によって焼失し、峯ケ塚古墳にある小さな祠として存在していました。
しかし、慶長の大地震(1596)で倒壊するとそのまま放置されたといわれていました。
享和元年(1801)の河内名所図絵には「伊岐宮、誉田の南、5町、古市村にあり、日本武尊の霊を祀って、白鳥神社と称す。

さて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。
南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。
天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。
明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている

この二つの解説をあわせると

次のようにわたしは解釈しました。
何時から軽里の西方の伊岐谷に「伊岐宮」があったかはわからない。それが白鳥陵とよばれていたかどうかもわからない。(いつから白鳥陵と呼ばれていたのだろうか?)
あれっ、現在地に移されたのが、「寛永年間(1624~43)末期」と「天明4年(1784年)」の二つになってますね。
享和元年(1801)の河内名所図絵には載っている。
ということだろうか?


いくつかのサイトにこんな記事がある。
その出典は書いていないが、伝承があるものと解釈している。
現在白鳥神社のあるところは、欽明天皇の賓陵(仮の墓)と伝えられている前方後円墳の後円部にあたるといわれていますが、前方部は近鉄古市駅や国道の造設のため、削られてなくなっているのだそうです。

古代の当地は河内文氏(王仁の子孫)の本拠であり、また百済系の古市村主の居住地であった。

祭神 日本武尊、素盞嗚命、稻田姫命 
     合 饒速日命、廣國押武金日命(欽明天皇)
明治四十一年高屋神社「饒速日命」を合祀、昭和二十九年高屋神社は再度独立したが、合祀した饒速日命、廣國押武金日命を合祭神としている。
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by jumgon | 2011-06-26 11:15 | ★言語、歴史

白鳥伝説と白鳥陵

白鳥伝説と白鳥陵

先日、羽曳野市古市にある西琳寺を訪れたが古市駅の東側すぐそばに白鳥神社がある。
駅を西へ進むと白鳥古墳もある。

いわゆる白鳥伝説と関係のあるところらしい。

先ず白鳥伝説について確認しよう。

白 鳥 伝 説 
 
日本武尊(ヤマトタケル)は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
 その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えています。
幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。

 体を横たえ、日本武尊は大和への思いを、
 『大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる大和し美し』
 と詠んでいます。

  能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、
琴弾原(御所市)
を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

 亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれ、日本武尊・白鳥伝説は今も息づいています。
(この三市で交流イベントなどやってるようだ。 羽曳野市では市民祭りで「タケル君音頭」によるダンスコンテストもある。)

 ◎ふーむ、白鳥が飛んでいった先にまでお墓を造るの?
   魂が降り立った場所だということで~。
  

 
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)
三重県亀山市にある前方後円墳である。
宮内庁により日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と治定され、日本武尊能褒野陵として管理されている。(今のところ宮内庁はこの古墳を日本武尊陵としているがほかの意見もある。)

能褒野神社
祭神  日本武尊 配祀 弟橘姫命
由緒  日本武尊はこの地で薨ぜられた。明治十六年、社号を能褒野神社として創立された。
◎えっ、明治十六年に創立?
お姿 能褒野王塚古墳の横に鎮座する。この古墳は前方後円墳であり、全長90mの大きいものである。
4世紀末頃の築造と考えられている。
 倭王権で言えば倭王武の時代、記紀で言えば雄略天皇の時代、多くの兵士が東国平定に赴いた時期であり、当地まで帰ってきて亡くなった兵士もいたのだろう。

琴弾原白鳥陵
(奈良県 御所市富田)

訪れた人の記事を読むと地元でも場所を知らない人が多いらしい。
日本武尊白鳥陵、と書かれている。周りは畑と田んぼ。田舎、である。
第六代考安天皇陵から南へ約1km。白鳥陵の東、数100mのところにある山の名前は「国見山」。
訪れる人は他にいない。
小山に向かって畑の中へと進むが、案内板はないのでどこまで進んでいいのかわからない。
たまたま、犬の散歩をしていたおじさんが教えてくれた。この人がいなかったら、拝所までたどりつけなかったかも。

2010年に行った方のブログには日本武尊琴弾原白鳥陵は民家に挟まれた細い道を進んで行きますが、案内板が設置されているので、迷うことはありませんでした。と書いてある。
そんなだからこれに付随する神社はないのかな~。


白鳥陵(大阪府羽曳野市古市)
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羽曳野市のHPを見ると
墳丘長190m、後円部の直径106mの前方後円墳、前方部の幅165mで、幅40〜80mの濠を持つ。日本武尊の陵墓との伝承がある。
と簡単な説明。
◎日本武尊の陵墓かどうかは分からないけど伝承はある、と言うことらしい。
 それにしても大きな古墳ですね。



◎白鳥陵も大きいけれど、応神天皇陵の大きさには改めてビックリ!

                                           つづく 白鳥神社
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by jumgon | 2011-06-24 23:45 | ★言語、歴史

野中寺(羽曳野市)

野中寺は渡来系氏族・船氏の氏寺?

前回、続日本紀 700文武4年からの引用した文中に、
道照は、河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連
とありました。

野中寺はその渡来氏族である船氏の氏寺という説がある。

今日は出かける用事があってその帰り道にある野中寺(やちゅうじ)を訪れることにした。

野中寺が見えてきました。
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野中寺の山門に着きました。
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◎「犬を散歩お断り」という立て札。
  そして仁王さんの柵には「猫を捨てないでください」なんて張り紙がある。
  そんなことする人がいるの?


○山門をはいると右手に金堂跡礎石がある
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そして参道をはさんで左側に「塔跡の土壇と礎石」がみえる
○塔の礎石
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真ん中にある、塔の心礎が変わった形をしている!
搭の心礎 手前に目が見える。足も見えるのだが、、、どうやら亀の顔みたいな線刻がある。

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搭跡のよこにピンク色の石棺が~
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解説版によると
○ヒチンジョ池西古墳の石棺だそうです。
  ヒチンジョ池西古墳とは野中寺の南西約1kmの所で1946年(昭和21)に発見された古墳で保存のため野中寺境内に移築されたという。

◎変わった名前ですね。今日は脱線しないで野中寺だけに絞ります。

○かっての講堂跡に建つ本堂
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野中寺は何度も火災にあっている。
南北朝の延元の戦い(野中寺合戦)では、伽藍は悉く灰塵に帰した。
◎そうか、今ある建物はすべて後世のものなのだ。礎石のみが創建当時のものらしい。
境域にはその頃の伽藍跡の土壇や礎石の列が残っていて、創建当時は東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式の伽藍配置だったことが判明している。
金堂跡や塔跡の他にも、中門跡・講堂跡・回廊跡にも多くの礎石が現在も存留しており、国の史跡指定を受けて保存されている。
江戸時代になって寛文年間に慈忍恵猛律師らによって再建されたが、享保年間に火災にあった。現在の方丈や勧学院はその後に再建されたものである。


さて、羽曳野市が作ったホームページを見てみよう(一部省略)

野中寺(やちゅうじ)

聖 徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ「中の太子」と呼ばれています。
創建当時は、野中寺独特の伽藍(がらん)配置で、竹内街道に面して南大門をおく大寺院でした。
現在では境内に、塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っており、国指定の史跡になっています。
方また、野中寺の東方に広がる野々上遺跡では、大型の建物群の跡が発見され、野中寺の造営や維持管理に携わった有力氏族が居住していたところと推定されています。
さらに同遺跡内には、当時の野中寺に使用されていた屋根瓦を焼いたとみられる下田池瓦窯跡(しもだいけかわらがまあと)も検出されています。
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寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。だが、考古学的知見では、境内出土の瓦から創建は7世紀後半とされている。


○渡来系氏族・船氏の氏寺?
 
正倉院文書によれば、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。
船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫である。
王辰爾は百済からの今来(いまき)の渡来人で、欽明天皇の時代に船賦を計録して船長に任じられ、船史姓を賜わった。
○欽明天皇(きんめいてんのう)、第29代天皇・(在位: 539年 12月30日~( 571年 4月15日)

王辰爾の名は、敏達天皇元年(572)にカラスの羽に書かれた高句麗からの国書を読み解いたことで有名である。
 船氏は、葛井(ふじい)氏や津氏と同族で、百済の第14代・近仇首王(きんくすおう)を共通の先祖ととしており、渡来した後もお互いに近くに居住していた。
葛井氏は今の藤井寺、津氏はその西1.2キロの大津神社付近を本拠地としていた。野中寺はこれらの二地点から南1.3キロに位置する。

地図に野中寺、藤井寺、大津神社がみえますね。


【所在】大阪府羽曳野市野々上5-9-24
【宗派】真言宗
【山号】青龍山
【本尊】薬師如来坐像
【開基】蘇我馬子
【アクセス】近鉄南大阪線「藤井寺」駅より羽曳が丘方面行き近鉄バスで約5分。「野々上」バス停下車、すぐ。


船氏、藤井氏、津氏 関係の系図
これは「金達寿」の書物からいただきました
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by jumgon | 2011-06-08 23:59 | ○野中寺(羽曳野市)
記紀に「一言主の神の話」がのってる、葛城一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)

何度か訪問してるけどいつも雰囲気を味わって散歩するだけだった。
今回はじっくり境内を見てみよう。
駐車場に車をおく。
社殿にいたる階段の手前にくると、亀石と書かれた小さな木札がみえる。
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どれが亀石かわからない。
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亀石
「亀石」といえば、飛鳥の「亀石」を思い浮かべます、ここにも「亀石」が~
 その昔、役の行者が災いをもたらす黒蛇を封じるために乗せた石がこの亀石だという伝えがあるそうです。
◎この亀石は役の行者の時代からあるの?

鳥居から階段がある。
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それほど長い階段ではないが、やはり神様は高いところにいるのがいい。

境内はそれほど広くない。

あがるとすぐに本殿
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本殿の横にはこんな像がある。
至福の像とかいてある。後ろの立て札にはボケよけ数えうたが書かれている。微笑ましい感じ!
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蜘蛛塚がある筈だけど~
木に隠れて見つけにくい。
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土蜘蛛というのは、古代に大和朝廷に従わなかったその地の首長や集団をさす蔑称だと言われています。
古代にこの地で、戦いがあったのでしょう。蜘蛛塚は土蜘蛛と呼ばれた人々の供養のために一言主神社の拝殿の脇にひっそりとあります。

さてwikiを見てみましょう

●祭神
祭神は一言主大神であり、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)を合祀している。これは『古事記』や『日本書紀』にあるように雄略天皇が顕現した一言主神と邂逅したためである。
また、託宣神としての神格の類似性から一言主神と事代主命を同一視するような記述も表れた。
さらには近隣に出自を持つ賀茂氏に信仰された味耜高彦根命もその分身として混同されるようになった。

●歴史
神社鎮座地は前述の話における一言主神が顕現した地とされている。また、裏山である神山こそが顕現の地「カミタチ」であると伝わる。
神社一帯は葛城氏の本拠地で、綏靖天皇の皇居(高丘宮)があったという伝承が残る。
延喜式神名帳には葛木坐一言主神社と記載され、名神大社に列せられている。嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従二位と神階が進められていった。

●御神木は樹齢1200年というイチョウの古木(乳銀杏)で、本殿の南側にある。
県下最大の銀杏の御神木「乳銀杏」
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 本殿の前に立ち、樹高24m、幹周り4.3mの大イチョウは、子供を宿した母の姿に似て木の膨らみが妊婦の様に見え、垂れ下がった乳房からは今にも乳白色の滴が垂れそうなので「乳銀杏(ちちいちょう)」または「宿り木」とも呼ばれ、推定樹齢1200年の巨樹です。
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古木にしか発生しない「乳房」は、樹皮のコルク質が発達し表面が柔らかくなって出来た物ですが、これは巨樹の表面積を広げ、内と外の空気を交換する「気根」の働きを良くするラジエーターの役目を果たしています。
婦人が祈ると、健康な子が授かり、お乳の出が良くなるそうで、古くから子供を思う親の願いが込められ、地元の人々の信仰を集めています
●境内社
一言稲荷神社 への道
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境内社は本殿の北側にある。
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一番手前が「神功皇后社」と「八幡社」

日本書紀』雄略天皇の段に載っているお話。
(雄略)四年の春二月、天皇は葛城山で狩りをした。突然、背の高い人に出合った。顔や姿が天皇によく似ていた。
天皇は「神に違いない」と考えたが、「どこのものか」と尋ねた。背の高い人は、「私は姿を表した神である。
お前から先に名のれ。その後私が名のろう。」と答えた。
天皇は「わたしは幼武尊(ワカタケルミコト)である。」と名のると、背の高い人は「私は、一言主神である」と名のった。ともに猟を楽しみ、一匹の鹿を追って弓を放つことも互いに譲りあった。日が暮れて猟を終え、神は、天皇を来目河(くめがわ)まで送った。

『古事記』にも同じようなエピソードが載っているが、部分的に若干ニュアンスが異なる。例えば、雄略天皇は一言主神を見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、吾以外に王はないはず」と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況となった。
そこで、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」と答えた。
「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。
しかし、これを聞いた天皇は「あな恐(おそろ)し、我が大神」と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じると、一言主神は手を打って喜び、それを受け取った、とある。
まるで、山賊に出会って丸剥ぎにされたような記述だが、一言主神の威厳に満ちた態度は、『日本書紀』と同じである。
雄略天皇と言えば、古代史にひとつの画期を成した天皇だ。猛々しい英雄として「記紀」にも描かれ、熊本の江田船山古墳、埼玉の稲荷山古墳から出土した刀剣に「ワカタケル大王」の文字があった事から、日本統一がなったのはこの天皇の御代の頃とする説もあるほどだ。
それほどの天皇を恐れさせ、衣服まで献上させるとはこの「一言主神」というのは一体どういう存在だったのだろう。
葛城に、古代何か大きな勢力があった事を想起させる。


前回、役小角でこんな伝承を紹介した。

役行者がある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。
しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。
すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

記紀の記述とは程遠い、人間臭く威厳のない神様ですね。
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by jumgon | 2011-05-26 19:10 | ○葛城一言主神社
高鴨神社(たかかもじんじゃ)へ以前から行ってみたいと思いつつ、やっとこの秋に行ってきました。
葛城の道というハイキングコースがありますが、一言主神社を経て歩いていくのは、かなり距離があります。(わたしにとってですが、、、、)
私は車で行きました。正解です。車でも20分以上かかりました。

以前一言主神社へ来た時はあまり天気がよくなくて、「葛城の道」と言えば少し暗いイメージがありました。でも今回は晴れて、稲刈直前の季節でのどけさに包まれるような、道でした。
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山ふところに抱かれた実り豊かな農村風景です。
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やっと高鴨神社ちかくにきたようです。
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「歴史文化棺」というのが高鴨神社のすぐそばにあり、その前が車3,4台停められるようになっています。
大きな木があって、いかにも古い歴史を感じさせる雰囲気です。
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この一の鳥居の左側に「歴史資料館は」あります。
少し入ると、お祓い用の祓え串があります。
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そして清めの水で手を洗います。
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前に池があります。
本殿への道・二の鳥居のそばに背の高い杉の木が立っています。
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階段を登ると本殿です。

高鴨神社の説明版
高鴨神社
御祭神
   阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)
   下照比売命
   天稚彦命

由緒
本社は古代豪族の鴨族が発祥の地に奉斎した神社である。
鴨一族は全国各地に移住して、郡名、郷名に加茂の名を伝え多数の加茂社を祀ったが、本社はそれらの総社に当り、名神大社である。
神話においては国譲りに際し御祭神の三柱ともに御活躍され、また神武天皇の大和平定もヤタガラスとして武勲をたてられた御神徳高き神にてまします。
御本殿は極彩色の彫刻をもつ室町時代の建築で、県下の神社建築の中でもっともすぐれ、国の重要文化財に指定されている。

◎えっ、じゃあ「ヤタガラス」は鴨族なの?

神社のHPから
神社の後由緒
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。
また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。
そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。

三つの鴨神社の位置を確認しましょう。(秋津遺跡の大体の位置も入れました。)
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だんだん鴨族が広がっていたのですね!

( このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。

 『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました


WIKIで調べたら
神武天皇
      妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売) - 阿多小椅君の妹
      皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女

綏靖天皇(すいぜい-てんのう)
      妻:五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと) 
      ※一説には川派媛(かわまたひめ)または糸織媛(いとおりひめ)

安寧天皇
      皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと。鴨王の女、あるいは天日方奇日方命の女か。      『古事記』では河俣毘売の兄である師木県主波延の娘 阿久斗比売)


◎安寧天皇の皇后は鴨王の娘?とあるが他の天皇はどうなの?たくさん妃がいたから載ってないのかしら?


葛城王朝説について
鳥越憲三郎が唱えた説で、実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。
河内王朝(百舌鳥・古市古墳群のある辺り)は瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。
仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。
こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。

 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。

こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。
高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。

さて本殿の方へ行きましょう。
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 現在の御本殿は室町時代の三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されています。

摂社
   東神社(天児屋根命・天照大御神・住吉三前大神)
   神社(主祭神 多紀理毘売命、配祀 天御勝姫命・塩冶彦命・瀧津彦命)
末社
   八幡神社・一言主神社・猿田彦神社・金刀比羅神社・聖神社・稻荷神社・松尾神社
   細井神社・大山神社・春日神社・雷社・市杵島神社・八坂神社・西佐味神社
   祓戸神社・牛瀧神社・佐味護國神社
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境内に末社がイッパイあります。最近再築されたものらしく、木の匂いが漂ってくるようでした。
今もたくさんの人々に崇敬されているのですね。
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by jumgon | 2010-12-02 20:27 | ★葛城

宇陀の阿紀神社

アマテラスを祀った・阿紀神社

大宇陀町には古事記に出てくる場所がたくさんある。
○阿紀神社
○阿紀野・人麻呂公園
○万葉公園(かぎろひの丘)
の三ヶ所がごく近くにある。

先ず、アキ神社を訪れよう。

いかにも村の古社という雰囲気の場所だ。
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鳥居横にに石柱がある。
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石柱を読むと「式内郷社・阿紀神社」 「奈良県宇陀郡神戸村大字迫間 吾城野・神戸鎮座 明治32年8月」とある。
 明治時代にはこのの地名だったのですね。
祭神
天照皇大神
合祀 天手力男命、秋姫命、八意思兼命

阿紀神社の鳥居の脇に、この神社の由来を書いた説明板が立っている。それによると
古文書がこの神社に残っていて、当社が天照大神を祀る所以を次のように記しているという。すなわち、神武天皇が紀州熊野の難所を越えて宇陀の地まで進軍してきたとき、この地で御祖の神(=天照大神)を祭って大和の方へ押し出すと、日神の威勢に背中を後押しされて賊軍を打ち払うことができた。そのため、この地に天照大神を祭祀するようになった、というのである。
 確かにこの神社の社殿は神明造り南向きであり、伊勢神宮正殿とまったく同じ建て方になっている。板塀に囲われているので、詳しくは分からないが、建物全体が直線的である。屋根を見ると、長く突き出た破風板(はぶいた)が左右に交わり、その先端が千木(ちぎ)になっている。棟の上に甲板(こういた)を付け、その上に堅魚木(かつおぎ)が列べてある。

伝承は伝承として、神武天皇の頃はまだ、当地に天照大神は祀られていない。
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上の写真は本殿。扉には鍵がかかっていた。

『日本書紀』は別の話を載せている。第11代・垂仁天皇の時代のことである。それまで豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和の笠縫村で祀っていた天照大神を、倭姫命(やまとひめのみこと)に託して別の場所に祀ることになった。
◎大和の笠縫村で祀っていたというのは、桧原神社のことだと言われています。
<三輪山の話 ② しめ縄と三つ鳥居>をごらん下さい。


天照皇大神の放浪

創祀については、倭姫命の神幸伝承に求める説がある。「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世紀」によると、倭姫命が天照皇大神の御霊を奉じて、大和の美和の御諸宮から宇太の阿貴宮、佐々並多宮、伊賀の穴穂宮、阿閇拓殖宮、近江の坂田宮、美濃の伊久良賀波の宮、伊勢の桑名野代官、鈴鹿小山宮、壱志藤方片樋宮、飯野高宮、多気佐々牟迤宮、磯宮、宇治家田上宮等から五十鈴川上に斎き祀ったという。

◎天照皇大神が色々な場所を転々としてたなんて知らなかった。待遇が悪かったから移っていったのかな?
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最終的には伊勢の五十鈴川上に今も大切に斎き祀られているのですが、、、、。
どういう理由だったのか気になる。天照皇大神の放浪については機会があったら、調べてみたいと思う。

社務所は閉じられていて、普段は無人のようだ。旧神戸村と言うのは多分そんなに戸数は多くないようだ。
今では何か村の行事がある時だけ祭礼があるのだろう。
境内はそんなに広くない。
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阿紀神社の境内中央には、古びた能舞台が据えられている。
宇陀の地は元和年間(1615~1623)に織田藩の治所となり、その三代目の当主・織田長頼の頃に阿紀神社で能楽が奉納された。それを起源として、この能舞台では、寛文年間(1661~1673)から大正時代まで能楽興業が行われてきた。
 大宇陀町は平成4年に薪能をこの神社で再開し、平成7年からは「あきの蛍能」として6月中旬に能楽を開催している。能の最中に明かりをおとし、蛍が闇に放たれて幻想的な世界を演出するという。神社の前に位置する「かぎろひの丘」の麓を流れる水路は蛍水路と呼ばれ、蛍が育てられている。

能舞台
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「あきの蛍能」、、、、、想像するだけでも幻想的ですね。でも夜にここに来るのはちょっと遠いからムリかな?
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by jumgon | 2010-11-08 23:27 | ★宇陀

宇太水分神社を訪ねる

田中八郎「大和誕生と水銀」を読むまで私は「宇太水分神社」の存在を知らなかった。

宇陀には何度か訪れたことがあったが、今日は「宇太水分神社」を訪れることにしよう。

その前に、田中八郎「大和誕生と水銀」より
水分神社とは
水分神社は「水を生み水を配分する神様を祭る神社」という通説がある。
大抵の人は字面をみてそう思うし、神社縁起なんかにもそう書いてある。
が、そうではない。。
水分とは「鉱石を冶金すること」を指す。
水分神、それは特定の時期に一斉に現れて、天之水分・国之水分という職掌名はあっても固体の神名は封じられた神でした。
水分神は地元の縄文神だったものが、大和王権が新規開発した水銀や銅などの金属生産の現場担当になったものだ。
その論拠は長く細かくなるので、省略する。

大阪から宇陀へ車でいっても遠い。斑鳩や飛鳥・奈良からまだ30分以上走らないと着かない。
弥生時代の人は三輪山麓から宇陀までどうして行ったんだろう?歩いて?小船を利用して?
以前2~3回来たことがある、が。榛原から右折する道が狭いので来るたびに通り過ぎてしまって、今日も又Uターンして右折する道を探すハメになった。
でも車が混んでないので、遠くの山並みと美しい緑を楽しみながら、どうにか大宇陀のメイン観光地?である、「くすりの館」や「森野薬草園」あたりに着いた。

(地図で水色のアイコンのところは「御破裂山」、中の大兄の皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒す密談をした処と伝えられている。)

が、今日の第一の目的は「宇太水分神社」だ。
道の駅でおりて、ゆっくりマップをみる。
大宇陀町から菟田野町古市場へ行く道は「もしかしてかなり狭い道?」かと心配したが、そうでもなかった。
よく考えれば「古市場」という地名だ。むかし市場があって栄えた所なのだ。
大宇陀から菟田野町へ向かう道には「毛皮・レザー用品」の会社や商店がたくさんある。畜産加工業が盛んなところらしい。
そして、やっと着きました。!
道の両側には商店や民家のある道沿いにありますが、いかにも古いたたずまいです。
大和のおく深くにある国宝の社殿を有する「宇水分神社」、宇水分神社、ではありません。

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いかにも古い狛犬がいます。刻印を読むと「嘉永7年甲寅9月」とあります。
嘉永7年といえば1854年(56年前)、江戸末期、「安政」の直前です。
境内に薬の井(御神水)があります。 
  推古天皇が莵田野に薬狩りをされた時、この井泉で心身を清められたとの伝えから、この水を田にいれると稲が豊かに稔ると言われている。
頼朝杉 
  樹齢400年の杉は二代目の頼朝杉と言われ、初代は頼朝が杉苗を植えたとの伝えである。
境内には大きな「頼朝杉など古い大きな杉がたくさんあります。

まず、HPから
宇太水分神社の歴史
●第十代崇神天皇7年2月(古事記の注釈によると紀元前90年ごろ)  
     崇神天皇の勅命により祀られたと伝えられている。

●大和朝廷が飛鳥に置かれた頃
    大和の国の東西南北(宇太、葛城、吉野、都祁)に水分神社が祀られた

●推古天皇19年(西暦610年)   
    推古天皇が菟田野に薬狩りをされた際、薬の井で身を清められ たとされる

◇平城京遷都 西暦710年

●大同元年(西暦806年)        神封一戸が奉られる。

◇平安京遷都 西暦794年 

●延長5年(西暦927年)      
     大和四水分が大社に列せられ、祈年祭、新嘗祭、月次祭の案上官幣に預かる。

●平安時代末期(年代不詳)    
     源頼朝、幼少時に当社に詣でて、大将軍になれるかどうかを占うために杉を植えさせたとされる。

元応2年(西暦1320年)    
     本殿の三棟が建設される。(現 国宝)、棟木銘により判明

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こんな大和の奥深くに華麗な神殿があったなんて、、、、。
御祭神は
第一殿     天水分神 (あめのみくまりのかみ)・王権の神
第二殿     速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
第三殿     国水分神 (くにのみくまりのかみ) ・縄文先住民の神

•本殿3棟
(同形の3棟が並ぶ。第一殿の棟木に元応2年(1320年)の墨書があり、他の2棟も同時の建立と推定される。3棟とも春日造で、隅木入春日造で建立年代の明らかなものとしては最古のものである。 )

摂社・末社がたくさんある。それぞれ丹塗りの華やかな社だ。
摂社
春日神社    天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
宗像神社    市杵島比売命(いちきしまひめのみこと) 
末社
恵比須神社   蛭子之大神(ひるこのおおかみ)
金刀比羅神社  大物主命(おおものぬしのみこと)

鳥居からでて帰ろうとすると「あれ!向こうに一の鳥居らしきものがある。」
行って見よう。
一の鳥居から
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道を挟んで川がながれている。
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土地のおじさんに聞いたら「ほうのがわ」とのこと。「どんな字ですか?」「芳野川ですよ」
ついでに気になってた、下水のフタの模様のことをきいた。
「あれは、鳥、、めじろだったかな?それと紫陽花と杉の木をデザインしたものです」とのこと。
わたしは、もしかしてこの鳥、ヤタガラスかな?と思ったんですけど、、、、
足は3本なかったけど~
何でも地元の人に尋ねることだ、とおもった。
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by jumgon | 2010-11-06 20:42 | ★宇陀

辛國神社 ①

「大阪みどりの百選」に選ばれた辛國神社
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家から駅へ向かうとき、藤井寺南門に向かう道を通ります。
藤本酒造の白壁塀は最近補修して美しくなり趣のある道だ。葛井寺につき当るので左へ行くとすぐ辛國神社です。
藤井寺市藤井寺に鎮座する「辛国神社」
葛井寺の西に対をなすように鎮座している。
旧郡村字名 丹南郡岡村字春日山
神社専用駐車場 無し
延喜式内社
東向き

神社のその深い緑が日常生活にうるおいを与えてくれています。
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今日はじっくりと境内をみてみましょう。
御神燈の上がっている入り口の3段くらいの階段をのぼってすぐに、鳥居の基壇らしきものが左右に一対ありました。多分昔の鳥居はここに立っていたのでしょう。
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5~6メートルほど進むと木製の鳥居があります。
ここの鳥居は足の両横に足がそれぞれ付いていて、立派です。台風なんかで被害にあわないようにこうしたのかな?と思っていました。
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柱が一部補修されていてその部分は新しい木の色をしています。よく見ると今の鳥居の少し横に丸い石の基壇みたいなのがあります。
多分この鳥居がたてられる前は、石製かそれとも基壇だけ石製だったのか?
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木漏れ日がなんともいえず心地よい。
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10~15mほど進むと、やや小さめの石の鳥居がある。
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二ノ鳥居はもと葛井寺の境内に鎮座していた「長野神社」の鳥居
明治41年辛国神社に合祀された。
「元禄十七年、牛頭天王」の銘が彫られている。(これは延喜式内社を見て歩いた人のホームページに書いてあった。
でも私が今日見た鳥居の足には「長野神社 明治27年9月再建」もう一方の足には「長野神社」と彫られていた。???
どうなってるの?
まさか「延喜式内社を見て歩いた人のホームページ」を明治27年以前に作成したっていうの?それだったら、
「元禄十七年、牛頭天王」の銘を見たかもしれないけど、、、、、、。
(宮司さんにきけばはっきりわかるとはおもうけど、、、)

神社というのは参道が大事だとつくづく思う。

たいして大きな神社でないのに、奥行きを感じさせる社だ。

参道を進むうちに、敬虔な気持ちを盛り上げてくれる。

進むうちに、「御由緒」を書いた立て札がある。
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御由緒
当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。
日本書記には「雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とありますが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われます。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになりました
三代実録には、清和天皇「貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る」とあります。
元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われます。
室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられています。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っています。


御祭神
主神 饒速日命(にぎはやひのみこと・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神)  
    天児屋根命(あめのこやねのみこと・藤原氏の祖神)
    素盞鳴命(すさのおのみこと)・・・天照大神の弟神
相殿 品陀別命(ほんだわけのみこと)
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
末社
    春日稲荷神社(宇迦之御魂大神)
    春日天満宮
物部目大連の祖神は「ニギハヤヒ」です。
長野神社について
祈年祭に鍬が加えられた古社で格式があった。
「もと葛井寺の南西隅に在ったが明治41年、辛国神社へ合祀された。
祭神は、素戔鳴命
葛井氏は5世紀頃百済から渡来した百済十六代辰斯王の王子辰孫王の後裔で、長野連も同じ系譜の氏族と考えられている。
この辺りは志紀郡長野郷と呼ばれたので、氏族名と地名から長野神社と称し、長野連の祖を祀ったものであろう。」
辛国神社が゙在る地名が変わっていってる。
餌香長野邑→河内国志紀郡→たびたびの市町村合併の後→藤井寺市藤井寺1丁目
地名の事はまた他の機会に詳細に調べよう。

いよいよ拝殿です。
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そして、拝殿右横を裏手に進むと本殿が木間からみえる。
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鰹木のあがった立派な社です。
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by jumgon | 2010-10-12 22:00 | ★寺院・神社

志貴県主神社


先日、国府遺跡を訪ねたが、そこから5分も歩かない所に鎮座する志貴県主神社
がある。
その辺りは古い家がまだたくさん残っており農村地帯だったと思われるが、今は畑はすこし残っているだけで、新しい住宅が今も次々建てられている。
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もうすぐ、秋祭りと言うことで御神燈があがっている。

祭  神:神八井耳命 天照大神 天児根屋命 比咩大神 武甕槌命 
       経津主命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后

  
説  明:境内案内板によりますと、
      「この神社は、河内古市から国府に至る南北約五キロに亘って連
       なる洪積層の国府古市台地の北端に鎮座する、延喜式内社(延
       喜式に記されている古社)である。
       祭神は神武天皇の長子と伝えられる、神八井耳命。綏靖天皇の
       兄に当る。

       主神として天照大神。春日大神の武甕槌命・天児屋根命・比咩
       大神・経津主命。
       表筒男命・中筒男命・底筒男命のいわゆる住吉三神と神功皇后
       の各神を合祀されている。河内では最も由緒ある神社である。


       
大和時代初期のころ柏原附近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は大和朝廷直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武天皇の長子、神八井耳命を始祖と奉る志貴県主及びその同族である志貴首らであった。
これらの豪族の本拠地に祖神を祀り氏神として創建されたのがこの神社であったと考えられる。
       
三代実録の、清和天皇の貞観四年(西暦862年)二月の記録によると、「河内国志紀郡人、外従五位下、行木工助(木工寮の次官)兼右 大臣(藤原基経)家令支配人、志貴県主福依ら三人、姓として宿祢を賜い、即ち本居(本籍地)を改め左京職(平安京の左京)に隷す。
志貴県主は神八井耳命の後(子孫)多朝臣と同じ祖なり。」
という内容が記されており、平安初期の862年二月に本籍を
志貴郡から平安京の左京郡者に移したことが判るのである。
「その後、村上天皇の天暦年間(950年ごろ)諸国の所経費を節減するために設けられた惣社の制により、各国々の国府(国を治める役所)から最寄の有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一ヶ所に集めて祭祀されることになった為、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称されることになり、近隣の集落を惣社と称するようになった」

とあります。
  住  所:藤井寺市惣社1-6-23
  *惣社は総社と同じ。
志貴県主は「古事記」雄略天皇に<志幾の大県主の家>の段にも登場する。
つぎの機会にそのお話しを、勉強したいと思います。
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by jumgon | 2010-10-03 20:31 | ★寺院・神社