古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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   遣唐使物語
736年(天平8年)に帰日した遣唐使船と共にやって来た外国人

今回は 
天平5年(733年)出発の第10回遣唐使について書きたいと思う。

天平5年(733年)出発
天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

天平5年(733年)に日本を出発、
天平5(733)年8月、遣唐使船、4船とも相次いで蘇州の岸に漂着、ついで東都洛陽にはいる。
◎漂着しただけで難破したわけではないので献納物は無事だったのでしょね?

天平6(734)年4月、多治比広成、洛陽に入る。
日本国使、絁400疋を唐の政府に献上。
(この年、阿倍仲麻呂36歳、吉備真備、ほかに僧玄昉が留学生として唐にあった。)
日本への帰路
天平6年10月(734/11月)
帰路、4つの船で同時に蘇州を出発したが、悪風が突然に起こり、4隻の船はお互いに見失った
◇第1船
大使広成、玄昉、吉備真備
天平6年11月20日(734/12/23)、多治比広成ら(第1船)が多祢島(種子島)に到着。
天平7年3月10日(735/04/11)、多治比広成らが、唐国から帰朝し、節刀を返上した。
天平7年3月25日(735/04/26)、遣唐使一行が天皇に拝謁する。

◇第2船
中臣名代(第2船)は、インドシナに漂着し(734年)、翌年洛陽に戻る。天平7年閏11月洛陽を発ち、帰国
天平8年8月23日(736/10/06)、遣唐使・副使中臣名代らが唐人3人、ペルシャ人1人を率いて帰国の挨拶のため天皇を拝謁した。
副使中臣名代、道璿、理鏡(日本人入唐留学生) 、婆羅門僧菩提僊那(39歳)、安南僧仏哲、皇甫東朝(こうほとうちょう)、袁普卿(えんしんきょう18歳)、ペルシャ人李密翳、景雲(日本人入唐留学生)


◇第3船
第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
平郡広成の乗った船115人は崑崙国(ベトナム。マレー、スマトラとも)に漂着した。賊兵に包囲され、捕虜となる。
殺されたり、逃亡したり、残ったものも90人余りが病気(マラリアか)にかかり死亡した。
広成ら4名だけが生き残り、崑崙王に謁見し、わずかな食料を与えられ、よくない場所にかこわれた。
中略
渤海が使いを派遣しようとしているのに出会ったのですぐその使節に同行して出発した。 渤海船は1隻が波にのまれて転覆し、大使・胥要徳(しょようとく)ら40人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽に到着した(天平11年7月13日)。
天平11年(739年)10月27日に帰国。

◇第4船難破して帰らず

以上が帰路についた4船の顛末である。
 
今回は第2船でやって来た、外国人について書く事にする。

第二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。
唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。
これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。
東大寺のHPより
天平8年8月、菩提僊那(ぼだいせんな 33歳)、仏哲、道璿(どうせん 35歳)ら難波津に着く、行基(69歳)らが迎える


さてこれら外国人たちはどこに住んでいたのだろう?

杉山 二郎 「天平のペルシア人」によると
「おそらく、大安寺、史書には記されていない商人や遊芸の徒たちもやってきたと思われる。それらの人たちは東市、西市辺りか大安寺ではないか、、、、もとより証拠はない。」

と記されている。
この時代はわたしの認識不足かも知れないが、想像以上に国際的な華やかな雰囲気をもっていたようだ。

正倉院に残る楽器や伎楽面、衣装,幟などから、東大寺の大仏開眼供養がその煌きの頂点だと想像できる。

さて前回訪問した「大安寺」に住んだ僧達

□菩提僊那(704~760)
菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊に会うためという説もある)。
唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、チャンパ国出身の僧仏哲・唐の僧道璿とともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。

◎インド呪術って密教的なものかしら?

751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。

□仏哲(ぶってつ)
仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。林邑国フエの出身。
インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。
唐開元年間(713年 - 741年)菩提僊那とともに唐に入り、当時日本から唐に入っていた僧理鏡らの招きにより、736年(天平8年)師の菩提僊那・唐の僧道璿とともに来日した。
大宰府を経て京に入り、奈良大安寺に住した。

「菩薩」・「抜頭」などといった舞や林邑楽(雅楽の楽種の一つ)を伝え、また多くの密教経典も請来したという。
大安寺では林邑楽などを楽人に教え、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養会の際も舞を伝授した。
◎大安寺で林邑楽を楽人に教えたのですって!!
 大安寺は国立音楽学校でもあったのですね

□道璿(どうせん、702年~ 760年)
中国唐代の僧。
入唐した僧栄叡(えいよう)・普照(ふしょう)の要請により、鑑真に先だち戒律を将来するために日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊(33才)・ベトナム出身の僧仏哲とともに来日する。

□袁晋卿
•?-?奈良時代の官吏。
天平(てんぴょう)8年(736)帰国の遣唐使にともなわれ、18-19歳で唐から来日。
音博士、大学頭、玄蕃頭などを歴任。
宝亀(ほうき)9年(778)清村(浄村)宿禰(すくね)の氏姓をあたえられた。

●真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。
◎この人は何処に住んでいたか史書に記録はない。

□皇甫東朝(こうほとうちょう)
皇甫東朝は、唐王朝の楽士としてその名が聞こえた存在だったのだろう。
その彼に海東の日本に行くことを誘ったのは、おそらく下道真備(後の吉備真備)だったと思われる。
真備は帰国するに当たって楽書として『楽書要録』十巻を将来したことが知られている。

当時の我が国には、大宝律令によって治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれていた。これは、技楽・唐楽・和楽の制度化した寮であり、中国に倣って師と生徒の数を決めて楽人を養成していた。

●下道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。

芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。

天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺の大仏開眼の法要が盛大に行われ、国風歌舞の五節舞、久米舞などと共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽などが盛大に演奏された。
楽人として来日した東朝たちもその式典に参加しただろうと推測される。

皇甫東朝の名が『続日本紀』に帰国記事以来、記されるのは天平神護2年(766)になってからである。
この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。
この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐楽を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。

皇甫東朝は称徳天皇に重用されたと思われ、翌年の神護景雲元年(767)3月20日の人事異動では、雅楽(うた)員外助に任じられ、合わせて花苑司正(かえんしのかみ、花卉や園地の業務を担当する長官)を兼任することになった。

また、上記のように西大寺は、天平宝字8年(764)9月に勃発した恵美押勝の乱の平定を祈願して、孝謙上皇が金銅四天王像の造立を発願したのが始まりとされる寺だが、この地にも皇甫東朝が足跡を残している。

花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。
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◎中国の絵画では「ぼたん」などがよく描かれている。美しいガーデンをつくったのかしら
□皇甫昇女(こうほしょうじょ)
東朝の娘とする説があるが、どうであろうか。東朝と一緒に皇甫昇女も従五位下に叙された点を考慮すると、年齢的に二人は夫婦であった可能性が強い。

□李密翳(りみつえい)
生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月、遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師、楽人、幻術師、商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが、倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して、官工房などに属し、技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)


□李元環(りげんかん)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-?奈良時代の官吏。
唐(とう)(中国)の人。清宗氏の祖。渡来は天平(てんぴょう)6年か。天平宝字7年(763)織部正(おりべのかみ)、8年出雲員外介(いずものいんがいのすけ)となる。正五位下。

□善意(ぜんい)
史書には記録はない。
三重県伊勢津市西来寺(せいらいじ)に国宝の大般若経がある。
大般若経(国宝)唐僧善意記天平年間ノ物 と書いてある。
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天平19年、唐僧 善意ノ跋アリ、と津市の国指定文化財の説明にかいてある。
このお経は「天平年間のものです」と奥書に書いてあったということか。
このお経は唐から来たものか、日本で書写されたものか~どこを経巡って三重県の西来寺にやってきたのだろうか?
西来寺で絵はがきになってたこともあるらしい。
(行ったことがないので今もあるか分かりません) 




 
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by jumgon | 2011-06-30 20:38 | ★言語、歴史

道照・続日本紀より

道照について「続日本紀」に記述があるので、ここに保存しておきたい。

続日本紀の記述 
和尚は河内国丹比「たじひ」郡の人である。俗姓は船連。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。
 ある時、弟子がその人なりを試そうと思い、密かに和尚の便器に穴を空けておいた。そのため穴から漏れて寝具を汚した。和尚は微笑んで「いたずら小僧が、ひとの寝床を汚したな」と言っただけで一言の文句も言わなかった。
◎えっ、寝床に便器をおいて寝ていたの?
 はじめ孝徳天皇四年に遣唐使に随行して入唐した際に、玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。
◎白雉4年(653年)出発の遣唐使船で入唐したとあちこちの書で書いてあるが、孝徳天皇四年は649年になるので矛盾する。
 「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。今お前こそはあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」
と。また次のようにも言った。
 「経論は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。それよりもお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのがよかろう」と。
道照和尚は教えられたことを守って、初めて禅定(座禅)を学び、悟ることが次第に広くなった。その後、遣唐使に随って帰朝するとき、別れ際に三蔵は所持した舎利と経論を悉く和尚に授けて言った。
 「論語に-人間こそよく道を広めることができる-という言葉がある。今この言葉を私はお前に付け足して贈りたい」と。
 また一つの鍋を和尚に授けて言った。
 「これは私が西域から持って帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いると、いつも霊験があった」と。
 そこで和尚は謹んで礼を述べ、涙を流して別れた。
 帰国の一行が登州(山東省北部の港)についた頃、使いの人々の多くが病気になった。和尚が鍋を取り出して、水をあたためて粥を煮て、遍く病人たちに食べさせた。するとその日すぐに、病気が治った。そこで纜[ともづな]を解いて海に乗り出した。
          

 海のただ中に及んだ頃、船が漂いだしてどうしても進まず、七日七夜にもなった。皆が怪しんで「風の勢いは快調である。出発以来の日を数えると、本国日本に着ける筈だ。それなのに船が敢えて進まないのは、思うに、何かの訳があるのだろう」と言った。
占い師(陰陽師が同船することになっていた)が、「海神竜王が鍋を欲しがっているのだ」と言った。これを聞いた和尚は「この鍋こそは三蔵法師が、私に施して下さったものです。どうして竜王が無理に求めようとするのでしょうか」と言った。しかし皆の者は「今、鍋を惜しんで与えなかったら、恐らく船が覆って全員魚の餌食になるだろう」と言った。そのため和尚は鍋を取って海中に投げ入れた。すると忽ち船は進みはじめ、一行は日本に帰りついた。

 道照和尚は元興寺(飛鳥寺)の東南の隅に禅院を建てて住んだ。この時、国中の仏道修行を志す者たちは、和尚に従って禅を学んだ。
後に和尚は天下を周遊して、路の傍らに井戸を堀り、各地の渡し場の船を造ったり、橋を架けたりした。 
山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。
◎「山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。」
これには異説があります。

和尚の周遊はおよそ十余年に及んだが、寺に還って欲しいという勅があり、禅院に戻って住むようになった。
 座禅は旧の如く熱心に重ねた。
そしてある時は三日に一度起ったり、七日に一度起ったりする状態であったが、ある時、俄かに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き怪しんで居間に入り、和尚を見ると、縄床(縄を張って作った腰掛)に端座したまま、息が絶えていた。時に七十二歳であった。

 弟子たちは遺言の教えに従って、栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。
天下の火葬はこれから始まった。
世の伝えでは、火葬が終わったあと、親族と弟子が争って、和尚の骨を取り集めようとすると、俄かにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、何処に行ったか分からなくなった。
当時の人は不思議がった。
のち、都を奈良に移すとき、和尚の弟と弟子たちとが、天皇に上奏して、禅院を新京(平城京)に移築した。今の平城京右京の禅院がこれである。
◎現在の元興寺のことです。
この禅院には経論が沢山あり、それらは筆跡が整って良く、その上誤りが無い。すべて和尚が唐から持ち帰ったものである。


○栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。
 「日本書紀」   
雄略14年 1月 
   身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
   雄略14年 3月 
   臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
   衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。


http://lunabura.exblog.jp/「ひもろぎ逍遙」にこれに関する記事があります。

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。

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by jumgon | 2011-06-13 10:42 | ○道照・行基・役小角

日本の船の歴史

日本の船の歴史

遣唐使船を調べるうち、日本の造船の歴史に興味が出てきた。
遣唐使船の構造で参照した
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm

を参考にかいていきます。


船舶史を調べてみたかぎりでは、我が国ではじめて竜骨をもつ船が造られたのは幕末期の頃のようである。
意外なことだが、千石船などをふくめて、それまでの和船は大型のものでも竜骨を備えもっていなかったのだ。(当然遣唐使船も)

江戸時代末期の思わぬ事件が契機となって竜骨をもつ欧米風の大型船建造技術が国内に伝承されるまで、和船の基本構造は遣唐使船の時代とほとんど変わっていなかったことになる。

1854年(安政元年)11月4日、伊豆下田一帯は、紀伊半島南端沖を震源とする大地震によって起こった大津波に襲われる。下田の町家のほぼ全戸が一瞬にして倒壊流失してしまうほどに凄まじい津波だったらしい。米国のペリーなどと同様に、幕府との開港交渉のためロシアから派遣されていたプチャーチン提督は、下田湾に停泊する軍艦ディアーナ号上にあって、たまたまこの津波に遭遇した。

◎黒船さわぎで日本が沸騰し始めるころですね。
 
津波に翻弄されて遭難、大破したディアーナ号は、プチャーチンとの交渉のために幕府の代表として下田に逗留していた幕閣、川路聖謨の気転と配慮で、修理のために西伊豆の戸田(へだ)港へと回航されることになる。
◎腐り始めた幕府にも、有能な官吏がいたのですね。
60門もの大砲を備えた2千トン級のこの大型木造帆船には約500人のロシア人が乗り組んでいたという。ディアーナ号はなんとか戸田湾沖まで回航したが、海が荒れているうえに方向舵の破損とひどい浸水のために航行がままならず、田子の浦に近い宮島村沖(現在の富士市新浜沖あたり)に流され、そこで動きがとれなくなってしまった。
  必死の救船作業もむなしく、さしものディアーナ号も沈没の危機にさらされる事態になったため、ロシア人乗組員と宮島村周辺の地元民とは、激しい風浪をついて決死の共同作業を行ない、辛うじて船と浜辺との間に救助用ロープを張ることに成功した。
そして、カッターボートやランチに分乗したプチャーチン以下約五百名の船員は、そのロープを命綱に激浪を乗り切り宮島村に無事上陸することができた。そのときに船内の貴重品や資材の一部も陸揚げされたようである。

  それから2,3日後のこと、沈没寸前のディアーナ号をなんとか戸田村まで曳航しようということになり、駿河湾周辺の漁船100隻ほどが宮村沖に集結した。蟻のように群がるそれら手漕ぎの小漁船に曳かれて、ディアーナ号は戸田港のほうへと八キロほどジリジリと移動したのだが、そこでまた突然海上に巻き起こった疾風に襲われ、ついに沈没してしまう。
それからほどなく、宮島村に上陸したロシア人たちは幕命によって戸田村へと移され、全員の帰国が実現する六ヶ月ほのどの間、彼らは村人と実りある交流を続けながら戸田の集落に滞在することになったのだった。
◎ロシアって、この事を記憶している?
 第二次世界大戦終了後も満州に侵攻して、日本人をシベリアに抑留したりして~!
 和歌山沖で遭難したトルコ船を助けたことをトルコの人はしっかり記憶して
 その後も感謝の意を表しています。

幸いなことに、遭難したディアーナ号の乗組員の中には、のちに飛行機の設計製作でもその名を知られるようになるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。
プチャーチンをはじめとするロシア人一行の帰国にはどうしても専用船が必要であったから、必然の成り行きとして、このモジャイスキーの設計と指導のもと、戸田の入江の一隅で八十トンほどのスクナー型帆船が建造されることになった。もちろん、そのための資材や船大工、人夫などは幕府側が提供することになったのだが、すこしも労を厭わずロシア人たちのために十分な便宜をはかり、造船作業の遂行に大きく貢献したのは、有能かつ開明的な人物として名高い、前述の幕閣、川路聖謨であった。
  新船建造にあたっては、西伊豆各地の船大工が多数召集された。船匠だけでも四十名ほど、これに幕府の諸役人や村の関係者、人夫を合わせると三百名、さらにロシア人たち五百名が加わったから、総計八百人ほどの人間がこの一大事業に従事したことになる。

プチャーチンによって「戸田号」と命名された、三本マスト、全長二十二メートルの本格的なこの洋式帆船は、三ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。
この一連の作業を通して、日本の船匠たちは竜骨をもつ外洋帆船の建造技術をはじめて実地で学びとったのだった
攘夷派の中心的人物で「ロシア人を皆殺しにせよ」とまで唱えた水戸斉昭までが、最後には家臣やのちに石川島播磨重工の基礎を築いた自藩の船匠らを戸田に送り込み戸田号の建造現場を見学させたというから、相当にセンセーショナルな出来事だったのだろう。
 
単にそれが造られたというだけの話なら、戸田号が誕生する数ヶ月前に国内で二隻の大型洋式帆船の建造が行われている。大型船の必要を感じて幕府みずからが浦賀で建造した鳳凰丸と、薩摩藩が鹿児島で独自に造船した昇平丸がそれである。だが、両船ともに外国文献を頼りに見よう見真似で建造されたために両船ともに技術的欠陥が多く、昇平丸のほうなどはとくに浸水がひどくて、まったくの失敗作となってしまったという。
したがって、戸田号こそは、我が国で初の本格的な竜骨構造をもつ洋式帆船だったと言ってよい。実作業の監督にあたった七人の船大工の棟梁たちは、細大漏らさず船の製作過程の記録をとり、のちのちの洋式帆船建造に備えようと努めたらしい。

◎当時の日本人船匠は向上心があった。エライ!!現在も技術者には立派な人たちが多いようだ。
 
もっとも、戸田号の建造に臨んだ日本の船匠たちが、けっして受身いっぽうであったわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったのだが、細部の作業や表面仕上げの段階になると、手先の器用な日本の船匠たちの技術とアイディアが活かされ、その素晴らしさにロシア人たちは皆舌を巻いたという。
  面白いことに、戸田号には、日本人船匠らの意見を入れて日本式のオール、すなわち、艪が六丁ほど備えつけられていた。
プチャーチンらの乗った戸田号がカムチャッカのぺトロパブロフスク港に近づいたとき、それらの艪が思わぬ威力を発揮する。当時はクリミヤ戦争のさなかだったため、同港一帯はイギリスとフランスの艦隊によって包囲されていた。ところが、たまたまその日は稀にみるようなべた凪であったため、ロシア人たちは備えつけの艪を使い敵艦隊に発見されることなくアバチンスクの入江に逃げ込むことができたのだという。
 
わずか三ヶ月間の戸田号建造を通じてスクーナー型帆船の製作技術を習得した日本人船匠らは、ロシア人らが帰国したあとも、六隻の同型船を次々に造りだし幕府に納入する。やがて彼らやその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸をはじめとする国内各地の造船所に散り、今日に至る我が国の造船業界発展の礎を築いたのであった。
◎与えることは与えられることという見本みたいな話ですね。
  気密甲板や竜骨を備えもっていなかったことも大きな欠陥であったが、遣唐使船をはじめとする古式和船の最大の弱点はその推進力の要になる帆の構造そのものにあった。一口に言うと、ヨーロッパやアラビアの帆船が、逆風や横風でも進むことのできる揚力利用の帆の原理をすでにとりいれていたのに対し、和船の帆は順風あるはそれに近い風しか利用できない原始的な帆に過ぎなかった。いわゆる「ヨット」と「帆掛け舟」の違いである。
 
飛行機の翼の断面みたいに表側の面がふくらみ、それに比べて裏面が平らな物体の両面に沿って大気が流れると、相対的に気流の流れが遅い裏面側から気流の流れの速い表面側に向かって揚力という特別な力が働く。飛行機や羽根を広げて大空を滑空する鳥などは、この揚力のおかげで空中に浮んでいるわけだ。ヨットの三角帆(原理的には三角帆でなくてもよい)の断面はやはりいっぽう側(帆の表側)がふくらんでいるため、たとえば帆の真横から風が吹いてきた場合、同じ原理で帆裏から帆表の方向に向かって揚力が働く。この力がヨットを推し進めるわけである。
理論上は船の真横方向から風が吹いてくる場合に揚力は最大となり、状況次第では船速が風速を上回ることも可能である。
  逆風の場合でも、たとえば船の舳先を風上に対してほぼ右四十五度の方角に向け、帆の角度を風向ラインとなるべく平行になるように調整すれば、揚力が生じる。舵を巧みに調整すれば、その分力を利用して右斜め前方に進むことができる。しばらく進んだら、今度は船の向きが風上に対して左四十五度になるように舵を切り、やはり帆の角度を風向ラインと平行になるようにしてやれば、こんどは左斜め前方に進むことができる。タックと呼ばれるこの操作を繰り返せば、船はジグザグ運動をしながら風上方向へと進んでいけるのだ。

◎よく読まないとちと難しい。
  もちろん、順風の場合は風に任せて進めばよいわけであるが、この場合は揚力を利用していることにはならないから、風の速度以上には船速は上がらない。真横や前方寄りの風なら微風でも揚力のおかげでそれ相応には前進できるが、順風でも微風の場合にはヨットといえども思うようには前進できない。
  いっぽう、帆の構造上の関係で揚力を利用できない帆掛け舟の場合には、順風ないしはそれに近い後方よりの風でしか前に進めないうえに、風速以上の船速を出すことはできないから、きわめて走行能力が低くなってしまう。しかも、逆風などの場合には帆をたたむしかないわけだし、また、たとえそうしたとしても風下に流されるのを避けることはできない。
  遣唐使船は言うに及ばず、江戸時代の千石船や北前船にいたるまで、我が国の船はほとんどが船央付近に帆柱をもつ「帆掛け舟」であったから、行く先々の港で風待ちをしながら順風だけを頼りに進まざるをえなかった。したがって、このような船に乗って安全な沿岸地帯を離れ、風向きの一定しない外洋に出てしまった場合には、風浪に翻弄され、目的地に着く前に難破したり漂流したりしてしまうのがむしろ自然なことであった。
  遣唐使船の復原模型をみたかぎりでは、その帆は二枚ともに相当大きな長方形の麻布製で、帆裏には竹材や葦のようなしなやかで強靭な補強材が密に編みそえられてあったようである。
迅速に上げ下げするのが難しいこのような重たい帆だと、それでなくても高い船の重心がさらに高くなり、順風であっても強風の時などには帆柱全体に強い力が加わり不安定になってしまったに違いない。しかも、上部になるほど受ける力が小さく風向きに合わせて帆の角度を自由に変えられる三角帆や、上げ下しが容易でマストの先端に近いほど小さくなる洋式帆船の複層帆と違って、下部よりもむしろ上部のほうの幅が広い和船の帆は、力学的にみても相当に無理があった。
  たとえ同じ大きさの力であっても、帆柱の先端よりにその力が加わると、テコの原理によって支点にあたるマストの根元付近や船の本体にかかる力は大きくなる。だから、突風や強風に煽られるとマストが折れたり、船が不安定になって傾いたりすることは頻繁に起こったことだろう。
 悪名高い倭寇について述べた明時代の文献には、「倭寇の使う船は船底が平で波を切り裂いて進むことができない。その帆布は中心線が帆柱と重なるように張られており、中国船のごとく帆の端線が帆柱と重なるようには張られていないから、順風を使うことしかできない。逆風や無風の状態になると帆柱を倒して艪を使うのだが、思うようには航行できないから、倭寇の乗る船は東シナ海を渡り切るのに一ヶ月余もかかってしまう」といった意味のことが述べられている。
  ちなみに述べておくと、四角い帆の左右どちらかの端線が帆柱に重なるように張り止められ、帆のもう一端が帆柱を軸にして風向きに合わせ自由に動かせるようになっていれば、ヨットの三角帆と同じ原理で横風や逆風を利用し進むことができるわけだ。「一ヶ月余もかかってしまう」という記述は、いくらなんでもちょっと大袈裟過ぎるような気もするが、東シナ海の横断にずいぶんと時間がかかったことだけは確かだろう。
  ただ、和船にもまったく例外がなかったわけではない。華厳縁起絵巻に見る十二世紀後半頃の大陸渡航船の帆は中国風に端線が帆柱と重なるように張られているし、1604年から1635年頃まで続いた御朱印船(荒木船)は三本マストで、中国船と洋式船の折衷型の帆を備えていたようで、舳先にも小さな帆が張れるようになっていた。それらの船のの帆を巧みに使えば、進行方向の調整や逆風の利用も可能だったことだろう。
そのあと鎖国の時代に入り、外洋の航海に耐える大型船の建造が禁止されたこともあって、その種の帆は使われなくなってしまったのかもしれない。結局、和船はもとの帆掛け舟状態ににもどってしまいそれ以上発達することがなくなってしまったのだ。海洋国であるにもかかわらず外洋船が発達しなかったのは、原初的な構造の和船でもなんとか間に合う沿岸地域や中国、朝鮮との交流が主で、太平洋の彼方へとの目を向ける必要のなかった我が国の歴史的背景と地理的事情によるものだったのかもしれない。
  遣唐使船が東シナ海を渡るのに、大陸方向に向かって南東の季節風の吹き荒れる夏期を選んだのは、すでに述べたように、帆の構造上、順風に頼るしかなかったからである。南東の季節風が吹く時期は、中国大陸に近づくにつれて海が荒れてくる。当時の遣唐使船にとっては季節風のひきおこす荒波を乗り切るだけでも容易なことではなかったのに、この季節は南海で発生した台風が中国大陸よりの海上コースをとって北上する時期にも重なっていた。台風情報などしるよしもなかった当時の状況のもとでは遭難が続出するのも当然だった。
  往路も大変だったが、復路はさらに厳しかった。順風を帆にはらんで日本へと戻るには、晩秋から厳冬期にかけて大陸から吹き出す北西の季節風に乗るしかなかったが、まだ季節風が弱い晩秋の頃は台風シーズンと重なって、大荒れになることが多かった。
また日本付近が強い冬型の気圧配置に覆われる厳冬期になると、激しい北西の風に煽られ、東シナ海海は四六時中荒れに荒れた。しかも、揚子江下流域や杭州から船出して北西の風に乗った場合、順風とはいっても船は南東方向に流されることになるから、直接九州本土に着岸することは難しかった。だから、たいていの場合には、いったん奄美諸島や沖縄諸島のどこかに辿り着き、そこから天候待ちをしながら黒潮本流や対馬海流に乗って島伝いに北上、太平洋側に流されないように細心の注意を払いながら坊津あたりに着岸するという方法がとられていた。
◎鑑真来日
鑑真一行の乗った第二船は沖縄到着後黒潮に乗って無事屋久島まで北上した。だが、屋久島から坊津に向かう九十キロほどの航海中に激しい嵐に遭遇、一時は方向を失い太平洋側に流されかけたが、辛うじて遭難を免れ坊津秋目浦に着岸したのだった


南東の季節風に乗って中国に向かう往路の場合は、大陸のどこかに着くことができればなんとかなったが、復路にあっては、船体そのものが無傷であっても、太平洋のただなかへと流されてしまう前にどこかの島に到着しなければならなかった。
したがって復路の航海はいっそう困難をきわめたわけである。いったん太平洋に流れ出てしまったら、よほどの幸運にでも恵まれないかぎり生還は絶望的だった。「南島路」という言葉にはなにやらロマンの響きさえ感じられるが、実際にはその言葉は「地獄の一丁目」と同義語だったと言ってよかったろう。
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by jumgon | 2011-01-20 12:44 | ★言語、歴史

遣唐使船の構造

後期遣唐使船の構造

遣唐使がたびたび遭難にあったのはどういう理由からか?

これについては
倭と古代朝鮮との往来でルートの面から述べた。

もう一度引用します。
海事博物館ボランティアより
前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。


しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。


 前期遣唐使(~669)
後期遣唐使(702~)


海難が頻発した遣唐使の派遣を巡って問題になるのは、ルートだけでなく遣唐使船の構造や航海術がどうであったのかということも考えなければならない。

調べて見ると色々な意見がある。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海であった。
この原因を航海技術が未熟であったためとする見方が主流であるが、佐伯有清は遣唐使船の大型化東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。
東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。
しかし、遣唐使は朝貢の使いであるという性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件のよくない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。

私の知識ではとても判断できないので、色々な説を紹介する。

今回は後期遣唐使船の船型構造の一端をご紹介します。先にご案内した主として「南路」で渡唐した遣唐使船を、後期遣唐使船と呼ぶことにします。

後期遣唐使船の構造概要 
遣唐使についての文献史料はかなり残されているのですが、船の船型や構造となると皆無に近いのが実情です。
しかし、船型についてこれまで多くの模型が造られ、また、推定図が描かれているので、特に後期遣唐使船については、ある程度共通イメージが出来上がっていると考えられます。同時代の絵画資料は全く無いので、復元に使われているのは時代は遥かに下がりますが、平安時代後期以降の絵画に出てくる外洋航行船です。

史料としては『 聖徳太子絵伝(1069年) 』、『 吉備大臣入唐絵詞(12世紀末) 』、『 鑑真和上東征絵伝(1298年) 』などが挙げられます。
これらに描かれているのは何れも想像図には違いないのですが、それらによると中国の伝統的帆船、いわゆるジャンク船で外航用の大型構造船であったと考えられます。
後期遣唐使船は多数の乗員、食料や飲料水、並びに朝貢品を乗せて外洋を航行するため、使用船の条件としては積載量が大きく、耐航性のある航洋船ということが第一だったと考えられます。この条件を満たすためには北路で使ったと推定される大型準構造船では間に合わず、恐らくいわゆる唐船(中国式ジャンク船)のような、本格的大型構造船であったと思われます。

鑑真和上東征絵伝
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ジャンク (船)とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャンク(戎克、英: Junk)は、中国における船舶の様式の1つ。古くから用いられきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。独特のスタイルは絵画や写真の題材として好まれており、今日では観光用として用いられている。

船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られている。また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって突風が近づいた時などに素早く帆を下ろすことを可能にしている。この二つが大きな特徴である。河川や沿岸を航行する小型のものから、400総トン程度で耐波性に優れた大型の外洋航行用のものもある

遣唐使船の構造的欠陥/b>
について
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm
では次のように述べられている。

遣唐使船をはじめとする古式和船の
第一の欠陥は、海水を完全に遮断できる気密甲板を備えもっていなかったことである。甲板に完全な防水処理を施すだけの技術がなかったうえに、積荷の揚げ降ろしを効率よくおこなうことが優先されたから、現代の船のように船倉を気密度の高い甲板で覆うことなどはあまり考慮されていなかった


古式和船の第二の欠陥は、船底部が竜骨をもたない平底の構造になっていたことである。

竜骨とは船底部の基本骨格のことで、その構造が、太い背骨を中心に左右対称に湾曲してのびる恐竜の胸骨の造りに似ているのでその名がある。紀元前の昔から竜骨をそなえていたヨーロッパやアラビア地方の船は、船底部の断面が大きく開いたV字形をしていて浮かんだ時の重心が低く、起き上がり小法師と同じ原理で左右に傾いても復原する力が強かった。また、支柱となる太い竜骨があるために船底部の強度が大きく、激浪に対する耐久性も高かった。嵐の海で船体が激しく海面に叩きつけられたり、高波の直撃を受けたりすると瞬間的に船底や船側、甲板などが歪む。竜骨があると衝撃による歪みは少なくてすみ、その応力(外力を受けたとき物体に生じる抵抗力)によって歪みは修正復原される。


◎遭難の原因は様々考えられているのですね。

ちなみに遣唐使以前、倭寇?とか民間交流で(国なんてものがはっきりとはなかった時代)
弥代・古墳時代の朝鮮や中国への航海ルートの想像図をあげておきます。
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by jumgon | 2011-01-16 18:33 | ★言語、歴史

遣唐使が持ち帰ったもの

前回、遣唐使が持っていったもの
について述べた。
今回は、
遣唐使と共に東から来た物について
書きたいと思う。

Wikiと東野治之「遣唐使」をおもに参考にして書いています。

東野氏は、遣唐使全体を通して中国の文化受容に関して、次のように述べられています。

初期の頃は仏教の受容に重きが置かれ、次に文化全体、次第に貿易の手段として、中国側から見れば朝貢、日本側の意識としては物々交換による交易として遣唐使を考えていた。
だが、何でも取り入れたのではなく、その受容には取捨選択があった。
仏典や注釈書などは重複するものはさけ、新しいものを探して持って帰ったとみられる。
又中国で盛んだった道教は取り入れなかった。わずかに道教関係の書もあるが、それを広めようとした形跡はないそうだ。
また宦官・科挙の制度も取り入れられなかった。


遣唐使たちは書籍だけでなく、美術工芸品その他のものも持ち帰った。
それらはあちこちの寺院や正倉院に保管されている物もある。

奈良時代から平安時代にかけて、遣隋使と遣唐使が持ち帰ったものを列挙しよう。

中国原産ではなく、シルクロードから伝わったもの、
 すなわち、白菜、ピーマン、西の瓜と書くスイカなどを、 長安で種を得て日本に持ち帰り、日本に根づかせました。

楽器のルーツも、たくさんもたらされました。
横笛・宮中でも使われている笙(しょう)
正倉院にもある五弦の琵琶
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)
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正倉院にある五絃琵琶は、聖武天皇(しょうむてんのう)の遺品(いひん)で、現在(げんざい)では世界でたったひとつしかないとても貴重(きちょう)なものです

*五弦の琵琶は、中国では滅んだ楽器で、シルクロートの天山山脈の 南の街「庫車(クチャ)」にある古代の「亀茲国(きじこく)」 の壁画からも、正倉院の琵琶と同じものが描かれていて注目されました。

サイコロ、双六、囲碁、壺の形をした陶器に
 投げる輪投げ
なども伝わりました

経典以外の書
●奈良時代には、古代中国のよい文を集めた「文選(もんぜん)」が読まれ、 仏教文化が根づいた平安時代には、中国の仏教詩人である 白楽天が愛好されました。それらも遣唐使が持ち帰ったものです。

貨幣
野菜発酵(はっこう)技術〈蘇(そ)・味噌(みそ)・しょうゆ
野菜をくさらせて、長持ちする食べ物を作る技術も、唐から日本に伝わりました。蘇はそのひとつです。
●蘇というのは、平城京(へいじょうきょう)の時代のチーズのことです。
●また、現在(げんざい)私たちが、毎日のように食べている味噌やしょうゆも、同じ時代に、唐から伝わりました。味噌もしょうゆも、大豆(だいず)をくさらせた食べ物です。
これは遣唐使(けんとうし)ではなく、唐から日本に移住(いじゅう)してきたり、日本の貴族(きぞく)に政治(せいじ)のアドバイスをするためにやってきた人が、故郷(こきょう)の味をなつかしんで作ったものではないかと考えられています。

スパイス・薬草(やくそう)〈胡椒(こしょう)・シナモンなど〉
占(うらな)い・天文学(てんもんがく)・暦法(れきほう)
また変わったところでは

小国鶏(しょうこくどり)があります。(京都検定に出題されたそうです。)
遣唐使が中国寧波府の昌国(しょうこく)より持ち帰ったとされています。
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平安時代に鳥羽僧正が描いた『鳥獣人物戯画』(高山寺)にも
小国鶏が描かれています。
天然記念物の小国鶏(しょうこく)です。
この写真は「白藤」という羽色のもので、天然記念物に指定されている貴重な日本鶏などを飼育保存している「日本鶏飼育場」からお借りしました。

小国鶏は平安時代(?)に中国から持ち込まれた鶏で、
姿が美しいことから、観賞用品種を作出するため
の交配に多く用いられた鶏種です。
◎縄文時代から鶏はいますが、小国鶏という品種はなかったのですね。

さて、うららさんの「質店オザサのブログ」⇒参考リンク<古代史ミステリー>
ではじめて読み、教えられたのが「武術と遣唐使」についてだ。

これについてはアカデミックな書物では読んだことはない。(わたしの勉強不足?)

その記事はうららさんが
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.html
を参考にされて書かれたという。

初耳のことばかりで、ビックリ、ここまで気がつかなかったなあ、と感心しました。

鑑真とともに来日した僧侶は21人にのぼるが鑑真とともに最初から行動し最も信頼されていたのが弟子の思託(722~809)である。
思託鑑禎は743年台州・開元寺に入り鑑真の弟子となる。741年天台山修禅寺に留学、天台学、禅学、拳法などを修業。
 澄水流の始祖・大伴古麻呂は古代の名族としてもちろん家伝の武術をもっており、武人の家系であるから、日本へ向かう航海中も鑑真や思託らと武術談義をし、若い思託らと拳法を教えあったことであろう。


日本の歴史を格闘技から書いている。

上記の格闘技のサイトには、行基の師、道昭についても言及している。

 法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術 
●遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。
653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説がある。
●その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、智通、智達が第二伝
●興福寺を中心に普及した智鳳が第三伝、
●玄ボウが第四伝だが、みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。 
●法相宗第三伝の智鳳の高弟に岡寺の開基者である義淵(~728)がいる。
中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。
◎「宮本武蔵とのたちあいで有名な宝蔵院です

●僧兵で名を知られるのは奈良の興福寺、比叡山延暦寺だが、僧兵とは寺院が自衛のためにおいた武器をもつ僧。平安時代中期、寺院がその荘園を貴族や武士の侵入から守るためにおいたのが始まり。
特に興福寺、延暦寺の僧兵は強力で、しばしば朝廷に押し掛けて強訴(ごうそ)を行い,寺院の要求を認めさせようとした。これらを見ても法相宗の僧侶と武術は強い関連があったことが知られる。

●さて奈良・興福寺は藤原氏の氏寺として知られるが、日本最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
◎初耳ですけど、平心流ではそのように伝えられているのでしょうか?というより、平心流なるものの存在も知らなかった。

●奈良の岡寺には、暴れ龍を退治した義淵の伝説があるし、他には義淵が、強い法力の持ち主であったこと、人々の危機を救い、盗賊を捕らえた話なども伝えられている。

●同じ法相宗の京都・清水寺は征夷大将軍・坂上田村麿(758~811)と深い関係があると伝える。
◎杉本苑子「檀林皇后私譜」と言う小説では、当初清水は「坂上田村麿の私寺」だと書いてある。
田村麿は人生の多くを蝦夷地平定のため武人として働いてきた人である。古伝柔術の流派・観世流は流祖を坂上田村麿としている。
◎これもホントですかって、気持ちがある。私が知らないだけかな~

わたしにとって、遣唐使の留学僧が武術もならっていた、というのは、はじめて知った事柄でこれが信憑性のあるものかどうかはわからない。

文献がなく、武道流派の家伝書のたぐいから記事を書いているようだ。だがまったく可能性がないと思えないのは、興福寺や比叡山の僧兵の存在があるからだ。
僧というからには、ただの無頼の徒ではないだろう。
お経や書物、美術工芸品、医薬、音楽、物産、娯楽と幅広い東の文化を吸収、伝来したのだから武術があってもおかしくないと思うので記しておいた。

行基について
◎道昭の弟子に行基がいる。
当時の仏教は国家安泰を祈念するもので、個人の救済や魂の救いを目指したものではない。唐でも同じである。
これを考えると、道昭や行基が
「各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。」
というのは革命的な行動だと思う
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by jumgon | 2011-01-13 18:33 | ★言語、歴史

遣唐使・回数

今回は遣唐使の回数についてです。

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
•12回説:藤家禮之助
•20回説:東野治之、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数出発帰国使節その他の派遣者船数備考などについて書く。
備考には中国文献に見られる記事をいれた。

 舒明2年(630年)出発
    舒明4年(632年)帰国
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日

備考:唐使高表仁来日、僧旻帰国
備考:貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。
 貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。(旧唐書)

白雉4年(653年)出発
    白雉5年(654年)帰国
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)・留学僧・道昭・定恵
◎定恵とは  
  
定恵(じょうえ、(643年~666年2月2日))は、飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。
  父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
  出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等がいる。
  653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡る。(10歳?11歳)
  長安懐徳坊にある慧日道場に住し、
  神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。
  665年(天暦年)9月、(22,23歳頃)朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、
  同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった。
  (帰国後わずか3ヶ月)
  高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。


備考:
永徽初(650年)、その王の孝德が即位、改元して白雉という。一斗升(ます)のような大きさの琥珀(こはく)、五升升のような瑪瑙(めのう)を献上した。
時に新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。(新唐書)

翌年(651)、使者が蝦夷人とともに来朝。蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。(新唐書)

第2船が往途で遭難

白雉5年(654年)出発
    斉明元年(655年)帰国
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没

斉明5年(659年)出発
    斉明7年(661年)帰国
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)
伊吉博徳
第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される。

天智4年(665年)出発
    天智6年(667年)帰国
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 
唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日

天智6年(667年)出発
    天智7年(668年)帰国
(送唐客使)伊吉博徳
 唐使法聡を送る。唐には行かず?

天智8年(669年)出発
不明河内鯨(大使)  *第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
備考:
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。
(新唐書)

大宝2年出発(702年)
    慶雲元年(704年)帰国
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)山上憶良・道慈

備考: 
長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して太宝という。朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。朝臣の真人は唐の尚書のようである。進德冠を冠り、頂に華蘤四披があり、紫の袍に白絹の帯
備考:長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。
朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす。身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていた。
真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だった。則天武后は、これを麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた。(旧唐書)

養老元年(717年)出発
    養老2年帰国(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)
留学生:阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
井真成については藤井寺市出身の藤井氏だという説があり、藤井寺市のシュラホールには墓誌のレプリカがおいてある。
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井真成の墓誌本文の日本語訳です。

【日本語訳】
尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 <序と并せる>

公は姓は井、通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。

中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬとは。

開元二十二年(七三四)正月■日に官舎で亡くなった。年齢は三十六歳だった。
皇帝(玄宗)はこれを傷み、しきたりに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。

その年二月四日に万年県の河の東の原に葬った。礼に基づいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。
真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、荒れはてた郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
その言葉にいうには、「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

備考:
開元初(713年)、粟田が再び来朝、諸儒に沿った経典を拝受したいと請うた。
詔を以て四門学の助教「趙玄默」を鴻臚寺での師と為した。大きな幅広の布を謝恩の礼として献じ、あらゆる賞・物・貿・書を持って帰る。
その副の朝臣仲満は中華を慕い、帰らず、姓名を変えて朝衡という、左補闕、儀王友などを歴任して多くの知識を備え、久しく経って帰還した。聖武が死に、娘の孝明が立ち、天平勝宝と改元した。(新唐書) 
備考:
開元初(713年)、また遣使が来朝し、儒士に授経を請うた。詔を以て四門学の助教の趙玄默が鴻臚寺に就いて、これを教授した。
玄默に修学の謝礼として大きな幅布を贈り、題して「白亀元年の調布」という。人はまたその真偽を疑った。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。その偏使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)、中国の風を慕い、因って留まって去らず、姓名を朝衡と改め、左補闕、儀王友を歴任。朝衡は京師に留まること五十年、書籍を好くし、帰郷させたが、逗留して去らなかった。

天平5年(733年)出発
    天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず

   天平18年746年)
span style="color:rgb(0,0,255);">◆石上乙麻呂(大使)
 -備考:停止

天平勝宝4年(752年)出発
    天平勝宝6年(754年)帰国
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 
◎この時の遣唐使の帰国船に乗って、鑑真一行は来日を果たした。
備考:
天宝十二年(753年)、また遣使が貢献。(旧唐書)
備考:
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
備考:
上元中(760-761年)、朝衡を抜擢して左散騎常侍、鎮南(安南)都護とした。(旧唐書)

 天平宝字3年(759年)出発
    天平宝字5年(761年)帰国
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成
*渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国

天平宝字5年(761年)
仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使)  
*船破損のため停止

天平宝字6年(762年)出発
-(送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 
*唐使沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止

宝亀8年(777年)出発
    宝亀9年(778年)帰国
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使) 
大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。
 *第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡

宝亀10年(779年)天応元年出発
    (781年)帰国
(送唐客使)布施清直・多治比広成
備考:
建中元年(780年)、使者の真人興能が方物を献じた。真人とは、官に因って氏とする者である。興能は書を善くするが、その紙は繭に似て光沢があり、人には知られていない。(新唐書)
唐使孫興進を送る

延暦23年(804年)出発
    大同元年(806年)10月帰国
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)
その他派遣者:最澄・空海・橘逸勢・霊仙
備考:
貞元二十年(804年)、遣使が来朝、留学生には橘逸勢、学問僧には空海(旧唐書)
*石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
備考:
元和元年(806年)、日本国使の判官「高階」真人が上奏「前件の学生、芸業がやや成り、願わくは本国に帰らせ、すなわち臣と同じに帰ることを請う」。これに従った。(旧唐書)
備考:
貞元末(805年)、その王は桓武といい、遣使が来朝。その学子の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以て勅許す。次に諾楽が立ち、次は嵯峨、次は浮和、次は仁明。次は文德、次は清和、次は陽成。次は光孝、光啟元年にあたる。(新唐書)

承和5年(838年)出発
    承和6年(839年)帰国
藤原常嗣(大使)/小野篁(副使)円仁

*承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
備考:
開成四年(839年)、また遣使が朝貢した(旧唐書)
備考:
仁明は開成四年(839年)にあたり、再び入朝して貢献。(新唐書)

寛平6年(894年)
菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)停止。ただし大使の任は解かれず。

•次数は20回説を採用。
•送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
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by jumgon | 2011-01-08 19:49 | ★言語、歴史
遣唐使についての勉強をかねながら「天平の甍」の舞台となった
第9次遣唐使発遣について調べてみた。


以下の文は
●東野 治之著 「遣唐使船」
●http://kondoh-k.at.webry.info/200512/article_7.html
●http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-19?comment_success=2010-12-19T13:56:27&time=1292734587 

を参照しました。

◆天平4年・(732年)朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられる。

大使  :従4位上・多治比広成
副使  :従5位下・中臣名代
判官  :4名
録事  :4名

四等官より下の構成員については『 延喜式(大蔵省式) 』に次のような人々が記されています。
*以下は正確には第9次遣唐使の内容かどうかは分かりません。

(1) 史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)
(2) 訳語(やくご、通訳)
   新羅・奄美等訳語(◎奄美の訳語も必要だったの?奄美などに漂着した場合に必要) 
   主神(神主)
   医師
   陰陽師(易占、天文観測)
   卜部(うらべ、占い師)
   射手(いて)
   音声長(おんじょうちょう、楽長)
(3) 知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)
    船師(船長)
    船匠(船大工)
    柁師(かじし、操舵長)
    挟抄(かじとり、操舵手)
    水手長(かこおさ)
(4) 留学生(るがくしょう、長期留学生)
    学問僧(長期留学僧)
    請益生(しょうやくしょう、短期留学生)
    還学僧(げんがくそう、短期留学僧)
(5) 音声生(おんじょうしょう、楽師)
    玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)
    鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)
    鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)
    細工生(さいくしょう、木工工人)
 ●これらの随行員は出発に際して、朝廷から賜物(餞別)が下賜されました。賜物は旅費等に使用され、また、唐での交易を行う時にも役立てたようです。

(注)唐政府から正式な遣唐使であることが確認されると、遣唐使一行の唐での滞在費や移動に要する旅費等の諸経費は、朝貢使待遇の一環として全て唐側で負担しました。
そのあたりの事情もあったと思われますが、遣唐使のうちで都の長安へ出向できたのは、全体の10%程度(後期遣唐使の場合で40~50名)の人数でした。
他の者は定められた別の地で、それぞれの専門分野の知識を学ぶため、それらの地で種々の研鑽に勤めたようです。


第9次遣唐使の場合(天平の甍の舞台)
   留学僧(長期留学僧)
    大安寺の僧・普照ふしょう(栄叡より2歳下)
    興福寺の僧・栄叡ようえい(30歳すぎ)

その他に「水手」「射手」の下級船員まで、総勢580余名

延喜五年(905年)に編纂された『延喜式』の賜蕃客例条(大蔵省・賜蕃客例・大唐皇)によると、

近江、丹波、播磨、安芸の四カ国に使節が派せられそれぞれ一艘ずつの大船の建造が命じられた。
4艘で出航


◆遣唐使が持参した朝貢品

延喜五年(905年)に編纂された『延喜式』の賜蕃客例条(大蔵省・賜蕃客例・大唐皇)によると

◇国信(定例の朝貢品・輸出品)
①銀・大五百両
②水織絁(みずおりあしぎぬ)・二百疋
  美濃絁(みのあしぎぬ)・二百疋
  細絁・黄絁、各三百疋
*絁(あしぎぬ)・真綿などの絹製品。
③黄糸(きのいと)・五百絇
*「黄絁」(きあしぎぬ)「黄糸」(きのいと)は、皇帝への朝貢品であることを明示する工夫。
    (中国では、皇帝の色は、黄色とされる)

④細屯綿(ほそつみのわた)

◇別貢(別送)
①綵帛(さいはく)
*綵--べつのよみかたはあしぎぬ  帛--べつの読み方は、きぬ
②畳綿二百帖、
③屯綿二百屯、、
④紵布(ちょふ)・三十端、 
  望陀布(まぐだのぬの・上総国望陀郡産の麻布)・一百端
*望陀布(もうだのぬの)は、古代において上総国望陀郡(現在の千葉県袖ヶ浦市・木更津市・君津市付近)で産出されて調として徴された麻織物(麻布)のこと。律令制においては最高級品と規定され、大嘗祭などの宮中祭祀や遣唐使の贈答品としても採用された。

⑤木綿(ゆう)一百帖、(木綿(楮や麻の繊維)
⑥出火水精、(しゅっかすいしょう)十顆
⑦瑪瑙(めのう)十顆 
⑧出火鉄 十具
⑨海石榴油(つばきあぶら)六斗 
⑩甘葛汁(あまずらのしる、植物性甘味料)・六斗 
⑪金漆(こしあぶら、防錆用樹脂液)・四斗
鉱物製品について
 出火水精 十顆
 瑪瑙   十顆
 出火鉄  十具
「出火」という語が付くのは、火打ち道具として使うから  出火鉄は、火打ち金(火打ち鎌)。
  火打ち金で、火を起こすには、よい火打ち石が要る。
  その石は、石英質のものが適している。純度の高い石英である水晶や、成分に石英を含むメノウが最適。
  火打ち金十具に対し、火打ち石として最適の出火水晶 10個、出火メノウ10個用意されている。

唐の官人は、腰の革帯に手巾(ハンカチ)や刀子、算木(さんぎ)などとともに、
火打ち道具一式を入れた袋を下げていて、それらは一種の装身具でもあった。(吉村苣子)

唐に運ばれた火打ち道具も、そのように使われたらしい。
三ツ塚古墳群(奈良県葛城市当麻町)に副葬されていた革袋は、それを偲ぶ手がかりになる。
この古墳群には、9世紀の中下級官人が葬られているが、
彼らもこうした唐風の装身具を着けていたのだろう。
火打ち金や水晶の原石も見つかっている。

*延喜式(えんぎしき)とは
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つです。
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、927年(延長5年)に一応完成したとされています。

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by jumgon | 2010-12-27 21:24 | ★言語、歴史

鑑真和上

鑑真和上についての私の知識は教科書レベルのもので、唐からやってきて唐招提寺をたてた僧、という位のものだった。
鑑真上陸の地(鹿児島県・秋目浦)
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以前、永井路子氏の「氷輪」を読んで、鑑真を取り巻く人々や社会状況について少しは理解、想像することができた。
しかしこれは永井路子氏の目を通しての理解になるので、井上靖氏の「天平の甍」も読んでみた。

「氷輪」の方は主に鑑真和上が来日してからのことを書いている。現在の唐招提寺みたいな立派なお寺が、最初から日本朝廷によって用意されていたわけではない。
日本朝廷が戒律の師を求めてから、鑑真来日まで12年の歳月が経っている。その間に日本の社会事情も変わってしまっている。
来日当初こそ朝廷あげての大歓迎だったが、その後は5年間の東大寺での仕事の後、西京の地に土地を賜ったが、寺院を建立する十分な資金もなく苦労されたように書いてあった。
苦難の末やってきた日本での自分達の運命について、鑑真以下弟子たちはどんな思いだったろう。
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「天平の甍」は日本からの遣唐僧、普照を中心に話が進んでいく。
主に日本からの遣唐僧や留学生の唐に渡ってからの運命を描きだしている。

長い留学の間に病を得、なくなった者。
いつの間にか日本へ帰る意思をなくして、みずから留学僧としての保護をすてて托鉢僧となって大陸のいたるところを歩く僧。
また唐土に着くやいなや「日本へ帰りたい。日本でしか本当に生きるといった生き方はできない」といっていた僧が皮肉にも還俗して唐の女性と結婚し、子供を得、唐土に落ち着くという結果になるもの、といった様々な運命を描いている。

中国中央テレビで放映された連続ドラマ「鑑真東渡」より
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私にとって特に印象的なのは、数十年の唐留学生活、いわば人生の大半をひたすら日本へ持ち帰る経文を写すことに費やし、帰路経文と共に海に消えた僧業行だ。
あまりの虚しさに心をえぐられる。
当時の遣唐使船は難破がよくあり、無事唐に行きつく保障もなければ、日本に帰れる保障もない。
そして唐での生活の全てといえる膨大な経典の写経と「業行」本人は、何十年ぶりに復路の遣唐使船に乗船したが、その船は難破したのか行方知れず。
難破する鑑真の絵
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その消息が日本で分かるのも数年後になる。
小説ではハッキリと亡くなったとは書いてないが、同じ船に乗り合わせたほとんどが、漂着した土地の土人に殺害され、無事保護されて、唐にたどり着いたのは数名だったという。

全ての人間は生まれたときから死に向かって歩いている。
だからそれも又運命とはとはいえ、その虚しさはあまりに悲しい。

吉備真備のように二度も渡唐して無事帰国して、日本でそれなりの地位を築いた者もいるというのに、、、。

唐招提寺の概略を唐招提寺のHPより
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。

現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。

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by jumgon | 2010-12-27 19:34 | ★読書・放送・講演会

倭と古代朝鮮との往来

         記紀にしるされている
      倭と朝鮮との交流記事は本当だったのだろうか?


日本列島と朝鮮との頻繁な往来が記紀で語られている。

「遣唐使の頃でさえあんなに、遭難が多かったのにもっと以前にそんなに頻繁に
    往来できたのだろうか?遭難の記事もみかけないし、、、。」


      こんな風に疑問をもったのは私だけではないと思う。

だけど現実に、日本の古い古墳からの出土品から朝鮮半島製のものが多く出土している。
記紀には神功皇后の新羅遠征、とかそれ以外にもいっぱい朝鮮半島との行き来の記録がある。
またわが国以外の記録としては、有名な好太王碑がある。(教科書にでてきますね。)

「好太王碑」
通説では以下のように解釈される。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉

解釈にはいろいろ異論もあり、又一時改ざん説も取沙汰されたが、一応改ざんはなかったと、するのが学界の定説のようである。

古代交通について調べていると、とても分かり易いサイトが見つかった。

遣唐使船の記事だ。
http://kondoh-k.at.webry.info/200512/article_3.html
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海事博物館ボランティアより

前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。

しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。

◎そうか、遣唐使船は後期になって、沿岸航路ではなくなったから、海難事故が多かったのか?
 ナルホド!!

このサイトには遣唐使船のもっと詳しいことが載っています。興味のある方は訪問してみてください。
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by jumgon | 2010-12-06 14:45 | ★言語、歴史
これは、橘 嘉智子を軸に周りを取り囲む人々を描いた小説である。
杉本苑子「二条院の讃岐」 の前の時代、<平安前期>を題材にしている。
          
     
49光仁帝・・・・・・・・・・・・・・・(井上皇后、他戸太子が獄死)

 50桓武天皇(山部親王)・・・・・・・・       

 51平城帝(安殿太子、母は乙牟漏皇后)・・・・薬子の乱(薬子は自縊)
   
 52嵯峨帝(神野王子、母は乙牟漏皇后)
             
 53淳和帝(大伴親王、父は桓武天皇、母は藤原旅子)         
           
 54仁明帝(正良親王、父は嵯峨帝、母は橘嘉智子) 
              
 55文徳帝(道康親王、父は仁明帝、母は藤原順子) 
 
小説だから、登場人物の性格、容貌、逸話などは、作者の想像、創作を交えていると思うが
          色々な書物を参照しながら作り上げたものと思う。

       面白いのは歴史上の有名人がイッパイ登場することだ。
            征夷大将軍         
             坂上田村麻呂                             
            三筆と言われた
            嵯峨天皇、空海、橘逸勢(橘嘉智子のいとこ)            
             同じ遣唐使船で唐へ渡ったメンバー
              空海、橘逸勢、最澄
                       等など、、、、
         下の書は左から橘逸勢、嵯峨天皇、空海の順です。
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      同じ文字でも、書から人物の違いを空想できそうですね!!

        そして、死因が怪しい色んな登場人物の死
             怨霊の出現におびえる心理
     一番恐いのは、、、祟りでなく権謀術数をつかって怨霊を創る人間だ、と感じた。

    小説が進むにつれ、それぞれ人物の心理がじょじょに変化していく、、、、。
     嵯峨帝の皇后になった橘嘉智子といとこの橘逸勢の関係が
     変化し、ついには逸勢の死を黙認(画策)するまでになっていく。
      明治期の大久保利通と西郷隆盛の関係を思い起こさせた。

     杉本氏の小説はいつもそうだが、血肉の通った歴史を想像することが出来た。
    
            折から民主党の代表戦選挙があった。
      何時の時代も似たようなことが行われているんだなぁ~と思った。
            (毒殺はないと思うけれど~)

 最後に印象的な言葉を記して置く
   
<四大元空>
 
  地、水、火、風の四元素から成り立つ人身は、死ねば元の空にー無に還る。
  死後の世界にまで延長して自己を認識する霊魂などというものは、実際には存在しない。     

  地獄を現出するのも浄土を形成するのも、すべて生き身の内の働きであり、だからこそ、
  今日ただ今のこの”生”をいかに生かすか、生きるかが、重大な問題となるのだ、
  との明快な把握であった。

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by jumgon | 2010-09-18 15:59 | ★読書・放送・講演会