古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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弥生のコウノトリ

2011,5月19日の朝日新聞に
池島・福万寺遺跡で15年前に見つかった鳥類の足跡が弥生時代前期(2400~2500年前)のコウノトリのものと確認された
国内最古とされてきた前橋市の水田跡(6世紀)で見つかったものより、約900年さかのぼる、という記事が出ていた。
参考のためサンケイニュースの記事もみてみた。

2011年5月19日・サンケイ


池島・福万寺遺跡の位置
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2400年前のコウノトリが舞う池島・福万寺遺跡のイメージ図(奈良文化財研究所提供)
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銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、
今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。


下写真(18日午後、奈良市、諫山卓弥撮影)
(左)現代のコウノトリの足型
(中央)池島・福万寺遺跡から見つかったコウノトリの足型
(右)現代のアオサギの足型
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◎確かに右端のアオサギの足跡は指の開きが小さい。

同研究所によると、コウノトリの骨は縄文時代の遺跡で出土例があるが、足跡としては最古という(時事通信)

池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。
1996年(大阪府文化財センター提供)
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 今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。

 同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。
 この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。 

神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。
 
大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。
松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。

 一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。

青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。span>

◎なるほど同じ鳥の足跡からも色々違う意見があるということが分かった。

池島・福万寺遺跡で出土したコウノトリと人の足跡
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足跡の石膏(せっこう)型は、21日から府立弥生文化博物館(和泉市)で公開される。
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by jumgon | 2011-05-19 10:59 | ★新聞きりぬき
私が山田寺の名前を知ったのはもう何十年も前の話だ。

高校生の頃、興福寺の宝物展か何かを見に行った時に、若々しい、りりしい顔の大きな仏頭に出会った。ほんとうに印象的な仏頭だった。
解説にこれは興福寺のものではなく山田寺のもの、と書いてあった。どこにそのお寺があるかも知らなかったが、名前だけはしっかり覚えていた。

今では、山田寺が、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに飛鳥の地で建て始められた寺であることは知っていたが、山田寺跡をなかなか訪れる機会がなかった。

先ず、だいたいの位置を確認しよう。

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2011年の桜の季節にやっと気になっていた山田寺跡を訪れた!!
多分、ただの野原だけで、山田寺跡という標識が建っているだけだろう。
でも山田寺があった場所を一度は訪れたいとおもっていた。
車を停めるところはあるかしら?と心配しながら行った。

飛鳥資料館を過ぎると山田寺跡という標識が見える。
「右山田寺跡150メートル」の標識があったので、車を道端において歩いた。
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なんと、山田寺跡には駐車スペースがあった。
6,7台は駐車できそうだ。(無料)

入り口?の近くには珍しい白花タンポポが咲いている。
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すぐ目に付いたのは山田寺跡の立派な説明石碑
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下は金堂跡
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下は東面回廊のあった場所。説明板がある。
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下は東面回廊礎石(復元)
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こんなかわいいスミレも咲いていた。早春の宝石!
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宝蔵跡
ただの野原に見えるけど、四角く段が高くなってますね。
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下は回廊の礎石跡復元
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少しはなれたところには2,3人の人がよもぎ摘みをしていた。
人も少ない早春ののどかな田園。

山田寺の解説をwikiから

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。
蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。


創建の経緯
山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。
◎ということは大化の改新の二年前
大化4年(648年)には「始僧住」(僧が住み始める)とあることから、この頃には伽藍全体の整備は未完成であったが、一応寺院としての体裁は整っていたと見られる。大化5年(649年)には上述の石川麻呂自害事件があり、山田寺の造営は一時中断する。
その後、天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。
天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)にはその丈六仏像が開眼されている(「丈六」は仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分)。なお、この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。

発掘調査の結果や、出土した古瓦の編年から、以上の創建経緯はおおむね事実と信じられている。なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫にあたる持統天皇とその夫の天武天皇の後援があったのではないかと推定されている。

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◎蘇我倉山田石川麻呂って持統天皇のおじいさんなんですね!
蘇我倉山田石川麻呂
皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の変)、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。
その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されて孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

興福寺仏頭
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奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。
『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。
当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年(1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。


◎興福寺の僧が山田寺の本尊を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えたのですって!!
そして東金堂の火災の際に焼け落ち、頭部だけがかろうじて焼け残ったのですって!
それで新しく本尊を造りその台座に頭部だけになった本尊を押し込めたのですか。
記録に残さなかったのですから、邪魔になったから台座の下に押し込めたということですね。

ほんとにあきれた話ですね!


東回廊の出土
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山田寺跡は昭和50年(1975年)に国有地化され、以後本格的な発掘調査が実施されている。
発掘調査の成果のうち特筆すべきは、昭和57年(1982年)、東回廊の建物そのものが出土したことである。土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱、連子窓などがそのままの形で出土した。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれなケースであり、日本建築史研究上、貴重な資料である。
出土した回廊はポリエチレングリコールによる科学的保存処置を施し、うち3間分が復原された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されている。


◎山田寺東回廊に使われた木材はくすの木、まきの木だそうです
 
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by jumgon | 2011-04-12 00:21 | ★歴史散歩、講演会

飛鳥戸神社・飛鳥千塚

飛鳥戸神社(大阪府羽曳野市飛鳥1023)
百済系飛鳥戸造一族の祖神「昆岐王」を祀る神社

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Wikiを見てみよう
祭神現在は素盞嗚命が祭神となっている。これは、江戸時代に牛頭天王が祭神となっていたため、神仏分離の際に素盞嗚命に改めたものである。
当地は5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、本来は飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたものと考えられている。『三国史記』百済本紀には昆伎王は熊津時代の始めに百済で没したとあり、昆伎自身は帰国したとしても、その子孫が日本に残留したものと考えられる。なお、付近にある新宮古墳群(横穴式石室)は飛鳥造氏族の墓域とされる。
『河内国式神私考』では「安宿王」、『河内国式内社目録稿本』では「百濟氏祖神 俗称少名彦命」、『神社要録』では「百済氏祖神 名詳ならず」と記している。

◎もともとは、飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたようですね。
 時代とともに、祭神が変化したのですね。

歴史
創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
国史の初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)8月13日条、正四位下の神階を授けるという記述である。
延喜式神名帳では「河内国安宿郡 飛鳥戸神社」と記載され、名神大社に列している。江戸時代までは神宮寺として行基が開基した常林寺があり、聖武天皇の勅願所とされた。
明治初年に村社に列格したが、明治41年(1908年)に近隣の八幡神社(現 壺井八幡宮)に合祀された。昭和27年(1952年)に分祀され、旧社地の近くに再建された。

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雄略天皇(479年4月)、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
という記録がある。
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この地域は丘陵地でブドウの栽培が盛んである。 ワインの会社もある。この神社のあるふきんはぶどう畑だらけだから、とうぜんか~。
ちなみに
仲村ワイン工房、㈱河内ワインなど数社あるようである。
写真は仲村ワイン工房の自社農場

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梅酒で有名な「チョーヤ」はこのあたりが発祥で今も本社はこの地域にある。
また、このあたりの人の名字は、金銅や真銅がおおい。「チョーヤ」の社長・㈱河内ワインの代表取締役専務の名字も金銅である。。
武士や貴族以外は名字がなくて、明治になって自分で自由に付けたらしいが、なんとなく金属関係の技術者の末裔の様な気がする。
 
◎この地図を南にずらしてください。聖徳太子陵・用明天皇陵などがあり、王陵の谷と呼ばれていますす。さらに南へ行くと、近つ飛鳥資料館のある、一須賀古墳群があります。
神社はフドウ畑の一角に鎮座、狭い社域であるが、鳥居は南300m程の場所にあり、かっての規模を思わせる。
25年くらい前に(ふるさと歴史散)で一度行ったきりだが、結構分かりにくい場所にある。
駅から、坂をのぼっていく。一人だとみつけられたかどうか~。

この丘陵地帯には、古墳時代の後期に小型の円墳が群集して築かれた。その数が多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれている。ブドウ畑の奧の斜面には、新池西古墳群やオーコー古墳群、蛍の谷古墳群などの群集墳もある。

羽曳野市のHPより
神社の周辺は、「飛鳥千塚(あすかせんづか)」と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。
発掘調査で出土した副葬品(ふくそうひん)などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また 大宝律令(たいほうりつりょう)が施行された後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名が付けられており、飛鳥戸氏と深い地域であったことがわかります。


◎副葬品がどんなものだったか記されていないが、どんなものだったのだろう?

飛鳥千塚 
古墳時代の後期(6世紀)に造られたこのあたりの古墳は、「横穴式石室」と呼ばれる埋葬施設を持つ。
すなわち古墳の埋葬部分が、自然石を加工して積み上げた玄室(げんしつ)と呼ばれる死者を安置する大きな部屋と、その玄室への通路となる羨道(せんどう)で構成されている。

ところが7世紀になると、横穴式石室とは違ったタイプが出現する。「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれるもので、石室より狭い石槨に、横から木棺を納めるようになっている。
それが観音塚古墳である。

観音塚古墳かんのんづか:大阪府南河内郡太子町

鉢伏山から派生する尾根に築かれた直径12m、高さ3mの円墳です。埋葬施設は前室と羨道を有す切石造りの全長7mの横口式石槨で南に開口しています。
前室の奥に横口式石棺を取り付けた珍しい形式です。石槨内法は長さ1.93m・幅0.92m・高さ0.78mで床面の4周には溝が巡ります。
前室は長さ2.45m・幅1.44m・高さ1.66mで両壁とも切石で垂直に築かれており、天井部の前面には切石が斜めに渡してあります。
また前室入口には切り込みがあり扉の存在が予想されています。
石材の隙間には漆喰が塗られています。羨道部は長さ2.28m、幅1.44mで、西側壁の方が少し長く、幅はほぼ前室と同じ大きさです。
古墳の被葬者として飛鳥戸造一族の中で7世紀前半に死去した族長と考えられています。築造年代は7世紀前期。
(日本古墳大辞典:東京堂出版)

 古墳の案内板によれば、この古墳は新しい埋葬施設である横口式石槨を代表する古墳とされている。石槨(193×92cm、高さ78cm)は、付近で採れる安山岩を丁寧に加工して切石とし、これを精巧に組み合わせて造られている。さらに石槨の前には前室(245×144cm、高さ112cm)と羨道(長さ227cm)が付くという特異な埋葬構造になっている。案内板には、前室で死者と別れをする様子が描かれている。


横口式石槨とは
古墳時代の最後に登場した埋葬施設です。横穴式石室では羨道の奥に「部屋」があるのに対し横口式石槨では、お棺を納める「石槨」が取り付けてあります。おそらく前者が多葬を目的としたのに対し、後者は基本的に特定個人の単葬を目的とした物であったのでしょう。

この横口式石槨は7世紀後期、横穴式石室の小型化に合わせる様に出現し、主に近畿の支配者層の古墳に採用された埋葬施設です。
その構造は、石棺様施設の短辺側の一方に横口を設け、さらにその前に羨道などを取り付けたものになっています。九州や山陰地方の石棺式石室と共通の要素を持ちますが、石棺様の施設の中にさらに木棺や乾漆棺を納めるもので、内部には棺を納めるとほとんど余分な空間がなくなるものが多いところから、石棺式石室とは明らかに系譜を異なる物として区別されています。
 
こうした前室や羨道をもつ古いタイプの横口式石槨の分布中心が百済系渡来人の多い大阪府の河内南部、旧安宿郡内にあること、百済末期の古墳のなかに石槨様の玄室の前面に玄門を設け、羨道をつけた石室がみられることなどから、百済古墳の影響を受けて成立したものとの考えが有力です。しかし一方では高句麗古墳にも同様の形態を持つ古墳も確認されていますので、朝鮮半島の墓制の影響下で成立したにせよ、その起源については未だ明らかではないようです。

他に横口式石槨の例

手光波切不動堂古墳
福岡県・ 築造時期は7世紀中期。(続日本古墳大辞典:東京堂出版)
この古墳について「ひもろぎ逍遥」さんの詳しいレポートがあります。
http://lunabura.exblog.jp/14574444

牽牛子塚古墳
奈良県明日香村 築造年代は7世紀中期から後期。(日本古代史大辞典:大和書房)

越塚御門(こしつかごもん)古墳
  明日香村越で新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳の構造は、6世紀末~7世紀末に造られた終末期古墳の形式の一つで「刳り貫(くりぬき)き式横口式石槨(せっかく)」と呼ばれるタイプ。
◎横口式石槨って、あっちこっちにあるのですね!
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by jumgon | 2011-02-07 15:34
明日香村埋蔵文化財資料室

越塚御門古墳の見学会へ行く前に明日香村埋蔵文化財資料室を訪れた。
牽午子塚出土の装飾品(ガラス玉など)があると聞いていたから、気になっていた。
⇒ひもろぎ逍遥 http://lunabura.exblog.jp/i45/  参照してください

そこは他の発掘説明会(どの遺跡だか忘れた)があった折、出土品を展示していたので行ったことがあった。
水落遺跡のすぐ近くだ。
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明日香村が発掘した文化財を展示している。旧飛鳥小学校の建物を利用しているから、
ちょっとレトロな雰囲気。
すぐ隣に明日香の農産物を売ってる店もできた。
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残念ながら牽午子塚出土の装飾品(ガラス玉など)はもうなかった。
ボランティアの説明の人にきいたら、「飛鳥資料館あたりに持って行ったのかな?」
と言うことでした。

<明日香村埋蔵文化財展示室>
利用案内
◆利用時間: 平日の午前9時から午後5時まで
◆休日: 土、日、祝日、年末年始
◆入場料 : 無料
※特別展示等の場合は上記の限りではありません。

平成22年4月1日から平成23年3月31日までの期間、明日香村埋蔵文化財展示室の開館日を、下記のとおり拡大します。
◆休日 : 年末年始のみ
◆利用時間 : 午前9時から午後5時まで
※なお、土・日・祝日については、解説員を配置します。
◎ずっと、土日も開いて欲しいよ。私なんて日曜くらいしか行けないのだから~

主な展示内容
1)明日香村内出土遺物展示
2)キトラ古墳石室模型展示
 その他、村の文化財課で発掘している最新情報のスペースも...

◎今回資料室で見たもので興味のあるものを紹介しましょう。
①牽午子塚の石室の内扉・・・貴重なものですが見て面白いものではない。
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◎穴が2つ見えます。多分横に引っ張って開閉したのだろうと、いうことです。
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②★小治田宮(おはりだのみや)の井戸。
◎これはすごい!レプリカではありません。飛鳥時代の本物が残っていたのです。
  檜でつくられてるそうです。

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井戸枠内からは土師器や須恵器、墨書土器が出土しています。
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③キトラ古墳レプリカ
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キトラ古墳星宿図と干支図(復元)
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その他いろいろ展示されていました。
◎小治田宮(おはりだのみや)とキトラ古墳はもっと詳しく調べたいが
あまりに長くなりそうなので、そのうちにまた書きましょう。

◎3年半位前、キトラの壁画「玄武」公開の時は一時間以上並んで待った覚えがあります。
  キトラ古墳の資料は飛鳥資料館で展示されています。

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by jumgon | 2010-12-21 14:06 | ★資料館・博物館

三輪山信仰の変遷

三輪山信仰はどのように変化してきたか?

私は古い遺跡や古墳をめぐったり、出土品をみても「古い時代の物」くらいの認識しかなかった!
農具や武器などもいっぱひとからげに、「大昔のもの」でおわっていた。

やっとこのごろ、遺跡や出土品は、出土状況、時代をキッチリ意識したら、歴史の意味がすこしずつ見えてくることが分かってきた。

さて、以前から、大神神社について書いてきたが、それぞれの遺物、鳥居や摂社、末社等がどういう意味があるのかもうひとつハッキリしなかった。
いつから、どの摂社が追加されたのか、記紀に描かれた記述だけを信用していいものか分からなかった。

そんな時、つぎのHPで三輪山信仰の変遷を知ることができたので紹介する。
ただしこれも、筆者のただ今の見解で考えが変わることもあり得る、ということです。(歴史の見解はみなそうですが、、、、)

三輪山周辺の祭祀遺跡変遷http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.htmlより

三輪山周辺地域の分類・・・纏向・三輪・初瀬・三輪山の4地域に細分されます(寺沢1988)。
下の地図をご覧下さい。
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・纏向地域: 狭井川より北方で、桜井市と天理市の境界辺りまでの地域。
・三輪地域:東は三輪山がそびえ、西は狭井川と初瀬川(大和川)に挟まれた三角形の区域。古代歌謡では「水垣」といわれ、清浄な場所とされました。(田中八郎氏もここが「ミワ神の勢力地と書いている。」
・初瀬地域:三輪地域より以東の、初瀬川流域の一帯を呼称。広義の初瀬地域は、現在の長谷寺や天神山(与喜山)のそびえる辺りまでを呼びますが、本稿においては、現在の朝倉・忍坂地区周辺をもって狭義の初瀬地域とみなしたいと思います。
・三輪山地域:三輪山そのものを指します。

 この地域区分に沿って、三輪山周辺地域の祭祀遺跡変遷を見ていきたいと思います。

<前段階>(~3c初)
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○三輪地域が勢力集団の本拠地だった時期(~3c初)
○三輪地域に、芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡などの集落遺跡が集在。
○三輪山信仰は始まっていたが、三輪地域を「不入の聖域」と見る考え方には至っていなかったと見る。
○書記:崇仁天皇三年の秋九月。(紀元前94年?)屋敷を磯城(しき)に移した。
瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。
これから三代に渡り、纒向(まきく)遺跡周辺に宮が置かれることになる。) 

*以前から「水垣」地域に住んでいた人達のところへ、崇仁天皇が瑞籬宮をおいたのか、、、
 まだ対立は起きてなかった、とおもわれる。

<第1段階>(3c初~4c)
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○纏向遺跡が三輪全域を神聖視していた時期(3c初~4c)
○祭祀場は、纏向遺跡の集落内祭祀。
三輪地域は聖地化され、集落も墳墓も築造されず。blockquote>
*纏向地域が発展してきたのだろうか?
 集落は「水垣」から纏向地域に移ったようだ。 


<第2段階前半>(4c後~5c前)
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○三輪地域に祭祀場が設けられた時期(4c後~6c初)
山ノ神祭祀遺跡(前半)を中心に、三輪地域の祭祀場化。

<第2段階後半>(5c後~6c初)
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○山ノ神祭祀遺跡(後半)
奥垣内祭祀遺跡。三輪地域における子持勾玉祭祀の始まり。
○三輪地域北部に茅原大墓古墳の築造。


<第3段階>(6c前~7c初)
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禁足地における勾玉祭祀期(6c前~7c初)
三輪地域→禁足地へ祭祀領域がせばまった。
禁足地磐座群(中津磐座)を志向した祭祀の可能性。
○三輪地域北部で後期古墳が築造されていく。

<第4段階>(7c前~14c?)
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○禁足地内「長方形土壇(御主殿)」祭祀期(7c前~14c?)
○「屋代」としての祭祀場。禁足地磐座群の見える位置での祭祀。


<第5段階>(1317~)
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○拝殿祭祀期(1317~)
山岳登拝の慣習も普及し、「奥津磐座」「中津磐座」「辺津磐座」概念が生まれた。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。

○この頃になると、三輪山を中心として様々な磐座が設けられ、信仰された。


*ナルホド!!
 こんな風に整理されたら本当によく分かる。


子持勾玉の型式変遷略図
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[三輪山出土の子持勾玉] 
子持勾玉とは、大きい勾玉(親)に小さい勾玉(子)が突起の如く付属している祭具です。
三輪山周辺地域は、全国的に最も子持勾玉が出土している所で、その型式変遷から、大きく古式と新式の2期に分けることができます。
そして、その古式と新式の出土した場所に偏りがあることから、これも三輪山祭祀遺跡の分布変遷の傍証となりえます。
 
○三輪地域(芝遺跡・山ノ神遺跡・茅原源水遺跡)出土 → 古式の特徴。5c末ころ。
 ○禁足地出土 → 新式の特徴。6c代

古式の特徴は、断面が丸く、全体的に作りが曲線的であるという点です。子勾玉も忠実に再現されています。対して、新式の特徴は断面が平面的で、全体的な作りが直線的で、先端部が尖っているといった点です。子勾玉は、単なる突起に形骸化していきました。
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by jumgon | 2010-12-15 20:22 |  ○三輪神社・大神神社
11月24日・毎日新聞
秋津遺跡:大型建物群跡発見 ヤマト王権の重要祭祀施設か

大型建物群跡の見つかった秋津遺跡
 奈良県御所(ごせ)市の秋津遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)の大型建物群跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。
珍しい構造の塀で囲まれた国内最大規模の区画の中に、4棟が規則的に並んでいた。
同研究所は、ヤマト王権の大王か有力豪族が重要な祭祀(さいし)を行う施設だった可能性があるとみて、文献の少ない「空白の4世紀」を考える上で重要な成果だとしている。
 
秋津遺跡で出土した塀跡や大型建物跡(奈良県立橿原考古学研究所提供の合成写真を加工)
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昨年5月から約1万8500平方メートルを調査し今年1月、方形区画の一部を確認したと発表。これまでに区画が六つ見つかり、いずれも杭(くい)を打ち並べた溝の内外を、2~3メートル間隔で打った丸太で押さえる特異な構造の塀で囲まれていた。
最大の区画は南北50メートル、東西48メートル以上と国内最大規模で、内部に南北13.5メートル、東西7メートルの同じ大きさの大型建物跡4棟が、方位をそろえて規則的に並んでいた。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡も計52棟確認された。
 
区画内からは生活に使われる土器がほとんど出土せず、北側の川跡に供物を置く高坏(たかつき)など祭祀用具が大量に捨てられていたことから、橿考研は「内部を清浄に保ち、祭祀を行った施設の可能性がある」とみている。

 
中国の歴史書「魏志倭人伝」は3世紀の卑弥呼、「宋書倭国伝」は5世紀の「倭の五王」について書かれているが、4世紀の記述はなく、古代史上「空白の4世紀」とされる。

 この施設で誰が祭祀などを行ったかについて、学者の間からは
ヤマト王権
▽5世紀に大王(天皇)の外戚(がいせき)として栄え、この地域を支配した葛城(かづらき)氏につながる豪族--などの見方が出ている。
 
現地説明会は28日午前10時~午後3時。JR玉手駅の南西約1.4キロ。駐車場あり。雨天決行。【高島博之】(実はこの日体調が悪くて行けませんでした!)

◎現地説明会にいった方の情報によると、

■「馬歯」の出土品があった。
◎この時期にすでに馬がいた。
唐古・鍵の団栗山古墳からも、馬具(蛇状鉄器)が出土しているから、馬は弥生時代からいたと推測できる。
(⇒★唐古・鍵ミュージアム)

■「鉄滓とふいご」も出土していた。
◎一般には製鉄は古墳時代後期より遡らないと言われている。(⇒日本における鉄の歴史
◎また、塀があったということは、木を加工するのに鉄器は必要であり鉄器を生産又はどこかから手に入れていた。

塀と大型建物の復元イメージ図(県立橿原考古学研究所作成)
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 大王をしのぐ力 
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
「後の葛城氏の根拠地に当たり、その王宮とも言えるのではないか。大規模な施設から、葛城氏が大王をしのぐ力を持っていたことがうかがえ、4世紀の政権構造を明らかにするきっかけになる」

葛城氏とは? 
奈良県御所市など葛城地方を拠点とした古代の有力豪族。4世紀末~5世紀初めに実在した葛城襲津彦(そつひこ)が始祖。その娘は仁徳天皇の皇后となり、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)天皇の母となった。
5世紀後半、雄略天皇に首長の葛城円(つぶら)が滅ぼされたのを機に衰退したとされる。古代、一帯は奈良盆地南の交通の要衝。

葛城襲津彦について「古事記の神々」というブログで語られています。
http://himeluna.exblog.jp/
 
関連の遺跡では、南西約1キロに始祖・葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる室宮山(むろみややま)古墳があるほか、葛城円(つぶら)の居館跡といわれる極楽寺ヒビキ遺跡などが御所市内で見つかっている。だが、いずれも5世紀代の遺跡で、それ以前の葛城氏の実像は不明だった。


<宮山古墳>
全長238mの前方後円墳で、別名「室の大墓」とも言う。明治年間に前方部から木棺と鏡11面、さらに玉類が多数出土し、大正10年に史跡に指定された。
その後、昭和25年に奈良県橿原考古学研究所が発掘調査を行い、竪穴式石室内に六区の方形を刻した長持形石棺が安置され、封土上には石室を囲って短形に靭、盾、短甲、草摺、家等の埴輪が立ててあったのが確認された。
橿原考古学研究所の室宮山古墳の石棺模型
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後円部径105m、後円部高25m、前方部幅22m、前方部高22mを測る、3段築成の古墳時代中期(5世紀)の古墳と考えられる。三段に造成された墳丘には、花崗岩を割った葺石がまかれ、石室の上にはさまざまな埴輪が方形に並べられていた。
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(橿原考古学博物館蔵)
これらの埴輪のうち、高さ142.6cm、最大幅95.5cmの靫形埴輪は特に有名である。銅部の上端に有茎式柳葉形鉄鏃が表現され、左右に広がったヒレとその表面の装飾は渦巻き文や直弧文で構成された豪華絢爛なもので、現在墳丘上にレプリカが立っている。埴輪の列の下に竪穴式石室があり、その中に長持ち型の組み合わせ式石棺が納められている。
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by jumgon | 2010-12-01 16:39 | ★葛城
辰砂について、新しい情報(私にとって)見つけましたので、追加します。
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/cc/51.htm
(徳島博物館)より

辰砂(しんしゃ)の精製
高島 芳弘
 

神聖な色「赤」 

赤い色は神聖な色として、旧石器時代、縄文(じょうもん)時代から土器や木製品の表面に塗られたり、人を墓に埋葬するときに上から振りかけたりして使われてきました。これらの赤色顔料にはベンガラと辰砂(水銀朱)の二種類があり、鉛丹(えんたん)は奈良時代になるまで使われませんでした。

 西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになります。
◎そうか、辰砂の粉末は振りかけられただけなのか、、、、。私は何か接着剤があったのかどうか疑問だった。遺体や石棺が動き出すわけないから、振りかけるだけで十分だったんだ。土器なんかには粘土に混ぜたのかな?
奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室の中には41kgの辰砂が使われていました。(⇒誰も埋葬されていない古墳)

古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、出土しています。(図1)
徳島県鶴島山二号墳出土 
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辰砂の採掘・精製と石臼・石杵 

辰砂の採掘は縄文時代から行われており、なかでも伊勢水銀として古くから知られている三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、縄文時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野(うれしの)町天白(てんぱく)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿、磨石や朱容器と考えられる土器が数多く出土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことがわかります。徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたようです


 弥生時代以降の辰砂の採掘では徳島県阿南市の若杉山遺跡が有名で、弥生時代終末期~古墳時代初頭の一大産地であったと思われます。
若杉山遺跡出土
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 古墳からの出土品には、福井県丹生郡の朝日古墳群中条4号墳から出土したものや大阪府の野中古墳の出土品のように、きれいに整形されているものが多く見受けられますが、なかには福島県の会津大塚山古墳出土例のように自然石を利用したものもあります。
 
 若杉山遺跡では、石臼は40点以上、石杵は300点以上出土しています。大部分の石臼には石杵によって叩かれてできたくぼみが何カ所かあり、石杵には両端に潰れた跡や小さく欠けた跡がみられます(図3)。これらのことから、若杉山遺跡では辰砂の採掘、おおまかな粉砕の作業が中心に行われており、微粉化はあまり行われていなかったのではないかとも考えられてきました。
 
  
 名東遺跡出土のすりつぶしに使われた面を持つ2点の石杵はこれだけであり、ここにいったん集めて畿内方面に再び運び出したと考えるには、石臼・石杵の量が少ないような気がします。
徳島市の名東(みょうどう)遺跡出土の石杵
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板野町の黒谷川郡頭遺跡、徳島市の矢野遺跡も同様だと思われます。 
 これに対して辰砂の産地とは遠く離れた兵庫県龍野(たつの)市の養久(やく)山・前地(まえじ)遺跡から朱の付着した非常に大きな石臼が発見されています。ここの住居跡で最終的な精製を行い周りの集落に配布していたと考えられています。 

辰砂の流通 
弥生時代終末~古墳時代初頭の辰砂の採掘遺跡である若杉山遺跡が確認されて以降、古墳の石室で辰砂が大量使用されること、ほかに採掘遺跡が見つかっていないことから若杉山遺跡から畿内へ向けて辰砂が運び出されたと考えられてきました。

◎あれ、ヤマト地方にはそんな遺跡は出てないのかな?まだ発掘されてないだけかな?
しかし、辰砂を産出しない龍野のような地域で、辰砂の最終的な精製が行われていたとすれば、辰砂は産地から消費地へ直接運ばれたと考えた方がよいのではないでしょうか。辰砂をすりつぶすための石臼・石杵がもっと多く出土する遺跡が出てきたときに、そこを集散地的な性格のムラと考え立地と合わせて検討する必要があります。
 古墳出土の辰砂の産地については、はっきりとはわかっていません。なかには赤い色が水銀朱なのかベンガラなのかさえわかっていない場合もあります。
 
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by jumgon | 2010-11-24 21:04 | ★辰砂・水銀
近つ飛鳥風土記の丘

日本を代表する群集墳・「一須賀古墳群」を保存し、褐貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として設置した史跡公園です。

ここに、「近つ飛鳥歴史資料館もあります。

*この資料館の名前の「近つ飛鳥」って、どういう意味?

資料館の学芸員さんが教えてくれました。

難波の宮から
●近い飛鳥が「近つ飛鳥」(大阪府南河内郡周辺)
●遠い飛鳥が「遠つ飛鳥」(いわゆる奈良県明日香村周辺です。)

 近つ飛鳥歴史資料館は大阪府南河内郡河南町にある、一須賀古墳群の地域に建っています。
 建築家・安藤忠雄氏の設計です。
コンクリート打ちっぱなしのユニークな建物です。
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階段のはるか先に神殿があるみたいな雰囲気ですね。
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一須賀古墳群は径15m前後の円墳内に横穴式石室を中心とする約250基からなる南河内最大の古墳時代後期群集墳です。 
1966年(昭和41年)、上野勝巳がその分布を紹介。古墳群は6世紀前葉から7世紀中頃に、基本的には丘陵先端から上方に向かって形成される。石室は羨道が短く、玄室平面プランは正方形気味で推移し、
石室内は2~3体を埋葬するケースが最も多い。遺物では金銀製品、ミニチュアの炊飯具が特徴的。


この古墳群は周囲の古墳と異なり、渡来系のものと考えられる副葬品が発見される。
特にミニチュア炊飯具と呼ばれるものが出てくることで知られる。
現在ここからは20例近く発見されているが、これは、滋賀県湖西地方などごく限られた範囲でしか発見されていない。また、古墳の近くから発見される須恵器、須恵器窯は朝鮮半島から技術が入ってきたごく初期の頃のものであることが分かっている。


ミニチュアの炊飯具
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 何という氏族がこの群集墳を形成したかは、非常に興味がある。上記のように、ミニチュアの炊飯具が多数出土することから、百済系渡来氏族の奥津城だったとの推測がなされている。その推測を補強するような史実がある。

雄略天皇の時代、百済の王族の昆支王(こんきおう)とその一族郎党が渡来して住み着いた場所は、後に「飛鳥戸郡」と呼ばれる土地であったという。
大和朝廷が百済王族に対して無人の原野を与える訳はない。昆支王が来朝した頃には、飛鳥戸郡やその周辺には、半島からの渡来人がすでに多数住んでいたはずである。百済王族とその郎党にはその中の一等地が下賜されたにちがいない。

一須賀古墳群はこうした百済系渡来人の居住地から指呼の距離にあり、彼らの奥津城、つまり共同墓地霊園だったと思われる。 


資料館の学芸員さんが横穴式石室を案内してくれた。
たくさんあるので全て見るわけにもいかない。
石室には、石棺もあるが多くは木棺だということだ。(釘らしきものがあった。)
とにかく山の中のかなり急な坂を登ったところにたくさんある。
木棺ならまだしも、大きな石棺が急な坂を上がったところにあり、どうやってこれを運んできたのだろう?と不思議だった。
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修羅なんかこんな狭い坂道で使えるだろうか?
石棺の素材は、近くの二上山のものもあるが、遠く高砂あたりの石もあるとのことである。

石室はたいていは小さな石を積み重ねて造られていたが人の背丈ぐらいの大きな石が使われた石室もあった。
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線刻などの修飾はないようだ。
下の写真は D-4号墳
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この古墳群から出土したものが資料館にある。

金製垂飾り付耳飾・銀製釵子(かんざし)
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金銅製沓復元模造品
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このきらびやかな沓、実際に履いてたものじゃないですよね。沓裏にまでジャラジャラ飾りがついている。
たしか「藤ノ木古墳」からもこんなのが出ていたと思う。
大王でもない人のお墓にこんなものが副葬されてたなんて!!

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by jumgon | 2010-11-22 23:22 | ○一須賀古墳群
大和川と石川が合流する地点を少し奈良の方に進むと、弥生時代の史跡高井田横穴群がある。
30年位前からその存在は知っていたが、当時は写真でみると、山の中の木や笹などの間から穴があちこち見える、といった感じで、一人で行くのはちょっと恐い感じであった。
現在は、「史跡高井田横穴公園」となってそばには「柏原市立歴史資料館」が出来ていて、柏原市の歴史がわかるようになっている。
前回アップした、「大和川付け替え」についての資料も展示されている。


奈良方面から亀瀬峡谷を通り抜けてようやく河内平野へ流れ出た大和川は、石川と合流する手前で大きく北へ蛇行する。
その蛇行地点に近い北岸は、生駒山系の南端にあたる。鬱蒼と樹木が生い茂った丘陵が河岸近くまで張り出してきている。樹木を育てている土の表層を一枚まくれば、その下には凝灰岩(ぎょうかいがん)が横たわっている。
今から1000万年以上も前に、二上山の噴火で降り注いだ火山灰が固まってできた岩盤だ。
凝灰岩は柔らかい。掘るのが簡単で、加工もしやすい。そうした性質を利用して、この地域に盤踞した古代氏族は、丘陵の斜面に多くの横穴を穿ち集団墓地を築いた。6世紀の中頃から7世紀の初めころのことで、ちょうど聖徳太子が生きた時代にあたる。

横穴をめぐる遊歩道
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史跡高井田横穴は、総数200基以上と推定される大規模な横穴群です。
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横穴は、6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたお墓で、二上山の火山灰が積もってできた凝灰岩と呼ばれる岩盤に洞窟のような穴を掘り、 死者をほうむったものです。横穴からは、土器や武器、装身具などが発見されています。 また、人物、鳥、馬など様々な線刻壁画が描かれた横穴もあり、貴重な文化財です。


現在までに確認されている横穴墓の数は162基、実際には200基以上はあると推測されているという。
この史跡を有名にしているのは、横穴墓が密集していることもさることながら、線刻壁画が描かれた古墳が27基も存在することだ。

壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまである。何を描いたのか理解できない線刻も多数あるという。
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27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳だろう。玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、よく知られた複数の人物が描かれている。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれている。この人物は、左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っている。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようだ。

その左には「正装の人物」が描かれている。船に乗る男と同じ服装をしているが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしている。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいている。船に乗る男を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っている。

高井田山古墳
高井田横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかった古墳で、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳である。
埋葬の主体部は内部に薄い板石を積み上げた初期横穴式石室だった。近畿地方では最も古い横穴式石室とのことだ。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)があった。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品である。

ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんの話によれば、「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けている。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。」と言う。
桑野さんによれば、畿内の横穴式石室には2種類あって、朝鮮半島からいったん九州を経て伝わったもの(5世紀半ばころから)と、直接畿内へ来たもの(6世紀頃から)とに分けられると言う。
百済との関係を裏付けるのは、石室の形態と副葬品である。
石室を上から見た形は九州のものと違って「韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」という事になる。(よく判別できないけれど、、、)
また、資料館に行けば見れる古代のアイロン、火熨斗(ひのし)の出土は、国内では2例目であるが、中国・朝鮮では多く出土している。
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百済の武寧王陵では、王妃(526年没)の副葬品として出土している。高井田山古墳でも、玄室には副葬品から見て二人埋葬されていた可能性が高く、火熨斗が出た方の棺からは中国産の鏡も見つかっている事から、こちらも女性の可能性が高い。
その他に、純金製やガラス玉製の耳飾り、剣、槍、矛などの武器類や甲冑(かっちゅう)、および神人龍虎画像鏡と呼ばれる銅鏡などが出土した。
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by jumgon | 2010-11-18 21:45 | ★高井田甌穴群(柏原市)
旧石器時代の遺跡
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平成4(1992)年春、大阪府羽曳野市のほぼ中心にあたる市街地の中で行なわれていた発掘調査によって、それまで予想もされていなかった旧石器時代の大遺跡、翠鳥園遺跡(すいちょうえんいせき)が発見されました。
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羽曳野丘陵の一帯には旧石器人の生活の跡が数多く残っています。向こうに見える二上山のふもとからサヌカイトが運ばれ、石器が作られていました。
(●が翠鳥園遺跡)

発掘調査の結果、ここは人が住んでいた集落ではなく、石器を作るアトリエだったことが分かりました。
石器時代の遺跡として近くに国府遺跡があります。
あそこで出土したナイフ型石器もこのアトリエでつくられたのかしら?
そうだとしたら、ここまで通勤しにきたわけだ。(勿論徒歩で)
近いといっても自転車で20分以上はかかるけど(私を基準にしてます)、古代の人は私たち現在人と比べたら足は丈夫だったことでしょう。
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国府遺跡は地図の右端の河を北へ行ったところにあります。(地図にははいってません)

羽曳野市の説明書きを読みましょう。
およそ1万8千年前の、石器やそれを作るときにできる石の破片が約2万点もみつかりました。二上山の周辺で採れるサヌカイトという硬い石から作った先の鋭い道具で、ナイフ形石器と呼ばれています。当時、それを使って獲物を仕留めたり肉を切ったりしていたと考えられています。旧石器時代の遺跡としては国内最大級です

スーパーマーケットの駐車場の近くにあるこの遺跡は見つかりにくかった。
先ず目に入ったのはこのモニュメント。
説明書きによると『このモニュメントは石器を作るために打ち割られたサヌカイトをかたどったものです。』と説明されています。
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広場の中に円筒菅をななめに切ったみたいなものが見えますね。これが作業した位置を示します。こんなのが30か所以上あります。
周りに石の破片がイッパイ散らばっていたそうです。
説明板より
石器類は遺跡のあちこちに散らばっているのではなく、1mから2mほどの限られた範囲にまとまっています。石器類が集中する場所の中には、打ち割られた石片や石くずが飛び散ったようすがそのままに保たれているものもあり、そこが石を割った場所、すなわち石器作りの場所(アトリエ)であったことがわかります。
 3,000点以上ものたくさんの石器類が残る規模の大きなアトリエでも、石の飛び散り具合でわかる作り手の位置は1か所で、身体の向きや位置をかえた形跡はありません。1つのアトリエは1人の人の、半日か1日程度の短い時間の作業場であったと考えられます。
 遺跡全体では30か所以上の石器作りの跡がありますが、それぞれは重ならずに間隔を置いて分布し、規模の大きなものは2つか3つが並んでいるようです。おそらくここは、何人かの人が、短期間に集中して石器を作った場所だったのでしょう。

石器を作っている様子をイメージしたもの
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石器って分かりにくいですよね!博物館とかでみても、、、ただの石ころか、石器なのか?

(やじり)みたいな形は人為的なものだと分かるけど、、、、、。でも何度か見てるうちに「ナイフ型石器」を区別できるようになった気がする。
時代をおって石器を見ていきましょう。
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するどく先の尖ったナイフ形石器と呼ばれるもの。棒の先に取り付けてやりのようにして使った狩りの道具と考えられます。
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説明板より
 翠鳥園遺跡の石器類で特に重要なのは、石のかけらどうしがひっつき、割る前の原石の状態を復元できる接合資料が数多くあることです。これをくわしく分析すると、石を割って石器を作り上げる経過を具体的に確かめることができます。さらにその結果を石器類が残されていた位置と合わせて検討すると、旧石器人がアトリエで行なった石器作りのようすをそっくり再現することもできるのです。

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上の写真は原石の状態にまで復元された石器の接合資料。空白の部分は石器として完成し、他の場所へ持ち出されたところです。平均1.5kgほどの重さの原石から作られた石器は多くても10個前後で、大半は石くずになってしまっています。

スゴイ!立体ジグソーパズルだ!
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by jumgon | 2010-10-17 00:58 | ○旧石器時代・翠鳥園遺跡