古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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当麻寺を創建したのは聖徳太子の弟の麻呂子皇子だという。

◎聖徳太子の弟?
 聖徳太子に弟がいたのですか?(ほんとうに何も知らないわたし~)


wikiによると
父である用明天皇には以下の子女がいる。
o第一皇子:田目皇子(または多米王。別名豊浦皇子)
o第二皇子:厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう)
o第三皇子:当麻皇子(別名麻呂子皇子) - 征新羅将軍。当麻公・当麻真人の祖
o第四皇子:来目皇子(または久米王) - 撃新羅将軍。登美真人の祖
o第五皇子:殖栗皇子 - 蜷淵真人(みなぶちのまひと)の祖
o第六皇子:茨田皇子
o皇女:酢香手姫皇女(または須賀志呂古郎女[4]) - 伊勢斎宮

麻呂子皇子についてこの機会に調べてみよう。
(当麻皇子)(たいまのみこ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀初期にかけての皇族。麻呂子皇子ともいう。
●602年(推古天皇10年)征新羅将軍であった異母兄弟の来目皇子が没した後、翌年の603年4月に征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が没したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。

◎ということは、当麻寺の前身である万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立したのは推古天皇20年(612)だから、征新羅将軍となったのは、その前だということになりますね。

ほかにも「麻呂子(まろこ)親王」に関する記事を見つけた。

http://www.ryoutan.co.jp/re/oni/2003re4.htmlより
神と鬼の山 4 日本の鬼の交流博物館館長 村上 政市
無量寺縁起と仏谷-福知山の麻呂子親王伝説-
 
麻呂子(まろこ)親王、これもあまり聞きなれない名前だと思いますが、聖徳太子の異母弟とされる人物です。
 この麻呂子親王が、三上山(大江山)にすむ、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)という三鬼にひきいられた鬼どもを討ったという伝説が、当地方の古社寺の開創縁起となって伝えられています。
当地に仏教が流入した時期と麻呂子親王の時代とではズレがありますから、先行していた麻呂子伝説を、寺社創始の権威づけのため利用し混合していったと考えるべきでしょうか。 
この両丹地方には、大江山の周辺を中心に実に多くの伝説関連地が残っており、地名の由来となっているケースも多くみられます。
今回の話の中で、そうした福知山に残る麻呂子親王伝説を紹介しようと思いますが、中でも、筈巻の無量寺に残る縁起書は、年号の記されている縁起書としては、両丹地方最古のものですし、ゆかりの仏像もまつられています。
また雲原の仏谷(ほとけだに)は、親王が鬼退治を祈って、七仏薬師を刻んだところと伝えています。長安寺や長田の願来寺など、親王ゆかりの薬師如来像をまつると伝える寺院もあります。
 私が、この麻呂子伝説で一番興味をもっているのは、大江町河守の清園寺の「古縁起」に、親王に討たれた鬼どもが、「火」と「風」と「水」を自在にあやつるとあることで、「火」「風」「水」をあやつるのは、古代製鉄に従事したタタラ師たちではないかと思っています。麻呂子親王が、この地方では、もっぱら「金丸親王」とよばれ、「金屋皇子」とも呼ばれていること、それに鬼の首領の「英胡」の「胡」は、早くから製鉄技術をもっていた中国の胡族を連想させるのです。 

大江山には古い時代のタタラ跡が残っています。「魔谷」(大江町北原)、「火の谷」(福知山市天座)など、タタラ跡のあるところは、鬼を思わせる地名ですね。麻呂子親王伝説の裏にひそむ鉄の争奪を、私なりに推論してみたいと思います。


http://kammuri.com/s1/oni/maroko/index.htm
凡海郷(おおしあまのさと)より
●麻呂子親王伝説

日子坐王の土蜘蛛討伐から約六五〇年後、丹後國に再び官軍が派遣されるに至りました。
●日子坐王
 
日子坐王は、記紀系譜によると開化天皇の子で崇神天皇の弟とされる皇族で、四道将軍「丹波道主命」の父にして古代十九氏族の祖とされていますが、実在を疑問視する声も多い謎の人物です。

日子坐王に討伐された陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛は丹後國中の青葉山に棲んでいましたが、今回麻呂子親王(マロコシンノウ)を大将軍とする官軍が討伐の対象とした『鬼』たちは、陸耳御笠が逃げ込んだとされる三上ヶ嶽(現在の大江山)に棲んでいました。

●妖術を使う三鬼 
第三十一代用明天皇の御代、丹後國河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に、英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)、土熊(ツチグマ)の三鬼を首領とする多くの鬼が棲み、丹後はまるで魔國のようになっていました。
 朝廷は鬼を討伐すべく、知勇兼備の麻呂子親王を大将軍とする官軍を遣わす事に決し、勅を奉じた麻呂子親王は、岩田・河田・久手・公庄の四勇士をはじめ一万綺からなる大軍を率いて三上ヶ嶽へ攻め入りましたが、鬼は妖術自在(空を翔び、海を渡り岩をくぐり、雲をおこし雨を降らせ、身を隠したり顕れたり)で斬りつける事も矢で射る事もできませんでした。

神仏の御加護と白い犬 
鬼の妖力の前に人智は全く歯が立たない事を悟った親王は、神仏の御加護を以て鬼を討ち果たそうとお考えになりました。
一旦兵を引かせた親王は、自ら七体の薬師如来像をお彫りになり、「もしも鬼を討ち果たせたならば、この薬師如来像を祀って丹後に七寺を開きます」と祈誓され、併せて天照皇大神と天神地祗に祈願されました。
するとどうでしょう。
親王の元へどこからともなく額に鏡を付けた白い犬が現れました。この犬が神仏の御遣いであることを察した親王は、白い犬を先頭に三上ヶ嶽へ攻め入ったところ、鏡の光が次々と隠れていた鬼の姿を照らし出し、鬼の妖力をことごとく封じてしまいました。
 鏡の聖なる力によって身動きが取れなくなった鬼達は最早官軍の敵ではなく、麻呂子親王は無事勅命を果たす事ができました。

◎白い犬は神聖なものとされていたようですね。古事記・雄略天皇の段にも白い犬は出てきます。

三鬼の末路
三鬼のうち、英胡と軽足は官軍に討ち取られましたが、土熊のみは生け捕られました。
土熊は生き残った鬼達共々助命を願い出たため、親王は「七体の薬師如来像を安置する七つの寺の土地を一夜のうちに開くならば、命だけは助けよう」と申されました。
 鬼達は喜び勇んで七寺の土地を開墾したのち、丹後半島の先端にある立岩に封じられました。
七薬師伝説 麻呂子親王御開基の七薬師寺を主張する寺院は、現在七ヶ所以上ありますが、「多禰寺縁起」によると以下の通りです。

一、施薬寺(与謝野町)・・・・・・桓武天皇勅願所、旧根本寺
二、清園寺(福知山市大江町)・・・・・・略縁起と縁起絵は府の指定文化財
三、元興寺(京丹後市丹後町)
四、神宮寺(京丹後市丹後町)・・麻呂子親王のものと伝わる墓がある
五、等楽寺(京丹後市弥栄町)
六、成願寺(宮津市)
七、多禰寺(舞鶴市)・・・・・・用明天皇勅願所、西国薬師第三十番霊場

 また、大江町の如来院(古くは仏性寺と呼んだと思われる。日本の鬼の交流博物館のすぐ近く)も麻呂子親王御開基と伝えられる古刹であり、本尊の薬師如来像の胎内仏は親王の護身仏と伝えられています。 更に、仏性寺の山号を鎌鞭山と云いますが、これは親王が鬼達を討ち取った後に武具である鎌と鞭を納めた事に由来すると言われています。

 その他七薬師寺伝説の寺としては、円頓寺(京丹後市久美浜町)・月光寺(廃寺、京丹後市大宮町)などがあります。
親王の足跡 
今日、丹波・丹後には七十ヶ所以上に麻呂子親王にまつわる伝説が残っています。
 その一部を列挙すると
・京都府福知山市雲原に「仏谷」という地名があり、麻呂子親王はここで七体の薬師如来像を彫ったとの伝説がある。
・大江町の元伊勢皇大神社には、「麻呂子親王お手植えの杉」と呼ばれる杉の巨木が現存する。また、皇大神社には麻呂子親王勧請説がある。
・ 与謝野町の大虫神社(延喜式内社)には、戦勝祈願のために親王自らが彫った神像が納められていた。また、白い犬の鏡も合祀されていた。(いずれも火災で焼失)
・ 与謝野町に、「二つ岩」と呼ばれる巨石がある。これは大江山から親王めがけて鬼が投げつけた巨石で、親王はこの岩を刀で受け止めて真っ二つに切り裂いたものであるとの伝説がある。
・京丹後市丹後町の竹野神社は、麻呂子親王を合祀していると伝える。近くには土熊を封じたとされる「立岩」があり、「鬼神塚」も現存している。
・大江町に美多良志(ミタラシ)荒神という小祠があり、親王の大願成就と同時に死んでしまった白い犬を祀っているという。
 膨大な麻呂子親王伝説は、後年の源頼光による鬼退治の物語『酒呑童子伝説』へと昇華していきました。
付記2・英胡、軽足、土熊 
清園寺略縁起(京都府指定文化財)には奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)の名で登場します。研究者は、こちらの呼称の方が古く、本来はこの呼び方ではなかったかとしています。

◎奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)って不思議なヒビキ。
 ツチグマはツチグモと同じことかな?

付記3・鉱物資源を巡る争い 
数年前、私が福知山市大江町にある「日本の鬼
の交流博物館」を訪れたとき、運良くあるお方にお話を聞く事ができました。
 あるお方曰く、
 陸耳御笠が棲んでいた青葉山も、三鬼が棲んでいた大江山も、古くから海洋交通の目印であり、修験の山であり、鉱物資源の豊富な山として知られてきました。この山を支配してきたのは海人族であり、製鉄民でありました。鬼とは製鉄民族の事なのです。大江山を始めとして、丹後には沢山のタタラ場がありました。
 鉱物資源と優れた技術を押さえる事は、古代に於いても現代に於いても、戦略上極めて重要な事です。
 丹後の鬼と官軍との戦いは、丹後の地方勢力と大和朝廷の、鉱物資源争奪戦だったのです。
聖徳太子は秦河勝を使って次々に地方豪族を滅ぼしていきましたが、丹後の攻略も聖徳太子の意志であったのではないでしょうか?最も、聖徳太子も母親が海人系の間人皇后ですから、海人族の血を引いているのですが・・


◎他の地方にも「麻呂古親王伝説」があるかもしれない。
 どなたかご存知の方、ご教示ください。

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by jumgon | 2011-05-20 19:04 | ★言語、歴史
新沢千塚古墳群と千塚資料館
http://www.nantokanko.jp/mytown2008125.htmlより
概略を確認しておこう。


〒634-0826  【橿原市千塚資料館】橿原市川西町858-1
問い合わせ先      TEL 橿原市千塚資料館 0744-27-9681
休      日      【新沢千塚古墳群】 無休
【橿原市千塚資料館】月曜日(祝日の場合は翌日)
料      金    【 新沢千塚古墳群】無料
              【橿原市千塚資料館】大人100円、中学生~大学生70円、小学生50円
見      学     【新沢千塚古墳群】自由
【橿原市千塚資料館】  9:00~17:00(入館は16:30まで)
交通(マイカー)南阪奈道路葛城ICから国道165号経由、約6km、約12分
交通(公共交通機関)近鉄橿原神宮前駅から近鉄御所駅行きバスで約12分、川西下車すぐ
駐  車  場      【新沢千塚古墳群】無し
【橿原市千塚資料館】  有り/無料

発掘調査は、1947年(昭和22年)以来、1962年(昭和37年)からの本格的な調査までに数度実施されている。この地域は昭和30年代に農林省の計画が実施されることの事前調査として、1962年(昭和37年)から5カ年計画で実施された。
その結果、古墳時代の新たな研究課題が提起され、保存へと繋がった。その後史跡にも指定され、市や県の計画の事前調査が実施された。1962年(昭和37年)の調査で、粘土槨を内部主体とする前方後円墳である500号を含む23基の古墳が発掘された。500号墳から古墳時代前期に類する副葬品が検出され、その中に懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。
1960年代に同志社大学などにより調査が行われ、約130基が調査された。武具、馬具をはじめとして副葬品は豊富に出土したが、5世紀後半の126号墳からは、大量の装飾品とともに、日本史上初の火熨斗(ひのし)、の出土や、中国を経由せず西域から新羅経由でもたらされたと見られる希少なローマンガラス製品の出土があり、古代日本の交易範囲の広さを立証する遺跡として報道され、当時全国的に大きな話題となった。

126号墳の出土品は東京国立博物館に所蔵されており、一括して国の重要文化財に指定されている。
資料館にはそれらの出土品のレプリカが展示されています。

さて、そろそろ千塚資料館のなかを見てみましょう。

目をひく物はたくさんあります。
【126号墳の出土品】
◆金製歩揺
とてもきれいなスパンコール
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◆金製方形冠飾・垂飾つき耳飾り
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◆金製螺旋状髪飾り
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◆金堂製帯金具
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◆銀製指輪
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◆金製指輪の写真(横から・上から)
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◆棺に納められた様子をあらわしたイラスト
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◎多分女性だったのでは、、、。でも古代人は男性でもアクセサリーをつけてますけど~
◆火熨斗(ひのし)とガラス皿・ガラス碗
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◎火熨斗は柏原市「高井田横穴群」からも1点出土しています。今のところ日本では2点しか出土していません。この被葬者はかなりの身分の人だったのでしょうね!
◆ガラス製品が運ばれたルートの地図
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◆鉄刀
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◆出土した位置どおりに並べられた様子
この写真は
http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.htmlよりお借りしてきました
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【115号墳】
◆115号墳説明板
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直径18mほどの円墳で、築造された時は周りに円筒埴輪が巡らせてあった。その中央に箱形の木棺が直接埋葬されていて、発掘調査で衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と三角板鋲留短甲(さんかくいたびょうどめたんこう)が一式見つかった。さらに五鈴鏡や二神三獣鏡、鉄鏃(てつぞく)なども出土したという。おそらく武人的性格の族長を埋葬した墓であろう。

◆115号墳から出土した衝角付冑、三角板鋲留短甲、頸甲、肩甲
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三角板鋲留短甲、頸甲、肩甲(*1)
◆115号墳から出土した五鈴鏡と二神三獣鏡
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【南山4号墳出土鉄製品】
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◎雁股鏃 とは
雁 かり 股 また 鏃 ぞく :鉄でできていて、先端が二股に分かれているやじり です 。
◎ここからも鉄ていが出土している!!

【156号墳を再現した展示】
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まだまだ橿原市出土のお宝はいっぱいあるけれど今日は新沢千塚に絞ってアップしました。
それにしてもスゴイきらびやかな出土品ですね!!
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by jumgon | 2011-05-07 15:55 | ★新沢千塚古墳群と千塚資料館
真弓常忠「古代の鉄と神々」より

わたしはこの本を読んで、今までの自分のわずかな知識をつなぐ大きなヒントを得た。
それで要点をまとめて、書きとめておきたいと思う。
まとめ方は自分流に取捨選択しているし、氏の意図した事とは違うように解釈しているかもしれない。
だから、このペーは真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」の正確な要約では無いことを断っておく。

稲つくりと鉄
■縄文時代晩期に稲種がもたらされて、水稲耕作はわずか100年ほどの間に日本列島のほぼ全域にいきわたった・
■水稲耕作を推し進めたのはなにか?
 それは鉄製農具か鉄製利器によって加工された木製のスキ・クワである。
■弥生時代の初期に鉄器が用いられたのは、いろいろな遺跡から鉄斧が発見されることによって 証明されている。
 * しかしそれが製鉄のはじめからわが国で作られたものか、大陸から輸入されたものかは証明できない。
考古学者の山本博氏(「古代の製鉄」の作者、故人)によると
銅よりも鉄の方が溶融点は高いが、銅は溶解しなければ製品とすることが出来ないのに対して、鉄は溶解しなくても、7~800度の熱度で可鍛鉄を得さえすれば、これを熱してはたたき、熱してはたたいて鍛造できるという

このことは1912年にW・ゴーランドが指摘している。
それによると
*鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
*鉄鉱石は溶解しなくとも、7~800度の熱度で可鍛鉄を得ることが出来る。
*鉄の抽出には、特定の送風装置を必要としない。
弥生式土器を焼成する程度の熱でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて製錬することができたということであった。

露天タタラ
わが国は地下資源に乏しいが、火山が多いだけに砂鉄には恵まれていて、いたるところに砂鉄は存在する。

窪田蔵郎氏によると
弥生時代には河原や海岸近くの台地、あるいは山あいの沢のような場所で、自然通風に依存して天候のよい日を選び、燃料の薪の上に砂鉄を集積し、その上にさらに薪を積み上げて何日も燃やし続け、海面状を呈したごく粗雑な還元鉄の塊を半焼けの金糞の中から拾い出し、よさそうなものだけを再び火中に入れて加熱し、再三打ったりたたいたりして、小さな鉄製品を作るという、きわめて原始的な方法で製鉄は おこなわれたであろう。
弥生時代中期より古墳中期まで、このような原始的な方法による製鉄の行われていた事が推測される。

わたしが理解した範囲でわが国の製鉄のながれを整理しよう。

褐鉄鉱を採取して製鉄を行う。(弥生時代)・・・鉄鐸、銅鐸神事と関連あり
*褐鉄鉱の団塊(スズ)はそのまま或は粉砕して、露天で製鉄することができた。
  ただし、砂鉄の磁鉄鉱 に比べ品位は低く生産量も少ない。
砂鉄(磁鉄鉱)を採取して鉄器の生産
■金穴流し
 *砂鉄による製錬は、まず鉄砂を含む山を選ぶことから始まった。この鉄砂を含む山を「鉄穴山・神山」とい い、砂鉄をとる作業を「鉄穴流し」といい、そこで働く人々を「鉄穴師・かなじ」と呼ぶ。
鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水をひき、崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、重い鉄砂は沈むからこれを採ってタタラ炉に入れて製錬する。
*水田が「金穴流し」によって荒らされ、製鉄の民と農耕民の利害が衝突するのは、職業の分化が生じ、完成した水田に土砂が流れ込むことによるもので、当初農耕の民が自ら製鉄を行った段階では、「金穴流し」  はそのまま国づくりとなった。=オオナムチ
 オオナムチの神を「天の造らしし大神」とするゆえんである。→倭鍛治
③4世紀後半より5世紀にかけて、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来による技術革新と職業の分化によって、製鉄に専従する部民と、それを管掌する氏族をも生じる。
* 古墳時代にはヤマトが大陸より多量の「鉄」を手に入れた。(⇒近つ飛鳥資料館①参照)
*わが国の露天タタラでできる鉄の量(質)では多くの鉄製品を作ることができないが、半島から鉄素材を手に入れることにより、鉄製品の製造(農工具、・武具)が飛躍的に発達し、大和王権が成立することになった。
オオナムチとアメノヒボコの争い古いヤマトの勢力 対 外来文化を担った新しい進歩的勢力
④やがて律令制の施行とともに特定氏族の管掌した製鉄の部民は収公される事になり、それととも に製鉄一般の神として、金山彦が構想され、「鉄穴」から発想されたオオナムチの神の製鉄に関与したかっての性格は忘れ去られた。

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」では
スジン天皇以前の三輪地方の発展を「辰砂・水銀」を中心にとらえている。
そして、鉄に関してはあまり触れられていない。というか鉄生産はなかったように書かれている。
「オオタタネコ」に自分を祀らせたという記紀の意味を考えよう。
古事記には大田田根子(オホタタネコ)を大物主(オホモノヌシ)大神の祭主とした、とあります。
「オオタタネコ」はオオクニヌシ(オオモノヌシ)が指名しました。

◎須恵器を作る技術をもった「オオタタネコ」は、スズ鉄か「鉄穴流し」による砂鉄かによって鉄を作る技術を持っていたとおもわれる。
そして、原始的な砂鉄生産で「スジン」に対決したのではないだろうか?
だが半島からの鉄素材の輸入により結局は「スジン」に押されてしまう事になった。
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by jumgon | 2010-12-13 13:43 | ★日本の鉄の歴史
「スズ鉄」について

「スズ鉄」なるものを知ったのは
「ひもろぎ逍遥」というブログで読んだのが初めてだ。
http://lunabura.exblog.jp/i30/

真弓常忠「古代の鉄と神々」によれば
銅鐸が姿を消して弥生時代が終焉し、古墳時代がはじまったのは、スズを採取しての原始的鉄生産から、砂鉄を採取する方法を会得したことによる、と謂われている。その後のいっそう大規模な製鉄技術は、天日槍などの神の名で語られる帰化系の技術者によって飛躍的に増大し、それは畿内では四世紀後半から五世紀初頭にあたる、と思われる。

今回は今まで断片的に述べてきた「スズ」についてまとめてみよう。
*ここでいうスズは(元素記号 Sn)のスズではない。褐鉄鉱を意味しています。
 
「みすずかる」は「信濃(しなの)」にかかる万葉集の枕詞です。「みすず」は「み」+「すず」で,「み」は貴重な鉄の原料である「すず」の美称です。
  「すず」とは、古代より製鉄の原料として、温泉地帯の湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)の根に,ある種の鉄鉱石(褐鉄鉱)が付着した塊をいいます。
この 「すず」は、"たたら"製鉄より古い製鉄方法によって、"たたら"より低い温度(土器を焼くくらいの温度)で精錬された。
特に信州(信濃)などで盛んに行われました。またこれらの「すず」をつける植物群も「すず」といいました。だから「みすず"刈る"」です。
この根は鉄鉱石成分が付着しどんどん成長し、中が空洞になると同時に小さな塊が残り、振ると音がします。これが本来の「すず(鈴)」です。この「すず」は成長するのに、数十年以上の長い時間がかかりました。現代でも、神社などで鈴を鳴らすのは、この「すず」がたくさんとれるように、と祈った名残りです。
また葡萄の房のように、この鉄鉱石の「すず」がたくさん付いた状態を「すずなり(鈴生)」という説があります。

◎日本建国神話中の建御名方神 が諏訪にまで逃げていったのがわかった!
 私はただ遠いところへ逃げた、といい加減に解釈していた。
 信濃、諏訪は「すず」が採れるところだ。

*建御名方神は原始的なスズによる製鉄でなく、「神穴流し」、すなわち砂鉄による初期製鉄を行ったように  思われる記述もある。
日本建国神話中の建御名方神wikiより
建御雷神が大国主に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主は息子の事代主が答えると言った。事代主が承諾すると、大国主は次は建御名方神が答えると言った。
建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。

これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽の海まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。
なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』での葦原中国平定にあたる部分に彼の名は見えない。

*このスズの例として。高師小僧があります。
http://www.geocities.jp/tyuou59/index2.htmlより

愛知県指定天然記念物の褐鉄鉱(かってっこう)のこと。
豊橋市の高師原(たかしばら)で多産したことからこの名前が付けられています。
愛知県の天然記念物 : 高師小僧
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(豊橋市地下資源館より)
◎色々な形になるらしい。鈴の形のイメージはない。
成分は鉄と土です。
鉄分を多く含む水の葦原ではバクテリア(鉄細菌)が葦の茎に付着して、葦の腐敗にともない有機物を取り込む一方、水中の鉄イオンを酸化することでエネルギーを獲得しその結果の褐鉄鉱が植物の周りに沈積したと考がえかたが有力です。

この高師小僧は、砂鉄等とともに、古代の鉄の生産原料の一つであったと考えられます。
豊橋を中心に、地名を探ると、諏訪とか須賀とか産鉄地名が多く認められます。

鈴なりということばは、この葦などの茎に鉄分がこびりついている様子からきたという説が有力です。

青森県岩木山北麓 巖鬼山神社にこんな鈴があるのを見つけました。
これはスズ鉄ができる様子を表わしたものではないでしょうか。
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青森県岩木山北麓 巖鬼山神社 : 坂上田村麻呂が再建した神社
この地区には鬼神社など鬼にちなんだ神社が結構あります。また鬼伝承も色々有り、鬼が水路を作ってくれた話とか、村娘をお嫁にほしいと言って、刀を10振り作ったら嫁にやるといわれたので一生懸命つくったら、その一振りを隠されてしまい、泣く泣くお嫁にもらうのをあきらめた話などがあります。
もともと、鬼伝承の有るところには産鉄がおこなわれていた気配が濃厚で、鉄をとるという作業は山を伐採し炭をとるので、川の氾濫を招いたりし、稲を作っている人たちとは生活上相容れないようなところがあり、産鉄に携わる人たちを鬼と呼んで、嫌ったり避けたりしたようです。

◎以前に紹介したスズ石(鳴石)も褐鉄鉱です。重複しますが再度記しておきます。
 
北海道名寄市の鈴石
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国指定の天然記念物で、直径3~6cmの球状の石で、
振るとカラカラと鈴の音がするので「鈴石」と呼ばれています。
核となる粘土などに鉄分が殻のように巻き付いてできたと考えられる褐鉄鉱の一種で、内壁の小石が剥離して 中で動き音をだします。
指定地周辺の土中に包蔵される拳ほどの大きさのものが多い。

◎吉野座王像の蔵王権現の胸に飾ってあったアクセサリーには鈴がついていた。わたしはこれが気になっていた。この鈴・スズは「スズ鉄」を表現しているのではないかと思う。
修験道は鉱山と関係があるという説があるのです。

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でもこの蔵王権現が造られたのは天正20年(1592)です。
今ある蔵王権現坐像は役行者が桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀した蔵王権現の形を踏襲しているのではないかと思います。
◎これは私の個人的な考えで、正しいかどうか分かりません。
■褐鉄鉱から磁鉄鉱へ
葦や薦の水辺の植物の根に「スズ」のなるのを気長く待って鉄を得ていたわけであるが、砂鉄を採取することを知って、鉄器の生産は著しく増大し、ここに弥生時代は終焉し古墳時代となる
古墳時代の文化は鉄器によって作られた。それと共にその頃より帰化系技術者(韓鍛治)の渡来もはじまった。
                                                       つづく
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by jumgon | 2010-12-11 11:38 | ★日本の鉄の歴史

鉄の古語

鉄を表わす古語
真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」のなかに面白い記事があるので書き停めます。(一部改変省略)

鉄の古語には次ぎの種類がある。
①テツ、タタラ、タタール、韃靼
②サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ
③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
④ニフ、ニブ、ニビ、ネウ
⑤ヒシ、ヘシ、ベシ、ペシ

①テツの語群
テツ(鉄)は、ヒッタイト民族が鉄をもって築いた強大な王国トルコの名に由来することは広く知られている。
◎わたしは知らなかったよ~
このヒッタイトの創始した製鉄技術は、シルクロードを経由して紀元前13世紀頃の殷代の中国に入ったとされている。
殷・周代は中国では青銅器文化が発達したが、鉄は戦国時代に武器として用いられ、漢代には鉄は国の管理下におかれた。
このトルコ、タタール、、韃靼に発した製鉄技術がタタラにほかならない。
タクタク、タツタツともいい、鉄の語源ともなった。
わが国では北方大陸系文化としてもたらされたものである。

②サヒの語群
ヤマタノオロチ退治のときスサノヲノミコトが使用された剣を「韓鋤剣」(カラサヒノツルギ)といい、鋤持神」(サヒモトノカミ)という。

*蛇の韓鋤の剣は蛇の麁正はとも呼ばれ、岩波文庫版「日本書紀」の註によれば、aramasa(麁正)とkaramasafi(韓鋤)は同根であって、「韓鋤(からさひ)」の「サヒ」とは、日本では小刀または刀の意。従って、韓から伝来した刀という意味ではないかと説明している。
サヒはサブ、サビ、サムとも転化し、寒川・寒田、寒河江・祖父江の地名もこれに由来する。
賽神(サイノカミ)というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。
サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ等、この語類のサ行音は、元来砂、小石を意味する言葉で、砂鉄が精錬されて鉄となり普通の砂や石と違った貴重な性質を帯びることから、サ・シ・ソの一音だけでも鉄を意味することになった。
日向の襲の国(ソノクニ)、熊襲(クマソ)のソもやはり鉄の産地を意味した。

③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
福士幸次郎はサナ、サヌ、サニ、シノ、シナ等の語源を追い求めた末、サナとは果実の核の部分を意味し、カナサナ(金讃)とは外皮を鉄でまとった果物や穀物の如き形状のもの、即ち鈴・鐸(サナギ)のことであるとした。
◎褐鉄鉱の鳴石ってまさしくそれね!⇒「唐古・鍵遺跡ミュージアム」
唐古・鍵遺跡ミュージアムへ行った時それに出会いました。それは褐鉄鉱の鈴を割って、中に翡翠の勾玉が入れてありました。鈴石だけでも貴重なのにその不思議な自然の力にプラス、自分の宝物を入れたのですね!銅鐸の起源かもしれませんね。

*鈴石(鳴石)について
褐鉄鉱は、良質な粘土の周辺に鉄分が凝縮して生成された自然の好物です。
褐鉄鉱の内部の粘土は乾燥収縮し、それが内壁にあたって音をたてる為、江戸時代の好事家の間では「鳴石」や「鈴石」として珍重されていたという。振ると鈴みたいな音がする。

奇石博物館にある、鈴石(鳴石)
奈良県生駒郡平群町産(割れ口の見える2個)
京都府相良郡和束町産(割れてない1個)
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④ニフ、ニブ、ニビ、ニホ
「ニフ」(丹生)は通常、朱砂(辰砂)の産する地につけられた名と考えられている。
しかし井塚政義氏の教示によると古代には硫化水銀を「朱」、四塩化鉛を「丹」、褐鉄鉱・赤鉄鉱・酸化鉄を「赭」にそれぞれ区分しながらも、これらを一括して「丹」とよんだ由で、丹生の地は鉄産地をも意味したという。
◎フーン、そんなに細かく区別表現していたのか~
丹生より派生した「ニブ」(二部・鉗)「ミブ」(壬生)・「ニビ」(鉗)や「ネウ」(根雨)もそれである。

⑤ヒシ・ヘシヒシ・ヘシは「和名抄」によると、鉄鏃を意味し、棹の先に装着した鉄片である。
この語から派生した「鉄の川」がイヒシ(飯石)川、イビ(揖斐)川であるとしたのも
福士幸次郎である。
ヒシ・ヘシの語が南方系海洋民の鉄・鉄斧を意味するという情報もある。
ベシ・ヘシの語によって表象される古代鉄文化は南方系海洋民によって運ばれ、琉球弧を北上して九州から朝鮮半島西岸、山東半島まで達していたと想像できる。

古代鉄を表わす語が色んな系統に分かれているのですね。
鉄の渡来には様々な民族、ルートがあるのでしょう。

◎そういえば日本語の数詞に「いち・に・さん」と「ひぃ・ふう・みぃ」(ひとつ・ふたつ・みつ)の二系統がありますが、これも日本列島へ流入した民族の違いを表わしているような気がします。
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by jumgon | 2010-12-03 14:27 | ★日本の鉄の歴史

葛城地域に関して ①

前回、「高鴨神社」で書き忘れたが、
葛城は大和の葛城山麓に展開する大地名で、『山城風土記』によれば襲の嶺に下りた「カモタケツヌミ(鴨武角身)」が、神武東征に先んじて東遷し、定住した所である。
という情報があります。

賀茂建角身命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/10/03 12:43 UTC 版)
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、日本神話に登場する神である。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
◎そんなに簡単に日向から大和まで行けるのでしょうか?そんな昔に、、、、、

襲の嶺とは「鉄の峰という意味があるという。⇒次回掲載の「鉄の古語」をご覧下さい。
そういえば、高鴨神社近く、「風の森」というバス停がありそこから5分くらいのところに
「風の森神社」というのがある。今は小さな祠が残るだけのようだ。

http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/kazenomori.htmより

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風の森神社
祭  神:志那都比古神
      (伊耶那岐命と伊耶那美命が34番目に産んだ神様です)

境内看板には、
      「本社は、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上に位置し
       ています。
       御祭神は、志那都比古神をおまつりしています。
       志那都比古神は、風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神
       に因んだ事柄が記載されています。
       又、葛城地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、
       風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神としてまつら
       れています。
       日本では、古くから、風の神に対する信仰があり、毎年旧六月に
       は、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。」
       とあります。
  住  所:奈良県御所市大字鴨神
 

 ◎風が強く野タタラで鉄を作りやすいので、風の神を祀ったと私は思います。そして鉄で農具を作ったのではないでしょうか。木の鋤を作るにも鉄がないと能率がわるいし、先だけ鉄を使ったかもしれない。よく資料館などでみます。 

さて前回葛城王朝説について触れたが少し気になることがあるのでもう一度考えることにする。

葛城王朝説は鳥越憲三郎が唱えた説。
神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。

◎欠史八代までは、鴨族なのかな?
  葛城氏は鴨族の末裔なの?

河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。
さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。

こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。

◎崇神王朝に滅ぼされたとするのに、なぜ崇神後の天皇と関わりがあるのだろうか?
  鴨族と葛城氏はおなじなの、別なの?


欠史八代実在説・安本美典
初代神武天皇と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(「≒推定」の意)する説である。
この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族であったとされる第10代崇神天皇に踏襲されたとこの説は結論付けている。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国であるとする説などがある。

また、欠史八代の多くは畿内の有力氏族と婚姻関係にあったとされる。


ああ、ややこしい!
その時代に生きていたわけではないから、結論はむつかしいね!
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by jumgon | 2010-12-02 22:46 | ★葛城
吉野山は
大海人皇子(天武天皇)が近江から吉野に入り、持統天皇が何度も訪れた吉野山。
私のイメージの中ではまさに「深山幽邃の地」だ。

以前一度だけ訪れたことがある。
だがその時は桜には少し早過ぎたらしく、下界では桜は八分咲きだったのに、肝心の吉野山ではちらほら。おまけに土産物屋と人がイッパイで、こんな俗っぽいところかと、ハッキリ言ってガッカリだった。

金峯山寺の秘仏・金剛蔵王権現のご開帳が12月9日までという情報に気付き、行ってきた。
吉野は期待以上の紅葉で「来てよかった!」と嬉しくなった。

まず、後醍醐天皇を祀る吉野神社に着いたが、ここは今日の目的ではない。
車を金峯山寺の駐車場にいれる。混んではいたが、駐車待ちしなくてすんなり停められた。
多分奈良公園だったら、駐車できずにウロウロするはめになっていただろう。やはり吉野は遠い。

しばらく歩くと黒門があった。金峯山寺の総門。木造の門で、黒く塗られていることからこの名が。
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次ぎは銅の鳥居(重文)
 黒門からの急坂を登りつめたところにあります。高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、すべて銅製。1348(正平3)年に高師直の兵火で焼失したあと、室町時代に再建されたものです。正しくは発心門。

次ぎは仁王門(国宝)
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そしてやっと蔵王堂
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吉野全体のイラストマップ
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先ず
金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  

◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らない。

明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。


蔵王堂は、金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
  重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。
  金峯山寺内では古くから、白鳳年間に、役行者(えんのぎょうじゃ)が創建されたと伝えており、また、奈良時代に、行基菩薩が改修されたとも、伝えています。
その後、蔵王堂は過去6回の焼失記録があり、現在の建物は天正20年(1592年)頃の再建。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートルという巨大な木造の建物であり、檜皮葺の建物としては世界一の大きさを誇る第一級の国宝建造物に指定されています。

大正5年から13年にかけて、解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。


金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)
堂内は撮影禁止。
さすが秘仏ですね。ポスターの写真をのせます。
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    左尊(弥勒菩薩) 中尊(釈迦如来)右尊(千手観音菩薩)
スゴイ迫力です。不思議な力強さがあります。
◎現在の蔵王権現の作者はどこにも書いてないけど、いつ造られたかはパンフレットに書いてありました。

パンフより
秘仏・金剛蔵王権現は、天正20年(1592)の蔵王堂再建以来、蔵王堂(国宝)のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。


金剛蔵王権現の説明
これまで、4年1回の密教儀式「伝法潅頂会(でんぽうかんじょうえ)」以外に、私たちの目に触れることはほとんどありません。
造立開眼以来大地を高く蹴り上げ、逆立ち乱れる頭髪。口の両端から刃のように突き出す牙。3尊の全身は、ことごとく悪魔を払う忿怒の形相を現されていますが、それは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩を本来のお姿とする変化身です。
三尊は、それぞれ過去、現在、未来を表し、三世にわたって私たちを守ってくださる守護仏でもあります。役行者が汚濁に満ちた世の中に救済を求める苦行の中で、強い祈念によって祈り出された権現様を心静に拝めば、すべてを認め、一切をゆるす「恕(じょ)の心」を感じ取ることができます。
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿を現されています。
さらに、背後の火炎は偉大なる智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現しています。
まさに、大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として、神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています。3体の総高は、釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)5.9メートル、千手観音(右)6.1メートル。重要文化財に指定されている日本最大秘仏です。

確かに「大自然の霊威」を感じさせる姿だ。
蔵王権現の彫刻的価値はどうかわたしにはわかりませんが、写真でみるより、はるかに迫力があります。

映画をテレビで見るより、映画館の大画面で見る方が迫力があるのとおなじかな?
こんなこと言ったらお叱りを受けるかもしれないですね。

この蔵王権現で私が一番気になったこと。
それは、権現様の胸飾りに鈴が使われていたことです。

瓔珞というものでしょうか。今まで見た仏像では透かし彫りの平たい金具のアクセサリーだった。
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古代鉄のスズ鉄を表現したものではないかと思ってしまう!
戦国時代の末期、真田昌幸や幸村が徳川軍を迎え撃って2度も戦った信州上田城。、この上田の銘菓に【みすず飴】がある。
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この飴の名前は、信濃の枕詞『みすずかる信濃』から命名されている。
ここでいう『みすず』とは何かであるが、
すずとは褐鉄鉱が葦や茅の根元に付着している様子を示しているのです。
吉野は中央構造線上にある。
多分鉱物がよく採れるところだと思う。

蔵王堂内の柱がとても特徴がある。
きれいに削った柱でなく、伐採した木を樹肌そのまま、ゆがみそのまま使っているのだ。
勿論枝は払ってある。径40~50センチの大きな柱。ゆがんだり、でこぼこそのままの柱は森の中の原始的な生命を感じさせる。
つつじの木で出来た柱もあったが、つつじって、こんなに大きくなるんだろうか?
大抵は庭園で見るから、柱に出来るほどの大木に育つとは思わなかった。
梨の木の柱もあった。

蔵王堂を出て如意輪寺までミニハイキング。
途中の道では植物より、石を観察しながら歩く。でも鉱石の知識などゼロだから、大して意味はない。
だけど、石とか磐とかにも色々な表情があるのが分かった。

それにしても吉野山の紅葉はすばらしい。
携帯の写真なのでぼんやりしています。スミマセン。
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向こうに見えるのは、金輪王寺・吉野朝皇居跡
後醍醐天皇が蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改めた。後醍醐天皇は悲運の生涯をここで閉じられましたが、その後、南朝3代の歴史が続きます。

吉野の歴史
興味のあるとこだけWIKIより抜粋
先史 吉野地方における先史を述べる。
吉野川流域からは、縄文時代から弥生時代にかけての土器や遺跡が発掘されており、この時代から人々が居住していた。現在のところ一番上流で発見されている遺跡は川上村の宮の平遺跡である。
五條市:南阿田大塚山古墳
下市町:岡峰古墳

古代
吉野という地名が、最初に史書に現れるのは、「古事記」「日本書紀」の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されている。元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、少なくとも吉野川流域が想定される。 古事記では「吉野河の河尻」「吉野の首等(おびとら)の祖(おや)」「吉野の国巣(くづ)の祖(おや)」が登場する。

また日本書紀などの史書によれば、歴代の天皇や貴族が吉野を訪れており、この当時の吉野は、遊興の地となっていた。
以下に吉野を訪れた天皇・貴族を列記する。

応神天皇 -
吉野の宮へ行幸。この時、国巣の人々が酒を天皇に贈り、歌舞を見せた。また応神天皇の行幸は日本書紀における「吉野の宮」の初見になる。(日本書紀巻第十〇 応神天皇一九年冬十月)
雄略天皇
吉野の宮へ行幸し狩りを楽しんだ。(日本書紀巻第十四 雄略天皇二年冬十月)
斉明天皇
斉明天皇2年(656年)に離宮として吉野の宮を作った。
古人大兄皇子
大化の改新後に吉野へ隠棲するが、吉備笠垂の密告により殺害された。
大海人皇子(後の天武天皇)
吉野の宮へ隠棲する。天智天皇が崩御ののちに、この地から挙兵する(壬申の乱)。(日本書紀巻第廿八)
また天武天皇となったあとの天武天皇8年(679年)にも吉野へ行幸し、皇后の鸕野讚良皇女との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であると宣言し後継者で争わないことを誓わせた(吉野の盟約)。(日本書紀巻第廿九)
持統天皇(鸕野讚良皇女)
頻繁に吉野の宮へ行幸している。その数は禅位後の1回を含めて32回に及ぶ。(日本書紀巻第卅〇)
文武天皇 -
吉野へ行幸した時の歌を詠んでいる。
「み吉野の 山の嵐の 寒けくに はたや今夜も 我が独り寝む」(万葉集1-74)

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by jumgon | 2010-11-29 18:08 | ★寺院・神社
この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。

以後室町期以降については省略する。
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by jumgon | 2010-11-26 16:47 | ★日本の鉄の歴史
近つ飛鳥歴史資料館 ③ 武具・鉄製品・その他

展示品の中には、近畿だけでなく、各地の武具の出土品もあった。
中でもマロ塚古墳出土の物はほとんど腐食が感じられないものでビックリした。

古墳時代(熊本県マロ塚古墳出土 短甲、鋲留式)
鋲の突起が見えますね。脇の部分に2箇所 蝶番がついてるのがよく分かります。
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鋲止式眉庇付冑(熊本県マロ塚古墳出土)
天辺のお椀みたいなのは受鉢といいます。庇のスカシ彫りがおしゃれですね!
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甲冑(かっちゅう)の歴史 
古墳時代には、鉄板を組み合わせて作った、短甲(たんこう)が古墳に副葬される。鉄製の甲の出現は武器の発達をうながし、戦いの方法も大き(変化させた。
初めの頃、短甲は縦長の鉄板を組み合わせ、これを革ひもでとじ合わせたものであったが、次に方形の鉄板に変わり、さらに三角形の鉄板を多く組み合わせる形に変わった。そして、5世紀には鉄板のつなぎかたも革ひもから鉄の鋲(びょう)でとめる方法に変わっていった。
また、この頃には、騎馬に通した挂甲(けいこう)も出現した。
他方、冑(かぶと)には、先端が尖った衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と、前部に庇(ひさし)が付いた眉庇付冑(まびさしつきかぶと)があった。
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衝角付冑には羽がついてるのですね! 
『挂甲』とは        
 甲の一種。鉄製小札(こざね)を革や紐で綴り合わせて胴部・腰部を中心として肩・脛・足部を防御するための中国から伝来した武具。

◎短甲と違って長いものですね!小札なので、馬に乗って腰や足を曲げてもOKと言うことですね。
藤井寺市・長持山古墳出土の挂甲と横矧板鋲留式衝角付冑
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挂甲の武人はにわ・時代 群馬県太田市飯塚町出土・6世紀末
◎この写真の「はにわ」は資料館に展示されていたものではありません。
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古墳時代鉄製甲冑の移り変わり(近つ飛鳥 解説シートより)
前期・・甲冑ともに革綴じ(三角形の鉄板を革紐で綴じあわせています)
中期・・甲冑ともに鋲留(鉄鋲で留めることでしっかりした防御具となります。小札鋲留、横矧板鋲留)
後期・・竪矧広板鋲留

以前「だれも埋葬されてない古墳」で紹介した「西墓山古墳」
も鉄製品の膨大な量の埋納例として出土品が紹介されていました。

「西墓山古墳」とよく似た埋納施設を持つ「長岡京市の恵解山古墳」も紹介されていました。
西墓山古墳と同じように、各たばに分けて埋納されていました。

下の写真は「西墓山古墳」の出土状況が保存されたもの(藤井寺市シュラホールにあります。)
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「西墓山古墳」埋納施設の様相(近つ飛鳥 解説シートより)
東施設(推定200点を越す刀剣など武具類を6つ以上のまとまりに分けて並べる。)
西施設(農工具を中心に推定2000点以上を納める。)
滑石製模造品(滑石でつくったミニチュア 鑿・斧・鎌・刀子)は西施設に収められていた。


野中古墳(藤井寺市)
野中古墳から甲冑群が出土していました。これはシュラホールでお話しました。(⇒シュラホール)
それについて初耳の情報!
野中古墳には計5個の箱が埋納されており、あの甲冑列(10組)はそっくりひとつの箱の中に入っていたのです。
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甲冑がひとつだけ入っている箱があり、その他の箱には、武具類、農工具類・滑石製模造品(剣・勾玉・革の鞘に入った小刀を模したもの・紡錘車あるいは鏡をもしたもの?・糸をつむぐ道具(おもり)・臼玉4万点
◎糸をつむぐ錘があったんですね。糸をつむぎ布を織っていたのでしょう。
人骨は出ていませんが、腐食したのでしょうか。
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滑石製臼玉4万点
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◎これらは、以前シュラホールへ行ったとき見ているのですが、あの時はどこの古墳からでたのか、はっきり区別出来てませんでした。(^^ゞ
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by jumgon | 2010-11-25 21:25 |  ○近つ飛鳥歴史資料館
近つ飛鳥博物館 ① 鉄鋌
秋季特別展「鉄とヤマト王権」
邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ


市の催しで、
大阪府南河内郡の大阪府立近つ飛鳥博物館で開催中の秋季特別展「鉄とヤマト王権」
邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ連れていってもらった。
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 今回の展示では、弥生時代後期から古墳時代にかけての鉄素材と鉄製武器・武具・農工具など、さまざまな鉄にかかわる資料を展示している。
タイミングよく、気になっていた鉄に関する展示と学芸員さんの説明があり、期待以上に私にとっては収穫があった。

館内では写真は撮れないので、パンフレット、ネットで探してきて載せました。

今回分かった情報を簡単に書きます。(現在のところの考え方で、また変化する可能性はある。)
①弥生時代の鉄製品出土は九州が多い
②古墳時代に入り奈良、大阪が圧倒的に多くなる。
③製鉄は日本ではまだ出来ず、鉄製品そのものを手に入れるか、鉄を加工して鉄製品を作っていた。
④日本での製鉄は古墳時代後半期・中世になってからである。


「鉄とヤマト王権 邪馬台国から百舌鳥(もず)・古市古墳群の時代へ」展は
鉄を基盤としたヤマト王権の成長過程と東アジアとの関係をさぐる特別展である。
同博物館の森本徹・総括学芸員による解説があった。

 5世紀代、日本列島最大規模の古墳が集中する百舌鳥・古市古墳群からは、これまでに数千点に及ぶ鉄器が出土している。それらは刀や剣、槍といった武器類や甲冑などの武具類、また斧やヤリガンナ、鋤・鍬先や鎌などの農工具類など、ほぼすべての種類を網羅し、時に数百点もの鉄器をひとつの埋納施設に納める例もある。
 

下の写真は大阪府藤井寺市長持山古墳
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いまだ実態の把握できていない古墳も多く残されていることから、百舌鳥・古市古墳群に本来納められていた鉄器の総量は、想像もおよばない膨大な量であったと推測される。これほどの「鉄」を古墳への副葬という形で消費していることからみて、百舌鳥・古市古墳群の被葬者達―それは言うまでも無くヤマト王権の大王たちであるが―、鉄を重んじ、潤沢な消費を可能とするだけの鉄を保有していたことを疑うことはできない。まさに彼らは日本列島における鉄を支配した大王たちであったのである。(⇒西墓山古墳
下の写真は大阪府藤井寺市の西墓山古墳の大量の鉄剣と農工具類
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 しかし、古墳時代の鉄を考える上で忘れてはならない視点がある。それは当時の日本列島では鉄の生産がいまだ行なわれていない可能性が高いということである。

 日本列島における鉄生産の開始期については古墳時代でも早い段階に想定する意見もあるが、現実に製鉄遺跡が確認されるのは古墳時代でも後半期をさかのぼらない。
すなわち弥生時代以来、古墳時代でも中ごろまでは、鉄器を作る原料は列島内で生産されていないとみなければならない。
では大量の鉄器やそれを作る原料はどこからもたらされたのか。その最大の候補地は朝鮮半島東南部地域である。
五世紀の古墳から出土する副葬品に「鉄鋌(てってい)」と呼ばれる分銅形をした薄い鉄板がある。奈良県大和6号墳からは、大小の鉄鋌が合計872枚、古市古墳群の大型前方後円墳、墓山古墳の陪冢(ばいちょう、家臣の墓)である野中古墳からは、多量の武器、武具と共に130点を越える鉄鋌が出土している。

鉄鋌の分布
奈良県・・・・大和6号墳(872枚)
大阪府藤井寺市・・・・野中古墳(130枚以上)
行者塚古墳(40枚)
私部南遺跡(大阪府交野市)
高宮遺跡(大阪府寝屋川市)
亀川遺跡(大阪府阪南市)
木戸原遺跡(南淡路市)
その他、福岡県・大分県・愛媛県・香川県・広島県・岡山県・兵庫県・京都府・和歌山県・滋賀県・愛知県・群馬県・千葉県・東京都
圧倒的に近畿、中でも奈良、大阪から出土している。


 その形状とまとまった出土状況から、このような鉄の板は鉄の道具を作るための地金であり、『日本書紀』にも記載のみられる「鉄鋌(ねりがね)」と目されてきた。

同じ形状を持つ鉄鋌は朝鮮半島当南部地域、すなわち加耶や新羅の地域でも多く出土していて、新羅最大の王陵である皇南大塚南墳からは大小あわせて1300枚以上の鉄鋌が出土している。
その出土地が朝鮮半島南部地域と、奈良、大阪といった近畿地方中央部の二箇所に集中していることから、鉄鋌は朝鮮半島東南部で生産され、加耶、新羅地域はもとより列島にまでもたらされた鉄の素材と考えられる。
実際に鉄器に加工されないまま古墳に納められる鉄鋌に、実用の素材ではなく威信財としての性格をみいだす意見もある。
 
効率のよい利器として列島に伝わった鉄の道具も、弥生時代における出土資料は九州島北部から山陰、丹後半島を中心とし、朝鮮半島との地理的な関係を反映した分布しか示さない。
しかし古墳時代にはいると、鉄製の武器や武具においても、その素材と目される鉄鋌においても、その分布の中心は近畿地方中央部、まさにヤマト王権の本拠地というべき地域に移動する。
 ヤマト王権の成立に、朝鮮半島の鉄が与えた作用は極めておおきく、その独占的な入手と消費こそが王権形成過程の一側面であった。そしてそれは百舌鳥・古市古墳群の時代にピークを迎え、膨大な量の「鉄」が古墳に副葬されるようになる。

◎独占的に鉄鋌を手にいれたヤマト王権はそれを各地の首長に与えたということになる。服従への恩賞だろうか~

なかでも奈良県大和6号墳から出土した鉄の地金である鉄鋌は、複製品と組み合わせて出土状況を再現しており、鉄鋌埋納の様子を実感することができる。
こんなにきちんと並べて埋められていたのですね!
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◎本当にこれを見た時は目を疑った。確かこれは、宮内庁書陵部所蔵品だ。
大鉄鋌の長さは約26センチ、小鉄鋌の長さは約7cm(目測なので、大体の目安と思ってください。)

これらの鉄鋌は,昭和20年に奈良県宇和奈辺(うわなべ)陵墓参考地の旧陪冢(ばいちょう)から出土したものである。この陪冢からは大鉄鋌282点,小鉄鋌590点が出土しており,出土した鉄鋌の総重量は約140㎏に及ぶと推定されている。
ウワナベとは、前妻という言葉が訛ったものだそうだ。


近つ飛鳥資料館とは関係ないが、鉄にかんする記事を書きとめておく。
鳥取県
平安時代の伯耆国鉄生産は9世紀に調として鉄鋌(てつてい)・鍬を出し、庸として鍬を中央に差し出した記録が延喜式にある。また1073年から20年間に東大寺封物として4340鋌 もの鉄を全国の中で伯耆国のみ差し出していることが平安遺文にあることは、平安時代伯耆国は一大製鉄地であったことが窺われる。
◎平安時代にはわが国でも鉄が生産されていたのですね!
11月19日朝日新聞
兵庫県淡路市黒谷 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
弥生後期(1世紀半ば~3世紀初め)の建物遺跡が見つかりうち12棟の竪穴建物では床面に赤く焼けた炉跡があった。鉄製品や鉄器作りに使ったと思われる石製工具も数多く出土したことから、鍛治工房と推定された。
鉄製品の原料をどこから入手し、製品がどこへ流通したのか、鉄が畿内で普及するという段階で、なぜ畿内中心部でなく淡路島に工房があったのか、等の謎がある。

◎鉄そのものの生産でなく、鍛治工房があったのですね。
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by jumgon | 2010-11-21 21:01 |  ○近つ飛鳥歴史資料館