古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

タグ:飛鳥散策 ( 3 ) タグの人気記事

飛鳥資料館 1

飛鳥資料館は何度か訪れた事がある。

キトラ古墳の「玄武」特別公開の時には見学者が多くて長い行列だった!
公式HPで調べると、2007年5月とある。ちょうど4年前になる。


飛鳥資料館の主な展示物は、
高松塚古墳出土品
キトラ古墳石室復元、
山田寺仏頭レプリカ
f0215268_1222492.jpg
飛鳥寺塔埋納物
牽牛子塚古墳出土品
f0215268_0501394.gif
飛鳥のお寺の復元模型やパネル、発見された瓦などの展示
亀形石造物のレプリカ
 下の写真は現場のものです。
f0215268_0552671.jpg

 全長約2.4m、全幅約2mの大きさがあり、小判形石造物から流れ出た水が、亀の鼻を通り、背中の水槽に水をためる仕組みになっています。

◆山田寺東回廊

山田寺東回廊のポスター
f0215268_101063.jpg

◎こんな実物が資料館内にあるのです!
 下は出土時の写真。
f0215268_1204560.gif


1982年の発掘調査で山田寺東回廊が倒れた状態で地中に埋もれているのが見つかりました。
もっとも状態がよかった柱間3間分の部材を保存処理して当時の建築構造と規模が分かるように再現しています。

以上のように、どれもすごい貴重な財産が収められています。
◎特に私が今回注目したのは
飛鳥寺塔心礎からでた埋納物と山田寺東回廊です。

 飛鳥寺を訪れた時に「塔心礎からでた埋納物」はどこにあるのかと尋ねたところ
「多分、飛鳥資料館あたりでしょう」とお寺の方がおっしゃていた。
その写真を載せたいのですが、残念ながら飛鳥資料館内は写真撮影禁止なのです。

写真はWeb上で取り込める物だけです。

飛鳥寺塔埋納物
f0215268_1213884.gif

塔を建てる際地下に埋納した宝物。金や玉、砥石や鎧まで。同時期の古墳とほぼ同じ内容であるのが注目される。

塔心礎の舎利孔付近から出土した埋納物は、各種の玉類、金環、金銅製打出し金具、金銀延板などのほか、桂甲一領と馬具と見られる青銅製鈴や蛇行条鉄器が確認されています。

さて、資料館の入り口から紹介しよう。
f0215268_0562952.jpg


飛鳥資料館の庭には亀石、猿石、石人像、、酒船石、須弥山石など、飛鳥の石造物の往時の様子をレプリカで展示しています。
f0215268_0581424.jpg

しだれ桜が満開でした!!
f0215268_1103960.jpg
f0215268_112770.jpg

亀石
f0215268_1172997.jpg

須弥山石と石人像
f0215268_144737.jpg

須弥山石とともに発掘されたもので、同様に古代の噴水施設とされています。盃を口にあてた男性に女性が寄り添う形をしています。
※飛鳥資料館で見学できます。(石人像はオリジナルが館内にありました。庭にあるのはレプリカ)
須弥山石(石神遺跡出土)
石人像(当館ロビーに展示)と共に石神から明治時代に掘り出された。全体の型や山型の浮彫があるところから須弥山石(しゅみせんせき)とよばれる。庭園にともなう噴水施設で、周辺から溝や石敷きもみつかっている。斉明朝(655~661年)に、蝦夷や南方の人をもてなしたとき、甘樫丘東方の河原や飛鳥寺西方に造ったという須弥山は、このようなものであった。


八釣マキト5号墳
というのがこの資料館の庭に移築されています。
f0215268_11251888.jpg

八釣マキト5号墳って、いったいどこにあったの?

そばにある説明板を読みましょう。
f0215268_11242837.jpg


八釣・東山古墳群は八釣にある東山丘陵の農業基盤整備に伴い事前調査された古墳群で7基の古墳が発見されました。このうちマキト支群5基で比較的状態の良い1号墳と4号墳が元の場所から100m離れた八釣集落の古墳公園内に移築され5号墳のみ飛鳥資料館の外庭で移築保存されています。

この花の木の奥に見えています。
f0215268_11263397.jpg


発掘調査:1999年
★被葬者:中臣氏関連?(近くの大原に大伴夫人墓や藤原鎌足生誕地等、中臣氏ゆかりの史跡がある事より)
★大伴夫人(大徳冠大伴久比子(咋子)卿の女。中臣御食子に娶られ鎌子を産む(尊卑分脉)中臣鎌子(のちの鎌足)の母(尊卑分脉)。『藤氏家伝』には大伴夫人とある。)

のどかな春の飛鳥資料館でした!
[PR]
by jumgon | 2011-04-14 01:30 |  ○飛鳥資料館
私が山田寺の名前を知ったのはもう何十年も前の話だ。

高校生の頃、興福寺の宝物展か何かを見に行った時に、若々しい、りりしい顔の大きな仏頭に出会った。ほんとうに印象的な仏頭だった。
解説にこれは興福寺のものではなく山田寺のもの、と書いてあった。どこにそのお寺があるかも知らなかったが、名前だけはしっかり覚えていた。

今では、山田寺が、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに飛鳥の地で建て始められた寺であることは知っていたが、山田寺跡をなかなか訪れる機会がなかった。

先ず、だいたいの位置を確認しよう。

f0215268_2342485.jpg


2011年の桜の季節にやっと気になっていた山田寺跡を訪れた!!
多分、ただの野原だけで、山田寺跡という標識が建っているだけだろう。
でも山田寺があった場所を一度は訪れたいとおもっていた。
車を停めるところはあるかしら?と心配しながら行った。

飛鳥資料館を過ぎると山田寺跡という標識が見える。
「右山田寺跡150メートル」の標識があったので、車を道端において歩いた。
f0215268_23345338.jpg


なんと、山田寺跡には駐車スペースがあった。
6,7台は駐車できそうだ。(無料)

入り口?の近くには珍しい白花タンポポが咲いている。
f0215268_23354659.jpg


すぐ目に付いたのは山田寺跡の立派な説明石碑
f0215268_2338775.jpg


下は金堂跡
f0215268_2339773.jpg


下は東面回廊のあった場所。説明板がある。
f0215268_23395158.jpg


下は東面回廊礎石(復元)
f0215268_23401827.jpg


こんなかわいいスミレも咲いていた。早春の宝石!
f0215268_23404250.jpg


宝蔵跡
ただの野原に見えるけど、四角く段が高くなってますね。
f0215268_2344158.jpg


下は回廊の礎石跡復元
f0215268_23453378.jpg


少しはなれたところには2,3人の人がよもぎ摘みをしていた。
人も少ない早春ののどかな田園。

山田寺の解説をwikiから

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。
蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。


創建の経緯
山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。
◎ということは大化の改新の二年前
大化4年(648年)には「始僧住」(僧が住み始める)とあることから、この頃には伽藍全体の整備は未完成であったが、一応寺院としての体裁は整っていたと見られる。大化5年(649年)には上述の石川麻呂自害事件があり、山田寺の造営は一時中断する。
その後、天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。
天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)にはその丈六仏像が開眼されている(「丈六」は仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分)。なお、この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。

発掘調査の結果や、出土した古瓦の編年から、以上の創建経緯はおおむね事実と信じられている。なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫にあたる持統天皇とその夫の天武天皇の後援があったのではないかと推定されている。

f0215268_0194563.gif

◎蘇我倉山田石川麻呂って持統天皇のおじいさんなんですね!
蘇我倉山田石川麻呂
皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の変)、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。
その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されて孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

興福寺仏頭
f0215268_0174619.jpg

奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。
『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。
当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年(1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。


◎興福寺の僧が山田寺の本尊を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えたのですって!!
そして東金堂の火災の際に焼け落ち、頭部だけがかろうじて焼け残ったのですって!
それで新しく本尊を造りその台座に頭部だけになった本尊を押し込めたのですか。
記録に残さなかったのですから、邪魔になったから台座の下に押し込めたということですね。

ほんとにあきれた話ですね!


東回廊の出土
f0215268_0333783.gif

山田寺跡は昭和50年(1975年)に国有地化され、以後本格的な発掘調査が実施されている。
発掘調査の成果のうち特筆すべきは、昭和57年(1982年)、東回廊の建物そのものが出土したことである。土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱、連子窓などがそのままの形で出土した。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれなケースであり、日本建築史研究上、貴重な資料である。
出土した回廊はポリエチレングリコールによる科学的保存処置を施し、うち3間分が復原された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されている。


◎山田寺東回廊に使われた木材はくすの木、まきの木だそうです
 
[PR]
by jumgon | 2011-04-12 00:21 | ★歴史散歩、講演会

飛鳥寺

久しぶりに飛鳥寺を訪れた。
万葉歴史文化館に車を置いて(何と、今年の9月2日から駐車料無料になった!)のどかな路を少し歩くともう飛鳥寺。
f0215268_17412390.jpg


f0215268_20384277.jpg
境内といっても今は狭いが、塔のあった位置を確認する。

さすがにこの暑さで少し不安になったが大仏の住んでるお堂に行くと
「冷房してます」という入り口の張り紙で、ひと安心。
中で、説明をしてくれる人(僧?)が居た。
「飛鳥寺の伽藍配置は、高句麗式で、中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる特異な配置の伽藍だった。」
「ここにいらっしゃるのは釈迦如来で、1400年間ここから一度も動かれたことはありません。」>「当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみになっています。」
「どこでそれが分かりますか?」と尋ねたら「横下の方に臍穴があるでしょう。」
ウンウン、確かにある。この穴だけで両脇時があったことが分かるのですね!
f0215268_18555884.jpg

色々説明をしてくれたけど、私にとって嬉しい発見を書こう。
まず、これをみて欲しい。
「仏の32相」という説明の為の札みたいなのを見せてもらった。
32相」、なのに四つしか書いてない。
f0215268_17511848.jpg

驚いたことに「眼}が紺青色だというのだ!
もちろん出来上がった当時は金箔が全身に貼られていた。
     金色の顔に青い眼
かなりの迫力だ。
後で調べて分かったことだが、仏像、仏画は32相に従って造られているという。
でも、仏像はたいてい下むいてるし、古いのは色がもう残ってないし、、、。
   知らなかったわ~
「眉間白毫相」「頂上肉髻相(ちょうじょうにっけいそう)」、、、これは分かる。
「手足縵網相」???
f0215268_185782.jpg

親指と人差し指との間が鳥の水かきみたいに膜がある、ということなんだそうだ。

さて、仏像の前のひな壇に「仏舎利容器」が置いてある。
f0215268_1857593.jpg

「レプリカなんでしょうね。」と尋ねたら、「いいえ、発掘当初のものです。」とおっしゃる。
「えっ、飛鳥時代のものにしては綺麗すぎるんじゃない?」と思ったけど、お寺の人がおっしゃるのを信用するしかない。
後で調べたら
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建てた」とある。

なお昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。
飛鳥寺の塔は1196年(建久7)に焼失し、合利は、翌年いったん掘り出された。そして新しく作った舎利容器を、木箱にいれて、心礎の上方2mのところに埋めた。
木箱の側面には、建久7年に塔が焼けたことが記してある。b>
ということだ。
1196年に新しく造った「舎利容器」
なんだ!

そして、後の発掘調査のときに出てきたものなんだ。
(発掘当初のもの、というのは嘘ではなかった!)/b>
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。
その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。

玉類や、蛇状鉄器が埋められていたらしい。実物は飛鳥資料館に展示されてるようだ

堂をでて少しのところに
「入鹿の首塚」がある。
f0215268_18543454.jpg

ここが昔、古代日本の首都だったことがあるなんて信じられないのどかさだ。
[PR]
by jumgon | 2010-09-14 18:59 | ★寺院・神社