飛鳥寺
2010年 09月 14日
万葉歴史文化館に車を置いて(何と、今年の9月2日から駐車料無料になった!)のどかな路を少し歩くともう飛鳥寺。
さすがにこの暑さで少し不安になったが大仏の住んでるお堂に行くと
「冷房してます」という入り口の張り紙で、ひと安心。
中で、説明をしてくれる人(僧?)が居た。
「飛鳥寺の伽藍配置は、高句麗式で、中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる特異な配置の伽藍だった。」
「ここにいらっしゃるのは釈迦如来で、1400年間ここから一度も動かれたことはありません。」>「当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみになっています。」
「どこでそれが分かりますか?」と尋ねたら「横下の方に臍穴があるでしょう。」
ウンウン、確かにある。この穴だけで両脇時があったことが分かるのですね!
色々説明をしてくれたけど、私にとって嬉しい発見を書こう。
まず、これをみて欲しい。
「仏の32相」という説明の為の札みたいなのを見せてもらった。
32相」、なのに四つしか書いてない。
驚いたことに、「眼}が紺青色だというのだ!
もちろん出来上がった当時は金箔が全身に貼られていた。
金色の顔に青い眼
かなりの迫力だ。
後で調べて分かったことだが、仏像、仏画は32相に従って造られているという。
でも、仏像はたいてい下むいてるし、古いのは色がもう残ってないし、、、。
知らなかったわ~
「眉間白毫相」「頂上肉髻相(ちょうじょうにっけいそう)」、、、これは分かる。
「手足縵網相」???
親指と人差し指との間が鳥の水かきみたいに膜がある、ということなんだそうだ。
さて、仏像の前のひな壇に、「仏舎利容器」が置いてある。
「レプリカなんでしょうね。」と尋ねたら、「いいえ、発掘当初のものです。」とおっしゃる。
「えっ、飛鳥時代のものにしては綺麗すぎるんじゃない?」と思ったけど、お寺の人がおっしゃるのを信用するしかない。
後で調べたら
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『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建てた」とある。
なお昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。
飛鳥寺の塔は1196年(建久7)に焼失し、合利は、翌年いったん掘り出された。そして新しく作った舎利容器を、木箱にいれて、心礎の上方2mのところに埋めた。木箱の側面には、建久7年に塔が焼けたことが記してある。b>
ということだ。
1196年に新しく造った「舎利容器」なんだ!
そして、後の発掘調査のときに出てきたものなんだ。
(発掘当初のもの、というのは嘘ではなかった!)/b>
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593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。
その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。
玉類や、蛇状鉄器が埋められていたらしい。実物は飛鳥資料館に展示されてるようだ。
堂をでて少しのところに
「入鹿の首塚」がある。
ここが昔、古代日本の首都だったことがあるなんて信じられないのどかさだ。