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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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国府遺跡 ②

国府遺跡 ②_f0215268_20112465.gif

さて今回は「国府遺跡はどれくらいの人口だったか」と「出土した石器」
について勉強しましょう。
*縄紋前期の国府ムラの人口
日本の縄紋時代の始まりは、今から1万3000年前にさかのぼるという結果がえられ、縄紋前期は6000年前から4600年前、1400年間続いたといいます。(別の意見もあります)
国府ムラの人口は、けつ状耳飾りをヒントにすると、13人、ムラの継続年代から割り出すと、8人あるいは26人という数字がえられます。
縄紋前期の国府ムラの人口は、8人から26人という数字が得られました。かなりの幅がありますが、いずれにしても小規模なムラだったことには変わりがないようです。
う~ん、そんなにすくなかったの?
下の写真は「6000年前の秋の国府村」とパネルに書いてありました。
このイラストを描かれた人は「この当時の村の人口を推定しながら描いた」そうです。
国府遺跡 ②_f0215268_1104268.jpg

*この竪穴式住居はいくつぐらいあって、一家族何人ぐらいだったのか?
*平均寿命は?
*結婚はどこか近くの集落の人としてたんだろうか?
こんなコト考えるときりがない。これは学者さんにお任せしないと仕方ないね。
でも近くにも遺跡があるから心配しないで!!

*上の地図で赤いアイコンの所拡大して見たら、どこも川がちかくにあのがわかる。
私たちが想像してるより、遠くの人達とも、水路でつながれば、行き来しやすかったかも、、、、
近在の縄紋前期の遺跡をあたっていくと、国府遺跡から、ほぼ10キロメートル圏内にいくつかの遺跡が見つかります。富田林市の錦織遺跡、八尾市の恩智遺跡、香芝市の狐井遺跡、鶴峯荘第2遺跡などがそれです。
これらの遺跡については二つの考え方があります。
① それぞれ別の集団が残したもので、一時点をとってみれば、遺跡の数だけムラがあった。
② 集団は一つで、ムラが時期的あるいは季節的に移動を繰り返した結果、複数の遺跡が残された。   

・・・・・・・・あんまり詳しくなるとややこしくなるね・・・・・・

こんなのを読むと非常に寂しい情景が目に浮かんできますが、誤解がないようにいっておきます。彼らは決して孤立した存在ではありませんでした。彼らの使った土器や石器は瀬戸内沿岸や山陰と共通の紋様や形をもっています。けつ状耳飾りにいたっては、中国大陸にまでその淵源が求められる装飾品なのです。
つまり、彼らの交流の範囲は、ムラの規模からは想像できないくらい広く、それは彼らのゆとりの証でもあるのです。

下の写真は羽曳野市市、藤井寺市を中心にした石器出土地図です。
薄い水色の部分は現在陸地、
*濃い青色の大和川は現在の大和川で当時は河内潟の中

*赤っぽい部分はサヌカイト産出地、

*●は旧石器時代の遺跡
国府遺跡 ②_f0215268_20433420.jpg

随分あちこちから石器が出ているのですね。
下の写真は国府型ナイフ形石器です。
ナイフ形石器には3タイプあるそうですが、どれを見ても違いがよく分からない。
未消化ながら写真を載せます。
国府遺跡 ②_f0215268_20131392.gif

特徴的な翼のような形をした破片(翼状剥片)から作られた石器を国府型ナイフ形石器、その一連の工程を瀬戸内技法と名付けられています。瀬戸内技法はサヌカイトという石材の性質を知り抜いた人々が考え出した、極めてシステマティックな石器作りの方法です。
*実は石器の作り方の図を見ても完全に納得理解していません。
別の機会に勉強する予定です。
by jumgon | 2010-09-30 20:29 | ○旧石器時代・国府遺跡