宇陀の阿紀神社
2010年 11月 08日
大宇陀町には古事記に出てくる場所がたくさんある。
○阿紀神社
○阿紀野・人麻呂公園
○万葉公園(かぎろひの丘)
の三ヶ所がごく近くにある。
先ず、アキ神社を訪れよう。
いかにも村の古社という雰囲気の場所だ。
鳥居横にに石柱がある。
石柱を読むと「式内郷社・阿紀神社」 「奈良県宇陀郡神戸村大字迫間 吾城野・神戸鎮座 明治32年8月」とある。
明治時代にはこのの地名だったのですね。
祭神
天照皇大神
合祀 天手力男命、秋姫命、八意思兼命
阿紀神社の鳥居の脇に、この神社の由来を書いた説明板が立っている。それによると
古文書がこの神社に残っていて、当社が天照大神を祀る所以を次のように記しているという。すなわち、神武天皇が紀州熊野の難所を越えて宇陀の地まで進軍してきたとき、この地で御祖の神(=天照大神)を祭って大和の方へ押し出すと、日神の威勢に背中を後押しされて賊軍を打ち払うことができた。そのため、この地に天照大神を祭祀するようになった、というのである。
確かにこの神社の社殿は神明造り南向きであり、伊勢神宮正殿とまったく同じ建て方になっている。板塀に囲われているので、詳しくは分からないが、建物全体が直線的である。屋根を見ると、長く突き出た破風板(はぶいた)が左右に交わり、その先端が千木(ちぎ)になっている。棟の上に甲板(こういた)を付け、その上に堅魚木(かつおぎ)が列べてある。
伝承は伝承として、神武天皇の頃はまだ、当地に天照大神は祀られていない。
上の写真は本殿。扉には鍵がかかっていた。
『日本書紀』は別の話を載せている。第11代・垂仁天皇の時代のことである。それまで豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和の笠縫村で祀っていた天照大神を、倭姫命(やまとひめのみこと)に託して別の場所に祀ることになった。
◎大和の笠縫村で祀っていたというのは、桧原神社のことだと言われています。
<三輪山の話 ② しめ縄と三つ鳥居>をごらん下さい。
天照皇大神の放浪
創祀については、倭姫命の神幸伝承に求める説がある。「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世紀」によると、倭姫命が天照皇大神の御霊を奉じて、大和の美和の御諸宮から宇太の阿貴宮、佐々並多宮、伊賀の穴穂宮、阿閇拓殖宮、近江の坂田宮、美濃の伊久良賀波の宮、伊勢の桑名野代官、鈴鹿小山宮、壱志藤方片樋宮、飯野高宮、多気佐々牟迤宮、磯宮、宇治家田上宮等から五十鈴川上に斎き祀ったという。
◎天照皇大神が色々な場所を転々としてたなんて知らなかった。待遇が悪かったから移っていったのかな?
最終的には伊勢の五十鈴川上に今も大切に斎き祀られているのですが、、、、。
どういう理由だったのか気になる。天照皇大神の放浪については機会があったら、調べてみたいと思う。
社務所は閉じられていて、普段は無人のようだ。旧神戸村と言うのは多分そんなに戸数は多くないようだ。
今では何か村の行事がある時だけ祭礼があるのだろう。
境内はそんなに広くない。
阿紀神社の境内中央には、古びた能舞台が据えられている。
宇陀の地は元和年間(1615~1623)に織田藩の治所となり、その三代目の当主・織田長頼の頃に阿紀神社で能楽が奉納された。それを起源として、この能舞台では、寛文年間(1661~1673)から大正時代まで能楽興業が行われてきた。
大宇陀町は平成4年に薪能をこの神社で再開し、平成7年からは「あきの蛍能」として6月中旬に能楽を開催している。能の最中に明かりをおとし、蛍が闇に放たれて幻想的な世界を演出するという。神社の前に位置する「かぎろひの丘」の麓を流れる水路は蛍水路と呼ばれ、蛍が育てられている。
能舞台
「あきの蛍能」、、、、、想像するだけでも幻想的ですね。でも夜にここに来るのはちょっと遠いからムリかな?