辰砂・水銀について、続き
2010年 11月 24日
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/cc/51.htm
(徳島博物館)より
辰砂(しんしゃ)の精製
高島 芳弘
神聖な色「赤」
赤い色は神聖な色として、旧石器時代、縄文(じょうもん)時代から土器や木製品の表面に塗られたり、人を墓に埋葬するときに上から振りかけたりして使われてきました。これらの赤色顔料にはベンガラと辰砂(水銀朱)の二種類があり、鉛丹(えんたん)は奈良時代になるまで使われませんでした。
西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになります。
◎そうか、辰砂の粉末は振りかけられただけなのか、、、、。私は何か接着剤があったのかどうか疑問だった。遺体や石棺が動き出すわけないから、振りかけるだけで十分だったんだ。土器なんかには粘土に混ぜたのかな?
奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室の中には41kgの辰砂が使われていました。(⇒誰も埋葬されていない古墳)
古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、出土しています。(図1)
徳島県鶴島山二号墳出土
辰砂の採掘・精製と石臼・石杵
辰砂の採掘は縄文時代から行われており、なかでも伊勢水銀として古くから知られている三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、縄文時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野(うれしの)町天白(てんぱく)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿、磨石や朱容器と考えられる土器が数多く出土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことがわかります。徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたようです
弥生時代以降の辰砂の採掘では徳島県阿南市の若杉山遺跡が有名で、弥生時代終末期~古墳時代初頭の一大産地であったと思われます。
若杉山遺跡出土
古墳からの出土品には、福井県丹生郡の朝日古墳群中条4号墳から出土したものや大阪府の野中古墳の出土品のように、きれいに整形されているものが多く見受けられますが、なかには福島県の会津大塚山古墳出土例のように自然石を利用したものもあります。
若杉山遺跡では、石臼は40点以上、石杵は300点以上出土しています。大部分の石臼には石杵によって叩かれてできたくぼみが何カ所かあり、石杵には両端に潰れた跡や小さく欠けた跡がみられます(図3)。これらのことから、若杉山遺跡では辰砂の採掘、おおまかな粉砕の作業が中心に行われており、微粉化はあまり行われていなかったのではないかとも考えられてきました。
名東遺跡出土のすりつぶしに使われた面を持つ2点の石杵はこれだけであり、ここにいったん集めて畿内方面に再び運び出したと考えるには、石臼・石杵の量が少ないような気がします。
徳島市の名東(みょうどう)遺跡出土の石杵
板野町の黒谷川郡頭遺跡、徳島市の矢野遺跡も同様だと思われます。
これに対して辰砂の産地とは遠く離れた兵庫県龍野(たつの)市の養久(やく)山・前地(まえじ)遺跡から朱の付着した非常に大きな石臼が発見されています。ここの住居跡で最終的な精製を行い周りの集落に配布していたと考えられています。
辰砂の流通
弥生時代終末~古墳時代初頭の辰砂の採掘遺跡である若杉山遺跡が確認されて以降、古墳の石室で辰砂が大量使用されること、ほかに採掘遺跡が見つかっていないことから若杉山遺跡から畿内へ向けて辰砂が運び出されたと考えられてきました。
◎あれ、ヤマト地方にはそんな遺跡は出てないのかな?まだ発掘されてないだけかな?
しかし、辰砂を産出しない龍野のような地域で、辰砂の最終的な精製が行われていたとすれば、辰砂は産地から消費地へ直接運ばれたと考えた方がよいのではないでしょうか。辰砂をすりつぶすための石臼・石杵がもっと多く出土する遺跡が出てきたときに、そこを集散地的な性格のムラと考え立地と合わせて検討する必要があります。
古墳出土の辰砂の産地については、はっきりとはわかっていません。なかには赤い色が水銀朱なのかベンガラなのかさえわかっていない場合もあります。