葛城地域に関して ①
2010年 12月 02日
葛城は大和の葛城山麓に展開する大地名で、『山城風土記』によれば襲の嶺に下りた「カモタケツヌミ(鴨武角身)」が、神武東征に先んじて東遷し、定住した所である。という情報があります。
賀茂建角身命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/10/03 12:43 UTC 版)◎そんなに簡単に日向から大和まで行けるのでしょうか?そんな昔に、、、、、
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、日本神話に登場する神である。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
襲の嶺とは「鉄の峰という意味があるという。⇒次回掲載の「鉄の古語」をご覧下さい。
そういえば、高鴨神社近く、「風の森」というバス停がありそこから5分くらいのところに
「風の森神社」というのがある。今は小さな祠が残るだけのようだ。
http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/kazenomori.htmより
風の森神社
祭 神:志那都比古神
(伊耶那岐命と伊耶那美命が34番目に産んだ神様です)
境内看板には、
「本社は、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上に位置し
ています。
御祭神は、志那都比古神をおまつりしています。
志那都比古神は、風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神
に因んだ事柄が記載されています。
又、葛城地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、
風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神としてまつら
れています。
日本では、古くから、風の神に対する信仰があり、毎年旧六月に
は、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。」
とあります。
住 所:奈良県御所市大字鴨神
◎風が強く野タタラで鉄を作りやすいので、風の神を祀ったと私は思います。そして鉄で農具を作ったのではないでしょうか。木の鋤を作るにも鉄がないと能率がわるいし、先だけ鉄を使ったかもしれない。よく資料館などでみます。
さて前回葛城王朝説について触れたが少し気になることがあるのでもう一度考えることにする。
葛城王朝説は鳥越憲三郎が唱えた説。
神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。
◎欠史八代までは、鴨族なのかな?
葛城氏は鴨族の末裔なの?
河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。
さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。
こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。
◎崇神王朝に滅ぼされたとするのに、なぜ崇神後の天皇と関わりがあるのだろうか?
鴨族と葛城氏はおなじなの、別なの?
欠史八代実在説・安本美典
初代神武天皇と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(「≒推定」の意)する説である。
この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族であったとされる第10代崇神天皇に踏襲されたとこの説は結論付けている。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており、邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国であるとする説などがある。
また、欠史八代の多くは畿内の有力氏族と婚姻関係にあったとされる。
ああ、ややこしい!
その時代に生きていたわけではないから、結論はむつかしいね!