日本の技術・縫製
2011年 01月 24日
以前から思っていたことであるが、人類の蓄積した、テクノロジーはすごいと思う。
最先端の科学技術はもちろん、三内丸山遺跡から出土している縄文ポシェット。これも古代からの人間の工夫、アイデアの結晶だとおもう。
工夫を凝らして樹木の繊維から編んだのだろう。(織ったのかもしれない)
編み物に関して言えば世界各地にはその国独特の編み方模様があり、それらも色々な人の工夫、アイデアの蓄積で素晴らしいものだと思う。
たかが女性の手芸、と思っている男性も多いだろう。
一本の糸から布を編み、立体的なものまでつくりだす。おもえば本当にすごいことである。
編み物なんかは、現在でもまだすそ野も広く、多くの人が伝承している。
だが縫製に関しては技術が継承されなくなるのではないかと思う。自分で縫うより買う方が安く、きれいにできる。需要がなくなったのだ。
しかし、縫製の基礎知識があれば修理は簡単だ。だけど技術習得の費用や時間を考えれば
修繕するより買い換えた方が早いということになる。
まだ、洋裁のほうは自己流でもなんとかこなしている人も多い。
だが和裁となるとどうだろうか?かく言うわたしも和裁ができるわけではない。
現在既製品の浴衣などは全部海発注品である。オーダーの着物ですら、海外委託品が多くなっていると聞く。
海外縫製も初めのころは日本人が指導に出かけたという。今では日本人のほとんどが和裁を知らず海外でしか技術は残らないのかもしれない。しかし和服の需要が極端に少ない以上、技術はすたれていくものかも知れない。
和裁士として生活していけないのではないか。たまにある注文では生活を支えていけない。
ところで、私は姑に二度ほどウールの単衣着物と浴衣の縫い方を教えてもらった事がある。、その時、二つの事を感じた。
一つは和服というのは何という合理的な衣服だろうということ。、
もうひとつは、和裁の縫い方のバリエーションの豊富さだ。
専門的に和裁を習う根気もないが、普段着ぐらい誰でも一度くらい縫う経験をすることで日本文化の一端を知る事が出来ると思った。
さまざまな縫い方も、時代とともに発達してきたものと思う。
縫製の歴史としては、日本書紀に記録がある。
応神(おうじん)天皇のころに、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人の媛が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝えるために招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています
「日本書紀」
雄略14年 1月
身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
雄略14年 3月
臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。
◎上記の応神天皇の記事と雄略天皇14年の記事は同じことを述べているのだろうか?
兄媛は宗像神の求めでこの地に残ったので、三輪神社に奉ったのだろうか。
だけど、三輪神社でその祭神を祀ったところは、あったかな?
確認しよう。
奈良県高市郡明日香村栗原
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。
この時、呉原に移り住んだのは、織物など衣服関係の技術を持った人々だと考えられます。雄略紀の呉に関する記事は、この他にも見られ他国の先進技術を取り入れるのにかなり前向きだった、と言う事になるのかもしれませんね。
今はなき栗原寺(呉原寺)は、その地名から呉原氏の氏寺であったと言われています。
さて私は和裁の縫い方のバリエーションに感動した。(おおげさ?)
それを今回は紹介したいと思ったがちょっと時間切れ。